49-800「或る他愛ない日常と、有りふれた出発」

 夜の七時。
 効きすぎた暖房の熱気でむせ返るようだった予備校の教室から逃げるように玄関へ抜けると、外は雨だった。ついさっきまでは降っていなかったはずだ。驟雨ってやつか、と半時間前に覚えたばかりの語彙で自答する。
 さて、どうしたもんか。傘は持ってきていないし、今日は休日で自習室が開いていただけだから、置き傘のある講師室には入れない。妹を携帯で動員することも考えたが、あとで見返りに何を請求されるか分かったもんじゃない。
 ――仕方ない。走って帰るか。

「入れてあげようか、キョン」
 覚悟を決めて靴紐を結びなおしていると、上から声をかけられた。
「佐々木。いたのか」
「いたのかとはご挨拶だね。今日はずっと、君と背中合わせの席に座っていたのだが。入ったとき、君が珍しく勉学に没頭しているようだったから、声をかけないでいたのさ。それで、どうする? このまま走って帰って濡れ鼠になるか、それとも僕の傘に入っていくか」
「……そうか、すまん。じゃあ、お言葉に甘えるか。しかしよく傘持ってきてたな、お前」
「時雨の季節だからね。折り畳みの傘を常備しておくようにしているんだ」
 そう言って佐々木は、俺なら四日はかかるだろうというほどの分量の教材が入ったカバンから、傘を探し始めた。
 なるほどね。そういえば、こいつは昔からいつも用意がよかったな。
「重そうだな、それ。持つよ。入れてくれる代わりだ」
 あいつは一瞬驚いたような表情を見せ、そして喉の奥で殺したような笑い声で笑った。何も変わっていない。
「そう? じゃあ、お言葉に甘えよう。ああそうだ。もし君がこのあと暇だったら、ちょっと付きあってくれないかな。寄りたいところがあるのだけど」
「ああいいぜ」
「有難う」
 そして佐々木は、新品の淡い白色の傘を差し出した。女性に持たせるのでは君がさまにならないだろう、と笑いながら。
 やれやれ。まあそれなりに身長差もあるしな。
 傘を広げ、ふとある事に気づいた。
「なあ佐々木、お前のお目当ての場所ってのは、遠いのか?」
「うん? いや。少し歩くけど、駅の近くだから距離は同じだよ。ご心配なく」
 ……まあ、いいか。
「よし、行こう」
 そう言って歩き出した。冷ややかな、みぞれ混じりの雨の中へ。


 一週間ほど前、頼みのヤマが悉く外れたこともあり、俺はとある考査でみごと自己ワースト記録を更新した。
 学年順位の印刷された紙切れを見るや、自他共に認める楽天家気質の俺がのけぞったほどだから、むだに評価の辛い我がおふくろがそれを目にした瞬間の光景は、実に筆舌に尽くしがたい。
 まったく谷口にコケにされる日が来るとは夢にも、悪夢にすら、思わなかった。あいつに同病意識を持たれたことが、いちばん腹立たしかった。
 とにかく、その日の家族会議にて全会一致でこのままじゃいかんという結論に達し、もはや立つ瀬どころか沈む淵も失った俺は、某予備校へと更迭されることとあいなったわけだ。
 そしてそこは古い友人で優等生そのものであらせられたところの佐々木が、たまたま通っていた場所であり……いや、この「たまたま」という副詞の使用には、実は異論があるのだが。
 何となれば、おふくろが愚息の危地にあるを知ってまっさきに電話で相談を仰いだ相手が、なぜか佐々木だったらしいので。
 まあ今の学習状況を考えれば、結果オーライと言えなくはない。気の置けない友人が一人いるのといないとでは、モチベーションは雲泥の差だ。くわえてその友人がかの博覧強記の佐々木とくれば、言うことがない。
 校外にまで潰れた面目の傷口を広げる前に、せめて自分で自分の誤りを正すだけの機会は与えてもらいたかったという、ささやかな不服を除いては、だが。

