44-235「―佐々木さんの消滅―ep.06 二人だけの記憶」

ep.06 二人だけの記憶

(side sasaki)
『機関』の対応は素早かった。翌々日つまり木曜日に橘さんが外部協力者だと紹介した学生数人と一緒に来て、
私の私物と届いたロッカー箪笥を同じマンションの別室に運んでくれた。何でも『機関』が監視用に確保していた
部屋を引き払うのは位置や設備の関係で問題があったのだという。朝倉さんの部屋との相対位置や何の設備なのかは
知らない方が良さそうだ。
代わりに別の階の角部屋が『偶然いつでも入居できる状態で空いていた』ので、私達はその部屋に住むことになった。
「ここは予備の部屋です。これ以上は内緒ですよ」
橘さんはそう言って片目をつむる。なるほど、これ以上の事情も訊かない方が良いということか。
家具屋が寝具やら箪笥やらカーペットやらを、家電量販店の配達が家電製品一式を、さらに引越し業者がキョンの荷物を
持って来たので、あっという間に生活できるようになった。
キョンと私がしたのは、橘さんが出してくれた車で足りない食器類や小物などをホームセンターに買いに行ったくらいだ。
まるで新婚気分だが、それにしてもダブルベッドはやり過ぎだ。おかげでその晩は二人とも緊張して良く眠れなかった。
食事は当面朝倉さんの部屋で一緒にとることになった。いい機会なので朝倉さんに料理も教わっておくことにする。

次の日に私は高校の編入試験に連れて行かれた。キョンが言うには、消える前の私は関西の有名進学校に通っていた
そうだ。確かに編入試験は楽勝で、私は翌週から大学からそんなに遠くない都立高校に通うことになった。
都立高校は制服がなく校則も厳しくないので、私は思い切ってキョンが買ってくれた指輪をつけていった。
それが話のネタになったのか、すぐに数人のクラスメイトと仲良くなり、まずまずの高校生活をスタートさせることができた。

頑張ってキョンの後輩にならないといけない。
キョンは相変わらず朝倉さんと一緒に大学に通っている。一部では依然として夫婦扱いされているのがちょっと不満だが、
せめてこのくらいは朝倉さんがいい思いをしてもいいだろう。

そして、私の記憶が戻る日が遂にやって来た。その方法は簡潔にしてベタなものだった。
ありがちなパターンなら、さしずめここは眠り姫よろしくキスになるのだろうが、残念ながら違う。
乙女らしい躊躇いと動物的な本能とのせめぎあいの中で逡巡した末に決意した私が、キョンに初めてをあげた後、
まどろんで目覚めた時に記憶が戻っていることに気がついたのだ。
なるほど、キョンとつながれば良かったのか。分かってしまえば呆気ないものだ。安直設定だとか何とか言われそうだが、
誰にも分からなかったのだから文句を言われる筋合いはないだろう。
最初から分かっていたら私だってこんなに悩まなかったろうし。

記憶が次々と湧き上がってくる。物心ついた頃からキョンの前で消えるまでの記憶。中学でキョンと出会い、別々の高校に
進学して離れ離れになり、再会して世界の分裂の危機を乗り越え、愛を告白して二人の気持ちが通じ合い、閉鎖空間に
閉じ込められ、キョンの言葉を無視して勝手に結論を出し、私は消えた。

