44-134「―佐々木さんの消滅―ep.03 二年前の少女」

ep.03 二年前の少女

(side ???)

気がつくと、私はどこか見知らぬ公園のベンチに座っていた。
一体ここはどこだろう。今は何月何日の何時なんだろう。いや、それより大事なことを私は知らない。
自分の名前も、親や友人の名前も、住所も電話番号も何も思い出せない。
ただ、不思議なことに自分が高校二年生だという自覚だけはあった。

「私は誰なんだろう?」

声に出ていたようだ。変な人と思われたかも。実際、隣のベンチで赤ちゃんをあやしていた若い母親が、
驚いた様子でベビーカーに赤ちゃんを乗せ、そそくさと立ち去ったから。
その人の服装や周囲の様子から今は春、それも五月くらいのようだ。時刻は午後二時といったところか。
荷物は何も持っていない。女の子の嗜みとして持ち歩いているものは何も無いのだ。
万が一、生理が始まったりしても対応できないのは困る。
何か手がかりになるものはないかとポケットを探ったが、財布も携帯も持っていない。どうしよう。

こういう時に頼るのは警察だ。近くの駅にでも行けば交番くらいはありそうだ。喉の渇きを公園の水道で癒した私は、
最初に公園の案内板を探した。最寄り駅に行く道がわかるかもしれないからだ。
どうやらここは武蔵なんとか公園という公園らしい。武蔵といえば現在の東京都や埼玉県の旧国名だ。
してみると、ここは東京か埼玉のどこかだろう。
公園は二つの駅の中間にあるようで、公園の近くを見たことの無い私鉄の電車がかすめるように走っている。
結構な頻度で電車が来るので、東京都内ではないかと私は推測した。

公園の名前と同じ駅の方が近いだろうと思い、私は線路沿いの道を歩き出す。しばらく歩くと駅が見えた。
ただし、道は線路から外れ、ちょっと寂れた商店街に入って行く。
住居表示は東京都練馬区? 東京のどの辺りなのかは分かりかねる。
交番は商店街を出た駅前の広場の一角にあった。中を覗いたが警察官の姿はない。そう言えば、パトカーの
サイレンの音がいくつも聞こえたので、事件か何かで出払っているのかもしれない。
仕方がないので交番の近くで待つことにした。中には不在時に連絡するための電話機が設置されているが、
電話でまともに話せるか何となく不安で人を待つことにしたのだ。
近くにベンチは見当たらないので、仕方なく駅前に設置されている柵に寄りかかって待つことにした。
結構人が歩いているが、老人、主婦らしい中年女性、小さな子供を連れた若い女性が多いから多分平日なのだろう。
バスも駅前の停留所に数分毎に来ては出て行く。それなりの駅のようだ。

ぼーっとしていると、不意に誰かに声をかけられた。最初は自分に向かって言われているのだと分からずにいたが、
その声の主は反応の無い私の目の前に回り込んで来た。学生風の若い男性だ。少女マンガならこういう時に声を
かけてくるのは、とびきりのイケメンだったりするのだが、残念ながらそこそこのイケメンだった。
服装はあんまりセンスが良くないかも。
けれども、その顔とその声は、どこか懐かしいような気がした。

「おい、ササキだろ?」
その彼は、真剣なしかし驚愕の表情を浮かべつつ私に呼びかけている。
ササキ? それが私の名前だろうか。そんな名前だったかもしれない。
「どうしてお前がこんなところにいるんだ。いや、それより何よりお前は無事だったんだな?」
「あの……すみません、おっしゃる意味が分かりません。私はササキっていう名前なんですか?
 それに無事ってどういうことなんですか?」
目の前の彼が絶句する。しばし呆然としていたが、やがて静かな口調で私に言った。
「お前、記憶が無いのか?」
私が頷くと彼は頭痛をこらえるかのように額に手を当てた。
どうしてか分からないが、そのしかめ面が懐かしい気がする。
何故か、この人には何でも話していいように思えるのだ。
私の記憶とは呼べない脳内のどこかにこの人のイメージが残っているのかもしれない。