 で、ある日の放課後にそのことを告げたときのSOS団は、当然の如く荒れた。平日の団活参加がしばらくは多くとも隔日になる点はいわんや、俺の身の振りかたに関して完全に事後報告になったことも、団長様はお気に召さなかったらしい。
 それの決定については、俺自身にほとんど何の権限もなかったのだが、そんな弁明に耳を貸すハルヒではもちろんなかった。
 まあこうしたときの各団員の反応なり立場は、もはやお定まりになっていると言えるので、いちいち書かない。
 だいたいの事情を話し終え、休日の探索には必ず顔を出すからとハルヒを宥め賺して、何とかその場は古泉の生存に貢献できたらしい。
 ただし『僕がいることは、涼宮さんには伏せたほうが良いかもしれないね』と苦笑いを浮かべて佐々木が言うので、そんなもんかと思いつつ、そのことは伏せておいた。
 ハルヒがその日の団活は中止にすると言い捨てて帰ったあと、長門にだけは一応打診した。その長門は、
「……………………彼女は、正しい」
 と言った。何だ、その間。


 ところどころにある水溜りを避けながら、車が撥ね飛ばす水しぶきをBGMに、佐々木と俺は他愛のない会話を楽しんだ。
 それぞれの高校での日常、中学からの変化。高等教育課程特有の不条理に俺がひどくシンプルな不満を漏らし、佐々木が苦笑する。
 あるいは俺が、何か苦手な教科について、それについて記憶させられることに大いに疑問を感じるテーマをひとつ提示して、佐々木がその圧倒的博識の一端を披露するようさりげなく促す。
 佐々木は、かつていつもそうだったように、それをあらゆる視点から脚色して説明し、俺はそれに感嘆してみせる。
 会わなかった一年なんてなかったかのように、時間は過ぎた。

「さて、着いたよ。キョン」
 佐々木にそう言われるまで、そこが目的地だということに気づかなかった。
 古材と鉄細工で出来た大きな扉。夜気にうっすら溶けこんだ香ばしい匂い。闇のなかでうっかり見すごしてしまいそうな看板。
「ここ、か? 喫茶店にしか見えんが」
「紛うかたなき喫茶店だね。実はコーヒーの豆を切らしていて、母に頼まれていたんだ。そのついでといっては何だけど、少し君と話でも、と――キョン、その肩……」
 佐々木の視線の先には、首筋から右上腕にかけて壮大に雨に晒された俺がいた。防水でないグレーのコートを着ていたせいで、正面から見れば、それは分かりやすすぎるほどに目立っていた。
 女物の折り畳み傘は、二人が満足に入るには小さすぎたのだ。目的地がここだと分かっていれば、少し手前でコートを脱げばそれですんだんだが。
「ごめん。僕のミスだ……迂闊だったな、本当に、今まで使ったことがなかったから……」
 明らかにうろたえた様子で、佐々木が言葉を繋いだ。こいつにこんな顔をさせたくなかったから、できれば悟らせないで終わらせたかったんだがね。
 濡れていないほうの手を、ぽんとうなだれた佐々木の頭に乗せた。
「気にすんな。お前は親切でやったんだから。俺は半身が無事なだけで充分だ。それより中に入ろうぜ」
「うん……」

 扉を開けると、暖かな香気と沈黙が支配する空間だった。意図して絞られたアンプから、ピアノの音が幽かに聴こえてくる。
 初老のマスターが無愛想に会釈し、夫人らしき女性が席に案内してくれた。常連の女の子が同伴で来て、しかも若干気落ちしているというこの状況に、彼女は興味深々という様子だった。
 客は俺たちだけなのに、入り口からいちばん遠くのテーブルを選ばれたのは、何か配慮されてしまったということかもしれない。
 ……まあ説明は、その必要があるならだが、次に来たときの佐々木に任せよう。

