44-120「―佐々木さんの消滅―ep.02 訣別」

ep.02 訣別

(side kyon)

その晩は眠れなかった。体は寝返りを打つたびに悲鳴を上げるほどに疲れているのに、精神は一向に静まる
気配をみせず、俺はとりとめもなく佐々木のことばかり思い出していた。塾で初めて言葉を交わした日から、
昨日までの出来事を何回脳内で再生したか分からない。最後に腕の中にあった佐々木の感触が消えると、
思いはまた最初の日に戻る。
去年の終わらない夏休みを外から見ていたらこんな感じになるのだろうか。永久に終わらないループで
あっても構わない。佐々木と一緒にいられるなら、もう永久に脱出できなくてもいい。
だが、そのループからはじき出されてしまっているのを認識するのは難しいことではなかった。
気がつくと窓のカーテンの隙間から日が差し込んでいて、朝になっていることが分かったからだ。
学校に行く気は全然なかったが、妹や親をこれ以上心配させるわけにもいかない。
涼宮と顔を合わせるのは気が重かったが、とりあえず砂のような味の朝食を口に押し込み、家を出た。

二日続けて校門で古泉の営業スマイルで迎えられるとは縁起が悪い。
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」
「朝から気分が悪いな。お前の面を見たせいで」
「それは申しわけありません」
古泉がこの程度では慇懃な態度を崩さないのはいつものことだ。
「おかげさまで閉鎖空間は消滅しました。ありがとうございます」
「俺は何もしてないぞ」
「おや、そうですか。昨日涼宮さんがあなたのお宅を訪ねた直後に閉鎖空間が消滅したのですが」
俺は肩を竦めただけで返事をしなかった。涼宮とのやり取りを思い出すだけで頭にくるからな。
「それにしても、昨日からあなたのおっしゃることはおかしなことばかりです。長門さんや朝比奈さんとも
 相談したのですが、原因が良く分かりません。
 よろしければ今日のお昼休みに部室でお話させていただけませんか」
俺は頷いてから溜息をつき、その場を後にした。

教室に着くと、俺の後ろの席の主――もう名前を言うのも嫌だ――は机に突っ伏したまま、俺が席についても
何の反応も示さなかった。
「おはよう、キョン」
朝からにこやかな奴がここにもいた。国木田は俺と後ろの奴を交互に見る。
「どうしたのさ。喧嘩でもしたの?」
「別に。何でもねえよ。そもそも関係ねえしな」
後ろの奴が何故かぴくんとしたような気がするが、気のせいだろう。
穏やかな晩春の陽射しを受けて俺の席はいい塩梅に温まっている。一人だと眠れないが、周りに人がいると
眠れるというのも不思議なものだが、俺は昨夜の睡眠不足を取り戻すべく居眠りの体制をとった。
幸い後ろの奴に何かされるでもなく、俺は十分に睡眠をとることができた。授業? 知るかそんなもん。

「……ン君……キョン君……」
誰かが俺の名前を呼び、背中を揺すっている。顔を上げると、朝比奈さんそっくりの天使の愛らしい笑顔が
目に入った。ああ、もうここは天国なのか。佐々木は当然天国に来ているんだろうから、逢えるかもしれんな……
「もう、キョン君たら。しっかりしてください!」
朝比奈さんに似た天使がぷくっと可愛らしいふくれ面になる。あれ、最近の天使はセーラー服を着ているのか?
そこでやっと俺は目が覚めた。
「キョン君、みんな待ってますから行きましょう。私も恥ずかしいし」
ああ思い出した。古泉に昼休みに部室へ来いと言われていたんだっけ。後ろの奴はどこへ行ったのか姿はない。
俺は天使に先導されて天国へ向かう死者のような足取りで、朝比奈さんに手を引かれて教室を出た。背後から谷口を
はじめとする羨望の眼差しがあったようだが、それもこれもどうでもいい。