私は彼のアパートに行くことになった。警察よりも頼りになる知り合いがいると彼は言い、私は何故か
その言葉を信じた。若い女性が一人暮らしの男性の部屋へノコノコついて行くのは通常は危険を
顧みない行為だが、何故か安心してついて行って良いと思えたのだ。
彼は自分のことをキョンと呼べと言った。一応本名を教えてくれたのだが、誰もがキョンと呼ぶのだそうだ。
関西出身で大学入学と同時に東京に出てきたので今度こそ本名で呼んでもらえると思ったのだが、一緒に
入学した友人のおかげでこちらでもキョンで定着してしまったのだと苦笑する。
その渾名もどこか懐かしい気がするが、思い出せない。
彼は私が何も持っていないことを知ると、電車で三駅ほど先にある大きなスーパーとテナントが入ったビルに
連れて行ってくれた。そこで当座の着替えを調達し、何軒かテナントを回ってシンプルなバッグや小物類も
買ってくれる。学生の彼の財布には決して優しくないと思うのだが、気にするなと言われたので大人しく従っておく。
それから先ほどの駅に戻り、彼のアパートに行く。途中、ドラッグストアで気になっていた女性関係のものを仕入れた。
そうそう大事なことを聞き忘れていた。
「あの、私なんかが泊まっていいんですか? キョンさんは彼女とかいないんですか?」
「残念ながら今はいないな。高校二年のときに生き別れた彼女はいたが、それ以来女性関係は無いんだ。
 だからお前が泊まっても浮気だ何だと騒動になる心配はないさ」
『生き別れた』というのも妙な表現だが、何か心配する観点が違うように思う。彼女は余程のやきもち焼きで、
酷い目にでも遭ったのだろうか。それとも普通の顔をしているようで、実はとんでもない女たらしなのかもしれない。
安心できるように思えるのもそのせいだったりしたら私の貞操の危機だ。

彼のアパートはそんなに古くも新しくもなく、言わば何の変哲もないありふれた軽量鉄骨二階建てだった。
「ここが俺の部屋だが、ちょっと待ってくれ。さすがにお前がササキだという自己認識がないのに連れ込むのは
 抵抗があるからな。人を呼ぶ」
彼は携帯を取り出すと、いずこかへ電話をかけ始めた。
「……あ、俺だ。ちょいと相談事があるんだが、今いいか?……ああ、そうだ……んーちょっと複雑な事情が
 あってだな……ああ、できればすぐにウチへ来て欲しいんだが……」
その時、不意に目の前のドアが中から開かれた。
「もう来てるわよ?」
「うわっ」「きゃっ」
二人揃って間抜けな声を上げてしまった。
開いた携帯を手に彼の部屋から現れたのは若い女性だった。彼と同年代のようだが、見ようによっては私と
変わらないようにも見える。化粧らしい化粧もしていないのに、女の私ですら思わず見とれてしまうほどの美人だ。
少し青みがかった長い黒髪は、前をアップ気味に、後ろはロング・ポニーテールにしている。色白の顔で目立つのは、
きりっとはっきりした眉と大きな目。鼻筋も顎のラインも無駄なくすっきりしていて、薄い唇には悪戯っぽい笑みを
浮かべている。服装は体のラインにフィットした無地のTシャツにジーンズというシンプルというか地味なものだが、
それさえも彼女の魅力を引き出しているようにしか見えない。明らかにスタイルが良く、特に胸元の二つの膨らみは、
はっきりと自己主張している。思わず、自分のささやかな胸と見比べてしまったほどに。
「お前、また勝手に入ったな」
「うふふ、情報操作は得意だもん。掃除でもしてあげようかと思ったんだけど、あなたの部屋はいつ来てもきれいね」
彼女はにっこりと魅力的な笑顔を見せてから、私に目を向けた。
「相談事というのは、こちらの彼女のことかしら?」
「ああ」
彼はバツの悪そうな表情を浮かべた。何だ、女性関係はないとか言っておきながら、ちゃんと彼女がいるじゃないか。
それもこんなに美人で聡明そうな彼女が。やっぱりこの人は女たらしで私は騙されているのではという疑念が湧く。
「立ち話も何だから入ったら?」
「何でお前にそんなことを言われなきゃならんのだ。ここは俺の部屋だろうが」
彼が不満気にボヤくと、彼女はうふふと笑い、ますます面白がっているような表情を浮かべた。