 その佐々木はと言えば、席についても沈んだままだった。
 こいつがこれほどあからさまに気落ちしている所を見せるのは珍しい。たいていの場合、佐々木は内心どんなに落ち込んでいても、それを周囲に悟らせないよう演じるやつだった。特に、男と話しているときは。
 こいつの主義を知っている俺にとって、その理由は考えるまでもなかった。
 だから今の状況は、ある意味で佐々木が気を置かないでいてくれている証ととれなくはない。もちろん、だからといって放っておいていいもんじゃなかった。
 本当に助かってるんだけどな。
 しかしそう言ったところで、佐々木の性格上、単なる慰めにしか解釈されないのはもう目に見えている。まあ、適当にやってみよう。黙ってるよりマシなはずだ。
「こんなところがあるとは知らなかったな。この路地に入る前の通りは、ときどき通るんだが。ここにはよく来るのか、佐々木」
「え。うん。僕も母に教えられて、存在を知ったんだけどね。ここは静かだしたまに読書に来るんだ。……もしかして、君は苦手だったかな」
「いや。確かにあんまり静かすぎる場所は、得意じゃないんだが。何だろうな、ここは落ち着くよ。自分にも沈黙を強制されるような静かさじゃないからかね」
 それは本心だった。触れたことがないはずなのに、懐かしい気分になる空間だった。
「何となく、お前がよくここに来る理由が分かるよ。いいところだな」
「そう……」
 よかった、と佐々木が呟いた。
「しかしメニューが多いな。コーヒーだけで10種類以上ある店なんて、初めて見たぜ。眠気を飛ばすなら、深煎りか?」
「ん、それは誤解だよ、キョン。深煎りのほうが強く加熱されるのだから、本来の豆の成分であるカフェインは分解されやすいんだ。色が濃いほうが効きそうというのは、ビタミンCに対する酸味のイメージなんかと同じで、根拠のない一種の摺り込みだよ」
「ああ、なるほど。まあカフェイン目当てなら、薬局に錠剤だってあるしな。嗜好としてのコーヒーをそれ基準で眺めるのも、おかしな話か」
 そう言うと、佐々木はやっと少し明るい表情を見せた。
「そうだね。迷ったらブレンドを頼めば良いと思うよ。僕はいつも飲んでいるけれど、味をうけあっていい。ところでコーヒーの覚醒作用は、君も言ったようにカフェインによるものだけど、その誘導体には興味深い作用を示すものがいくつかあるんだ。カフェインの構造式は……」
 そう言いながら、小さなノートに何か書き始めた。
 やれやれ。やっと調子が出てきたな。こいつも扱いの難しいやつだ。


 やはりと言うべきか、運ばれてきたコーヒーは想像以上に美味かった。それを潤滑油にして、会話は進んだ。
「しかし、あれだな。勉強っつーのはいざ本格的にやりだしてみると、自分がどんだけ理想から隔たったところにいるか、まざまざと意識させられていやになるね」
「そうかな? まあ君があの予備校にくるまでの日常学習の惨状は、耳にしているけれど。しかしいくら危機感を持ったからといって、あの日常の直後で三日続けて十時間机の前に座っていられる人間は、あまりいないと思うよ」
 ……おふくろ、か。電話口でどんな誇張表現が使われたか、知りたくもない。あるいは、誇張じゃないのかも知れんが。
「三日続けるくらいなら誰だってできるだろうさ。三日坊主っていうしな。お前にいちいちあれこれ訊ける環境でもなかったら、とっくに投げ出してたはずだ。
それに明日は日曜でひさびさの団活もあるし、その翌日からまたこの生活パターンに戻ってそれを維持できる保証は、あまりないね」
「お役に立てて光栄、というべきかな。うん、確かに中だるみは良くない。でも君の団活は、できるだけそつなくこなしたほうがいいだろうね。涼宮さんのことだから、君が――変な表現だけれど――予備校で勉学に感けすぎると、
君の勉強の世話を焼こうとして僕たちの予備校に入ってくるかもしれない」
 ……否定はできないか。いくらなんでも、という気がするが。
 しかし、意外だった。佐々木が、誰であれ、特定の誰かを苦手だと仄めかして言うのを、あまり耳にしたことがない。
 そう指摘すると、佐々木は一瞬驚いたような表情を見せた。
「おっと、そうきたか……うん、まあ、そう考えてくれていいよ。僕は自分勝手だし、自分のペースを乱されることにひどく神経過敏だ。僕にとって涼宮さんみたいに行動力のかたまりのような人は、たとえ羨望の対象になっても、一緒にいてくつろげる存在にはならない。
もちろん、彼女を嫌っているわけではないが。初対面のとき、涼宮さんの僕への印象があまり芳しくないようだったのは、向こうも似たようなことを感じたからじゃないかな、たぶん」
 なるほどな。さすがに自己分析が深い。
 面識のない俺の友人同士がばったり会って、おかしな空気になった。そんな話なら、自ら取り持つことも考えていたが。
 どうやら単純に、二人が居合わせるケースがこっちで避けられるなら、避ける方針が無難らしい。
「君はどうなんだい?」
「何が?」
「涼宮さんがいたほうが良いのかなってことさ。憶測を前提にしてもしょうがないけれど、仮に彼女がそう言い出したとしても、僕は君の意見を尊重したい。君のことだから僕に遠慮して、本当は来てほしいのに断るなんてことは、実にありえそうなことだ」
 相変わらず鋭い。しかし。
「どっちにしろ断ってたさ。お前みたいに巧く表現できんが、団活以外のただの日常であいつと過ごすっていうのは、何か違う」
 佐々木はちょっと笑ってから、何故かすこし険しい表情をした。そしてそれを隠そうとするように「すげないね」と言い、カップを口に運んだ。

