29-252「また逢う日まで」

卒業式が終わり、一通りの別れを済ませた私は校舎を眺めていた。
と言っても、特に感慨深いものがあった訳ではなく、部活に入っていない私は休日には学校に寄り付かないので、日の高いうちから誰もいない校舎がとても新鮮なものに感じられたからだ。
暖冬の所為か、すでにほとんど花を散らせてしまった桜も、その清閑さを一層際立たせていた。
3年の月日を共にしながら気付くことのなかったその一面に、私は不思議な感じがして見入っていると、不意に声をかけられた。
「何を見ているんだい?」
「ああ、君か。」
気が付くと、彼がいつもの人懐こい笑顔で私の傍に立っていた。
どうやら、私は自分の世界に入り込んでいたようだ。
「校舎を、見ていたのさ。」
私が視線を戻すと、彼も倣って校舎に視線を向けた。
「寂しくなるね。」
「君は別に寂しくないだろう?」
私の記憶が正しければ、彼は確か市内の公立高校に通うと言っていたはずだ。
わざわざレベルの高い私立を蹴っていくと言うんだから、中々の変わり者だが。
「彼がいるから?」
私は半ば反射的に彼の方に振り返った。
その時の自分がどんな顔をしていたのか覚えていないが、彼の笑顔だけははっきりと覚えている。
どうやら、彼は私が思っていたよりも意地が悪いようだ。
「……親しい友人が付いているというのは、心強いものじゃないか。」
暫くしてから、私が返したのはそんな言葉だったと思う。
「このままでいいの?」
彼が私にかけた言葉は、私の言葉に応えたものではなかった。
「何のことかな?」
「彼に何か言わなくてよかったの?」
彼は底の見えない笑顔で、私に問いかけてくる。
「僕は、別に……」
「彼のことが好きじゃなかった?」
「……好きだよ。」
「なら、尚更僕には不思議でしょうがない。何故何も言わなかったんだい?」
彼の質問にしばし逡巡する。
「…………君は、この世から嫌いなものが消えてしまえばいいと、そう思ったことはあるかい?」
その言葉に、今度は彼が黙考する仕草を見せた。
「ない……とは言わないけど、それは随分と物騒な質問だね。」
彼は大して悩んでいない風に、うーんと唸ってからそう言った。
「そんなことはないさ。簡単なことだ。嫌いなものを全て好きになってしまえばいいんだよ。そうしたら、世界はずっと住みやすいものになるんじゃないかな?もっとも、これは僕たちの住む日常にしか通用しないがね。」
彼は呆気取られたように目を丸くしたと思ったら、次の瞬間に吹き出した。
「それはいいアイディアだね。」
そう言って、彼はにこやかに笑う。
「そうだろう?自慢じゃないが、僕には嫌いなものがほとんどない。同時に、そんな自分を誇りに思っているんだ。僕が彼に何も言わなかったのは、彼を嫌いになってしまいたくなかったからだよ。それは僕自身の否定に他ならないからね。」
「佐々木さんが彼を嫌いになるって言うの?」
彼が驚いたように目を丸くする。
自分のことを他人に言われるのにくすぐったさを感じがしたが、私は構わずに続けた。
「君はこの世に永遠が存在すると思う?」
「どうだろう……僕にはちょっと分からないな。」
彼はお手上げと言うように肩を竦めるポーズを取った。
「僕はないと思う。身近な世界に限定しての話だがね。そして、それは愛も決して例外ではない。」
「それでも、一生愛し合える夫婦ってのはいると思うけど?」
こちらの話を理解し、的確な質問を返してくれる姿が記憶の中の彼と重なった。
目の前の彼もまたよい聞き手であるようだ。
「確かに、人間はお互いに触れ合うことで愛を維持できる生き物だ。方法は様々だから一々挙げないけどね。
だけど、離れてしまうと相手を想う気持ちを保つのが難しくなる。『去るものは日々に疎し』だ。
僕は彼のことを好きでいたかった。だから、今更彼に想いを伝えようとはしなかったんだ。」
「でも、全く会わなくなったら想いは余計に薄れるんじゃないかな?」
彼は心底不思議だと言うように首を傾げている。
「その方が保とうとしてない分、辛くないんだよ。愛情が磨耗してしまうのを実感するのはとても辛いことだ。磨耗しきってしまえば、気にならなくなるんだろうけどね。」
授業で読んだ『三月記』も確かこんな話だったような気がする。
「でも、恋人同士でいれば、連絡を取り合うことくらいはできるだろう?」
彼の言わんとすることはもっともだった。
私の友人にも、別々の高校に通うからという理由で別れた人などいやしない。
「僕はそれでもいい。だが、彼もまた僕と同じ気持ちでいてくれるかどうかは自信がない。勝手な幻想かも知れないが、彼を僕が今までに見てきたオトコノコと同列視したくないんだ。」
私のこれからの生活では、彼と過ごせる時間はとても少なくなるだろう。
もし、彼がそれ以上に私を求めてくれるなら、私はそれを拒むことができない。
むしろ、私は喜んで私の時間を、自由を、心を捧げるに違いない。
そして、私もまた際限なく彼を欲してしまうかも知れない。
でも、それは決して私にとってプラスにならない。
勉学に執着する訳ではないが、やはりそれはそれで大切なものだ。
彼に狂うことを理由に疎かにしていいものではない。
お互いをお互いの為に高めあうことが出来る関係こそが恋愛と言うものだと、少なくとも私はそう考えている。
「僕の幻想を彼に押し付けるくらいなら、いっそ忘れたほうがましさ。僕のために彼に自分を偽らせるのは、僕の望むところじゃない。」
私は校舎を眺めながら言葉を紡ぐ。何故か彼の方を向いて言うのが憚られたからだ。
「佐々木さんは辛くないの?」
「例え今は辛くても、すぐに新しい生活が忙殺してくれるさ。彼と違う道を歩むと決めたときに、そうなることも願って、なるべくレベルの高い高校を選んだんだから。」
彼は暫くの間何も言わなかったが、やがてぼそぼそと小さく呟いた。
「強いんだね…………僕もそうだったらよかったのに…………」
彼はいつの間にかひどく寂しそうな表情をして、私のことを見ていた。
私は何とか顔に出さずにいられたが、彼の新鮮な一面に少しどぎまぎしてしまった。
「君にも思うところがあるのかい?」
「…………そうかもね。」
僕の問いに彼は目を伏せて悲しげに笑ったが、顔を上げるといつもの表情に戻っていた。
「すっかり話し込んじゃったね。」
いつも通りの彼の笑顔が、少しだけ無理をしているように見えた気がした。
「本当だ。もうこんな時間か。」
腕時計を見ると、結構な時間が経っていた。風も少しだけ冷たくなったような気もする。
「少しだけど、佐々木さんと話せてよかったよ。」
「僕もだ。誰かに話して、すっきりしたよ。」
それから、私は彼に挨拶を残してその場を後にした。
角を曲がるときに、ふと振り返ると彼はまだ校舎を眺めていた。

もっと早くに知り合えていたら、いい友達になれたかもしれないね……

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年02月16日 10:33
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。