「もう、二年の教室に一人で入るなんて恥ずかしかったんですからね」
仏頂面になっているに違いない俺に、朝比奈さんが一生懸命に話しかけてくれている。すみません。
「私以外が連れに行っても来てくれないだろうって古泉君に言われたんです。
 でも、それだけじゃなくて、私も本当にキョン君のことが心配なんですからね」
「すみません。でも、もう俺のことは構わないで下さい」
「そんなわけにはいきません。個人的にもです。キョン君、本当に変ですよ」
朝比奈さんは握った手に力を込めた。柔らかく小さな手の感触が心地良い。
一昨日、こうして俺と手を繋いでいた奴は、もうこの世界にはいないんだな。
そう思うと、体内の元素が全て劣化ウランにでも変換されたかのようにずっしりと重く感じた。

部室には長門と古泉、それに半ば予想通りに喜緑さんがいた。
「……涼宮ハルヒは屋上。部室に来る可能性は極めて低い」
長門は俺を安心させたいらしいが、正直どうでもいい。あいつがここに来て全部聞いてくれても構わん。
全部聞いて認識して罪の意識でも持ってくれればそれでも構わないからな。
それぞれ指定席に、そして喜緑さんが長門の隣に座ると、古泉が口を開いた。
「皆さんに集まっていただいたのは、あなたが再三口にされている佐々木さんという名前の女性に関して
 話し合うためです。可能な範囲で情報交換をしたいと思います。よろしいですか?」
朝比奈さんが大きく頷き、対照的に長門は0.5ミリ程だったが、代わりに喜緑さんが微笑を浮かべたまま頷いた。
「では、最初に僕から申し上げます。『機関』で調査した限り、あなたと面識のある佐々木さんという名前の女性で、
 我々が注目すべき属性の人間は存在しません。少なくとも過去十年以上の記録を調査し、小中高の在籍児童生徒
 および家族、近隣の住人、その他関わりがあると推測される人間を全て洗った結果です。『機関』としてはあなたが
 何らかの妄想に囚われている、例えば書籍や各種メディアの中に存在した人間を実在していると思い込んでいる
 可能性が一番高いという結論に達しました。
 もう一つ、あなたが異世界の住人と関わりがあったという可能性も極めて小さいですが、あり得ます」
両腕を雄弁に使って得意気に語る古泉を俺は冷ややかな目で見ていた。
「笑止千万とはこのことだな、古泉。俺は二次元と三次元の区別もつかない引きこもりのオタクだとでも言うつもりかよ」
「いえ、個人的には僕もふざけた結論だと思います」
次は朝比奈さんだ。朝比奈さん(大)から話は聞いているはずだ。
「ええと、次は私ですね。上司からもらった情報ですけど、一昨日の夜に大きな時空震が記録されたんです。
 ところが、不思議なことに私は全然観測できなかったんです。観測結果によると時空の歪みが一つ消滅したとの
 ことですが、そもそもその歪みはこれまでこの時空に存在していなかったそうなんです。理解できない現象のため
 私達は調査員を派遣しましたが原因は不明のままです。
 ただ、注目すべきことがあります。キョン君はその歪みの傍にいたんですよね?」
「はい」
「その時空の歪みが、キョン君の言う佐々木さんなんですか?」
「俺としてはそういう認識です」
朝比奈さんは俺を同情するような目で見る。
「忽然とこの時空に現れ、忽然と消えたように見えたこと。そして私が観測できなかったこと、この二つに心当たりは
 ありませんか?」
「あいつが……俺の後ろに座っている奴が何かやったというのが妥当な仮説だと思いますがね」
「うーん……」
朝比奈さんは考え込んでしまう。それを見た喜緑さんが話し始めた。
「長門さん、あなたからお話しますか?」
「……いい。喜緑江美里、話して」
「はい、では……ええとどこからお話しましょうか……そうですね、まずは該当の時間帯に私達が観測した事実から
 申し上げます。朝比奈さんがおっしゃる時空震が発生した時間帯に、大量の情報がこの世界から消滅していました。
 見かけの量は涼宮さんから発生する情報フレアと同等、潜在的には数倍に達する可能性があります。
 私達は当然ながら世界改変を疑いました。確かにその痕跡はありましたが、それも何らかの形で上書きされている
 うえに、情報統合思念体が持っていた未来との同期機能が完全に使えなくなっていて、元の状態を復元することは
 困難だったんです。
 この大量の情報が欠落した状態をそのままにしておくことは、この世界の存在を不安定にする可能性が高かったため、
 情報統合思念体は情報の欠落による不整合を修正することにしました。
 幸い整合性に問題ないレベルまで修正ができたのが現在の世界です。ただ、その課程でノイズと思われる情報も
 かなり捨てざるを得ませんでした。もっとも大きなノイズはキョン君の中にある不整合な情報なのですが、
 非常に強力なプロテクトがかかっていて、私達にも手出しができません。
 その不整合な情報が、キョン君の言う佐々木さんという存在に関するものと推測されます」

