38-75「卵の殻」~後編~

私の高校生になって初めての夏休みは特に何事もなく、過ぎ去って行った。
私の行く所全てに背後霊のように橘さんがストーキングしてくる事以外は・・・。
夏休みに入る前に紹介された宇宙人と未来人とは数回会ったきりで
橘さんが無理矢理、ミーティングをしようと集合を掛けない限りは
あまり出会う事もなく、平穏だった・・・のかな?
やたらと「甲子園に高校野球を観に行きましょう!」と誘ってきたのだが、
私は暑いのが苦手だから断り続けていた。

それに今年の高校野球は何故だか分からないが、予想した結果が
ずばり的中するような分かり易い展開の試合ばかりで何だか面白味に欠けていた。
この現代社会は二酸化炭素の放出とは無縁でいられないシステムで
動いている為、飽和した過度な消費が貴重なるオゾン層を
刻一刻と破壊し続けている現状でわざわざ直射日光のシャワーを浴びに
外へ飛び出すなんて馬鹿げている。
せっかくの豆乳風呂で潤いつつある私の肌を自ら荒らすような行為は
極力、避けたい。いや、避けるべき。

扇風機の前でアイスを齧る、スイカを頬張る、
『うぅあぁ~~』と震える声を出してみる。
夏休みは出掛けるならば図書館こそが最適な選択。
夏はこれで良い。
しかし、橘さんがずっと近くにいるせいか
少々食べ過ぎ、計算したカロリー消費量をオーバーする日もあった。
そんな日は扇風機を止め、腕立て、腹筋、もも上げを
特別カリキュラムとして取り込む。
そして、最後はここ最近の日課『バストUP体操』で締める。
今年の夏はやたらと、この運動を繰り返していた気がする。

「努力した者が全て報われるとは限らないが、
成功した者は皆、全て努力している」

実に素晴らしき格言だ。
ちなみに『すべからく』だと『全て』という意味ではないから誤用だよ。
ただ個人的には大多数の人間がそう認識しているのであれば
『すべからく=全て』という使い方も認めて良いんじゃないかと思うけどね。
いや、分かる人にだけ分かってくれれば良い話さ。

兎に角、9月から昨日までが夏休みだったとは思えないほど、
淡々と二学期の時計の針が動き始めた。
夏の日差しは大声でがなり過ぎた蝉達を弔うように
ゆっくりとうなだれて、水の中へと沈んでいく。

秋は私の季節だと思っている。
いや、少々、馬鹿げた見解もしれないが、
この落ち着いた雰囲気が私の性分に合っているという、
ただそれだけの話なのだが・・・

切なくて少しの衝動で折れてしまいそうな儚さを見せながら
厳しい冬に向かって歩を進めながら一枚一枚、衣の色を変えていく姿に
自分を重ねて小さな勇気を貰っている。

キンモクセイの香りを乗せた風が一陣、私の髪をそっと撫でていく――― 

今日の授業も終わり、少しばかり感じていた眠気は
ひんやりとした外気に乗ってどこかへと飛んで行ってしまった。
校門を出るといつものように橘さんが待ち伏せしている。
この子は余程、暇なのであろうか?
「佐々木さん、随分と髪の毛伸びましたね~。可愛いのです♪」
それはどうもありがとう。そう言えば結構、伸びた。
高校入学前の春先に切ってからこの11月まで半年以上、ずっと伸ばしたままだ。

「長い髪が綺麗なのです。そうだ!!キョンさんに会いません?」

何故そういう話になるの?全く話が繋がらないね。

「久し振りに会った女の子の髪がロングになっていたら
グッと大人びた印象が変わってて、きっと男の子はドキッとしちゃいますよ」

くっくっ、それ以前にキョンは髪が伸びたと言う事実にも気が付きはしないさ。
彼の鈍感さは軒並み外れた規格外だと言う事は身に染みて承知しているからね。
それに・・・
「何度も言っているけど、私はキョンに連絡を取るつもりは無い。
個人的にならともかく、他人に促されたり橘さんの任務の為に
キョンを巻き込んだりはしたくはない。彼には彼の生活があるのだから
それを思う存分、楽しんでくれたまえと言った所だね」
「んんっ、もう!!!」

宇宙人、未来人、超能力者に囲まれた今のキョンの生活は
機知と思索に富んだ実に面白い研究材料となりそうなものなので
少しばかりの興味はあるけれども、それらは私の周りにもいて
あまり違いはなくなってしまったからね、橘さんのお陰で。

そろそろ年末へと差し迫っていて二学期の学期末テストへ向けて
学生は本分を全うしなければならない時期だ。
彼はちゃんと予習復習しているだろうか?
キョンは誰かが引っ張り上げて引き締めてやらせないと無気力が目覚めて
楽な方へ、楽な方へと流れて行ってしまう怠惰な癖があるから。

「さて、橘さん。わざわざ私を待ってくれていたみたいだけれども
私は今日はもう帰宅するよ。橘さんはどうする?」
「う~ん・・・そうですか・・・じゃあ、佐々木さんのお家に行きます!」
「駄目」
ここ最近、橘さんはやたらと私の家に来訪したがる。
そんな事を許した日には一体、何をされるか分かったものじゃない。
自分の部屋を乱されたくない。そこは聖域なの。

「いつか必ず佐々木さんのお家に行くのです!
でも今日は佐々木さんがお家にお帰りになられるなら失礼しちゃおうかな?
あたしも少し『組織』のお仕事が立て込んでいるので」
「では、さようなら」
「はい!では、また明日!」

やっぱり明日も来るつもりなんだね。
忙しいなら別に無理しなくても大丈夫だよ、きっと明日も平穏な一日さ。 

寒い。しかし、その寒さが頭の中を澄み切った冷たさで動かしてくれる。
家までの帰り道を一人で歩く時間は様々な事柄に考えを巡らすのに最適な時間だ。
今日は一日で13ばかりの新たなる発見が落ちていた。
日常というものは何故こうも不思議な事象ばかりで構築されているのだろうか?
疑問と可笑しさに思わず、頬が緩む。
寒空にどんよりとした雲が垂れ込めてきた。
天気予報で今日は夜から雨、そして雪が降るかもしれないと言っていた。
雨で制服を濡らしたくないから早めに帰ろう。

「あれ?佐々木さん?」

ふむ・・・いささか意外な人物ではあるが、
同じ中学に通っていたのだから家までの帰り道に出会ってしまっても
少しもおかしな事ではない。

「久し振りだね、国木田」
友人と二人一緒のところを見ると学校の帰りなのだろう。
「うぉ~!!この可愛い美人な女の子は誰だ!?国木田、紹介してくれ!!」
なるほど、底の浅い薄っぺらな男の典型のような人間だ。
国木田、君はもう少し友人を慎重に選んだ方が良い。
高校についてもそうだ、君の選択を見ているとそう諌めたくなる。
「彼女は同じ中学だった佐々木さん。佐々木さん、こっちの・・・」
「いや、紹介してもらわなくて結構だ」
「そう。どうやら初対面の第一印象で嫌われてしまったようだね、谷口」
「どうも!谷口と申します」
「ところで国木田、キョンは元気にしているかい?」

それを一番最初に訊ねてしまった事に私は少し後悔した。
まるで私の一番の関心事が今のキョンについてで
とても強い興味を抱いているような態度に映ってしまうのではないだろうか?

「キョンならさっき会ったよ。ストーブ運んでた」

くっくっ、今度は一体、何をやらされているのだい?キョン。
まるで雑用係ではないか? 

キョンの話を聞くと何故か、胸がチクチクする。
わずか半年ばかり短い時間なのに自分の知らないキョンが存在しているという事に
柄にも無く、否定的な感情が浮かんできている。
私の卵の殻にヒビが入り、小さな棘が刺さってくる。
何故だろう?いや、理由は分かっている。
ただ認めたくないだけ―――
私は感情を暴走させるような愚行を起こしたくはないから。

「キョンと俺はいくつもの秘密を共有している親友でしてね、佐々木さん。
キョンの事ならこの谷口に・・・」
「最近のキョンは高校に入って何だか妙な部活を始めたと噂で聞いたんだけど
それはどうなんだい?国木田、彼の成績は下降線を辿る一途だろう?」
「ハハ・・・成績は相変わらずみたいだけど確かに変な事ばかりやっているよ。
でもお遊びサークルみたいなものさ。野球やったり映画撮ったり、
『SOS団』なんて訳の分からない名前を付けてね」
「ふむ・・・どうやら涼宮さんとやらは企画を立てて
猪突猛進でイベントを実行するエネルギッシュな女性のようだね」
「あ・・・佐々木さん、涼宮さんの事知ってたんだ?」

まぁ、あれだけうるさく橘さんに騒がれればね。
少しばかり興味が湧くというものさ、少しだけね、ほんの少し。

「そうか・・・」
「おいおい、国木田も佐々木さんもどうした?」
「うん・・・いや、ちょっとね。佐々木さんは・・・」
「そうだよ、国木田。別に変な気を遣う必要はないさ。
僕とキョンは『親友』だからね」

国木田とわかれた私は13の発見のうちの8個目までの考察を一旦中断し、
ちょっと気紛れの虫を起こしていた。
キョンか・・・久し振りにちょっと会いに行ってみようかな?
橘さんはもういないし、別に個人的に会って話をするだけなら
特に大きな問題もないだろう。
何故か私の頭の中では橘さんの小悪魔のような笑顔と

「久し振りに会った女の子の髪がロングになっていたら
グッと大人びた印象が変わってて、きっと男の子はドキッとしちゃいますよ」

という台詞がリフレインしていた。 

小雨が降り出してきた。
この寒い冬の夜に雨は少しばかり堪える。
傘を用意してきて良かった。
キョンはきっと傘を用意していないだろう。
朝が苦手だからニュースや天気予報を見ているとはとてもじゃないが思えない。
朝が苦手なのは私もそんなに変わりはないのだが、
私は自制心でもって頭脳を目覚めさせる為に早寝早起きを心掛けている。
夜更かしは肌に厳禁だしね。

北高の校門前はもうほとんどの生徒は下校したのであろう、静かなものであった。
雨も降り出して部活も休みという所が多いのだろう。
キョンの家の方角と山の上にある北高の位置関係からして
今、私がいる門から出てくる可能性が高いのだが、遅い・・・。

彼はまだ学校に残っているのだろうか?
国木田の話ではストーブを部室に運ぶ仕事を押し付けられた為、
学校に戻っていったと言っていたから時間的にもきっとまだ
校内にいるとは思うのだが・・・。