「それはそうと、佐々木。俺は構わないんだが、お前こんな時間まで、俺と駄弁ってていいのか」
 かねて気になっていたことを、佐々木に訊いた。
「大丈夫だよ。この喫茶店は九時までやっていて、時折その時間ぎりぎりまで本を読んだりしているし、それは両親も了解済みだ。君といるところを目撃されて困るような人もいないしね」
「……そうかい。まあその点はお互いさまだな」
 佐々木は声を立てずに笑い、君の場合はあまり信用できないな、とのたまった。
「どういう意味だ……お前はどうなんだよ」
「僕かい?」
「そうだ。今の高校に入って意中の男くらいはできたのか、それとも相変わらず『恋愛は精神病』なのか」
「くっくっ……興味があるかい?」
「ああ」
 佐々木は一瞬複雑な表情を見せ、一呼吸おいてから答えた。
「うん。その点は、僕の持論は昔とさほど変わっていない。意中の男性などいないし、自分で自分が恋愛しているさまが、うまく想像できないな」

「嘘か」
 佐々木のコーヒー・カップが、少し大きな音を立ててソーサーに置かれた。
「っ……どうして、そう思うんだい」
「ん、何となく。今の反応で確信に変わったけどな。意外と分かりやすいよな、お前って」
 佐々木が睨んできた。ああ、これは怒ってるな。こいつの場合、日ごろの行いが良い印象しかないからか、たまに怒ると妙な迫力がある。
「キョン……あまり考えたくはないが、君は僕にカマをかけたのかい。もしそうなら、君との友誼を検討しなおさなければならないよ。わりと真剣に」
「人を脅すのはやめなさい。いや、そう思った兆候はあったさ。ただ、何というか……言語化しづらい」
 獲物を仕留めるときの猫のように、佐々木が身を乗り出してきた。
「キョン。仮にそれが誤魔化しだとして、この短時間で僕を納得させられるだけの理由を捏ちあげられるほど、君が悪い意味での如才なさを持ち合わせているとは僕は思っていない。
だからこそ、今ここでハッキリさせなきゃいけない。脅してるわけじゃないよ。君が僕を嵌めたのなら、僕はけっこう傷つくし、もしかして友情を考え直すというのは事実だから」
「そ、そうか」
 どっちでも大して変わらん気もするが……似たような状況で失態を演じたトラウマでもあるんだろうか。というか、だとすると、こいつとの友人関係はけっこうなタイト・ロープだったんだな。
 気をつけよう。
「じゃあ、まあ、努力はするが、あんまり厳しい突っこみは遠慮してくれよ? かなり主観的だからな」
 そして俺は話し始めた。