喜緑さんがすらすらと喋る内容を完全に理解するのは、俺のボヤけた頭では時間がかかった。
ノイズ? 不整合? 捨てた? 
待て待て待て、それってノイズでも不整合でも捨てるべき情報でもないんじゃないのか?
俺が話をまとめようと四苦八苦していると、長門がボソっと言った。
「……喜緑江美里、結果的にあなたが彼にとって重要な情報をことごとく消してしまった」
「え? な、長門さん? ええっ?」
「……涼宮ハルヒの世界改変は彼女の性格を反映して理不尽であるが、大雑把で矛盾が多い。よって比較的容易に
 改変内容を解析することが可能。しかし、今回は喜緑江美里が不整合な情報を残さずに削除してしまったため、
 再改変が不可能になった。
 つまりは彼のいう佐々木なる人物の情報を解析することは現時点ではほとんど不可能ということ」
長門は液体ヘリウムのような瞳を喜緑さんに向けた。
「……今回の事態を招いた第一の責任者は涼宮ハルヒ。それは間違いない。しかし、その仕上げをしてしまい、
 結果的に止めを刺してしまったのは喜緑江美里。情報統合思念体を代表してお詫びする」
開いた口が塞がらないというのはどういうことなのかを俺は余すことなく体験させてもらった。あいつだけを憎むのは
筋違いってことなのか。どんなに憎んだところで俺の最愛の人は、もう戻ってこないということなのか。
「……情報連結解除、情報そのものの消去を含むいかなる処分もあなたの希望通りにさせてもらう」
「それはそっちで勝手に処分してくれ。俺の知ったことじゃない」
なるほど、みんなの言いたいことは良く分かった。ならば、俺も言いたいことを言わせてもらうとしようか。
「なあ、みんなそろそろ茶番は終わりにしないか?」

部室は沈黙に包まれた。四人ともその場で固まっている。
俺は全員を見回した。古泉も、朝比奈さんも、喜緑さんも目を逸らす。長門は最初から下を向いていた。
「みんなが教室で俺の後ろに座っている奴のことを大事なのは良く分かった。そいつに責任を負わせずに俺と
 和解させたいのもな。茶番のシナリオを書いたのは昨日俺に会いに来た朝比奈さんの上司、世界が不安定に
 ならないよう喜緑さんが情報操作をしたのは事実だが、その時点で完全に消し去られていたため、最早復旧
 できる情報は存在していなかったんだろ?」
「……」
「どうなんだ? 俺の推理が間違っているなら反論してくれないか?」
「……」
「頼む、誰か答えてくれ」
「……」
「答えられないなら肯定とみなす」
「……」
「分かった。じゃあな」
俺はくるっと向きを変えてドアノブに手をかけた。
「キョン君!」
我慢できずに朝比奈さんが叫ぶ。予想通り、最初に反応したのは朝比奈さんだった。俺が問うたびに小動物のように
フルフルしていたからな。古泉は引きつった笑顔を崩さず、喜緑さんも貼り付いたような微笑を浮かべたままだった。
「何でしょう」
俺はドアノブに手をかけたまま、振り向かずに応じた。
「あ……あの……ごめんなさいっ!」
「いえ。もういいです。それじゃ」
「あ……あ……あの……」
朝比奈さんはまだ何か言いたげだったが、俺は振り向かなかった。