記憶が戻ったことは嬉しかったが、思い返してみると楽しいことより辛いことが多かった。でも、後悔はしていない。
それにこの記憶はキョンと私だけのものだ。私の素性を知っている少数の人たちですら、この記憶は持っていないのだから。
私は自分が男子に対してだけ妙な男言葉で喋っていたことも思い出した。それは弱くて脆い自分を隠すために故意に被った
ペルソナだった。キョンと結ばれた今となってはそんなペルソナを被る必要は無いのだが、私の記憶が戻ったことを彼に
示すのに一番相応しいのがその口調だろう。
私は毎朝しているように目覚まし代わりのキスをした。
「んあ……ああ、朝か……」
寝ぼけたキョンの反応に思わず笑みがこぼれてしまう。
「くっくっく、お目覚めかな、キョン」
「ああ……佐々木、何でお前が俺の部屋にいるんだ。ああ何だ夢か……」
中学の頃の夢でも見ていたんだろうか。悔しいのでほっぺたを引っ張ってやった。
「むぉが!?」
「夢じゃないよ。ここは僕達の部屋じゃないか」
「ああそうだったな……え?」
キョンの目が大きく見開かれる。私は悪戯っぽい笑みを返してあげた。
「お前、記憶が戻ったのか?」
「うん、戻った。全部思い出したよ」
キョンは表現不能な叫び声と共に飛び起き、気がつくと私は彼にしっかりと抱きしめられていた。キョンの時間で二年前、
私の時間で三週間前に抜け出したこの腕の中に、私は戻って来ていた。
「すまなかった。君に二年間も辛い時間を過ごさせてしまったね」
「いいんだよ、佐々木。もうそんなことはどうでもいいんだ。バカ野郎、心配させやがって……」
あとはしばらく二人とも言葉にならなかった。私はもう一度キョンに抱いてもらった。構成情報と一般知識だけの空っぽの
私ではなく、彼との記憶を共有している私として、本当の意味での私の初めてを彼に奪ってもらったのだ……いや、
とりつくろうのはやめよう。動物的本能に屈しただけだってことを認める。
二度目の行為の後、肌を寄せ合いながら私はある提案をした。
「ねえ、キョン、今の男言葉は僕が無理矢理作ったペルソナだってことは理解しているかい?」
「ああ、前は分からなかったが俺もそれなりに人生経験を積んだからな。今は理解できるぞ」
「今の僕にはもう必要の無いものだってことも?」
「いや。そうなのか?」
「うん、君との思いを遂げた今となっては、このペルソナは必要ないんだ。昔言っていただろう。恋愛は精神病だって。
 このペルソナはその言葉どおりに自分を恋愛対象外として欲しいから作り上げたものなんだよ。でも、僕は今君に恋して
 しまっている。君を心から愛してしまっているんだ。だから、最早こんな小難しい男言葉を操る必要は無いのさ」
「そうか? 俺は前の佐々木らしくて好きだけどな」
「君って奴は相変わらずだな。僕の言ったことをちゃんと聞いていてくれたのかい?」
「聞いてたさ。お前がもう男言葉を使わないというのであればそれで構わん。どっちの言葉を使おうがお前はお前だからな。
 それで俺の気持ちが揺らぐことは無いぞ。ただ、男言葉のお前の方が饒舌だからな、そっちも捨てがたいんだよ」
私は男言葉をやめると宣言するつもりだったのだが、キョンの言葉ですっかりその決意が揺らいでしまった。
「まあ、それは俺の趣味だからな。短い期間とはいえお前のキャラは周囲に認定され始めているから、急にキャラが変わる
 のは気味悪がられるだろう。こうして二人きりで話す時だけに限定して使ってくれればいいってのが俺の案だ」
「くっくっく、分かった。そうさせてもらうよ」
私は辛うじて上から目線の回答をしたが内心は圧倒されていた。
この二年間の人生経験でキョンはいつの間にか私を追い抜き、大人になっていた。
朝比奈さんが言っていたように成長したのだ。私は取り残されてしまったのだと思い知らされた。
私は思い詰めた顔をしていたのかもしれない。キョンはいつものように私の頭をポフポフと軽く叩いた。
「仕方ないだろ。物理的にお前は二歳俺より若いんだから。ま、お前ならすぐに追いつくさ」
「むぅー」
悔しいのでキョンにしがみつき、盛大に甘えてあげた。まだまだ私は子供だ。当分はキョンにかなわないだろう。でも、これは
これでいいのかもしれない。無理に前の私に戻らなくてもいいのだから。