こうやって校門前で待っていると橘さんが
いかに強靭な精神力の持ち主か実感出来る。
待っている時に時々、北高生に向けられる奇異なものを見るような視線が痛い。
それでも久し振りにキョンと会って話をしてみたいと思う好奇心の方が
圧倒的に優っている。私もまだまだ感情に揺さぶられ易い甘い人間かな?
でも、『親友』と話をしたいというのは人間関係において決して
マイナスとなる感情ではない。
それに突然、キョンの目の前に現れて鳩が44マグナムの銃弾を喰らったような
驚いたキョンの顔が見てみたい。
やれやれ・・・私もエンターテインメント症候群だね。

特にキョンとの会話はいつも実に新たな発見と未知の創造性に溢れていた。
私の本当に大事な、大事なキラキラと宝石のように輝いていた一年間―――
あの時間は決して戻ってくる事はないけれども、
これからまた違う新しい時間を作っていけば良いのかな?
橘さんが言う通り、確かにその中にキョンがいたら実に愉快で興味深いかもね。

雨は時間と共に暗く、冷たく、激しくなっていく――― 

遠目から見つめていた北高の校門の奥から足音が響く。
この気怠そうに歩く足音のリズム・・・キョンだ。
中学校の卒業式以来、久し振りに見た彼の横顔は私の記憶の中のキョンよりも
少し大人びていて何故か思わず、笑みが溢れた。
でも、相変わらず少し寝惚けたような雰囲気は
昔より一層、傘の下から漏れ出てくる。
変わったような変わらないようなキョンの横顔―――

「キョ・・・」

「もっとこっちに寄せなさいよ!?あたしが濡れるじゃないの!」
「十分、寄せてるだろう?」

心臓がキュッと締め付けられた―――
掛けようと思った声は、言葉は全てどこか身体の奥底へと沈んでいく。
一つの傘を奪い合うようにして歩く二人をただ後ろから眺めているだけ。
今のこんな二人の間に割って入っていけるような勇気は私には無い。

あぁ~・・・そっか・・・そうだよね・・・
何となく予想の一つには入っていたし、予感もしてた。
キョンが部活と称している『SOS団』なる団体に入って
何がしかの活動を行っているのは橘さんから聞かされていた。
彼の新しい高校生活を聞かされる度に笑いが止まらないのと同時に
手が震え出すような一抹の寂しさも感じていた。
「何故?キョンは僕にとってただの『親友』だよ?」
そんな言葉も今は虚しく空に響くだけ―――
そして今も・・・

・・・凄く可愛い人。それが第一印象だった。
女の私から見ても美人だと分かるし、性格も明るそう。
私とは大違い。キョンには彼女のような太陽みたいな女の子の方が合うのだろう。
楽しそうに傘を奪い合い、笑いながらはしゃぎながら二人は坂を下っていく。
彼女がきっと、橘さんがよく言っていた『涼宮ハルヒ』という女性なのだろう。
エネルギーに満ち溢れているようなポジティブな笑顔を見せる人だ。

ここはおめでとうと言っておくべきなのかな?いや、お幸せに?
とにかく本当に充実した素晴らしい高校生活を送っているんだね、キョン。
皮肉とからかいの虫が私の卵の殻の上を飛び跳ねる――― 

私は二人の姿が見えなくなってからとぼとぼと雨の降る坂道を歩き出した。
雨脚が強まってきた。
雪なんて大嘘!!やっぱり天気予報なんて当てにならない。

私とキョンはただの『親友』。
少しキョンが遠くに行ってしまった気はするけど、
それは高校も別々なのだから仕方がない事。
だからキョンにどんな女性が寄って来ようが構わないし、
彼女が出来ようが出来まいが私には関係ない・・・うん、関係ない。
濡れる靴を見つめながら心が乱されないよう、思考回路を停止させていた。
そうだ、13の発見の考察・・・もうどうでも良いや。

目の前を鋭い光が通り過ぎた。
危険を感じ、反射的に避けた瞬間、マンホールに足を取られ、
水たまりに倒れ込んでしまった。
猛スピードで走る車は坂を下りてきた私の姿が見えなかったのだろう。
泥だらけの水浸しになった制服は気持ちが悪い・・・

「ハハ・・・くっくっ・・・馬っ鹿みたい・・・」

自分で自分が情けなくなってきた。
何を期待してこんな寒い冬の夜の雨の中、キョンを待っていたの?
何がしたくてわざわざこんな所にまで出向いてきたの?
私は何がしたかったの?
あれだけ橘さんに『キョンには会わない』と言っていたのに・・・

馬っ鹿みたい!!!

やはりスケジュールから外れた予定外の行動なんて取るものじゃない。
ろくな結果は生まれやしない。
ろくな結果?この結果が何か問題でも?別に私には関係ない。
ただちょっとタイミングが合わなくてキョンと話が出来なかっただけ。
声を掛けられなかっただけ。別に何の問題もないはずだよ?

それよりもあんなに濡らしたくなかった制服なのに・・・明日、学校どうしよう?
傘を手に取るとさっき転んだ時に傘の骨が折れたようで
使い物にならなくなっていた。
捨てちゃえば良いや、こんなもの―――
制服の泥を払って雨に打たれるがままに歩き出した。
踏み出す足は鉛の枷を付けられた囚人のように重い。
制服は家に帰ってすぐに洗濯すれば明日には乾くかな?

「佐々木さん、そんなに濡れると風邪引きますよ?」

差し出された傘は不釣り合いな程に大きく重そうな傘だった。
橘さんは柔らかく微笑を投げ掛けている。
全く・・・そうやってあなたはいつも私の非常に貴重で大切な一人にして欲しい
プライベートタイムを邪魔しに来るんだね・・・

頭を垂らすと雨で濡れた髪の毛から頬に雨が一粒、零れ落ちてきた。
火傷しそうなくらい、ひりひりする凄く熱い水滴―――
違う、これは雨じゃない。
これは何?何故、こんなものが零れ落ちてくるの?
気が付くと私は橘さんの差し出す大きな傘の下で
子供のように泣きじゃくっていた――― 

「はい!佐々木さん、上がって!」
橘さんは無理矢理、私を自分のマンションへと引っ張っていった。
「今、タオル用意しますね。そんなにびしょ濡れだと風邪を引いてしまうのです」
確かに寒い、風邪を引くのは嫌だね。
「脱いで下さい!」
なんで?何が目的?何回も言うけどそんな趣味はないからね!
「良いから!お風呂に入って身体を暖めて下さい!
制服も大丈夫!うちには乾燥機付き洗濯機がありますから」

それは豪華だね。『組織』の幹部は・・・いや、私のせいで元幹部か、
そんなに給与が良いものなのかい?
確か、甲子園のバックネット裏の年間シートも持ってるって言ってたし。

お風呂には変な顔をしたあひるのおもちゃが置いてあった。
お風呂の中でこんなものを一体、何に使うのだろう?
シャンプーは普段、私が使っているものと同じ銘柄。
やはり趣味趣向が合うのだろうか?いや、それにしても・・・

「お洋服、ここに置いておきますね~♪」
お風呂のドア越しに会話なんてまるで新婚さんのようだね、橘さん。
お風呂の湯気が冷えた身体を暖め直してくれる。
湯船の中にブクブクと沈みながらさっきの事を思い返していた。
私が涙を流して泣くなんていつ以来だろう?記憶にない―――

「失礼しま~す♪」
「ちょ、ちょっと!なんで橘さんまでお風呂に入ってくるの!?」
「だってあたしも雨に濡れて寒いのです。それにチャンスなのです!」
何のチャンス!?
「大丈夫!女同士ですから、裸のお付き合いなのです!」
身の危険を感じるよ・・・。

「わぁ!!やっぱり佐々木さんはスタイル抜群なのです!!」
「あまりジロジロ見ないで・・・」
「ちょっと触ってみても構いません?」
構います!
「どこ触ってるの!?コラッ!やめなさい!」
「お世話してあげてるんですから少しはお返しを貰うのです」
「お返しって何よ!?頼んだ覚えは・・・嫌!駄目!離れなさい!」 

二人でお風呂ではしゃぎ過ぎたせいでのぼせてしまった。
暖まった身体から汗が噴き出てくる。

「さて、ところで橘さんはもう夕食は済んだのかい?」
「いえ、まだ食べてません」
「では、お世話になったお礼に橘さんさえ、もし良ければ私が何か作ろうか?」
料理について工夫と研究を重ねている。
味には自信がある。問題ないはずだよ。
「佐々木さんの手料理ですか!?楽しみ!お願いします!」

橘さんの家の冷蔵庫を開けると9割以上がスナック菓子だった。
この子の食生活って一体どうなっているの?
少しばかりの鍋用の野菜セットとベーコン、お米、基本的な調味料。
カレー味のスナック菓子があるからこれも入れて
カレー風味のチャーハンにでもしよう。

ふむ・・・有り合わせの材料で作った実験的レシピではあったが、
コスト面とを考慮すれば味は悪くなかった。

「佐々木さん・・・」
「ん?なんだい?」
TVからまたどこかでテロがあったとのニュースが流れてきた。
それぞれの主義主張に相容れない部分があるとしてもそのような暴挙へと
彼らを駆り立てる世界の不条理は甚だ、虚しい。
「あそこで何があったのか、聞いても良いですか?」
そりゃまぁ、気になるよね。
「別に・・・車に轢かれそうになって避けた途端に転んで泥だらけの水浸し。
ついでに持っていた傘も折れて仕方がないから雨に打たれて歩いてたのさ」
嘘は付いていない。
「そうですか・・・」
「そうですよ」
「佐々木さん、今日ここに泊まっていきません?」

橘さんは何故、いつもそんな風に話が飛躍するの?

「お家の方が心配なさりますか?」
「いや、今日は家に誰もいないからそこは問題ないけど、
あるとしたら橘さんと一つ屋根の下で一晩を過ごすというところにあるね」
「なんでですか!?」

だって、ここで眠ったら私の貞操の危機に陥るかもしれない。

「でも、そうだね。服が乾くのにも時間が掛かりそうだし、
雨も強くなってきたようだ。
また濡れて家に帰ってお風呂に入ると言うのも時間的に勿体ない。
今夜はここに泊めて頂くとしよう。
その代わり、私は橘さんとは別の場所で眠らせて頂くよ」
「えぇ~・・・つまらないのです」
何がつまらないの?