「そうだな。まず、お前は動揺しているときは心もち相手の目を見て話すようになる。普段はあまりそういうことしない。まあひねくれててお前らしいが。あと若干早口になるな。それと……話し始めの声が少しだけ大きくなる。
えーと。そんなとこか。まあカマかけたほうがお前は分かりやすい反応を返してくれるってのは事実だが、さっきのはそうじゃないし、今までやったこともないぜ」
 無意識にやったことに意味づけするなんて不毛な作業だが、しかたがない。
 ふと佐々木の表情を気にかけると、疑いの眼差しは驚愕にとってかわっていた。しばらく言葉が見つからないと言うような素振りを見せたあとで、やっと佐々木は口を開いた。
「……君が行動心理を齧っていたとは知らなかったよ」
 映画なんかで、FBIとかがやってるアレか?
「そんなわけないだろ。まるで他のやつに汎用が……ん? てことは納得してくれたんだ、よな?」
「君が僕を嵌めたわけではないということに関してはね……」
 佐々木は視線を逸らせた。
 それならいいが、何かひっかかる言い方だな、それは。
「僕は、そんなに分かりやすいかな」
 佐々木が口に手を当てたまま、訊くとはなしに訊いてきた。
「あ、いや。そんなことはないと思うぞ。ただまあ一年間、毎日のように顔をつき合わせてたしな。どんなに食えない奴でも大まかな癖はわかるもんだ。それに今でも、お前に関して俺は分からないことだらけと言っていい。
例えばさっきの俺の指摘に、そんなにお前が食いついてくるなんて、全然予想もしなかった」
 フォローしたつもりだったが佐々木は何故か俯いてしまい、よく聞き取れない声で何か呟きはじめた。
「本当に、君は……そういう、どうでもいいことばっかり……」

「で、だ。話は戻るが、お前」
「っ! 待った、その前に――」
 俺が話しかけると、佐々木は突然びくりと肩を震わせて食ってかかってきた。
「うお! ビックリした。な、何だ」
「あ……すまない。だから、次は君の番だということだよ、キョン。僕はこれで君の質問に、少なくとも部分的には、答えたんだ。実に不本意なかたちでね。よもや君は答えないとは言うまいね、僕がこんな辱めを受けたあとで」
 佐々木の顔が紅潮している。そんなに恥ずかしがると分かっていれば、変にちょっかい出す真似は控えたのだが。
 忘れかけていた、自分が佐々木にした質問を思い出す。……ああ、そうだった。意中の人、か。
 半ば自棄になっているのか、佐々木は一気に捲くし立ててくる。ちょっと貴重な光景だ。
「君の周りは、僕の知っている君の交友関係に限っても、涼宮さんを筆頭にずいぶんと魅力的な異性が多い。君が気づいていない場合を想定して誰がと言うことは伏せておくが、はっきり好意的なアプローチをしている人だっている。
そのことが逆に、君にとってのそういった特定人物の不在を暗に示してしまっているわけではあるが。さあ答えたまえ、キョン。君はもしかして同性愛主義なのか、それとも本当に現在意中の人物はいないのか」
 さりげなく聞き捨てならないことを言いやがる。
 まあいちいち相手をすればまたぞろ話が脱線し、こいつが不機嫌になるだけだ。冗談か挑発のたぐいと割り切ったほうがいい。
 いない、とだけ答えた。

「……嘘かい」
「本当だ。今、カマかけなかったか、佐々木」
「かけてない。ただの勘違いだよ、すまない。……でも俄かに信じがたいな。あれほど魅力的な女性が周囲にいるというのに」
 確かに、俺の交友に無意味と魅力的な女性が多いことは、否定するべくもない。
 ただ、俺のほうからどうこう言うのも身のほど知らずな話だが、いない。少なくとも、一生添い遂げる自信が持てる相手はいないのだ。それなら初めから何もしないほうが、マシってもんだ。
「君は変なところでペシミストだね。相手が魅力的なら、深く考えないでもとりあえず行動に移せば、色々と変わってくるかもしれないとは思わないのかい。僕は世の男性というものは、おおむねそのように考えるものかと思っていたが」
「一理あるが、個人的にはそれを本気で信じられるようになるとは思えんね。同じ答えを期待して仕返すのを目論んでたなら、お生憎だ。真面目に告白しようかと思った経験が、今までまるでなかったわけではないが」
 突然、目の前でちょうどコーヒーを飲んでいた佐々木が噎せ返った。
「ぅ……え、ふ。けほ、けほっ!」
「ああ、気道に入ったか。たまにやるよな。大丈夫か、佐々木」
 俺は背中をさすってやるために立ち上がった。
「だ……大じょ、こほん! キョ……けほん!」
「ほら、喋ろうとすんな。落ち着くまで待ってやるから。地味に尾を引くんだ、それ」