記憶が戻ってみると、いくつか大きな違いがあることに気付いた。
SOS団やその周囲の人達は、私を含む佐々木団のメンバーの記憶が無いだけで基本的には変わっていない。
無口で無表情な長門さんも、多弁でにこやかでどこか慇懃無礼な古泉さんも私の記憶と大きな違いはなかった。
多分、朝比奈さんもそうなのだろう。
大きく変わっているのは、かつての佐々木団のメンバーの状況だ。
恐らくもう会えないのは九曜さんだ。長門さんが言ったように天蓋領域は消滅してしまったので、そのインターフェースで
あった九曜さんも消滅したのだろう。
藤原君もあれ以来一度も姿を見せていないそうだ。私が消滅したときに未来ごと消えてしまったのか、単に既定事項に
干渉する必要が無くなって時間遡行しなくなったのかは分からない。
一番信じ難いのは記憶にある橘さんと今の橘さんが同一人物であることだ。『組織』がなくなっているのは当然だろうが、
『機関』の人間として現れたのはキョンも驚いたそうだ。個人的には一生懸命だがややドジっ娘気味で空回りしがちだった
昔の橘さんよりも、今の冷静で堅実な橘さんの方が見ていて安心できる。
ただ、今の橘さんもキョンのことが好きみたいだ。三人で話していて、ふと気がつくと彼女の目がキョンを追っている
ことが何度かあったから。橘さんの基本スペックは以前よりも高くなっているので、『機関』の人という点を割り引いても
ちょっと不安だ。
その橘さんに両親の名前を知らせて調べてもらった。結果は子供のいない夫婦として関西の某所で暮らしているとのこと。
会いに行きたかったが向こうは私の存在を知らない。いつか機会があったら眺めるくらいにしよう。


いよいよキョンと一緒に彼の実家に行く日が来た。高校生の私を何と言って紹介するのだろう。
けど、その前に私達は京都で新幹線を降りた。涼宮さんに会いに行くために。
大学の近くの喫茶店で再会した涼宮さんはトレードマークのカチューシャこそなくなっていたが、私の記憶にある姿より
一段と綺麗になっていた。相変わらず元気で声が大きいが無邪気とも天真爛漫ともいえる言動は消え、良く言えば大人な
雰囲気に、悪く言えば少し陰があるように見えた。
キョンとぎごちなく仲直りの握手をして再会を喜んでいたが、私を紹介されると少し淋しそうな顔をした。
どうやら私の名前も姿も彼女の記憶には一切無いらしい。あったらあったで困るのだけど。

「ねえ、あたしキョンと二人だけで話がしたいんだけど、いいかな?」
涼宮さんの言葉にキョンも含めて誰も異議は唱えなかった。過去を知っている私はちょっと不安だったが、不必要な
揉め事を起こすこともないだろうと思い、同意した。
二人を残し、古泉君と長門さんと私は店を出た。その途端、古泉君の携帯が鳴る。
「はい……何ですって? 閉鎖空間!?……侵入できないって。まさか……」
私は心臓が凍り付いたような寒気を覚える。この世界の時間で二年前の、私の時間で二ヶ月足らず前に発生したものと同じ。
あの時消えたのは私。今、中にいるのはキョンと涼宮さん。まさかキョンが消える? それとも涼宮さんが新しい世界を
作ろうとしている? どちらにしても私の存在そのものの危機ということだ。
でも、今の私には自由になる力は何もない。できることは最愛の人が戻ってくるのを祈るだけ。


(side kyon)
「やっと誰にも邪魔されず二人だけになれたわね」
ハルヒが穏やかな口調で言う。こいつもずいぶんと性格が丸くなったんだななどと悠長なことを考えていた俺だが、
ふと俺に笑みを向けているハルヒの背景がおかしいのに気付いた。何年経っても忘れるはずがない灰色。
これは閉鎖空間だ。恐らく閉じ込められているのはハルヒと俺だけだろう。
何となく分かる。二年前の閉鎖空間と同じ匂いがするからな。神人は出てこないだろう。

どうすりゃいい。二年前のと同じだと古泉達が侵入できても、神人を倒して崩壊させることはできない。
あの時は佐々木が消えた。今回消えるのはどっちなんだ。俺か、ハルヒか。俺が消えたら佐々木はどうなるんだ。
『機関』が今のようにあいつの世話をしているのは俺がいるからだ。俺がいなくなっても当面世話はしてもらえるかも
しれない。だが、あいつは独りぼっちになってしまう。この先、ずっと。