「待って下さい」
後を追ってきた古泉に廊下で肩を掴まれる。
「まだ何か用があるのか?」
俺は振り向かない。顔を見たら殴ってしまいそうだからな。朝比奈さんや古泉や喜緑さんや長門が悪いわけじゃない。
むしろ俺はみんなが好きだ。だから振り向かなかった。
「ええ、僕自身も記憶がありませんが、あなたに心からお詫びします。いえ、どんなにお詫びしてもすまされることでは
 ないのは分かっています。ですが、ここは何とかこらえていただけませんか。残念ながら我々ができるのは社会生活上の
 便宜、あるいは金銭的な支援だけですが、せめてそのくらいはさせていただけませんか。
 その代わり、涼宮さんを……」
「断る。便宜も支援も要らん。だが、俺の後ろに座ってる奴の面倒を見るのだけは死んでもお断りだぞ」
「残念です。お願いを聞いていただけないのでしたら……」
「無理矢理ってことか?」
「はい」
「やりたければ俺はかまわん。お前らの気の済むようにすればいいさ。俺の精神を改竄してロボットに仕立て上げても、
 俺を殺して替え玉を仕立ててくれても構わん。それでうまくいくのならな。何なら長門に何でも言うことをきく俺の
 コピーでも作ってもらえばいいんじゃねえか?」
「さすがにそれは……」
さしもの古泉の減らず口もここまでか。
「なあ、古泉、俺の後ろに座っている奴は、これまで誰かを故意に肉体的に傷付けたことは無かったよな?」
「はい」
「俺は最後の一線を決して越えないあいつの人間性を信じていた。あいつの優しさを信じていたんだ。
 だから、普通の人間ならとっくに席を蹴って出て行くであろう仕打ちにも喜んで耐えることができた。
 だがな、古泉、あいつは今回最後の一線を、人として決して越えてはいけない最後の一線を越えてしまったんだよ。
 あいつは人殺しだ。死体が残ってるならまだしも存在そのものを消したんだ。
 俺はそれが悲しい。もう二度とこれまでのようにあいつに接することはできねえよ」
「……」
「俺は降りる。すまんな、面倒ごとばかり押し付けてしまって。お前が一番体を張って苦労しているのにな」
背中で古泉が唇を噛み締めているのが何となく分かった。
「……分かりました。今は引き止めません。ですが、僕らはあなたのことをずっと待っています」
「すまんな」
古泉の手が肩から離れる。ここで振り向いたら俺は泣いてしまうような気がした。だから振り向けなかった。

とてもじゃないが、午後の授業を受ける気分ではなかった。教室に戻った俺は無言で帰り支度を始めた。
後ろの席の奴は大きな弁当の包みを抱えて待っていたようだが、俺は無視し続けた。
国木田や谷口や阪中が非難するような視線を向けていたかもしれないが、それも無視した。
帰り支度を終えた俺は、かばんを提げて席を立つ。
「おいおい、キョン、どこへ行くんだよ」
席を立った谷口が前に立ち塞がる。口調は咎めるようだが、顔は心配そうだった。
「ご覧のとおり、とても授業を受ける気にならんからな。帰るんだ」
「お前な、一体どういうつもりだ。昨日も今日も早退するし、涼宮を無視してるし、何か事情があるのか?」
「……」
「話せないなら無理にとは言わねえけどよ」
「すまん、谷口。何も聞かないでくれ」
「……分かった。でもなキョン、もし俺で良ければいつでも相談に乗るぜ。まあ、あんまり役に立たねえだろうけどな」
「いや、お前のその気持ちだけで十分だ。ありがとよ」
俺は谷口の肩を叩いて教室を出た。

靴を履き替え、昇降口を出ようとしていると背後から呼び止められる。
「あんた、どうして帰っちゃうのよっ。どうしてあたしを無視するのよっ。せっかくお弁当作ってきたのに……」
「昨日も言ったが、もうお前には関わらないことにしたんだよ。だから俺にはもうかまわないでくれ」
「どうしてっ? ねえ、何でよっ?」
「……」
「黙ってちゃ分からないわよっ」
「頼むからもう俺には話しかけないでくれ」
「ふざけるなバカキョン!」
後ろの席の奴は、俺の肩をガシっと掴む。馬鹿力のせいでズキンと痛みが走り思わず顔をしかめたが、
声を上げずに耐えて片方ずつその手を引き剥がした。後ろの席の奴は不思議なことにそれには抵抗しない。
「頼むから邪魔をしないでくれ。もう俺には近寄らないで欲しい」
俺は一度も振り返らずに校門を出た。だから後ろの席の奴がどんな顔をしていたかは知らない。
「あたしも帰るっ!」
とか何とか言ってたような気もするが。