それから年末年始のイベントと言えば期末テストくらいで
特に何事もなく、順調に進んでいった。
基本的に私はサンタクロースも初詣の神様にも気を遣ったりはしない。
でも、伸びていた髪を切った。橘さんはなぜか、残念そうにしていたけど。
ただ鬱陶しかっただけ、別に理由はない。
橘さんは私に気を回したのか『組織』を使ってキョンの事を調べ上げたらしい。

「まだ大丈夫でした!佐々木さんの早とちりだったようですよ!
佐々木さんの様子からひょっとして遅れてしまったのかと
思いましたが、どうやらキョンさんはまだ無事のようなのです!」

早とちり?無事って?

「どフリーって事なのです!どうやら涼宮さんとはまだそういう関係には
至っていないようですね。今もまだ同じ『SOS団』に所属するの
団長と雑用係という関係みたいです」
「そう・・・やっぱり雑用係なんだね、くっくっ。
それで?それがどうかしたのかい?」
こういう返事しか返せない所が素直じゃないな、私。
嬉しいくせに・・・。
でも、二人の関係が進展しない事を喜ぶなんて
それはそれで少し罪悪感を感じてしまう。
「とにかくまだ脈あり、付け込む隙は十二分にあるという事なのです!」
「いつも言ってるでしょ?そんなつもりは毛頭ないって」

橘さんはクリスマス前に突然、三日間ほど姿を見せない事があったくらいで
あとはほぼ毎日ストーキング全開で張り付いてくる。
あの三日間は実に開放感に満ち溢れていたよ。
戻ってきた時に理由を聞いてみたが忙し過ぎてよく覚えてない、
三日間、何をしていたか記憶にないと訳の分からない誤魔化し方をしていた。
また何か変な計画でも立てているのであろうか?

「全く・・・女ってのはいつの時代もどうしてこう恋愛話が大好きなのかね」

未来人はつまらなそうに頬杖をつきながら
カプチーノとショートケーキを堪能している。
似合わないね、ここまでショートケーキの似合わない人間がいるとは
想像もしなかったよ、くっくっくっ・・・

「フフン♪そんな態度だから女の子にモテないのです!」

まぁ、人間なんてモテる必要はないさ。
原始的、動物的な本能に従えばそれが忠実なのかもしれないが
我々、知性ある人類が住まう現代社会の中では
そんなもの、自己に対する満足感と顕示欲にしか過ぎないからね。
ただ・・・

「そんな事はないよ、橘さん。この未来人はモテモテだね。
だってこんなに可愛い女の子3人に囲まれてお茶しているんだよ?くっくっ」
「それもそうですね!ハーレムなのです♪」
「ふん、相変わらず強烈な皮肉だな、佐々木さん。
大した関心も無い、こんな変な3人に囲まれても嬉しくもなんともない」
「――皮――肉――」
「おやおや、これはまた随分と失敬だね、この未来人は。
周防さんもお怒りのようだよ?」
「あといい加減、俺の事を呼ぶ時は未来人じゃなくて・・・」
「さて、そろそろお開きとしようか」
「おい!だから人の話は最後まで・・・」
それと周防さん、コーヒースプーンは食べ物じゃないよ。 

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佐々木さんは11月のあの雨の日から、ここしばらくは
無理に元気を出して笑っているような、
でも、吹っ切れないように悩んでいるような、どこか冴えない表情でした。
その憂鬱もあたしが『組織』のエージェント達を駆使してキョンさんの事を
徹底的に調べ上げて佐々木さんに伝えた時、
やっといつもの「くっくっ」という佐々木さんの可愛い笑い方が戻ってきたので
どうやら消えてしまったようなのです。
佐々木さんは頑なに

「キョンなんて関係ないよ。中学を卒業してから一度も
顔を合わせて話もしてないし」

と言っていましたが、あたしには分かっています。
だってあの日の閉鎖空間では初めて雲がどんよりと立ち込め、
見た事も無いような激しい雨が降りました。
あたしがこの能力を持つようになってからは初めての事です。
そして卵の殻にヒビが入り、その隙間から慟哭が響き渡ってきました。
確かに佐々木さんはあの時、心から涙を流して泣いていました。
何があったのかはよくは分かりませんでしたが、
でも、佐々木さんはそれからあたしがいくら促しても
絶対にキョンさんに会おうとはしてくれません。
さっさとキョンさんに『大好き♪』って告白して奪い取っちゃえば良いのに。
乙女心はかくも複雑で繊細なのです―――
とにかく機敏に先頭を歩く佐々木さんの足取りは軽く、
お花が咲いているように香り豊かな可憐さなのです。

「おい、橘京子」

なんですか?性悪未来人さん♪

「二人だけで話がある。重大な事案、最優先事項だ」

えぇ~・・・面倒臭いのです・・・。
愛の告白ならあなただけには勘弁して欲しいのです・・・。

2月の冬の公園は霜が降りて誰もいない。子供達のいない遊具はどこか寂しげだ。

「そんな事、あたしは絶対にお断りなのです!!」
誰もいない公園に大声が響き渡る。


「そんな事をするなんて・・・絶対に許されるはずがありません!!!」
世の中、やって良い事と悪い事が厳密に存在している。

「これは既定事項なんだ」
そんな既定事項、あたしのスケジュールには入っていないのです!

「あなた達未来人にどのような組織があり、どのような派閥があるにせよ
そんな暴発したような行動を取れば後々、大きな問題として
あたし達やあなた達の身に降り掛かってくるのが分からないのですか!?」

今はなるべく『SOS団』を刺激するような行動と無用な摩擦は避けたい。
佐々木さんに対するケアも大変になる。

「仕方がないだろう。これは強制コード、絶対的な命令だ。
あんたら『組織』ともすでに話はつけてある。
一応、僕は物事の順番というものをなるべく遵守したい性格でね。
先に僕からあんたに伝えておいた。感謝して心の準備をしてくれ、橘京子。
あんたにもじきに『組織』の任務として指令が下るだろう」

一々、鼻につく物言いなのです!

「感謝なんかする訳ありません!あなた方未来人も『組織』も
頭カチコチの上層部はいつも一体、何を考えているの!?」
「もう決まった事だ。拒否権は無い」

そんな事態を引き起こして一体、何のメリットがあるというの!?

―――朝比奈みくるを誘拐する。

理由も意図も目的もさっぱり分からない。何故?
冷静になって考えて。
頭に血の上った状態では筋道立てた考察を組み上げる事は出来ない。
恨み?
「・・・もあるのかもしれないな。あんたら『組織』とやらには」

いや、そんな感情論で不合理な選択をするほど『組織』は馬鹿ではない。
確かに朝比奈みくるの存在によって佐々木さんが保有するはずであった
『神の力』は本来の持ち主に手渡される事なく、
キョンさんと涼宮ハルヒの出会いが佐々木さんとの出会いより先に演出され、
涼宮ハルヒに渡ってしまったという見解もあるにはある。

だからと言って今更、朝比奈みくるをどうこうした所で解決する問題ではない。
例え、過去に戻って朝比奈みくるを封じ込めた所で別の未来人によって
結局は佐々木さんよりも先に涼宮ハルヒに『神の力』が備わってしまう事を
変える事は出来ないであろう。
例え、出来たとしてもそれは大きく歴史を歪め、
『神の力』自体を消滅させてしまう可能性もある。

それならば涼宮ハルヒをプロトタイプ、『神の力』の試運転と考えて
その後、佐々木さんへと移行させた方が危険性も少なく、理に適っている。
その為に今、あたしはまず佐々木さんへの干渉を強めて、
信頼関係の構築を最優先任務として動いている。

もし朝比奈みくるを誘拐したとあっては『SOS団』、
ひいてはキョンさんをも敵に回してしまう事になる。
そんな事になっては・・・まずこちら側に付く事はなくなるだろう。
あたしの練り上げた計画は全て水の泡となる。

「僕達が朝比奈みくるを誘拐する予定のその日、
何でもその誘拐が実行されないと僕らの組織にとっても
あんた達『組織』にとっても非常に不都合な結果を招くらしい」

誘拐そのものに都合の良い結果が得られるとはとてもじゃないけど思えません!

「あの涼宮ハルヒがやってる『あれ』?何と言ったか?」
「『SOS団』ですか?」
「あぁ、そんなふざけた名前だったな。そいつらがな、
朝比奈みくる誘拐を予定している日にガキみたいな探検ごっこをするらしい。
いい歳して何やってんだとは思うがな」

それはスパイ活動か何か?SOS団とやらもなかなかやりますね。

「なんでも二手に別れて行うもので、その割り振りを決める際に
いつもくじ引きで適当に決めるらしいんだが、
その日は放っておくと、涼宮ハルヒとあのキョンってアホな男が
二人、同じ組になるらしい。この二人が一緒になるのは初めてのケースだそうだ。
何でもそこで二人っきりにしてしまうと色々と複雑な事態が起こるそうだ。
一定の時間だけだが、二人が顔を合わせる事さえも避けたいとの事だ」

そんな話、その二人の問題でしょ!?なんで朝比奈みくる誘拐に繋がるの!?

「一番は朝比奈みくるが最も扱い易いという単純な話だ。
そして、この任務の色合いからして他の奴らを巻き込む事だけは避けたい。
要は朝比奈みくるには『任務』として誘拐されてもらうって事だ。
他の奴らに手を出せば、無駄な敵対関係に発展する恐れがあるからな。
誘拐する瞬間、朝比奈みくると一緒にいるのはキョンって奴だけらしい」

それならキョンさんを誘拐しちゃえば良いのです!
そしてそのまま佐々木さんに引き合わせちゃえば一石二鳥!

「それはまだ時期尚早だって事はあんたも分かってるだろう?
俺も考えたがな、キョンって奴を誘拐したらもっとまずい事態になるらしい。
詳しくは禁則事項、と言うか僕も知らされていない」

涼宮ハルヒとキョンさんを引き離したいから朝比奈みくるを誘拐する?
全く話が繋がらないのです・・・支離滅裂で論理が破綻しています。
大体、誰かが誘拐されたなんて事になったら連絡取り合って
全員が集まるに決まってます。そこで顔を合わせてしまうでしょ!?

「どんな事情があるかは知らんが、連絡を取り合って顔を合わせる事はないそうだ。
連絡を取ったり、顔を合わせる事の出来ない事情があるのか、
誘拐されたと連絡を取っても涼宮ハルヒに無視されるのかは分からんがな。
とにかくやらなきゃならん。下手すりゃ僕もあんたも力を失う事になる」

力を失う?