悩んでも仕方がない。できることからやるしかない。今回ハルヒに会いに来た目的をまずは果たそう。
「ハルヒ、すまなかった」
俺は床に座って頭を下げた。謝ってすむことならいくらでも謝ってやるさ。
どんなに卑屈になっても、どんなに惨めになってもいい。
俺は何としてもここから帰還し、守らなければならない奴がいるんだ。
「何のことよ?」
ハルヒの呆けたような声が降ってくる。
「お前に酷いことを言って傷付け、お前を振ったことだ。すまなかった。あれは俺の誤解だったんだ」
俺はそれだけ言って神の審判を待った。恐らくは怒りの言葉を。虫が良いかもしれないが、許しの言葉も僅かに期待して。
だが、代わりに降ってきたのはハルヒのくすくす笑いだった。
「やっとハルヒって呼んでくれたわね。バカキョン」
「は?」
顔を上げると、ハルヒは先程の微笑を浮かべたまま俺を見ている。
「あんたさ、何であたしさっき『誰にも邪魔されず二人だけ』って言ったと思う?」
げ……いや、まさか……そんなことが……
「お前ここが何だか分かってるのか?」
「もちろんよ。だってあたしが自分の意思で作ったのよ。この閉鎖空間」


皆さんは自分の呼吸はともかく、血流や神経系統が停止するというのを実感したことがあるだろうか。
俺はある。まさにハルヒの言葉を聞いた瞬間の俺がそうだった。
「何そのマヌケ面。まあ仕方ないわね。あんたさ、あんたに振られてからあたしが閉鎖空間作らなくなった理由分かる?
 そりゃ最初のうちは落ち込んでたわよ。でもね」
「……分かっちまったんだな?」
ハルヒは真面目な顔で頷いた。
「うん、分かったのよ。あたし気付いたの。あんたのお陰でね。あんたに言われた鈍感野郎の話も全部事実だったって」
「そうか……」
「あたし、あんたに振られたショックで死のうと思ったのよ。あたしだって、こんなだけど、一応恋する乙女
 だったんだからね。初めて会った中学の頃からずっとあんたのことを想ってたのよ。ま、もうそれはいいわ。
 それで、あたしなんか死んじゃえばいいって思った瞬間に、何かがどっと頭の中に流れ込んできたのよ。以前にも
 似たようなことがあったけど、それは何かがどっと流れ出ていく感じだった。でも今回は同じような事象だけど方向が
 逆だった。前回がイクスプロージョンだとすれば、今回はインプロージョンって感じかな。あたしが何者なのか、
 あたしは何をやってきたのか、そしてあんた達がやってきたことも全て理解したわよ。まさに驚愕の一言だったわね」
ハルヒが驚愕したのは当然だろうが、俺もそれに勝るとも劣らない驚愕の嵐の中にあった。
「だから、佐々木さんのことも分かったの。あんたが話してくれた通りのことが起こったんだってね。あたしのせいで
 佐々木さんを消しちゃったって」
「……」

情報フレアは出なかったのか。いや、出たら宇宙人や未来人が観測できるはずだ。ハルヒはインプロージョンつまり爆縮に
例えたな。外に漏れていくのではなく、外から自分へ吸い込んだといえばいいんだろうか。
そしてハルヒは成長したんだ。何もかも知ってな。
『機関』がやってきたことはハルヒをいわば無知で無垢なままにしておくことだった。
俺があんなことをしたせいでハルヒが成長したとは怪我の功名という奴だ。まさに幸運以外の何物でもない。
一歩間違えば世界が崩壊しかねなかったわけで、自分でもあの時はガキだったと痛感する。
「あんたが謝る必要は無いのよ、キョン。本当に謝らなきゃいけないのはあたしなんだからね」
「いや、俺のことはどうでもいい。お前に酷いことを言ったのは事実だし、お前の気持ちに応えてやれなかったのも……」
「うん……でも、もういいのよ。あんたは十分苦しんだでしょ。あたしは自分が自覚していることをあんたには
 言えなかった。あんたに罪の告白ができないまま、一生抱えていこうと思ってた。
 それで釣り合うかどうか分からないけどさ、あたしとあんたはこれでおあいこよ」
「ハルヒ……」
ハルヒはにこりと柔らかい笑みを浮かべた。以前の笑顔が天真爛漫な真夏のひまわりだとすれば、今のは気品のある春の
満開の木蓮のように見えた。だが、その笑みはすぐに消え、ハルヒはまた真面目な顔で俺を見据えた。
「でも、佐々木さんのことは、あたしが一生背負っていかないといけないことよ。古泉君に佐々木さんが現れたことを
 聞いて少しは肩の荷が下りたけど、彼女はこの世界で文字通り天涯孤独になってしまったわけで、どんなに謝っても
 すまされることじゃないわ。だから、キョン、勝手なお願いだと思うけど、あんたに佐々木さんをお願いするわよ。
 もうあんたは団員とは思ってないかもしれないけど、あの時に遡って最後の団長命令だと思ってちょうだい」
ハルヒの口調はいつもどおりだったが、俺には何となく無理をしているように思えた。
「本当にいいのか、ハルヒ。お前はそれでいいのか?」
「は? 何バカなこと言ってるのよ、バカキョン。あんた以外に誰が佐々木さんの面倒を一生見れると思ってんのよ」
「いや、そうじゃなくてだな……」
「あたしは大丈夫。力の制御も含めてばっちりよ。だってあたしは涼宮ハルヒよ、SOS団の団長なのよ。そこらの
 女子と一緒にされるなんてまっぴら御免よ。その気になればいくらでもいい男なんか見つけられるわ。あんた以上の
 いい男をね」
ハルヒはわざとアヒル口をしてからくすくすと笑った。俺もつられてぎごちない笑顔を作る。
「ぷぷぷ、何て変な笑顔するのよ、もうっ」