地面とにらめっこしつつ駅前までの坂を下っていると、背後から誰かが駆け足で迫ってきて
俺を抜き去り通せんぼする。
こんな子供じみた行動をするのは一人しかいない。それなりに長いつき合いだから分かる。
俺は顔を上げずに通り過ぎようとする。すると後ろの席の奴はまた先回りして通せんぼする。
何度か繰り返しているうちに意地の張り合いのようになり、気がつくともう駅前だった。
鬱陶しくまとわりついているこいつはともかくとして、どこへ行こうか。
何も考えずに学校を出てきたから別に行く当てがあるわけじゃない。
そうだな、もう一度あそこへ行ってみようか。何が期待できるわけでもないが、行くところなんぞそれくらいしかない。
SOS団抜きで一人で行く場所すらないのだということがよく分かる。
俺は自転車を駅前に置いたまま歩き出す。頼みもしないのに後ろの席の奴がついてきた。
後ろの席の奴は、何やら盛んに俺に話しかけていたが、俺が無視を決め込んでいると次第に口数が減り、
黙ってついて来るようになった。鬱陶しいのは変わらないが、話しかけられるよりはマシだ。

俺はまた佐々木の家があったはずの場所へ来ていた。昨日の今日でたたずまいが変わるわけでもない。
俺はまた敷地の前に座り込む。
今日もバカみたいに天気が良く、晩春の午後の陽射しが少し暑いくらいに照りつけていた。
何かが起こると期待しているわけではないが、こうしていると不意に路地のどこかから佐々木がひょっこり顔を
出すような気がした。
そんなことはもうこの世界ではあり得ないと分かっていても。俺はもう一度佐々木に会いたかった。
会って、この腕で抱きしめたかった。佐々木のあの声が、あの口調が聞きたかった。
小難しい薀蓄を偉そうに語る得意げな顔を、思わぬ突っ込みにうろたえる顔を、怒ってリスのように頬を膨らませた顔を、
そして時折見せるとびきりの笑顔を俺は見たかった。
今は俺の心の中にしかいない、誰も覚えていない佐々木に俺は会いたかった。

後ろの席の奴は、俺が何で座っているのか理解できないという顔をして、しばらく黙って立ち尽くしていたが、
やがて退屈そうな口調で言った。
「ねえ、何なのよ、ここ。ただの空き地じゃない。あんた何でこんなところに座ってるのよ」
「知りたいのか?」
「べ、別に知りたくなんかないわよ、バカキョン」
「なら教えない。退屈なら帰ればいい」
「……」
俺はそれだけ言って黙り込む。もう一度だけ周囲に視線を走らせ、無駄だと知りつつも佐々木を探した。
「……ここには家があったんだ」
「……」
「その家には一組の夫婦と、両親の愛情をたっぷりと注がれて育った可愛らしい一人の女の子が住んでたんだ。
 性格はちょっと変わっていて、自分の気持ちを素直に相手に伝えるのがとても下手で、男子に対してだけ
 男言葉で話す女の子だった」
「何それ、見てきたような話ね」
俺は後ろの席の奴の突っ込みを無視して続けた。
「その女の子は中三の春にとある女心に鈍感な奴と出会った。二人は一年間仲良く過ごし、別々の高校に
 進学して離れ離れになった。一年後の春休みに二人は再会した。それからいろんなことがあって二人は
 お互いの気持ちに気付き、女の子は勇気を振り絞って鈍感野郎に告白し、二人は恋人同士になったそうだ」
「……」
「二人の幸せな時間はとても短かった。告白してから足かけ四日、デートしたのは一回だけ。四日目の夜に、
 女の子は鈍感野郎に恋していたらしい別の女に消された。刺されたとか殴られたとか銃で撃たれたとかじゃない。
 文字通り消滅させられたんだ。この世界に何の痕跡も残さず女の子は消えた。鈍感野郎の僅かな記憶を残して
 その子はいなくなったそうだ」
「……」
「それが一昨日のことだ」
「何それ、わけ分かんない。だって、この空き地はもう何年も家なんか無かったようにしか見えないじゃない」
後ろの席の奴はアヒル口をして俺と空き地を交互に睨みつける。
「確かにここには一昨日まで家があった。世の中には不思議なこともあるもんだな」
「いくら何でもそんなバカな話があるわけないじゃない」
「夢のような話かもしれないが、これは実話だ」
「……ねえ、その鈍感野郎って、もしかしてあんたのことじゃないでしょうね?」
「さあ、どうだろうな」
俺は気の無い返事をして顔を伏せた。もう会話するのも苦痛だ。後ろの席の奴の声が頭上から降ってくる。
「あんたじゃないわよね。あんたみたいなマヌケ面の甲斐性無しにそんなハイスペックの彼女ができるわけないわ。
 実際そんな彼女はあんたのこれまでの人生で一人もいなかったことを保証するわよ」