「時間の移動も出来なくなるし、あんたの超能力とやらもなくなるって事だ。
世界そのものが存在を抹消してしまう事態も想定される。可能性としてな」

確かにそれは駄目ですが・・・。

「これは僕の予想だが大方、涼宮ハルヒとそのキョンって奴が顔を合わせたら、
喧嘩でもおっ始めて疎遠になったり、その『SOS団』解散ってなるんじゃないか?
もし、そうなら勝手にしてくれって言葉しか出てこないな。
全く、そんな下らない痴話喧嘩に世界と未来の存亡が掛かってるなんて
考えたくもない馬鹿馬鹿しい話だがな」

恋愛のパワーは恐ろしいのです・・・。

「橘京子、あんたが佐々木の為に色々と動いているのは僕もよく知っている。
ただあんた達『組織』としての最終目標は
『神の力』とやらを佐々木に渡す事だろう?」

そうですよ!!その為に『鍵』となるキョンさんをあたし達の所へ連れて来ようと
日夜、お仕事しているのにこんな仕打ちは屈辱なのです!!!

「つまり僕もあんたもスケープゴートにされてしまったと言う事だ」

スケープゴート?

「悪役のだよ。
佐々木の傍にいる僕達が朝比奈みくるを力ずくで誘拐するような
そんな悪役だとしたらキョンって奴はどうすると思う?
あんたなら予測付くだろ?」

そうなったらきっとキョンさんは佐々木さんとあたし達を引き離そうとして、
そして、佐々木さんと密なコンタクトを取って・・・あっ!!

「ふん、そういう事だ。僕らが佐々木の傍にいればキョンって奴は
佐々木と僕らを引き離そうとして密に連絡を取り合う関係になるだろう。
僕の調査ではそのキョンは普段は腑抜けた締まりの無い男だが、
自分の周りの人間の危機や困難には放っておけずに突っ込んでいくタイプの男だ。
そこまで出来て普段は何故、ああも他人の言いなりにしか動けない人間なのかと
僕個人はそんな奴、唾を吐きかけたい程、軽蔑に値する人間だと思うがな。
あの二人は『親友』と言いながらも今は少し疎遠になりつつある状態だ。
その状況を打開する為、そして関係を前に進める為の手駒、道具に
僕達は上手い事、利用されてしまったという訳だ」

そんな・・・そんな事って・・・。

「だがな、橘京子。別にあんたは佐々木とキョンって奴を取り込んで
仲良しこよしの集団を作り上げたい訳じゃないだろう?
さっきも言った通り、あんたの任務、そして『組織』としての最終目標は
『神の力』の奪還にある訳だ。『神の力』か・・・ふん、下らん。
だから、僕やあんたが佐々木と疎遠になっても何の問題も無い。
佐々木とキョンって男さえまずは親密さを取り戻して上手くやれば
あとはいくらでもやりようはある。
その後、僕やあんたを切り捨てて他の奴らを派遣すれば済むって話だ」

切り捨てる・・・いや、『組織』はあたしを手元には置いておくだろう。
面倒な事態を引き起こす事は避けたいはず。いや、分からない。
どうなるか、どうすれば良いのか、もう分からない!!!
だけど、そうなったらもうあたしは佐々木さんとは・・・

「どうするかはあんた自身が決めろ、橘京子。参加・不参加も含めてな。
まぁ、お互い最重要任務だ。不参加なんて事をしたらどうなるか分からんがな。
あんたがいてもいなくてもどのみち、実行に移す手筈は整っている」

任務、それがあたしに課せられた任務――― 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

「どうしたの?橘さん?」
え?
「さっきから随分と静かだね。少し気持ちが悪いくらいだよ」
いけない!これはあたしの任務、『彼女に近付き、お友達になる』任務・・・。
「い、いえ!パフェ来るの遅いなぁ~と思いまして」
「ふむ・・・そういえばそうだね」
いつもの癖でパフェを頼んでしまったけど、今は喉を通らないかもしれない。
でも、笑顔!笑顔!笑顔♪

「今度は何を企んでいるの?」
え?
「くっくっ、橘さんはさっきから私の言葉に驚いてばかりいるね。
初めて出会った時みたいに面接している訳ではないから
そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

初めて出会った時・・・そう、あの時は不審者のように凄く警戒されて
尾行されたり、その日のうちに全部バレちゃったり、あの日は本当に大変だった。
『仲良くなる』なんて任務は大失敗に終わったと思った。
本当にこの佐々木さんという人は明晰な頭脳だけじゃなくて
大胆な行動力と鋭い観察眼もある人だとも思った。
今でもそれは変わらない。
でも、佐々木さんの色んな面に触れていくうちにあたしの中では
ただの任務じゃなくなっている―――

『観察対象に情を移すな』

エージェントとしての基本中の基本。
情なんてものを任務に持ち込んでしまっては決して成功する事はない。
いざと言う時の決断力、判断力が鈍くなり、動けなくなってしまう。
だから課せられた任務はあるがままに受け入れ、
感情を動かす事なく、遂行していくもの。
それが『組織』のエージェントとしての役割。
役割?ただの役割・・・代わりはいくらでもいる。

「橘さんは本当に嘘や隠し事が下手だね」
へ、下手ですか?
「うん、下手だね。顔を見ていれば大体分かる。実に面白い」
面白い、ですか?
「面白いよ、あなたと一緒にいるのはね。たまに一人にして欲しい時もあるけど」

あたしも・・・あたしも・・・

「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
佐々木さんの凄く優しくて、凄く可愛い笑顔。
「気にしなくてもパフェは消えたり逃げ出したりしないからね、くっくっ」
そうですね・・・消えません、逃げ出しません。

「ところでそろそろ何を企んでいるのか、話してもらおうかな?」
それは・・・
「まぁ、良いよ。喋りたくなければ。少なくとも橘さんだけは
私に危害を加えたり、嘘を付いたりはしないと少しだけは信じているよ。
何せ、『お友達』だからね」

はい、『お友達』なのです♪約束!!佐々木さんには嘘も隠し事もしません!

「それはありがとう」
指切りします!嘘付いたら針、百万本飲みます!
「くっくっ、それはそれで興味深いから見てみたいね」 

佐々木さんと別れたあたしはぼんやりとしながら街を歩いた。
朝比奈みくる誘拐の予定日は明日。
明日からまた状況は大きく動き出す。

今後、『SOS団』やその周りにいる者達との接触も増えるだろう。
そうなれば佐々木さんも深く巻き込まれてしまう事になる。
それは逃げられない運命のようなもの。
場合によっては非情な選択を迫られる事もたくさん出てくるだろう。

答えはもう出ている―――

逃げていては何も変わらない、変えられない、進まない。
闘う事。一歩でも良いから前へと歩き出す事。
足が動く限りは、心が残っているうちは―――

明日はどっちにあるの?

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「こっちだ、橘京子」
未来人は車の窓から顔を出してあたしの顔を面倒臭そうに見つめている。
「ふん、ちゃんと来たな。乗れよ、今日は宜しくな」

車の中では未来人と『組織』のエージェントが準備を始めていた。

「別にあなた達の為に来た訳じゃありません。これがあたしに課せられた任務。
それならばその指示に従い、遂行するまでです。
しかし、こんなやり方は一切、認めませんし、絶対に認めたくありません。
ですから今回は任務が問題なく、遂行されるかどうか、
この目で確かめに来ただけです。
もし、朝比奈みくるに何らかの危害が加えられるような事になれば
あたしが全力でもって阻止します。
手荒な真似などしないように丁重に扱う。約束して」
「あぁ、分かってるよ。予定の時刻と場所はもうすぐだ」

車はするすると走り出し、そして速度を落としながら道路脇に滑り込んでいく。
朝比奈みくるとキョンさんの姿は窓から遠目でも分かった。
決して間違いが起きないようにここ数日、報告書にある写真を何回も見ていたから。
可愛い上にスリーサイズも抜群なんてずるい!どうでも良いけど。

「いくぞ!」

ドアが開かれるとそれからは一瞬の出来事だった。
さすがに『組織』が鍛え上げたエージェント、
こういう仕事の為の訓練も積んでいるだろう。あたしもそんな訓練をやらされた。
あっという間に拘束し、睡眠導入剤で大人しくさせてしまった。
正直、自分もこんな目に合う日が来るのだろうか?
佐々木さんにもこんな仕打ちをしたりする事もあるのだろうか?
そんな事を考えて少し怖くなった。

いや、そんな真似をするならばあたしが許さない。
佐々木さんだけでも全力で守る。例え、その相手が『組織』であったとしても。
それが今のあたしの最重要任務であり、
そして佐々木さんとあたしは『お友達』なのだから――― 

「ふん・・・この前も言ったが橘京子、
あんたがどのような行動を取るのか、選択はあんたの意思に任せる。
僕は正直言って、こんな任務なんざ糞喰らえだと思っている。何故だか分かるか?」

そんな事、あたしの知ったこっちゃないのです!

「『真実』ってのは必ずしも一つではないからだ。
未来が上書きされている?分岐された時間軸?『神の力』?
はん!馬鹿馬鹿しい。
上書きされているならそのまま上書きさせりゃ良い。
時間が複雑に分岐していくつもの歴史が生まれたなら
それぞれの歴史をその時代の人間が思うがままに前に進めて行けば良い。
僕達は『神の力』のお陰で存在し、考え、生きているのか?
違うね!!僕は僕だ。そしてあんたは、橘京子は橘京子だろ?」

当たり前なのです!!

「例えば、AとBという選択肢があったとしてその時代に生きる人間がどちらを
選ぼうが他人がとやかく言う筋合いはないはずだ。
ましてや未来からやって来た者が
『自分達の知る歴史ではあんたはAを選んだ。だからBを選んでは駄目』
なんて手出し口出しする権利なんかないはずだ!
じゃあ、僕達も更に未来からやって来た人間に絶対的に従わなければならないのか?
いいや!歴史は、時間は、既定事項だなんて言葉で都合良く、
過去を作り替えてレールの上に沿って動かしたりして良い代物じゃない。
それはその時代、その世界の『事実』であって決して『真実』なんかじゃない。
それぞれの時代の、それぞれの世界で生きている人間自らが
その手に取った選択肢こそが紛れも無い『真実』なのだから。
選んだ『真実』故に先の未来に何が起ころうとも、な」

「じゃあ、未来人は偉そうな顔して、この時代の道の上を
うろちょろしないで欲しいのです。邪魔ばっかりして前に進めません!」

「そうだな。だから未来の人間は過去に行ったとしても
一切、その時代には干渉出来なくするべきなんだ。
過去は博物館のガラスの向こうにある展示物のように
遠目から眺めるだけの存在に留めておくべきなんだよ。
自分達に都合良く、世界を動かそうなんざ
力と知恵を持ってしまった故に呼び起こされてしまった人間のエゴだよ。
猿の時代から何も変わっちゃいない、何も進化しちゃいない。
浅ましい愚か者の馬鹿ばっかりだ。この時代の人間も含めてな。
僕達を追い掛けて来る、後ろの車に乗っているあの男もそうだ」

キョンさんの事?