ハルヒは静かに立ち上がり、俺にも立つように促した。
「ねえ、キョン、あんたにあと二つお願いがあるのよ。これは命令じゃなくてお願い」
「何だ」
いいだろう。何でも聞いてやろうじゃねえか。一緒に消えてとか死んでとかじゃなければだがな。
「じゃ、まずひとつめ。あたしが自分の力を完全に認識しているのは誰も知らないわ。そう願ったからね。
 だけど、あんたにだけは知っててほしいのよ。キョン、あんたはこれからもずっとあたしの『鍵』でいて」
ハルヒは俺が『鍵』であるということも理解しているのか。
「自分のことは分かってるし、暴走や間違いをしないようにフェイルセーフの仕組みを自分の中に作ることはできるの。
 でも、万が一、あたしが何かの理由でどうしようもなくなった時にあんたに抑えになってほしいのよ。
 別に、あたしがそう願えばいいだけなんだけどね、あんたの同意が欲しいの」
俺に躊躇う理由はなかった。
「いいぞ。今の俺がお前にしてやれるのはそれくらいだしな」
「そんなことはないわよ。あたし達は仲間でしょ。これからも」
ハルヒは手を差し出し、俺はその手を握り返す。何年ぶりだろうな、このハルヒの手の感触。
こんな瞬間が来るとは思ってもいなかった。しかも閉鎖空間の中でなんだぜ。信じられん。
「ああ、またみんなと楽しくやろうな。時々はこっちに帰って来るぞ」
「佐々木さんも連れて来てね」
「いいのか?」
「もちろんよ。というか、今は彼女の方が相対的には力を制御できない状態なのよ。このまま放っておくわけには
 いかないでしょ。
 佐々木さんの力をどうするかがあたし達のこれからの課題よ。そのためにもあんたが一緒にいて欲しいのよ」
やれやれ、何てことだ。昔、佐々木の方が力を制御できるなんてほざいていた奴がいたが、現状はどうやら逆じゃねえか。
ま、世の中どう転ぶかわからんということだ。

「で、二つめ。そしてこの閉鎖空間での最後のお願い」
「何だ?」
ハルヒは何も言わずに俺に抱きつき、胸に顔を埋めてきた。つややかな髪からいい匂いが立ち上って妙な気分になりかける。
いかんいかん冷静になるんだ。
「……これまでありがと、ジョン・スミス。あたしの初恋の人」
「ハルヒ……」
思わず抱きしめてしまいそうになったが、ハルヒはすっと俺から離れ、にししと鶴屋さんばりの楽しそうな笑顔を浮かべた。
「なーんちゃってね。これからもよろしくお願いするわよっ、キョン」

