6-831「黒い悪魔、あるいは天使」

黒い悪魔、あるいは天使

掃除を生徒にやらせる方針の公立学校としては、鍵のかからない部屋にはどうに
かして日々の清掃を生徒に割り振るわけで、今日から俺と佐々木と他数人はここ
家庭科室の割り当てだ。調理実習なんてのは1年生の時に男女一緒にやったぐら
いで、ここに足を踏み入れたのはそれ以来だな。
「ほら、さっさとすませるぞ」
適当に割り当てを決め、家庭科室とその準備室、そしてそれに付属する廊下と階
段という三つに分かれ、俺と佐々木は家庭科室の担当となった。なったのだが、
どうも佐々木の様子がおかしい。
一言で表現すれば「挙動不審」だな。
今から思えば、新しい掃除当番表が張り出された時からどうも妙だったのだが、
俺と一緒にここに来る間にそれは顕著になり、一緒に家庭科室の中に入ると、ま
るで隠れている妖怪やエイリアンが飛び出てくるのを恐れる映画のヒロインのよ
うに、落ち着き無く辺りをきょろきょろとうかがっている。
「どうしたんだ、佐々木?」
「ひっ?!」
俺の声に驚いた様子でこっちを向く。教室からここまで一緒に来ていたはずの俺
の存在も忘れるほど、どうやら精神的に不安定のようだな。
「や、やあ、キョン、どうかしたのかい?
声が震えているぞ、佐々木。端から見て、どうかしているのはお前の方だ。
「いや、その、実は、・・・この部屋には多少のトラウマがあってだね」
顔は俺の方を向いているが、視線は俺の方に一定しておらず、常に周囲への警戒
を続けている。
実に落ち着きが無い。
「別に何か危ないものがこの部屋にあるわけでもなし、俺としてはお前の挙動不
審の方が何かのトラウマになりそうだが」
俺の言葉に、佐々木は哀しそうな顔で頭を振った。
「ああ、キョン、君は・・・2年前の夏の悲劇を忘れたのかい?」
2年前?
2年前ていうと、俺やお前が1年生のころの話か?はて、何か猟奇事件でもあっ
たのかと考えそうになったが、あいにくとこの学校は新聞沙汰とは無縁だし、そ
うでないレベルの事件も記憶には無い。
「いったい、何の話をしてるんだ?」
佐々木をここまで挙動不審にさせるような事件があれば、いくら俺の脳味噌の記
憶力が人並み以下でも覚えていてもよさそうなものだが、まったく覚えがない。
「失敬、キョン、あれは女子生徒の間では有名だったようだが、どうやら君の耳
にまでは届かなかったようだね。僕にとっては非常に重要な事件だったから、君
も知っているに違いないという先入観があったようだ、すまない」
謝罪はいいから、事情を説明してくれ。そうでないと、お前を挙動不審者として
警察に通報したくなるからな。
「・・・キョン、生物の増殖には何が必用だと思う?」
おいおい、また何の話だよと思ったが、答えた方が話が早いんだろうな、きっと。
「繁殖に適した気温と水と食い物、だったかな?」
俺の返答に頷きながらも、佐々木は周囲への警戒を続けている。
「季節は真夏だったから、少々温度は高すぎだったようだけどね。1学期最後の
調理実習の後、この部屋の収納スペースに小麦粉、パスタ、砂糖等が密閉されな
い状態で放置されていた。かなり大量にね。常温で放置しても腐らない食材だか
らと、教師が判断したようだが想像力の欠如としか言いようがない失態だよ。そ
して、夏休みの間、ここを利用するものはおらず、ここの水道管の一部に漏水が
あった」
そこで一旦言葉を切り、俺の目を見る。
「くっくっ、キョン、何が起こったと思う?」
・・・あー、なんだかあまり想像したくない事態かな?
この地球に人類なんかよりもずっとずっと早く誕生して、それなのに人類から嫌
われている、あれですか。
俺の言葉に佐々木がどこか青ざめた真剣な顔でうなずく。
「だが、表面上は何の変化も無いように見えた。2学期最初の家庭科の授業で、
ここに来た僕たちにはそう見えたんだよ。忘れるわけがない、テーブルマナーの
授業だ。和食と洋食の食器の違いや作法について、実際に食器を並べてみようと
いうやつだ。僕は、教師の指示で、そこの戸棚を開けて・・・」
壁に作りつけの食器棚を指さす佐々木の指は震えている。
「そう戸棚を左手で開けたんだ。そして、中に何かが動いていて、動いて、ぼ、
僕の左手に・・・」
佐々木はしばし自分の左手を見つめて、何かを振り落とすように振り回す。
「・・・後はパニックだった。そこら中に、あいつらがいたんだから。結局、授
業は中止になり、専門の業者による駆除と漏水の修理諸々で2週間ばかりこの部
屋は使用中止になった」
そういえばそんなこともあったけ。ただ、それは俺にとって「何か工事やってる
な」程度の認識でしかなく、そんな大騒ぎがそこにあったことまでは知らなかった。