「あのキョンって奴はこれまでにもこれから先も歴史を動かす鍵となる
選択肢をいくつも握っている。それは難儀な事だとは思うがな。
しかし、どの選択肢を選ぶかは全て、あのキョンって奴の
意思で行われるべきなんだ。何故ならそれがその時代を生きる者の意思であり、
それによって生まれた結果に自分で責任を持たなければならないからだ。
だが、あの男はいつも、そこに転がっている朝比奈みくるや
その異時間同位体の言いなりで全くとして自分の意思というものが感じられない。
それを見てると腹立たしいんだよ・・・腸が煮えくり返る。
何故、いくつもの大切な『鍵』を握っているのがこんな腑抜けた男なのかとね。
自分の意思と責任において行動しろ、とぶん殴りたくなる。
だから僕は今、ここにいる。言葉だけじゃ何も変えられないからな。
立場も変わり、偉くもなれば変革出来る事柄も増えてくる。
だから今は屈辱に耐え忍んでこんな下らない、糞喰らえな任務を遂行してやるさ。
だがな、いつか変えてやる、食い止めてやるよ。
こんな都合の良い事ばかり並び立てる人間のエゴの連鎖をな」 

「・・・・・・つまらないのです」
「何がだ?あんた、人の話聞いてたか?」
ふん!!!
「話は無駄に長いし、どうでも良いのです!
そんな事、あたしの知った事じゃありません!
それにあなたはもっと性悪で底意地が悪くて捻くれてて
ゴキブリやウジ虫みたいに生きる価値も無いくらいの最低最悪の
見掛け通りの悪役の未来人であるべきなのです!
じゃないと、いじり甲斐がなくてつまらないのです!」

「全く・・・あんたの方こそ、脳みそだけじゃなくて性格も最悪だな、橘京子」
「えぇ、そうですよ!女の子は皆、意地悪なお馬鹿さんなのです!
ですから仕方がないのであなたの要求通りにして差し上げますよ!」
「何をだ?」
「女の裏の顔!悪魔の本性を見せて差し上げるのです!
『組織』エージェントとしての悪役をやってあげますよ!特別出血大サービスで!
その代わり、後で鰻丼特盛りとデラックスパフェ、奢ってもらいますけどね!」
「ふん!それはとんだバレンタインだな。普通は逆じゃないのか?
それにペチャパイの小学生に迫られてビビる奴なんているのかね?」
「黙れ、童貞」
「なっ!?だ、誰が童貞だ!?この干物女!」
「うるさい、この役立たずの下っ端!」
「ふん・・・まぁいい。この後の本番もその意気で頼む。
色々と恫喝されたりするかもしれんが、危害を加えられる事はないそうだ。
それも既定事項だ」

言われなくてもやりますよ、『組織』幹部・橘京子を舐めないで欲しいのです!!

その時、目の前に一台のパトカーが飛び出てきた。
キョンさんが絡んでいると言う事は恐らくこれは古泉一樹の『機関』の手のもの。
最近、『組織』の周りをうろちょろ嗅ぎ回っていた事は報告に入っている。

「さぁて、お仕事だぞ、橘京子」

分かってますよ!あと、前々から言おうと思ってましたけど、
偉そうにあたしの名前を呼び捨てにしないで! 

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「ふむ・・・」
今日は橘さんはストーキングしてこないようだ。
どこを見渡しても彼女の姿が見当たらない。
まぁ、2月だからね、風邪でも引いたのであろうか?
もし本当に風邪ならばどんな有様に陥っているのか、覗いてみるのも一興だ。
干物のようにカラカラに乾いている姿が目に浮かぶよ、くっくっくっ。
いや、でも彼女の性格から言って風邪を引いていても
『大丈夫なのですぅ~』とか言いながら
私に風邪を移すつもりなのかと思う程、近付いてくるだろう。

しかし、今日は穏やかな日が過ごせそうだ。
どうしようかな?暇だ。
橘さんがいないと開放感はあるものの、物足りない感じもある。
くっくっ、私も焼きが回ったね。
いつの間にか橘さんがいる毎日が私の日常の1ページになってしまったようだ。

何かあったのかな?仕方がない・・・『お友達』だ、顔を見せよう。
サプライズでやった方が驚く顔が見れるので楽しみも増える。
彼女の場合、元々ろくな食生活じゃないから大した食事も摂っていないはず。
久し振りに彼女と食事を摂るのも悪くはない。

近所のスーパーで料理の材料や飲み物を選んでいると
年配の男性店員が声を掛けてきた。
良品質のものを吟味するのに他人の声は煩わしいだけなのだが、
この店員は若い女性には脇が甘く、私にも割引してくれるようだ。
男と言うのはいくつになっても変わらない生き物らしい。

「姉ちゃん、彼氏に手料理作ってあげんのかい?」
「い~え、女の子です。友達と一緒に食事しようかと思って」
全く・・・セクハラだよ。
「なんだい?もうすぐバレンタインだってのに
お嬢ちゃんみたいな可愛い子が勿体ないね。世の中の男は馬鹿ばっかりだ」
最後の意見には実に同感。

バレンタイン・・・忘れていた訳ではない。
ふと、キョンの顔が思い浮かぶ。
いやいや、駄目!キョンとはそんな関係じゃない。
この前の一件で懲りたはず。
下手に踏み込めば火傷するだけ。
凄く痛い後悔しか残らない火傷―――
あんな想いはもう二度とごめんだよ。

橘さんの家の扉の前で何度、インターフォンを押しても返事はなかった。
出掛けているのかな?仕事なのかな?
それならば今日、やって来なかった理由も説明が付く。
これは勇み足だったね、私とした事が大いなる過失を犯してしまったよ。
帰ろうと振り向くと橘さんが俯きながらトボトボと歩いてきた。

「やぁ、橘さん」

驚いたのか、橘さんの小さな身体がビクッと大きく跳ね上がった。

「そんなに驚かなくても大丈夫。何もしやしないよ、くっくっ。
いや、少し驚かせたかった悪戯心もあるにはあるが、まぁそれは良しとしよう」
「ど、どうしたんですか?佐々木さん」
「ん?いや、暇だったからさ。家には誰もいないし、
橘さんさえ良ければ一緒に食事でもどう?私が作るよ」
「あ、いえ、でも・・・」
「あぁ~・・・ひょっとして都合が悪かったかな?いや、それならば良いんだ。
あなたも色々と忙しいだろうしね」
「いえ!あ、ありがとうございます!ちょうどお腹空いてたのです!」
「じゃあ、一緒に作ろう。少しはあなたも料理を覚えた方が良い」

チキンカレーの香りが部屋に充満している。ビーフやポークは避けておいた。
もし風邪ならばと、おかゆを作るつもりだったから
油は身体に負担が掛かるかもと思ったし、カロリーも高い。
レストランでカツ丼やハンバーグを食べていたから
ヒンドゥー教やイスラム教と言う事はないだろうけれども。
手作りラッシーも上出来。今日の料理の出来は完璧に近い。

「佐々木さん・・・」
「何?」
TVでは株式市場が乱高下を繰り返しているというニュースがやっている。
浅ましき人間の欲望と性。だけれどもこの資本主義の中で暮らしている私も
そのシステムから外れる事は滅多な事では許されるものではない。
私自身も操っているようで操られているようで。
でも、そんな不安定な綱渡りだからこそ、未来がある。
上から見下ろし、操るだけの人間には魅力も、日常も何もない。

「本当にありがとうございます」

また橘さんの発する言葉には脈絡が無くて理解に時間を要するよ。
その謎解きも面白いけどね。

「お礼なんて要らないさ。だって『お友達』でしょ?私達。
一緒に食事したり遊びに出掛けたり、笑い合ってはしゃいで。
色んな時間を共有し合う、それが『お友達』さ」
「そうですね・・・」
「そうですよ。特別な事は何もしていない。
極々、普通の当たり前の日常を営んでいるだけ。
そこにこそ人生の価値があると見いだしているよ、私はね。
友達だってその一つでしょ?」
「はい!そうですね♪」

昨日からも感じていたし、扉の前で出会った時も感じた。
どこか影を帯びて冴えなかった橘さんの表情に少しだけ明るさが戻った。
何か悩みがあるなら橘さんの方からいつかどこかで話し出してくれるだろう。
その時、どんな事が起きるのか、もしかすると私と橘京子との関係は
崩壊する事になるのかもしれない。
だからやっぱり私は臆病者。
私からは今は何も聞かないでおこう、何も―――

「そろそろ私は家に帰るよ」
「えぇ~!!帰っちゃうんですか~!?」
すっかり元の調子を取り戻したね。沈んでた橘さんの方が可愛かったよ。
カレーは朝にでもちゃんと火にかけないと腐るから気をつけてね。

すっかり遅くなってしまった。
どうやら橘さんは『組織』の幹部へと返り咲く事になるらしいと言う話が出た。
幹部となると忙しくなるから憂鬱だったのかな?
まぁ、推測の域を出ない考察は続けていても答えは出ない。

「こんにちは」
ん?私?
「もう時間的には『こんばんは』とご挨拶した方が宜しいのでしょうか?」

そうだね、夕方の挨拶というのは難しい。
夕暮れに染まった空に浮かぶ相手の顔は逆光でよく見えないが、
声で女性だという事は分かる。

「どちら様?」
「あなたが先程、会っていた女性と少しばかりの御縁がある者です。
少々、お時間を頂けますでしょうか?佐々木さん」

相手の女性が一歩踏み出してきたお陰でやっと顔が見えた。
柔らかく微笑むそのスーツ姿の女性は有無を言わせない
凛とした強さも兼ね備えている。
まただ・・・面識も無いのに私の名前を知っている人間がまた現れた。
しかも今度の相手は手強そうだよ。
ここまで笑顔を巧みに操る人間は見た事が無い。

橘さんの『組織』の人?違う。それならばそう言えば良い。
宇宙人か未来人ならば『橘さんと御縁がある』なんて言い方はしない。
御縁、何の御縁?答えは簡単、敵対関係だ。
それを口に出すと私の警戒心を強める事になってしまうから
わざとぼやかした言い方をした。
橘さんと敵対関係にある。一度だけ聞いた事がある。
キョンの所属している『SOS団』の話を橘さんから聞いた時に。
橘さんはこう言っていた。
『SOS団』にはあたし達『組織』と敵対する『機関』のメンバー、
古泉一樹という人が所属しているという事を。
つまり、この人は・・・
「古泉一樹さんが所属する『機関』の方ですか?」 