彼女の言うとおり、彼の部屋はこの年代の男性の部屋とは思えないほど綺麗に整頓されていた。
この部屋のたたずまいには何故か既視感がある。昔、こんな感じの部屋に来たことがあるような気がする。
彼女は冷たい麦茶を出してくれた。焦がした麦の香ばしい匂いが漂い、水出しではなく煮出したものだと分かる。
部屋の真ん中に置かれている小さな丸テーブルを囲むように三人で座った。
「ごめんなさい。最初に誤解を解いておかないといけないわね」
彼女はそう言って自己紹介をした。朝倉涼子さんというのが彼女の名前だ。彼の大学の同級生で昔からの
知り合いだと言う。
「まあ、いろいろあってな。二回も殺されかけたんだが」
「もう、それは言わないでよ」
殺されかけた? やっぱり浮気とか二股とかやらかして刺されたりしたんだろうか。
「ほら、また彼女が誤解してるわよ」
私は怪しい人を見るような目付きで彼を見ていたらしい。事実、怪しい人ではあるだろう。
「違うんだ。朝倉は俺の彼女じゃない。言ってみれば護衛だな」
「あら、わたしは彼女として扱ってもらっても全然問題ないわよ?」
朝倉さんはにこにこし、彼はどぎまぎする。
朝倉さんの笑顔はどこか幼い感じにも見え、女性の私から見ても魅力的だ。
彼はそれを振り払うように話題を変えた。
「あーこれから話すことは以前のお前なら理解出来たろうが、今は難しいと思う。もしかすると妙な電波を
 受信しているように思えるかもしれないが、聞いてくれ。
 まず、この朝倉は人間じゃないんだ。この宇宙には情報統合思念体という情報生命体が存在していて、
 朝倉は連中が作った対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースなんだ」
おっしゃるとおり、妙な電波を受信しているとしか思えない内容だ。
「見た目は人間と全然変わらず、感情まで持っている極めて出来の良いアンドロイドみたいなものだ。
 簡単に言うと宇宙人という奴だな。昔はお前の周辺にも似たような存在がいた。今はどうしているか分からん」
「……」
どこから突っ込んでいいか分からない。もしそうだとしたら私も極めて強力な電波を発信していたに違いない。
「うふふ、証拠を見てもらえば信用してもらえるかしら?」
朝倉さんは面白そうな笑顔を浮かべたまま、小さく口を動かした。すると、彼女の手の中に光の粒のようなものが
集まり、何も無かったはずの手の中に禍々しい形の大きなアーミーナイフが現れた。
手品にしても悪趣味だと言えるだろう。
「うわ、それだけは止めろって」
彼がうろたえている。何かトラウマがあるのだろうか。次の瞬間、朝倉さんの腕がするすると伸びたかと思うと、
彼の頬をナイフがかすめた。頬に一筋の傷ができ、傷口から血液が流れ出る。朝倉さんがまた小さく口を動かすと、
そのナイフがまたきらきらした光の粒になって消滅した。
私が呆気にとられていると、朝倉さんはゴムのように伸びた腕の先で彼の頬をそっとなぞる。
さっきまで血を流していた傷が消え、朝倉さんの腕も合わせて何事もなかったかのように元に戻っていた。
「どう? これで信用してもらえた? 言っとくけど手品じゃないわよ?」
「え、ええ……どうやら本当のようですね」

佐々木沙貴――それが私の名前らしい。語呂が良いが駄洒落のようにも聞こえる。
そのせいかどうかは分からないが、彼は私のことを姓だけで呼んでいる。
彼は名前以上のことは教えてくれなかった。私がどんな人間だったのか、彼とはどういう関係だったのか。
「今のお前にはまだ刺激が強すぎるかもしれん。追々話していくから焦らなくていいぞ」
彼にそう言われると何となく納得してしまう自分が不思議だ。

「そろそろ夕方ね。今日はどうするの?」
朝倉さんが話題を変えると、彼は少し考え込んだ。
「良かったら彼女をウチに泊めるけど? 佐々木さん、ここでキョン君と二人っていうのも、まだ抵抗があるでしょ?」
私はどう反応していいか分からない。彼はちらっと私を見てから朝倉さんに言った。
「そうだな……朝倉はそれでいいのか?」
朝倉さんは頷く。
「いいわよ。キョン君のことが分からないなら知らない男性と二人きりってことでしょ。それよりもまずは女同士の方が
 安心できると思うわ」
私は内心驚いていた。宇宙人でもアンドロイドでもいいが、こんなに細やかに気が遣える彼女は人間とほとんど
変わらないと言ってもいいだろう。