 しばらくすると、佐々木の咳は止まった。
「いや、失礼。見苦しいところを見せたね」
 いやむしろ興味深く眺めさせてもらったよ、という軽口は控えることにした。なんだか今日の佐々木は隙だらけだ。
 席に戻ると、佐々木はさっそく切り出してきた。
「話を戻そう。キョン、真面目に告白しようかと思った経験があるというのは本当かい」
「……そこを拾うのか。いや大したことないんだ、本当に。昔の話だし――」
「それは、僕と会う前? 後?」
「……後だ。なあ、佐々木。これは昔の話だし、せいぜいが数日のことだ。それに結局、何もしないまま終わった。どうでもいいことじゃないか」
 佐々木はしばらく、何かに耐えるような硬い眼差しでニスの剥げかけたテーブルを見つめていたが、ふいにキッとこちらを見上げて言った。
「キョン、君は僕に対して責任があるとは思わないかい。君は、故意ではなかったにせよ、僕から僕が伏せるつもりだったことを白状させたんだ。君も少しくらいは僕と同じ目に合わなきゃ、フェアじゃない。それにもしかしたら君の片想いについて、
僕がそれを発展させられるようなアドバイスができるかもしれないだろう? 君にそのエピソードを自発的に話せとは言わない。だから、もうすこしこの件について僕に質問を続けさせてほしい。答えたくないものには答えなくていいから」
 ……どこかの誰かさんみたいにぶっ飛んだ論理だ。
 いい加減にしてくれ、お前らしくもない、俺が話したくないくらい分かるだろう。
 たぶんそう言えば、佐々木は渋々ながらも諦めただろう。そしてそれはかなりの割合で、俺の本心とも一致していた。何だというなら、もう少し柔らかく言い直してもいい。結果は変わらない。
 だからどうして、自分がそこで佐々木の提案を受ける気になったか、よく分からない。たぶん、佐々木が珍しく感情的になっているのを目の当たりにして、このままいけば佐々木の新たな一面を発見できるかもしれないという、
不謹慎といえなくもない興味が湧いたからだと思う。肝腎の答えさえはぐらかしておけば問題ない、とも思った。
 少し考えた後、わかった、と答えた。佐々木の顔は何故か少し安堵したように見えた。
「有難う、キョン。じゃあまず、その人に告白しなかったのは何故? すでに恋人がいたから?」
「いや。いなかった、はずだ。誰とも付き合うつもりがないみたいだった。それが分かったから、諦めた」
「それでも彼女は、君にとってかなり理想に近かった」
「そうだな。もっともそれに気づいたのは、告白の意味がないと悟ったのとほぼ同時か、それより後だったんだが」
「……その人とは、今も話をしたりするのかい?」
「ああ」
「その人が君にとって理想的だという事実は、変わっていない?」
「ん。あんまり考えたことなかったな。……まあ、変わってない」
「……その人は、誰?」
「言えない」
 そこでふと気づいた。答えを仄めかしたまま答えられる質問は、実は少ないという事実に。佐々木がさっき、俺には如才なさがないと言ったのは、的を得ていたんだなと思った。
「僕の知っている人?」
「言えない」
「……じゃあ、その人が誰とも付き合うつもりがないと分かったのはどうして?」
「……言えない」
「……」
 答えなくて良いと言ったのはお前だろう、佐々木。そんな悲しげな顔したって駄目だぞ。
 まあ実際、これまでの付き合いで、佐々木にその顔をされて俺が折れなかった記憶はない。たとえ演技と分かっていても。
 しかし、だ。今は懸かっているものが違う。何としても答えるわけにはいかない。
 絶対に。