「・・・驚いた!!『機関』や古泉の事を知っている事もですが、
まさか、いきなり答えに辿り着くなんて。
あの女性から、橘京子さんから何か伺っておりましたの?」
「いえ、あなたのような胡散臭い方々に大勢、取り囲まれるようになって
変な勘が働くようになってしまったようです」
「才色兼備な女性とは伺っておりましたが、これ程とは。
『機関』にスカウトしたいくらいです」
「お断りします。私は凡人ですよ。
それにそんな妙な方々の片棒を担ぐのはご免です」

この女性の用件は何?早く家に帰ってお風呂に入りたい。
「わたくし、森園生と申します」
丁寧でピンと張った綺麗なお辞儀が彼女の内面の強さを表している。

「森さん、あなたに一つ言っておきます。
私は『神の力』なんてものは必要ないと思っていますし、
これからもそんな力は持とうとも思っていません。
ご心配なさらなくても私から涼宮ハルヒさんやキョンに
危害を加えるような真似は絶対にしませんよ」
「『神の力』や涼宮さんについてもご存知なんですか!?向こうの『組織』さんは
随分、あなたとざっくばらんに打ち解けてらっしゃるのですね」

これでこの森さんとやらが私に対して何かアクションを起こす可能性は減ったはず。敵対関係と言っても下手に事を構えるのは誰だって避けたがる。

「でも、今日の本題はそこじゃないんです」
では、何?
「彼女、橘京子さんについてです」
橘さんがどうしたの?
「今日一日、彼女が何をなさっていたのか、お伺いになりました?」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

「まさか?橘さんがそんな事をするとは思えない。あの未来人だってそうだ。
特に橘さんの目的にとっては理屈に合わない。それに・・・」
整理しても合理的な答えは見つからない。

「理屈には合わなくても事実です。カメラにも収めてありますから」
と、森園生は写真を一枚、私に手渡した。
「この写真をどうなさるかは佐々木さん、あなたのご判断にお任せします。
それでは、日も暮れて参りましたので、お気をつけてお帰り下さいませ」
森園生の言葉は耳には聞こえたけど、最後まで頭の中には入ってこなかった。

私はその写真を見ながら呆然と立ち尽くしている。
夕陽はもうすぐ地平線の下へと沈められていく。
藍色とオレンジ色の混じり合った綺麗なグラデーションの空の中で
薄く控えめに星が輝き始めている。

未来人の不敵な笑みは若干、鋭さは増しているものの写真でもあまり変わりはない。
しかし、その写真に映る彼女はこれまで私が見た事も無いような色を発していた。
目の前でケラケラと笑ったり、頬を膨らませむくれている『お友達』の彼女とは
全くの別人のようにも思えた。
でも、確かに彼女に間違いはない。

―――橘京子。

二人とも、画像処理で作られた合成写真?
違う、写真から伝わってくる空気で分かる。
確かに間違いなく、本物だ。

この写真を二人に叩き付けて真実を聞き出せば答えてくれるだろうか?
答えてくれるかもしれないけど、その時は覚悟を持って接する必要がある。
臆病者の私にそんな事が出来る?
でも、理由を、目的を聞き出さなければ私はもう、
あの二人と、特に橘さんとは信頼感をもって接する事は出来ないだろう。

最初から分かっていた事。
彼女はただの女の子じゃない、『組織』の幹部・橘京子。
でも、こんな事をするのは許される事ではないし、何より私自身が許したくない。
何故、こんな事をしたの?仕事だから?目的を達成する為?
そんな事の為に誘拐なんて!?そんなに『神の力』が欲しいの!?
写真に映っている抱きかかえられた女性は森園生の言葉によれば朝比奈みくる。
キョンの所属している『SOS団』のメンバーの未来人。

そして写真の端に映っている見覚えある横顔・・・キョン!!!
キョンまでがこの誘拐事件に巻き込まれていると言う事を
手元の写真が何よりも雄弁に語ってくれている。

目的の為ならば自分達以外はどうなっても、どうしても良いというの!?
目的の為に手段を選ばず、無闇やたらに他人を傷つけても構わないの!?

違う!!そんなのは間違っている!!!

こんな事になるならば『神の力』だなんて鬱陶しい邪魔臭いだけの産物。
私はそんなもの、絶対に要らない。
人間が神になるだなんて、世界を操ろうだなんて傲慢にも程がある。

話がしたい・・・あの二人と、何故、こんな真似をしでかしたのか?
真実の言葉が聞きたい。
今夜一晩、考える猶予を与えられたと前向きに捉えよう。
早く明日が来て欲しいような永遠に来ないで欲しいような不思議な感覚――― 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

「おはようございます♪」
二人は遅れてやって来た。
橘さんはいつもより声が高く、明るい。
無愛想な未来人は面倒臭そうに一言たりとも発する事も無く、歩み寄ってくる。
この二人の顔がしっかりと見えるように向かい側に座らせたかったから
二人にだけ少し遅めの集合時間を伝えた。
関わりがあるかどうか分からない周防さんだけには早めの時間を伝えて
私の奥隣に座らせておく。どのみち、この宇宙人の表情は読めない。

「おはよう」
目一杯の作り笑いを向けてみた。
昨日は結局、頭がフル回転していたお陰で全く眠れていない。
この瞬間の為に感覚も頭脳も最大級に鋭敏になっている。
「佐々木さんからあたしに連絡が来たのは初めてなのです♪
しかもバレンタインデーに!うふふ、これは楽しみなのです!」
「くっくっ、そうだね。面白いプレゼントがあるよ」

コーヒーを飲みながら3人を観察してみた。
周防さんはこの件に関わっていたのだろうか?
でも、橘さんとこの未来人は・・・割り勘でお金を集めた時や
雑談をしている態度からはいつもと変わらない印象を受ける。
嘘や隠し事をしているというよそよそしさはない。
まだ何かの間違いであって欲しいと願っている自分と
不信感に包まれた攻撃的な自分とがせめぎあっている。

「で、佐々木さん!バレンタインのプレゼントって何ですか!?」
「これだよ」
彼らの二人を様子を、表情を、目を交互に探りながら
写真をテーブルに置いてみた。
自分の手が緊張と不安で僅かながら震えているのが分かる。
やっぱり怖い・・・。
でも、目を瞑って俯いている訳にはいかない。
目を瞑っていては、俯いていては真っ直ぐ前には歩けないから。

二人の顔を見た瞬間、私の身体と心が枯れて、萎んでいくのを感じた。
あぁ・・・事実だ。
この二人は確かに昨日、誘拐を実行している―――
裏切られたと叫びたい衝動を必死で抑え、私は理知的論理的に
物事を分析、解明していく為の頭脳を構築し始めた。
感情的な言い争いはただただ虚しくなるばかりだから。

「なんで?これは・・・」
「一体、何?僕が聞きたいね。どういう事なんだい?橘さん、そして、未来人。
うん、どうやらこの写真の二人はどう見ても今、目の前に座っている二人と
同一人物で間違いはなさそうだ。
最初、見せられた時はさすがの僕も半信半疑だったのだが、
今の二人の様子を見て、確信したよ。
間違いなく、朝比奈みくる誘拐の実行犯は君達二人のようだね」

未来人は最早、仕方がないと諦めてしまったのか腕組みをして
沈黙の意思表示をしてきた。なるほどね、それはそれで構わない。 

「なんで朝比奈みくるの事まで・・・」
「橘さんの『組織』と敵対する『機関』の森園生という女性が教えてくれたよ。
それは些細な事なのかな?それとも重要?いや、僕が聞きたいのはそこじゃない。
実にがっかりだ。失望と落胆、そして軽蔑を禁じ得ない。
こんな事までして、そんなに君達は『神の力』というものが欲しいのかい?
目的の為には誰をどんな形でも巻き込もうとも、どのような手段を講じようとも
問題はないという考え方なのかな?
同意出来ないね。不愉快、実に不愉快だよ。君達の取った行動にはね」
「こ、これは違・・・」
「何がどう違うのか?教えてくれたまえ」
「これは・・・・・・」

突然の事に橘京子の頭は整理出来ていないようだ。
私を言い包める言い訳を考えているのか、それとも理由を正直に話す為なのか。

「・・・答えてはくれない。いや、答えられないのかな?
今の僕は君達に侮蔑と不信感しか抱いていない。
このような事態に至った理由と目的を明確にして頂きたいね」
「ふん、既定事項だ」
既定事項?未来人は体勢を変える事なく、写真を見下ろしている。

「選択の余地はなかった。上からの命令さ。僕も橘京子もな」
「上からの命令?それを実行したまでだと?くっくっ・・・
言い訳にもならないね・・・ふざけないで欲しい。
馬鹿にするのも大概にしてくれたまえ。
そんなに『神の力』とやらが欲しいのなら初めから涼宮さんの所なり、
『SOS団』なりに行けば良かったんじゃないのかい?
何故、僕に近付いてきた?キョンに対してもそうさ。
まさか、君達の勝手な派閥争いにキョンまで巻き込んだのかい?」

橘京子の顔色が蒼白になっているが見て取れる。
見たくはなかったけど、目を逸らしてはいけない。
何一つ見逃さないように、現実をしっかりと見据えないといけない。 

「任務・・・」
橘京子は俯きながら消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
「任務です。昨日、朝比奈みくるを誘拐した事は最重要任務でした」
息が苦しい・・・吐き気と目眩が襲ってくる。
腹の中に大きな鉛の固まりが重く落ちてきた。
「自分は課せられた仕事をしただけだと?キョンまで巻き込んで?」
握った拳の爪が手の平に食い込んで血が噴き出てきそうだった。
「何故?阻止する事は出来なかったの?」
「阻止する必要はありません。『組織』から課せられた任務なのですから。
あたしは『組織』の一員。それを忠実に遂行するのがあたしの仕事なのです」

もう彼女は、橘さんはここにはいない。
顔を上げ、こちらに満面の笑みを向けたその場所にいたのは
『組織』幹部・橘京子だった。

「じゃあ、僕に近付いてきたのも取り込み、利用する為だけの任務だったから?」
「はい。あなたは『組織』にとって『神の力』を手に入れる為の
大切なパーツ、『器』ですから」
「こんな事をするような君達に僕が喜び勇んで協力するとでも?」
「・・・さぁ、それはどうでしょう?」
「では、質問を変えよう。何故、キョンまで巻き込んだの?」
「・・・あなたには関係ありません」
「関係無い?僕とキョンは」
「中学校の同級生、ただそれだけ。今回の件にあなたは一切、関係ありません」
「そう。では、君はこの誘拐を実行に移す事を望んでいた?」
「・・・佐々木さんの、あなたの質問にお答えする義務はありません」

沈黙がテーブルを支配する。冷たい空気が流れる。
棘の突き出た分厚く透明な壁が横たわっている。
彼女の笑顔から彼女が何かを隠しているのは分かる。
その隠し事は橘さんの本音?それとも『組織』幹部としての守秘義務?