「さ、帰りましょ。皆心配してるわよ。特に佐々木さんがね」
閉鎖空間は思ったよりも相当に小さかったようだ。何せ十メートルそこそこの高さから崩壊を始めたんだからな。


(side sasaki)
私達は店の外でなす術もなく待機していた。また古泉君の携帯が鳴る。
「はい……消滅した? 何故です?……不明? はい……はい、では」
携帯をしまうと古泉君は困ったような笑顔で長門さんと私を見回した。
「閉鎖空間が消滅したそうです。お二人とも無事に戻って……」
そのとき、店の扉が開いて何事もなかったような顔でキョンと涼宮さんが出てきた。
二人ともさっきよりもずっと穏やかな顔をしている。何があったんだろう。少なくとも悪いことではないと私は信じたかった。
「ほれ、佐々木」
キョンは私の名前を呼び、腕を差し出す。私は一瞬ためらったが、キョンの顔を見て安心してその腕にしがみついた。
涼宮さんが真っ先に私達を冷やかす。その笑顔に先程の陰はなく、何故か私を気にかけてくれているようにさえ思えた。
その夜は宴会になり、京大SOS団のメンバーである長門さんと古泉さん、それに大阪から鶴屋さんと小さい朝比奈さんも
来て大騒ぎになった。私は唯一の高校生なので最後まで素面だったことを強調しておきたい。

その晩は京都に泊まり、翌日キョンの実家に行く。キョンのご両親は私が高校生だと紹介されても別に驚きもせず歓迎して
くれた。キョンの能力はどうやら母親譲りらしい。お母様はキョンが中学の頃、私に似た同級生を家に連れてきたような
気がするとおっしゃっていたからだ。キョンは気のせいだと言い張っていたけど。
幸いにして私はお母様に気に入られたらしい。私に身寄りがないことを告げると、早く結婚してやれとまで言ってキョンを
固まらせた程だ。ちなみに同棲しているのは私が大学に入るまで伏せておく予定だ。
中学二年生になった妹さんは随分と背が伸びて胸以外は朝比奈さんそっくりの美少女に成長していた。
自分の妹の美醜というのは測り難いのかもしれないが、キョンは彼女の容姿を評価対象外にしていたと思う。
でも、元々顔立ちはいい子だったので、こうなるのは当然といえば当然か。
もしかすると、彼女の子孫が朝比奈さんだったりするのかもしれない。


翌朝、東京に帰る前に、私はキョンの自転車の後ろに乗ってある場所に向かった。中学の頃、こうして塾に通っていた
ことを思い出す。この世界では二人だけの記憶になってしまったけど、一生忘れられない大切な思い出だ。
これから行うのはささやかな儀式だ、この世界では失われた過去と訣別し、新たな人生のスタートを切るための。

キョンが自転車を停め、私はその場所の前に立った。そこは私の家があったはずの場所。
キョンと一緒に勉強したり語り合ったりした部屋も、思い出の品物もそこには無かった。
梅雨晴れの強い日差しに照らされたそこは、何年も前から空き地のままだったかのように草が生い茂るに任せた場所だった。
既に聞かされて分かっていたことだったが、厳しい現実を突き付けられて私は思わず眩暈を覚える。
でも、よろめいた私をキョンが後ろからしっかりと支えてくれていた。
「大丈夫か、佐々木?」
「うん、だって、これからもずっと君がこうして支えてくれるんだろう?」
「もちろんだ。もう絶対に離さないからな。もう二度とあんなことは御免だ」
「僕も絶対に離れたくないよ。もう二度とあんなことはしない」

儀式は終わった。再び彼の自転車の後ろに乗って戻る道すがら、私はある提案をした。
「ねえ、キョン」
「何だ?」
「こうなった以上、僕が佐々木という姓でいる必然性はないと思われるんだ」
以前のキョンなら意味が分からんと素っ気無い答えが返ってきたはずだが、今のキョンは違った。
「ああ、そうだな。でもあと三年待ってくれ」
「三年?」
「そうだ。お前が二十歳になったら誰の同意も必要なく両性の合意のみで婚姻届が出せるからな」
「え……それって……」
私は自分でカマをかけておいて自爆したらしい。
「何だ、お前が言い出したことだろ? 不満か?」
「もう……そんなわけないじゃないか」
私はキョンの腰に回した腕に力を込め、顔を押し付けた。
「大好きだよ、キョン」

この世界の過去に存在していない私。そんな私がこの世界に存在する証はこれから生きて残していくものだけだ。
でも、大丈夫。きっと生きていける。
この世界で一番愛している人と一緒に、この世界で二人だけしか持っていない記憶を携えているのだから。



終了です





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最終更新:2009年10月17日 17:21
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