朝倉さんの家は隣の駅の近くだが、彼のアパートからそう遠くないので、先ほどの公園を抜けて歩いて行けるそうだ。
先刻買い込んだ私の荷物は彼が持ってくれた。途中、少し遠回りしてスーパーで買い物をしていく。朝倉さんは
出来合いの惣菜などには目もくれず、野菜や肉や魚といった素材を買っていた。本格的に料理をするつもりなのだろう。
宇宙人も料理をするんだななどと私は的外れなことを考えていた。
朝倉さんの家は学生が一人暮らしするには贅沢すぎる賃貸マンションだった。先ほど披露してくれた情報操作と
いうものを使って住人になっているが、家賃はちゃんと払っているそうだ。お金の出所を訊こうとして、彼女の能力を
もってすれば余計なお世話だと気がついて止めた。

家庭的なメニューの夕飯をご馳走になった後、二人はさっきの話の続きを始めた。
昔の私、彼が言うところの何らかの理由でここへ飛ばされる前の私には、この世界の情報を一挙に書き換える
世界改変という能力があったのだそうだ。もう一人その能力を持った人、すなわち涼宮ハルヒさんという女性と彼を
巡って争いになり、結果として私はその時間から消滅したらしい。俄かには信じ難い話だが、本来の私は彼や
朝倉さんと同い年のはずなのだという。しかし、彼らは大学の一年生、私の自覚は高校二年生というずれがある。
その私がどうして今ここにいるのかは彼らにも分からなかった。
「最後の力を振り絞って佐々木さんは時間平面を越えて逃れたというのが合理的な説明だと思うわ」
「まあ、そんなところだろ。スズミヤが佐々木の情報を消去したため、その煽りを食って記憶は消えてしまったと
 いうわけか。しかし、それでも説明がつかないところがあるな。この世界では過去に遡って佐々木の情報は消えて
 いるんだ。実際、戸籍も住民票も家もご両親も消えているんだぜ。
 それと、今ここにいることとは矛盾があるように思うぞ」
「因果律からは説明がつかないってことよね」
朝倉さんと彼は真剣な顔で議論している。私の知らない過去の事件。そして私がここにいる理由。
先に議論を放棄したのは朝倉さんだった。
「ふう、これ以上はわたし達だけでは無理ね。ここはやっぱりナガトさんの出番ね」
「そのようだな」
彼も頷いて、おもむろに携帯を手にする。
「……あー俺だ。久しぶりだな」
またしても彼は自分の名前を名乗らない。
「みんな元気にしているか?……そうか。ああ、ちょっと相談したいことがあってな……うん、そうだ……
 明日は必修の講義があるから夕方からなら構わん。朝倉のマンションでいいか?……
 え? ああ、コイズミも来れるなら連れて来てくれるか。恐らくキカンの力も必要だからな。じゃあ、また明日な」
彼が電話を切ると、朝倉さんがにこりとして言った。
「明日の夕飯はカレーで決まり?」
彼は頷き、私に説明してくれた。
「今電話したのは朝倉の同僚、あーつまりは宇宙人だな。長門有希という奴だ。昔から世話になっていて、
 何度も命を助けられた恩人だ。古泉ってのは俺の親友で、涼宮のために存在しているある組織、通称『機関』の
 メンバーだ。お前が現れたことで連中も何らかの対応を迫られるだろうから、事前に相談しておこうというわけだな」

私は、朝倉さんと彼の議論が始まってから軽く目眩を覚えていた。そこへさらなる意味不明な人達の話題が加わり、
頭の中がぐるぐるしている。
「すまんな、まだ記憶が戻っていないのにあれこれ変な話ばかりで疲れたろう」
「はい、ちょっと……きゃっ」
彼の手がいきなり私の頭を撫でたので、驚いた私は思わず小さく悲鳴を上げてしまった。
彼はバツの悪そうな顔で手を引っ込める。
「すまんすまん、つい昔のつもりでやっちまった」
彼は申しわけ無さそうな顔になる。
でも、実のところそれは嫌ではなかった。彼に撫でられた感触は、どこか安心できるものだったからだ。
「いえ、嫌と言うわけではないんです。驚いただけで……あの、質問していいですか?」
「ああ、遠慮なく何でも訊いてくれ」
「あなたと私はどういう関係だったんですか?」
「……」
彼の表情が硬くなり、絶句している。何かいけないことを訊いてしまったんだろうか。
彼はしばし沈黙し、遠くを見るような目になった。
「そうか、いろいろ説明していたが、肝心なことを言い忘れていたな」
彼は真っ直ぐに私を見た。その視線に思わずドキドキしてしまうのは何故だろう。
「お前と俺はつき合っていたんだ。それが二年前にお前が消え、恐らくは今ここにこうしている理由だ」