 たぶん20秒は、そうやって見つめあっていたと思う。
 折れたのは俺のほうだった。……俺は本当にダメなやつだな。薄々分かっていたことだが。
「分かった、分かったよ。答えるさ……乗りかかった舟だ。ただな、佐々木。答えを聞いて引いたり、変に責任を感じたりしないって約束してくれないか」
「うん……それは、信じていい。僕が責任を感じるってことは、やっぱり僕の知っている人なんだね」
 ああ佐々木。お前は、さっき説明してやったのにもう忘れたのか。
 お前の話すスピードはさっきからずっと一割増しだ。何に動揺してるかは知らんが、視線が合いっぱなしのこの状況は今の俺には辛いものがあるんだよ。
「理由はな、佐々木。そいつがお前だったからさ。『恋愛は精神病だ』って言ったからだよ」

 ……そう、言ってしまってから、急に自分のやっていることの愚かさを理解した。吐き気がした。
 俺は何を言っているんだ。こんなやり方で、あいつの今の想いを忽せにするべきじゃない。こんな古い、とうの昔に諦め、未練も捨てたはずの苦い記憶を見せつけるやり方で。
 佐々木は、すぐに友情を破棄するようなことはしないだろう。それでも内心、微かな軽蔑は感じつづけるに違いない。ああ彼も同じだったのか、と。そして俺はその事実にほとんど耐えられない。
 だから事実上、佐々木との長く変わらなかった関係は、もう終わりだ。今まで無意識のうちにこいつに感じさせてきたであろう、数え切れない幻滅を考えれば、ずいぶん皮肉な話ともいえる。
 くろぐろとした思考に打ちひしがれ、しばらくその勇気をもてなかった俺は、やっと佐々木の顔を直視した。

 佐々木は、声を出さずに泣いていた。

 ひどい混乱が訪れる。
 色んなことを予想していた。「そうだったのか、悪かった」といって笑う。たぶん、目は笑っていない。あるいはちょっとした皮肉。悪くすれば罵倒。
 でもこの状況は、少なくともそのなかになかった。そして、これは最悪の状況として設定するべきだったと、今は思う。
 誰が泣かせた? 大切な友人のこいつを? そいつを殺したっていい。俺だ。その場で首を吊りたかった。
「佐々木」
 考えがまとまらないまま声をかける。頭がありえない速度で回転するのを感じる。
 やがて、いくら考えても結論なんて出るわけもない事実を受けいれた。絶望とともに。
「すまん。そんなにお前が傷つくとは、思わなかった……」
 佐々木の爪先の整った指が、俺の袖を掴んだ。審判を宣告された犯罪者のように、身が竦んだ。
 佐々木が何か言っている。よく聞こえない。
 何だって?
「違う、違うよ……ねえ聞いて、僕はずっと――」


 喫茶店を出たとき、時計は九時を回っていた。
 これが小説なんかなら、【外に出ると、雨は上がっていた】などと書くところだろう。雨は涙のシンボルで、それはようやく一歩踏み出せた恋人同士を描くシーンには、あまり適当とは言えない。
 現実には、雨は激しさを増したようだった。やれやれ。俺は一生小説の主人公にはなれないな。
 軒下でそんなことを佐々木に話していると、あいつはくっくっと笑ってからこう言った。
「いいじゃないか、キョン。また傘を差して帰ろう。それにこの雨だって、僥倖かもしれないよ? こうやって」
 佐々木が腕を回してくる。
「駅まで君と寄り添っている理由ができたしさ」

