金糸雀の朝は優雅に食パン(生)から始まる。

「ど、どうして起こしてくれなかったのかしら~!!」
金糸雀の悲鳴にも近い抗議の声に、戸口に立った眼鏡の女性が頭を掻く。
「いやぁ・・・・・・私もまずいとは思ったんだけどね、カナがあんまりにも気持ちよさそうに寝てるもんだから、その、寝顔が可愛くて可愛くて思わずデジカメ取ってきて撮影して編集してプリントアウトして眺めてたらこんな時間に」
「『こんな時間に』じゃないわよぅ!て言うかもう子供の寝顔で喜ぶような歳でもないかしら!?」
いくつになっても子煩悩な母、みっちゃんに対する怨嗟のつぶやきをもらしながら、金糸雀は登校の準備を急ぐ。
今日は月曜日。
週明け早々、遅刻の危機だった。

現在の時刻は朝8時15分。
彼女の通う私立薔薇学園では、朝のホームルームが8時40分開始である。
しかし薔薇学の規則では、30分には校門が閉じられてしまう。
金糸雀の住むマンションから薔薇学までは、徒歩で約15分。
走ればなんとか間に合う時刻ではあるが、もはや家を出るまでに一刻の猶予もならない。
50秒で着替えを済ませ、30秒で髪を整える。いつものようにカールさせている時間はない。ウェーブのかかった髪を簡単に二箇所でしばる。制服の上着と鞄をひっつかみ、
「・・・・・・そうそれでね、このよだれを垂らした表情がなんともいえずキュートで」
「いやぁぁぁぁぁ!そんな写真撮らないで欲しかったかしらぁぁぁぁぁ!!」
戸口でまだ写真を手に熱弁を振るう母を押しのけ、叫びながらも足を止めることなく玄関に直行する。
途中、食卓の上にあった食パンを一枚取って口にくわえる。
なんと侘しい朝食。だがこの際仕方がない。昼までおなかは保つだろうか。
玄関で革靴に足をつっこみ、よろめきながら扉を開ける。
「ひってひまふはひは~~~」
駆け出した金糸雀の後ろで閉まる扉、その向こうではまだ、
「わが娘ながらなんっっっって可愛いのかしら!また新しいアルバム買ってこなきゃ・・・・・・」
ひとり娘を愛する母の煩悩が爆発炎上、煙を上げて延焼中であった。

Illust ID:Ylt9vT1a0 氏(3rd take)


「ふぅ、ふぅ・・・・・・なんとか・・・・・・間に合ったかしら・・・・・・」
金糸雀が教室に入った瞬間に鳴ったチャイムの音は、8時35分の予鈴だった。
必死で走ってきた甲斐あって、40分からのH・Rには間に合った。
途中食パンを喉に詰めたりバナナの皮で滑ったり野良犬の尻尾を踏んづけたり転校生と激突したりといったトラブルもあったが、本人以外の誰もが認める生粋のドジっ子金糸雀、彼女の鍛えられた危機対処能力(危機管理能力ではない)は半端ではない。
全力疾走で乱れた呼吸を整え、席に向かうとすでにいつもの面々が集まっていた。
「おはようかしら~」
疲労の色を声に滲ませるどころかどっぷりと浸した金糸雀に、
「おはよう金糸雀。今日はずいぶんと遅かったのね、夜更かしでもしたのかしら?」
左斜め後ろ、窓際最後尾の席から声がかかる。
声の主は真紅だった。
窓から差し込む朝の日差しを受けて、長い金髪が揺れる。
微笑みながらこちらに呼びかける少女の姿は、決して朝日のせいだけでなく、眩しい輝きを放っていた。
机の上には今しがたまで読んでいたと思しきハードカバーが伏せられている。
読書好きの彼女が読む本の分厚いことといったら。活字が苦手な金糸雀にとっては、目にするたび未知の生命体を前にするが如き心境である。
この自分とはかけ離れた性質を持ち、今も洗練された動作で髪をはらう友人を見ていて、金糸雀は若干惨めな気分になってしまう。
今朝の自分とはえらい違い。いやいつでもか。
そんな思いで通常の4割にまでテンションを減じ、真紅に応答する。
「うぅ・・・・・・去り行く休日を惜しむあまり、ついつい遅くまでテレビ見ていたかしら・・・・・・」
学校は好きでも勉強が苦手な金糸雀は、週の始まりである月曜の朝が何より苦手であった。
「しかも一時間目からカナの苦手な数学かしら・・・・・・しんくーたーすけーてかーしらー」
席につくなりぶにっと顔面を机に押し付け、真紅にすがる金糸雀。何をどう助けて欲しいのかは自分でもよくわからない。
「一体何をどう助ければよいのかしら?」さすが真紅、よくわかっている。「課題なら貸せないわよ」
「真紅の力で一時間目を数学から道徳の時間にシフトチェンジかしら~。絵になる美談を聞き流しつつ、カナは足りない睡眠を補うかしら☆」
「聞き流してすらいないじゃないの。私にそんな力は無いし、それに道徳の授業があったのは中等部まででしょう」
「そんなこと言わずになんとかしてほしいかしら~」
「どうにもならないことだわ。苦手ならむしろ克服する努力をすることね」
一向にやる気のスイッチが入らない金糸雀に対して、真紅はいつもの調子で応答する。
やれやれ、この子が自分にも他人にも厳しいのは昔から変わらない。
例えば学校の課題ひとつにしたって、「自分でやることに意味があるのだわ」と言ってまず他人に見せることはない。
確かに彼女の言い分にも一理あるとは思うが、友人が困っている時ぐらいは・・・・・・