また私の頭の中で何かがぐるぐる回っているように思える。
私はこの人の彼女だった。なるほど、頭では納得できる話だ。
何故この人がこんなに親切なのか、何故この人が懐かしく思えるのか、何故この人だと安心できるのか、
何故この人には素直に話していいと思えるのか、そして時折抱く既視感……思い出したい。
でも、頭の中で肝心なところに空白がある。記憶を呼び戻そうとしても、私の傍にいるのは人の形をした空白だ。
繋いでいた手の先は白い影だ。聞こえたはずの声に音はない。頭痛がしてきた。思い出したいのに、どうして……
「おい、大丈夫か?」
彼の声が聞こえ、私は顔を上げた。朝倉さんも心配そうに私を見ている。
私は突然ひどい不安に襲われた。そして、何もかもが怖くなった。助けて欲しかった。誰かに受け止めて欲しかった。
彼の慈しむような表情が見えたとき、私は思わず彼の胸に縋りついていた。
恐怖だったのか、淋しさだったのかは分からないが、ガタガタと自分の体が震えるのが分かる。
「無理するな。急がなくていい。ゆっくり思い出せばいいんだ」
彼は私を抱きしめ、ずっと頭を撫でてくれていた。そうしてもらうだけで安心できるような気がする。
昔の私、何もかも忘れてしまう前の私も、こうして彼の胸に抱かれていたことがあるのだろうか。
温かい感触と彼の匂いの中で、私はいつしか眠り込んでしまっていた。


(side kyon)

「あらあら、彼女眠っちゃったのね」
俺の腕の中で寝息をたてている佐々木を見て、朝倉が柔らかい笑みを見せる。
「疲れたんだろうな。精神的にも肉体的にも」
佐々木は二年前と変わっていない。いや、二年前の状態で飛ばされたんだろうから当然か。淡い色の髪も、
今は閉じられている大きな瞳も、儚げな横顔も、細い体も変わっていない。無くした記憶以外はそのままだ。
目覚めたら『やあ、キョン、会いたかったよ』などと懐かしい口調で言ってくれないかと期待してしまうほどにな。
佐々木をお姫様抱っこで寝室に連れて行く。相変わらず軽い。よくこんな体で満員電車に揺られて長距離通学
していたものだと思う。
朝倉が昼間買い込んだパジャマを着せてくれるというので、俺はありがたくお任せしてリビングに戻った。

朝倉が戻って来て俺の対面に座る。
「うふふ、佐々木さんて本当に可愛らしいわね。いくらあなたを誘惑してもなびかないわけだわ。ちょっと妬けちゃうな」
「あのなあ……」
朝倉は三月末に長門の申請で再構成されてからずっとこんな調子だ。俺に対して献身的に尽くしてくれるし、
あからさまな好意も向けてくる。正直悪い気はしないが、過去のこともあり、佐々木のこともあるから、ずっとこんな
関係のままだ。親友あるいは幼馴染の従姉妹という感じだろうか。
「なあ、朝倉、お前らインターフェースでも焼きもちなんかやくのか?」
「当然よ。長門さんの改変を思い出してみて。喜緑さんなんか大学でも会長にべったりで、他の女の子が近寄って
 来ると、それはそれは怖いオーラを発しているそうよ」
「喜緑さんてヤンデレ属性だったのか。まあ、ああいう清楚な感じの人が怖いってのも定番か」
朝倉は同意の印なのか、うふふと笑ってからお茶を注いでくれる。
「佐々木の奴、口調が女言葉になってたのはペルソナが落ちているから仕方ないとして、一度も笑わなかったな」
「しょうがないんじゃない? 本人にしたらとても笑える状況じゃないでしょ」
「俺はあいつの笑顔が見たいし、何より笑い声が聞きたいんだよ。そしたら本物と確信できる」
朝倉が自分の湯飲みにお茶を注ぎながら怪訝な表情を浮かべた。
「まだ何か疑っているの?」
「いや、99パーセント本人に間違いないと思うんだが、最後の1パーセントってとこだ」
「そうかな。既に100パーセントなのに上乗せを期待しているようにしか見えないわよ」
朝倉は笑顔を浮かべたが、それは北高の一年五組で見せていたのと同じものだった。クラスメイトの大半は
ころっと騙されていたが、今にして思えばあれはインターフェースの機能が作り出す笑顔だったと分かる。
あの頃は人間らしい感情が未発達だったがゆえに、そして今は人間らしい感情が発達してしまったがゆえに
見せている笑顔。
「どうしたの? そんなに見つめられたら恥ずかしいよ」
「ああ……すまんな、お前に辛い役目をさせてしまってるなと思って」
「いいのよ。気にしないで。わたしにとっては罰であると同時に役得でもあるんだから」