「最後に一つ、質問しても良いかな?この質問には答えて欲しいんだ」
たった一つ、これだけはどうしても聞きたかった。

「橘さんが私と交わした、嘘も隠し事もしないって指切りしたあの約束・・・」
橘さんの柔らかく小さな手の感触と明るい笑顔が淡く浮かんでくる―――
「・・・あれも嘘だったの?」

―――お願いだから答えて、お願い。

「そんな約束、覚えてません」

喫茶店の店内にポップコーンが弾けたような破裂音が鳴り響いた。
衝動的に立ち上がり、動いてしまった私の右手は
彼女の、橘さんの頬を力一杯、張り叩いていた。
感情が理性で抑えられる限界を超えてしまったのであろう。
目の前がぼんやりと霞んできた。
横を向き、俯いている彼女の表情もよく見えない。
いや、見たくもなかった。

「あなたの事だけは信じていたのに・・・さようなら。橘さん」

私はまた一人、大切な友達を失った――― 

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「おい、待てって!」
今は誰とも話をしたくない。
あの日以来、人前では絶対に泣かないと心に決めたから。
油断すると涙腺が崩壊しそうで怖い―――

未来人は私の後ろを全速力で駈けて来る。
全速力で逃げる。
追い掛けて来る。
全速力で逃げる―――

「ちょっと待たんかいっ!!逃げ足速過ぎじゃ!!」
「なんで僕を追い掛けて来るんだ!?未来人!!」
「あんたが待てっつってんのに止まらんからだろ!!」
「止まって捕まったら誘拐される!!誰かぁ~!!ここに誘拐犯がモグッ・・・」
無理矢理、口を塞がれた。しまった、誘拐されてしまうよ・・・。
「暴れるな!少しは人の話を聞け、佐々木さんよ。
言葉が足りなかった。ちゃんと説明する。橘京子の事も含めてな」

「やっと落ち着いたか?」
「もし変な気を起こしたら大声出して暴れるから覚悟しておいてくれたまえ」
「そんな気はない」

「まずはどこから説明しようか・・・少しばかり事情が複雑なんだ」
それは分かるが、僕には関係ないんでしょう?
「そうだな、確かに僕も橘京子も今回の件に関しては任務だった」
それは聞いたよ、何が任務だ!!君もただの同じ穴の狢ではないか、未来人。
「『既定事項』って言葉がある。これはな、僕達の時代の歴史から見て
過去の時代で絶対に必要な、いわば『通過しなければいけない儀礼』みたいなもんだ」
誘拐もそのうちの一つだって事かい?馬鹿馬鹿しい。

「時間の概念については様々な考え方があるが、まぁ、そこは良い。
今回の件を僕と橘京子が実行しなければ世界そのものが大きく改変されてしまう、
その可能性もあった。最悪の場合、抹消してしまっていたかもしれない」

自分達は世界を救ったヒーローだと?格好付けるのもいい加減にしたまえ。

「あぁ、自分達をヒーローだなんて思ったりはしていない。
むしろ僕や橘京子もこんな任務は糞喰らえだと思っていた」

どう思っていようとも実行に移した事に変わりはないさ。

「苦渋の決断だった。それに佐々木さん、あんたの友人まで
巻き込んでしまった事は個人的には申し訳なく思う、すまなかった。
だが、あのキョンって奴の注意をこちらに惹き付ける事が
今回の僕の任務の最大の目的だったと言っても良い」

任務の目的、ね。

「その『既定事項』を満たす為にはあのキョンって奴と涼宮ハルヒを
一定時間、引き離す必要があった。しかし、あの男を誘拐する訳にはいかない。
そんな事をすれば涼宮ハルヒの方が動き出すからな。
かと言って、涼宮ハルヒを誘拐すると面倒な事態を引き起こしかねない。
宇宙人や超能力者と全面戦争なんてご免だ」

それなら他の手もあったはずだ、誘拐なんて荒っぽい手を使わなくても。

「あの男、キョンって奴にも『既定事項』の為に色々と動いてもらっていた。
僕自身はそんな未来の指示通りにしか動けない人間は軽蔑するが、
それがあの男の役割でもある。
『誘拐された朝比奈みくるを救う』、それもその『既定事項』の一つだ。
最初からどうこうしようというつもりもなかった。
朝比奈みくるには任務として誘拐されてもらった」

狂言誘拐だったと?

「まぁ、そんなところだ。朝比奈みくるに誘拐されてくれと
指示が行っていたかどうかは僕は知らないがな。多分、指示は行っていないだろう。
ちなみにこれは後で分かった事だが、僕らが誘拐したのは今いる時間とは別の時間、
約一週間後の未来からやって来た朝比奈みくるだった。
だから、同じ時代に朝比奈みくるが二人いた事になる。
その時、この時代の朝比奈みくるは涼宮ハルヒと共にいた。
だからキョンって奴は自分一人で解決するしかなかったんだ。
何故なら涼宮ハルヒは佐々木さん、あんたと違って何も知らないんだ」

そうらしいね。

「涼宮ハルヒは『神の力』を持っている。だから下手な刺激は与えたくない。
大体はこんな意見が全ての組織の大多数を占めている」

未来人、君の言い分は分かった。
しかし、その任務に橘京子が絡まなければならない理由が分からない。
君達未来人だけで楽しくやっていれば良かったのでないのかい?

「世界が改変されてしまう事は橘京子の所属する『組織』にとっても
望ましい事ではなかった。
あいつらが信奉している『神の力』が消えてしまう可能性もある。
最悪の可能性として世界が消去してしまう事も避けたい。
そこで手を結んだ。目的は一緒だからな」

宇宙人はどうなんだい?

「宇宙人の目的は『観察』だ。観察対象に危害が及ばない限り、動く事は無い」

ふむ・・・話を続けてくれたまえ。 

「橘京子は誘拐には反対だったが、断る訳にもいかなかった。
この誘拐は橘京子の所属する『組織』にとっても最重要任務だったからな。
そんな事をすれば『組織』のエージェントとしての信頼を失う。
場合によっては橘京子という存在自体、この世から消されてしまうだろう」

存在を?消される?

「そして佐々木さん、あんたもな」

僕も?

「あんたは色々と知り過ぎてしまっている。
かくいう僕もこうして話をするのには若干の躊躇いと警戒がある。
だが、あんたは頭が良い、理知的に物事を判断、取捨選択出来ると
踏んでいるからこそ、信頼して話をしている」

それはどうもありがとう。

「橘京子の『組織』にとってあんたは確かに閉鎖空間を発生させたり、
『器』としての適正はあるが『神の力』を持っている訳ではない。
『組織』としての『神』はあんたでなく、涼宮ハルヒでも構わないんだ。
涼宮ハルヒに取り込んで、全てを奪い取ってしまえば良い。
まぁ、敵対関係もあるからそう簡単にはいかんだろうがな。
そんな事をやり始めれば全面戦争になるから、万に一の可能性だ。
あんたと『組織』はお互いに切り札のカードを握り合っているから
手を出してこないだけ。集団には必ず独特の価値観が生まれる。
『組織』としては涼宮ハルヒよりあんたの方が性に合っているだろう。
涼宮ハルヒにはもう『機関』とやらが張り付いているしな」

つまり、今の僕は『神』の暫定候補という訳だね。
大袈裟なもんだ、そんな荒唐無稽なお飾りになるつもりはない。

「だが、『組織』が方針を大きく変更して涼宮ハルヒを取り込むとなったら?
その場合、佐々木さん、あんたの存在が非常に邪魔になる。
利用価値がなくなり、しかも知り過ぎている、頭も切れる、行動力もある、
そんな存在は『組織』にとっての危険因子にしかならない。
だから、橘京子は『組織』に恭順しつつ、『組織』内部からあんたを守っている。
そしてもし、『組織』が橘京子をこの世から抹消する事が決定されたならば
橘京子をよく知るあんたも一緒にこの世から存在を抹消されるだろう」

―――背筋に寒気が走り、身震いがした。抹消?殺されてしまうと言う事?
自分の日常がそんなギリギリの綱渡りだった事に吐き気がする。
橘さんはあんなにニコニコしながらそんな危ない橋を渡っていたの?

「橘京子はあんたを守る為に『組織』の命令に従って
任務としてやりたくもない朝比奈みくる誘拐を実行した。
あんたに危険が迫らないよう、排除出来るよう、常にあんたの隣に張り付いていた。
あんたの『組織』内部での存在価値を高める為に
是が非にでも『神の力』を手に入れようとしていた」

『神の力』――― 

「恐らく、今回の件で橘京子はあんたの『お友達』から外され、
裏方、バックアップに回されるのかもしれん。
その後、『組織』は別組織の人間と偽装してあんたの所に
代わりの人間を派遣すれば済む話だから。
『組織』としては『鍵』となるキョンとか言うあの男と『器』であるあんたを
くっつける事が最優先で、その後、あんたを取り込む方法はいくらでもある。
例えば、橘京子を人質に使う、とかな」

しかし、人質になってもこんな関係になってしまっては人質にもならない・・・。

「だから橘京子は自らあんな態度を取って悪役を買って出た。
あんたが『神の力』とやらを持っていれば『組織』は絶対に手を出さないが、
持っていなくても橘京子とあんたとの関係が切れれば
あんたが知り過ぎている人間だとしても危険性は少ないと判断されるだろう。
存在しているだけで行動しない人間には利用価値も危険性も無いからな」

存在しているだけで行動しない人間には利用価値も危険性も無い―――

「橘京子はあんたを監視し、助け続ける為に自分が人質として取られないよう、
自ら人質としての価値をなくした。
わざと悪役を演じてあんたとの関係を断ち切ってな。
そうすれば『組織』があんたに手を出す理由がなくなり、危険は回避出来る。
橘京子もあんたを見守り続ける事が出来る」

悪役―――

「橘京子はもし、『組織』が方針転換して涼宮ハルヒを取り込もうとして、
あんたに何か危険が迫ったとしても自分があんたに嫌われていれば
躊躇無く、自分を切り捨ててキョンって奴の所に助けを求めに行けると判断したから
自らあんな態度を取って悪役を演じた。なかなかの捻くれた性悪だ、あの女は。
そうなれば『組織』と敵対している『機関』が保護するはずだ。
なんせ『神』となり得る存在を二人も確保出来るんだからな。
そうすれば『組織』の超能力者も『機関』に取り込まれ、
まず佐々木さん、あんたの無事は確保される。
『組織』は存在意義そのものを失う事になる」

何なのよ、あの子!!!
嘘も隠し事もしないなんて指切りまでしたあの約束―――
全部、嘘じゃない!?隠し事ばっかりじゃない!?
なんでそんな事、私にずっと黙ってたのよ!?