・・・・・・ん?

金糸雀の意識の底を何かが打った。今真紅は何と言った?
何か・・・・・・聞こえてはならないことを。そう、今ちょうど自分が考えていたのは・・・・・・
「真紅・・・・・・今・・・・・・何て言ったかしら?」
疑問を、恐る恐る口にする。
いきなり顔を強張らせた金糸雀の様子を怪訝に思ったか、眉をひそめつつも真紅は律儀に返答する。
「苦手ならば克服する努力を――」
「そのひとつ前かしら」
どうか勘違いであって欲しい。
しかし現実は厳しかった。願いも虚しく、真紅は金糸雀にとって残酷な事実を告げる。
「課題なら貸せない、と言ったと思うけれど?」
課題。
課題。課題。課題課題課題課題課題課題課題かだ
「いぃぃぃやっちまったかしらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
がたーん、と椅子を倒して立ち上がった金糸雀に、クラスの皆が驚いて視線を向ける。
硬直する金糸雀。
それを見て得心したらしく、大した感慨もなさそうに真紅がつぶやく。
「忘れたのね・・・・・・課題」
その通り、金糸雀は金曜日に出された数学の課題をばっちり忘れていたのだった。

プリントには綺麗に名前すら書いていない。
土日で浮かれていたことと、苦手な数学であるということ。明暗2つの要素が金糸雀の記憶をピンポイントで挟撃したのだろう。
この忘れっぽさを翠星石などは『金糸雀の三歩で忘れるトリ頭』と言ったりもする。
立ったまま完全に魂が抜けた金糸雀は、それでも事態を打開すべく真紅に訊いた。
「シンク、ぷりんとミセテホシイカシラ」
「魂魄から話しかけても駄目なものは駄目よ。それに今からではもう時間が・・・・・・」
返答の矢先、狙いすましたかのようにチャイムが鳴り響く。H・Rの開始を告げる本鈴である。
「・・・・・・ないのだわ。諦めることね」
言って真紅は自分の本を机に仕舞う。直に担任の梅岡先生がやってくるだろう。
金糸雀も、まだ魂が半分ほど頭上からはみ出ていたが、なんとか椅子を起こして席に着く。
座ったまま10秒ほどは呆然としたままだったが、やがて正気を取り戻すと、鞄から課題のプリントを取り出して見る。
プリントは1枚。しかし両面。問題集の4ページ分だ。
解答集は担当の諸葛先生が持っていて、必要時にコピーを配るのみなので今は使えない。
これを今から授業までの20分、(課題の回収は授業の開始時だ)しかも自力で終わらせるのは不可能に近い。
それでもやるしかない。このままでは課題の提出や授業態度に基づく『平常点』がまずい。
普段から数学では居眠りや課題を忘れてくることが多い金糸雀の点は今やレッドゾーンぎりぎり。
今度課題を忘れたとなれば・・・・・・考えたくもない。
「こうなったら・・・・・・今からでも燃え尽きるほどヒートかしら・・・・・・!」
担任のH・Rを完全無視することになる事実を完全無視し、金糸雀は早速プリントにとりかかる。
しかし、

ごんっ。

一問目で撃沈した。


最終更新:2006年12月12日 18:11
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