俺の東京行きが決まった時、長門に言われた。涼宮とは疎遠というか会えば挨拶する程度の関係になってはいたが、
宇宙的には相変わらず俺の鍵としての位置付けは変わっていないのだと。よって、俺を利用しようとする勢力が今も
存在しており、今後も何かとちょっかいをかけてくる可能性がある。なので、誰かが近くにいて俺を守る必要があるのだそうだ。

俺達が高校を卒業する頃の長門は、相変わらず涼宮の傍で観測を続けつつ、地球上のインターフェース達を統括する立場に
昇進していたので、その権限を駆使して俺が希望するインターフェースを周囲に置いてくれることになった。
提示されたリストには、喜緑さんを筆頭に、朝倉、それに顔と名前を知っているかつてのクラスメイトが何人か記載されていた。
え、あいつが?という名前もあったのだが、長門に釘を刺されているのでここでは公開できない。

ちょっと怖いものの一番安心できそうなのは喜緑さんだったが、同じ大学に行った元生徒会長とずっと恋仲なので引き離す
のには気が引けた。元生徒会長はいまだに機関の外部協力者で、俺にとっては事情を知って話ができる数少ない一般人の
知り合いだ。わざわざ敵に回すような真似をすることもないだろう。それに会長とサシで対決して勝てる気は全く無いしな。
次点で選んだのが朝倉だった。情報統合思念体からの処分を保留されていたのだが、俺の近くにいること自体が処分の一環
だということだった。朝倉は暴走して俺を殺そうとしたのだが、あれは当時の操り主の意向であり、個体としては俺に単なる
興味を越えた感情を抱いていたのだと長門は言った。自分や朝比奈さんの経験からして、俺の傍に居続けることは朝倉に
とって十分な処罰になるだろうと。あの時は長門の言葉の意味が良く分からなかったが、佐々木が現れた今になってみると
分かる気がする。

朝倉はお茶を一口含むと溜息をついた。
「確かに辛いわね。長門さんはこれを三年間、ううん、待機モードのときを含めると六年近く続けたんだから
 相当辛かったと思うわ」
「一度暴走したけどな」
「長門さん、溜め込むタイプだからね。わたしみたいに好きなこと言えれば良かったんでしょうけど」
「それはそれで部室の雰囲気が気まずいことになってたかもしれんぞ」
「うふふ、そうかもね。あのね、キョン君、わたしさっき役得って言ったけど、実際今みたいに接していられるだけでも
 それなりに幸せなのよ。キョン君の中にはずっと佐々木さんがいたから、わたしにはちょっぴりしか好意を向けて
 もらえなかったけどね」
「すまんな、お前の気持ちは分かっているが……」
「それは気にしないで。わたしが一方的に好きなだけだから。でも、もし佐々木さんの記憶が戻ってキョン君とまた恋人
 同士になったら、わたしの居場所はなくなっちゃうのかなって思ったりもするわ」
「いや、それはない。お前の気が済むまで近くにいてくれて構わないぞ」
「うん、ありがとう。嬉しいよ」
朝倉はまた明らかに作り笑いと分かる笑顔を浮かべたが、右目から流れ出た涙が頬を伝っていた。
「あれ? どうしてこんな……」
涙に気付いて手で顔を拭った朝倉は、悲しげな笑顔に変わる。
「ねえ、キョン君、嬉しい感情と悲しい感情が同時に発生するのはエラーなのかな?」
「あーよく分からんが、それはきっとお前がまた進化したってことだと思うぞ」
「うん、そうよね。きっと、そうだわ」
普段は人当たりは良いがクールでサバサバした性格の朝倉が泣き笑いしている姿は、インターフェースとしての
能力を抜きにして正直庇護欲をそそる。佐々木と再会することがなかったら、いずれ俺は朝倉に落ちていたかもしれん。
まあ佐々木が現れなければこのシーンにはならなかったわけで、因果関係としては違うような気もするがな。