「要は橘京子はいつも『佐々木さん本位』ってやつだな。
分かるか?佐々木さん、あんたを守りたい一心でだ。
ったく・・・馬鹿なんだよ、あいつは」 

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今日も閉鎖空間はとても穏やかで静かなのです。
でも、乳白色の空は少し混乱しているような歪みとヒビ割れが入り、
耳を澄ませると呟くような、囁くような、切ない歌声が聞こえてきます―――

今日、佐々木さんにぶたれてしまいました。
酷い事もいっぱい言ってしまいました。
いっぱい嘘を付いて、いっぱい隠し事をして、いっぱい傷つけて。
指切りまでした約束を破ってまで―――
本当に苦しくて、本当に痛かった。
罰として針、百万本飲まなければいけませんね。

あたしがあんな笑顔を誰かに向けるのはもう二度とご免なのです。
佐々木さんのあんな哀しそうな切なそうな顔を見るのはもう二度とご免なのです。

ごめんなさい、佐々木さん。
今のあたしにはあなたを守る方法はこんな手段しか思い付かなかった。
本当にごめんなさい。

もう二度と会えないかもしれません。
もう二度とお喋りも出来ないかもしれません。
もう二度と一緒にお買い物にも行けません。
もう二度と笑い合う事もありません。

さようなら、佐々木さん。

もう二度と、もう二度と――― 

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私は橘京子の事を何も分かっていなかった。
私は全てを見抜いているような訳知り顔をしているだけで
本当に何も分かっていなかった。
知ろうともしなかった。
何故、一言、彼女に声を掛けてあげられなかったのか?
いつも根掘り葉掘り、真実を知りたがろうとするくせに
肝心な所で躊躇してしまう。
本当に私は臆病者だ。
最低の臆病者だ。

彼女はずっと私の事を考えてくれている。
これまでも、これからも―――

何も知らずに一人で騒いで、わめき散らして
彼女の頬を叩いた時の感触が蘇る。
本当に苦しくて、本当に痛かった。
手でもない、頬でもない、心が―――
それはきっと橘さんの方が痛いはず。
ごめんなさい、橘さん。
本当にごめんなさい。

未来人は言った。
『存在しているだけで行動しない人間には利用価値も危険性も無い』と。
頭の中でその言葉が響く。

私は行動しているようで結局、何かから逃げ回っていただけなのかもしれない。
やっぱり、私は闘う事を知らない臆病者だ、逃亡者だ。

闘う?私に何が出来る?
答えなんて出る訳がない。
そんなものは誰にも分からない、例え、未来人にだって。

動いてみよう、行動してみよう。
私に・・・いや、違う。
私達に出来る事がきっと何かあるはず――― 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「橘京子さんの顔が見えませんね。お出掛け中かな?」
虎穴に入らずんば、虎児を得ず。
直接、『組織』本部に飛び込むのも大胆ながらも悪い手ではない。
しかし、ここの人達は驚きというものに慣れる事はないのかな?
「詳しい事は彼女から報告が言ってますよね?」

「さ、佐々木さん!!!」
その時、背中で響いた声の主はやはり橘さんであった。
「やぁ、橘さん」
微笑みを投げ掛けた途端、橘さんは顔を締めて『組織』幹部・橘京子の顔になる。
くっくっくっ・・・緊張しているね。

「な、何の御用事でしょうか?」
「うん?そんなの分かりきっているじゃない?」
「あ、あたしは別に何の用もありません。早く帰って」
なるほど、素の橘さんと『組織』幹部・橘京子の時との違いを6つ見つけたよ。
冷静になって見てみれば実に分かり易い。

「そっか、それは残念だな。せっかくバレンタインのチョコレート持って来たのに」
チョコレートを紙袋ごとゴソッと床に落とした。
「皆さんもどうぞ♪あ!勿論、義理ですけど。
ところで橘さん、少し話があるんだけど時間、大丈夫?」

「ちょっと待て!」
一人の男性が私と橘さんの間に飛び込んできた。煙草の匂いがきつい。
初めてここ『組織』のビルに来た時に見た男だ。
こんな私みたいな素人にまで見抜かれているアジトを未だに使い続けているなんて
迂闊だね、不注意にも程があるよ。詰めが甘過ぎる。

「あらぁ~♪駄目ですよ、無粋な事をしてはね!
『組織』の人達ってすぐに力ずくで割り込んでこようとするんですね。
これから私、橘さんに本命チョコを渡す告白タイムなんですから」
「こ、告白タイム?」
「もし、誰かが私と橘さんの邪魔をしてどちらかにでも手を出したら
私、『機関』って所に助けを求めに行っちゃいますよ♪
昨日、会った森園生って女性の方が物腰も柔らかくて
同じ女として色々と学びたい所もありましたし。
そうなったら愛の争奪戦ですね♪
他の人達も飛んで来ちゃうかも!宇宙とか未来とかから」

全員の動きと呼吸が止まったのが分かった。
うん、予測通り。

「でも、これではアンフェアですね。
あなた方も取り残されては寂しいでしょうから一つだけお願いを聞いてあげます。
キョンに会います。
あ!でも、勘違いしないで下さいね。
彼とは『親友』ですからチョコを渡すとしても義理ですよ♪」

う~ん、また橘さんが私の事をキラキラした瞳で見つめているよ。
借りは作りたくないから、さっさと返しただけに過ぎないよ。
変な期待はしないでくれたまえ。

「さぁ!行こうか、橘さん」 

「佐々木さん!なんで!?どうして!?」
私は橘さんの腕を引っ張りながらビルを出た。
橘さん、ちょっと太った?
ストレス溜まるのかもしれないけど、お菓子の食い過ぎは厳禁だよ。

「なんでって当たり前。だって私と橘さんは『お友達』でしょう?」

橘さんは急に私の手を両手で強く握り締めてきた。
いや、気持ちが悪いって・・・。
「ありがとうございます!やっと『神の力』を持つ決心をしてくれたのですね!」
「ううん」
「えっ!?」
橘さんは何が何だか理解しきれていないようだ。

「何遍も言ってるでしょう?私はそんな大それたものを持つつもりもないし、
必要がない。要らないよ、『神の力』だなんて」
「でも、それじゃあキョンさんに会うのは・・・」
「会うだけだよ」
「そ、そんなぁ~・・・」
「あと、自分のこの目で確かめてみたいんだよね。
『SOS団』って人達の事をさ。信頼出来る人達なのか?
どれくらい面白い人達なのか?少なからず興味があるのでね」
「それだけ!?」
「キョンがまた何かに巻き込まれてしまった時に助けてあげられるものなら
助けてあげたいしね。彼をこれ以上、厄介事に悩ませるのは忍びない」

橘さんは自分も一緒に行くと言い出したが私はそれを断った。
「まずは二人で話をしたいんだ、キョンとはね。
それに私にも準備をしたい時間も欲しいし、覚悟も必要だ。
これからは触れなくても良かったものに触れていかないと
いけなくなるかもしれないからね。
それに橘さんの『組織』の人達の動きもしばらく様子見したい」

「ふん、話は終わったのか?」
未来人は電柱にもたれかかって眠そうにしている。
「全く、こんなんで大丈夫なのかね?僕は何が起こっても知らんぞ」
「――大――丈夫――」
おや?周防さんが自らコミュニケーションを取ってきたの初めてではないかい?
「――誰も――悪く――ない――」

くっくっ、誰も悪くない、か・・・。

「では、手芸屋さんに行こう!」
全員が呆気に取られて固まる。
「なんで?」
「くっくっ、人間が針を百万本飲めるかどうかこれから実験してみるのさ。
ね?大嘘つきの橘京子さん?」
私の持つ最大級の笑顔を出してみた。
あぁ、堪らないね。楽しみでしょうがないよ。
「嫌なのです!無理なのです!針百万本も飲めません!」
「だって指切りまでして約束したからね」
暴れながら泣き叫ぶ橘さんの声が街中に響き渡っていた。 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

―――春休みも終わる。
桜がこれでもかと言わんばかりに咲き誇っている。
風はまだ少し肌寒いけれど、ここかしこに春の息吹を感じる。
緑の割合も増えてきたようだ。
太陽が柔らかい。

今日は近くでフリーマーケットが開催されるらしい。
ちなみにフリーマーケットのフリーとは『Flea=蚤』の事で
『Free』ではないから気をつけてくれたまえ。
まぁ、ちょっとした引っ掛け問題にでも出そうな豆知識さ。
暖かくなってきたからね、人間も外に出てみたくなる季節だ。

彼の家の近くまで来て久し振りに彼と何を話そうかを考えていた。
一ヶ月以上、考えていたけれども結局は何一つ纏まらなかった。
彼はどんな風に私の言葉や発想を引き出してくれるか全く想像が付かない。

彼の姿は去年の11月に一度見たきり。
橘さん曰く、
「まだですよ!まだキョンさんはどフリーですから佐々木さん、頑張って下さい!」
頑張れって言われてもね。
そんな度胸があればとっくに違う関係になっているさ。
それに恋愛に振り回されて自分のやるべき事や時間を削られるのは
人生の大いなる浪費だよ。
彼はあくまで『親友』

彼の家の前まで来ると彼の妹の姿がチラリと見えた。
あの妹さんは全然、成長しないね。
そして、気怠そうな足音と眠そうな物腰で彼が玄関から出てきた。
春なんて関係ないね。
彼は春夏秋冬、一年中、代わり映えしない。
歩き出す彼の背中は、肩はまたちょっと広くなった気がする。

なるべく自然に、偶然を装って、橘さんの作った
『奇跡!偶然の出会い♪演出プラン』に沿って。
私は大きく息を吸って心臓の鼓動を抑えるように声を絞り出した。

「やぁ、キョン」

そして、その時、『卵の殻』は二つに割れた―――

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最終更新:2013年03月03日 01:40
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