「つまり、その件でお前はこの部屋が苦手だってことか?」
十分にトラウマになるわな、そりゃあ。
「いや、そうではないんだよ、キョン」
どういうことだよ?
「確かに今でも苦手だが、それはあの存在そのものに対してであって、この部屋
にでは無いんだ。駆除と工事の後、ここは非常に安全な場所になったと理解する
ことで、僕はその後、何の問題もなくここを利用していた」
じゃ、その挙動不審はなんだ?
「・・・先週だったかな、目撃例が出たんだよ」
また出たのかよ。ま、完全な駆除なんてのは無理というか、あれって下水を伝っ
て来たりするんだったかな。いぶし出されて隣の家になんてのもあるらしいが。
「そりゃあ、2年も経てば少しは出るだろうさ。だけど、2年前みたいな大発生
てのは、そうそう無いと思うぞ?」
というかあってたまるか。
「もちろん、僕もあんな事態がもう一度起こる可能性は低いと理性では理解して
いるよ。だけどねキョン、一度経験していることで、もしかしたら?と思ってし
まうんだよ。恐怖という根源的な感情は、僕程度の理性では消し去ることはでき
ないのだろうね」
だったら、誰かに当番代わってもらえば良かったんじゃないか?わざわざ恐い思
いすることもないだろうし。
「・・・ああ、その方法もあったね。考えもしなかったよ、くっくっ」
俺の言葉に一瞬きょとんとした佐々木は、かなり意表をつかれたのか、それとも
冷静な判断ができない状態だった自分がおかしかったようだ。
「でも、キョン、こうやって君に話すことで、どうやら僕は多少の落ち着きを取
り戻したようだよ。悩みとか心配事は、やはり信用できる友人に話すことは有効
なようだね」
先ほどまでの挙動不審はかなりなりを潜め、どうにかいつもの調子を取り戻し
ているようだ。
俺としても挙動不審な佐々木よりも、いつもの笑顔の方がいいしな。
「しかし、僕も妙な精神状態だったようだね。たまたま、ここで再び目撃例があっ
たからといって、またあんなことがあるんじゃないかと心配するなんてね」
そう言いながら、佐々木は戸棚の前に立つ。
そして、左手でその取っ手を引いた。
「こうやって、戸棚を開けたら出てくるなんてことが、そうそう」
佐々木が固まった。
そいつは動いた。
そして佐々木の左手に・・・
「うきゃあああああ!!!」
佐々木は半狂乱になって左手を振り回し、そいつを振り払った。
「いやあああああ!!!」
落ち着け佐々木と声をかけるよりも早く、佐々木が俺の右腕にしがみついて来る。
小柄なくせにものすごい力で、これが火事場のくそ力ってやつかね?
佐々木の悲鳴はよっぽど大きかったんだろうな。隣で掃除してるクラスメイトだ
けでなく、一つ上の階で掃除の見回りをしていた教師まで、何事かとすっ飛んで
きた。
佐々木は俺にしがみついたまま、がくがくと震えて離れようとしない。震えてい
るだけならまだしも、涙まで流してる。
駆けつけた教師や生徒は、俺に抱きついて泣いてる佐々木を見て何事があったの
かと心配していたが、俺の事情説明を受け、俺と佐々木と開いたままの戸棚を見
て「なるほど」とそれぞれに納得したようだ。
「佐々木、落ち着け。居たのは一匹だけだぞ?」
俺は声をかけるが、聞こえないのか佐々木は俺の腕にしがみついたままだ。
いっこうに落ち着かない様子の佐々木を見て、教師が保健室に連れて行くように
言い、俺も異存が無いのでそれに従った。
俺の右手にしがみついたままの佐々木は、いつもの小難しい理屈を並べている様
子からは想像もできないような、その、実に女の子らしい様子で、こうやってた
またま身近に居たからだろうが頼られている状況は悪い気はしなかった。だが、
泣きながらしがみついている美少女を連れて掃除の時間の校舎内を保健室まで歩
くことで集めた視線は、俺にかなりの精神的疲労を与えてくれたけどな。
やれやれ、また誤解されるネタが増えたな。
佐々木よ、将来の恋人だか旦那がこの話を耳にすることがあったら、俺に代わっ
てちゃんと弁解しておいてくれよ?
特にだ、保健室まで連れて行っても俺を離してくれなかった佐々木を見て、落ち着
くまで一緒に居ろと言って俺たちをベッドに座らせた養護教員は、結局は二人して
いつのまにか横になって眠ってしまったときも、ちゃんと保健室に居て俺たちの間
には何もやましいことはなかったと証言したことについては絶対にだ。

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最終更新:2008年01月31日 14:47
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