自覚の無い人間に理解を強要するのは俺の主義には合わない。それにこいつが神様であれ、それ以外の何かであれ、
俺一人の感情の赴くままに世界を崩壊させるわけにもいかないと理性では理解できる。だが、理不尽な物事に対しては
受忍できる限度というものがある。有体に言うと、そいつのその一言で俺の中で何かが切れた。

「なあ……自分の最愛の人を殺した相手を愛せると思うか?」
「は? 何それ。そんなことできるわけないじゃない。何バカなこと言ってるのよ」
「その人殺しは自分が殺したことを覚えていないとしたら?」
「論外よ。本人が知っていようがいまいが関係ないわ。あたしならそいつをぶっ殺しても足りないと思うわね」
後ろの席の奴はまたアヒル口をつくった。俺は小さく溜息をついて話を続ける。
「その鈍感野郎も同じことを思ったそうだ。その女を殺してやろうと。だが、鈍感野郎は少し冷静になった。
 その女を殺したところで最愛の彼女は戻って来ない。殺す価値も無いってな。そして、その女のことを哀れな
 奴だと思ったんだそうだ。最愛の彼女を殺された奴が、殺した相手を愛することは絶対にない。そんな当たり前の
 ことも分からないほど、その女は嫉妬に狂っていたんだろう。鈍感野郎が振り向いてくれるかもしれない可能性を
 自ら完膚なきまでに打ち砕いちまったわけだからな」
「……」
「鈍感野郎はその女と距離を置くことにした。相手を殺せない以上、自分が退くしかないと思ったからだ。
 二度とその女にはかかわらないと鈍感野郎は誓った」
「……」
俺は立ち上がった。
「俺の話はこれで終わりだ。じゃあな」
歩き出そうとすると、後ろの席の奴がかばんのストラップを思い切り掴んだので危うくコケそうになる。
「待って……」
消え入りそうな声で後ろの席の奴が言う。そいつに触れられただけで何かが汚されたような気がした。俺は掴んでいる手を
一瞥してから前を向いたまま答えた。
「手を離してくれ。もうお前には関わらないことにしたって言ったはずだ」
「あ……あたし、あんたのこと好きよ。あの……それで……あんたはあたしのことをどう思ってるのよ」
俺は後ろの席の奴を一瞥した。以前の俺なら俯いて頬を赤らめたそいつの唐突な告白に少なからず心を動かされた
かもしれない。だが、今の俺にはそれは何の感情ももたらさなかった。俺の回答も決まっていた。
「いつか許せる日が来るかもしれないが、俺がお前に恋愛感情を抱くことはもう無い」
「……」
後ろの席の奴の手が力なく離れる。
「ねえ……その女ってやっぱりあたしなの? 鈍感野郎はあんたなの?」
「さあな」
俺は後ろの席の奴の気が変わらないうちにと歩き出す。
「あ……待ちなさいよっ」
「この道を真っ直ぐ行くと県道に出るから左に曲がって少し歩くとバス停がある。ちゃんと暗くなる前に帰れよ。
 親御さんに心配をかけるんじゃねえぞ」
後ろの席の奴はまだ何か言っていたようだが、俺との距離はどんどん開き、最後の方は聞こえなかった。