「こんばんは。いい雰囲気のところ、お邪魔だったかしら?」
外から来て玄関のドアを開けないで玄関に立てる人間はこの世界にそう多くは存在しない。その数少ない特殊能力の
持ち主である朝比奈さん(大)が、いつもの白いブラウスと黒いミニスカートの女教師風の服装でリビングに入って来た。
朝倉は慌てて立ち上がり、一礼すると洗面所に駆け込んでいく。朝比奈さん(大)はその後姿を見やってから俺に
苦笑気味の笑顔を向けた。
「キョン君、相変わらずですね。朝倉さんも報われない女性の一人よねえ」
俺は無言で肩を竦めた。世間話をしに来たわけでないのは俺も学習済みだ。それに訊きたいこともある。
「彼女は?」
「もう寝てます。疲れてたみたいで」
「指示通り無事にピックアップできたようですね」
「はい、朝比奈さんが佐々木を連れてきてくれたんですよね」
「ええ、最初に彼女が出現したのが、キョン君が彼女の家があったと言っていた場所だったの」
「なるほど」
顔を洗った朝倉が戻って来て、お茶を入れようとしたが朝比奈さん(大)は首を振る。
「お構いなく。今日は佐々木さんの無事を確認しに来ただけで、すぐ帰りますから。長門さんと古泉君が揃った頃に
 またおうかがいしますね」
相変わらずの魅力的な笑顔を残して朝比奈さん(大)は時間移動に入り、目の前から消えた。

「さて、俺も帰るとするか」
湯飲みに残ったお茶を飲み干して俺は席を立つ。すると朝倉も立ち上がり、俺の腕をそっと掴むと上目遣いになる。
「キョン君、良かったら今日泊まっていってくれないかな。明日の講義は三限からでしょ?」
「お前と一緒だから無論そうだが、俺が泊まっていいのか? 女同士の方が安心できるとか言ってただろう」
朝倉は上目遣いの視線を逸らす。
「うん、でもさっきの話のとおりエラーが起きているから、佐々木さんと二人きりでいると暴走するかもしれないのよ」
『暴走』というキーワードが俺に効くのを朝倉は分かってて言っているのだろうが、それで翻意してしまうあたり俺も修行が
足りない。
「分かった分かった。しょうがない奴だな」

俺は昼間の服装のままリビングのソファーでごろ寝することにした。このソファーはソファーベッドとまではいかないが、
座る部分を展開するとマットレスのようになる便利なものだ。朝倉に頼めばもっと楽な服も用意してもらえるだろうが、
佐々木があらぬ誤解をしかねないので着替えないことにする。
だが、俺の配慮も無駄だったようだ。横になって眠ろうと目を閉じていると誰かが歩いて来る気配がし、目を開けたら
Tシャツにハーフパンツという部屋着姿の朝倉が立っていたからだ。
「どうした? 眠れないのか?」
そう言ってから、インターフェースには愚問であることに気付く。
「眠れないわけじゃないわ。でも、ちょっと」
朝倉は俺の傍らに横たわると、俺の手を握った。
「ごめんね、今日がこういうことができる最後のチャンスだと思ったから」
何が最後か分からないが、一般的に見てマズいんじゃないか、この状況。佐々木に見られたら限りなくヤバい。
だが、切なげな表情で見つめる朝倉を俺は拒むことはできなかった。みんな俺をヘタレだと罵ってくれて構わないぞ。
「何もしなくていいよ。何も言ってくれなくていい。キョン君の背中だけ貸して」
言われるままに背を向けると、朝倉は背中に頭をくっつけてきた。
「こっち見ないでね。顔見られたくないから」
背後から伝わる朝倉の体温を感じながら、俺はいつしか眠りについていた。





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最終更新:2009年10月17日 17:25
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