 一時間前はほとんど悴みそうだった右腕から、今は佐々木の熱が伝わってくる。
 大雨のおかげで人はまばらだ。目抜き通りの交差点でなかなか変わらない信号を待っていても、人は数えるほどしかやってこない。
 そうでなかったら、とっくに素面ではいられなくなっていたと思う。
 佐々木が不意に話しかけてきた。
「ねえ、キョン。こんなことを言うのは不粋もいいところだが、君はたぶん気づいていないだろうから、言っておかなきゃいけない。涼宮さんは、自分で意識しているかどうかは知らないが、君に単なる友人以上の好意を持っていて、君にもそれを求めているよ? 
冗談を言ってるんじゃない。充分な根回しなしに彼女が僕たちの関係を知ったら、僕たちのどちらかが消されてしまったり、もしかして世界を終わらせてしまう可能性もある。充分気をつけたまえ」
 まるで予想しなかった佐々木の言葉に、俺は不思議と冷静だった。ああそうなのかと、事実だけを認識した。
「分かった。気を……ん? じゃあ今の状況は、実はかなり危険じゃないか。ハルヒに目撃された瞬間に、世界が終わっちまう」
「くっくっ……言わないでおいたのに、君も気が利かないな。幸福は人生の代価であって、本末転倒にならない程度に支払うべきなのだよ。それとも君にとってこの状況は支払う価値があるというなら、どうぞ濡れて帰ってもらって構わないが」
 佐々木はそう言いながら、腕に余計な力を加えてきた。本当にひねくれている。そんなに信用ないのか、俺は。
「ああしかしね、キョン。今僕に涼宮さんの力があったとしても、やっぱり世界を終わらせてしまうのかもしれないな。だって今より幸せな瞬間があるとは思えないから」
 ……笑えない冗談だ。色んな意味で。こいつはこんなにくさい台詞を、平気で吐けるやつだったかな。
「まあ、とにかく気をつけることにするよ。しかしそうすると、お前と会える時間も、当面は限られてくるわけだ……俺がもっと早く気づいてればな。今まで悪かった、本当に」
 そうだ。それが一番気になっていたことだった。
 俺自身は諦めていた時間があまりにも長かったから、しばらく佐々木と会えない時間が続いてもたぶん何とかやっていける。しかし佐々木は俺の、今考えればあまりに病的な思い込みのせいで、一年は勇気を振り絞ってはどん底に落とされる経験を続け、
つづく一年は俺を忘れる踏ん切りをつけられずにいたのだ。できるかぎりその罪を贖って、佐々木の腐心に報いてやりたかった。

「『我を汝の心の上に印の如く置け。そは愛は死の如く強ければなり』」
 佐々木は少し考え込んでから、そう諳んじた。
「なんだそりゃ」
「雅歌の一節さ。といっても、僕も別の本で引用されているのを読んだだけだから、あまり明るくないのだけど」
「雅歌?」
「つまり、こういうことだよ。キョン、一度でいい。君が僕を愛していると言ってくれて、僕がそれを信じられたなら、僕はその愛を心の上に深く印そう。そうすることで、僕は君に会えないときにどんな辛いことが身に降りかかってきても、それに耐えることができる。
それは、君に会わなかった時間の長さによってさえ、弱められはしない。だから君は僕に気兼ねなんかしないで、自分がこれで良いと思うように行動すれば良いんだ」
 佐々木は天使みたいな微笑を見せて言った。
 瞬間、わけもなく泣けそうになった。そして、有難う、愛してると囁いた。恥ずかしくて二度と言えないような台詞も、そのときは恥ずかしいとは微塵も思わなかった。
 言われた佐々木のほうは流石に恥ずかしかったのか、はにかみながら言葉を継いだ。
「まあ、僕は精神面では凡人もいいところだから、限度というものも、もちろんあるけれどね。たとえば僕が耐えに耐えたあとで、君が僕の前で涼宮さんを優先させるような行動を一度ならずとった場合、僕はたぶん壊れてしまうだろう。気をつけたまえ、キョン」

 佐々木とは駅のホームで別れた。
 帰りの電車に揺られながら、疲れきった頭で今後のことをぼんやりと考えた。
 佐々木はどこかの難関大学に入学するだろう。自分の愛した学問の世界で、自分の夢を見続けられるように。
 あと約一年。その同じ大学の、せめて当落線上に乗っかれるくらいになるまで、今から自分の頭を叩き直してみるというのは悪くない考えかもしれない。どれだけ頑張ればそれが叶うのか、まるで分からないが。
 そんなことを考えていた。降りしきる雨は、しばらく止みそうもなかった。



(了)

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最終更新:2010年06月19日 11:01
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