今回は古泉が家の近所で待ち構えていた。
「全部お話されたようですが、その様子だと反応は芳しくなかったようですね」
「まあな。しかし、俺はこれでも良かったと思ってる」
「何故です」
「あいつがリセットをかけても佐々木は戻って来ない可能性が高い」
古泉が訝しげに顎に手を当てた。
「諦めた……ということですか?」
「選択肢の一つはそうだ。世界的にはリスクは少ないが俺にとっては死刑宣告も同然だ。もうこの世に未練はないが、
 俺はヘタレだから死ぬこともできず惨めに生きていくことになる」
「……良く分かりませんが、心中お察しします」
「ありがとよ。で、もう一つの選択肢を聞きたいか?」
「いえ、その必要は無いでしょう。全員にリスクが、それも高いリスクがあります。それにもしあなたがそちらを
 選択されるのであれば、僕は全力で阻止しなければなりません」
俺は頷いた。古泉も分かっているようで、それ以上追及はしてこなかった。

事態は俺の期待通りにはならなかった。
俺が期待したのは俺との仲を元に戻そうとして後ろの席の奴が閉鎖空間を発生させ、結果的に世界のリセットが
行われることだった。あの日、あるいはその前まで戻れば佐々木に再会できる可能性があると思っていた。
だが、俺の唯一の希望は叶えられそうにない。過去に遡って情報が消されている佐々木は単にリセットしただけでは
復活しないだろうからな。

俺は少し頭が冷えてから古泉と長門と朝比奈さんを呼び出して詫びを入れた。
彼らには直接の責任は無いし絶交する理由はないからだ。
ただ、彼らとの交流は続けるものの俺自身はSOS団の活動を離れることにした。

俺が振ったせいかどうかは知らないが、後ろの席の奴が閉鎖空間を発生させることがなくなった。
その代わり、あの傍迷惑なまでのテンションの高さも影を潜めるようになった。要するにあいつが落ち込んでいるため
閉鎖空間が発生しないわけだ。
閉鎖空間が発生しなくなったとはいえ、俺が鍵であることに変わりは無いらしい。
もし世界の崩壊を防ぐための最後の砦になれるのであれば、どうせ捨てた命だ、喜んで犠牲になってやるさ。
後ろの席の奴のためじゃなく、世界のためにだがな。

いざSOS団を離れてみるとと他にやることもなかったので、殊勝にも佐々木の分まで頑張ろうと一念発起し
俺は予備校に通い始めた。幸い、中学の頃に佐々木が言っていたように俺は勉強をしないだけだったようだ。
最初こそ国木田や他の友人達に頼っていたが、次第に自力で授業についていけるようになり、その先へと
進むことは難しくなくなっていた。

後ろの席の奴が後ろの席にいなくなったのは二年の秋だ。その頃から俺はまた涼宮ハルヒという名前を嫌悪感を
持たずに考えられるようになった。許しはしなかったが、憎しみの対象でもなくなったということだ。
そして朝比奈さんは無事に卒業の日を迎えた。未来の消滅も無かったわけだ。朝比奈さん(大)の警告にもかかわらず、
時間軸は正しく流れ続けているらしい。

三年になって涼宮とは別のクラスになった。
あいつは理系で古泉や長門と同じクラスになり、俺は文系の特進クラスに編入された。
一年生の終わりに底辺に近いところにいた俺が学年十位以内の常連になったわけだから、我ながら大したものだ。
進路の選択肢は格段に増えたが、結局俺は東京の名門私立大学に進学することに決めた。
涼宮と古泉と長門は京大に進むと聞いたからだ。別に彼らから逃げ出すつもりは無かった。
特に古泉とはプライベートな友人関係を続けていたし、特殊な属性のある彼らと違い、就職のことを考えると東京に
出た方が良いだろうと思っただけだ。

幸いにも現役合格を果たした俺は東京の23区の外れにアパートを借り、学生生活をスタートさせた。
アルバイトをし、適当にサークルにも入り、飲み仲間の友人も何人かできた。勉強の方も特に問題は無い。
順調に見えたが、どこか日常性に埋没した生活でもあった。実際、俺は単調な生活に退屈していたのかもしれない。
あの日まではな。





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最終更新:2009年10月17日 17:27
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