57-173「君の知らない物語」

1.自転車の後ろで 


「本当はね、七夕は旧暦に祝うものだったんだ」
 夏休みの夏期講習も半ばを過ぎたころ、自転車の後ろに座っていた佐々木が、そんなことを
言った。
「へえ、そうなのか?」
「不思議に思ったことはないかい?梅雨明けは例年7月の半ばくらいだというのに、今の暦で
の七夕はそのまっ只中だ。その日に雨が降ったら『牽牛と織姫が再会できないことを涙する』
から催涙雨なんていうのだけれど、これではほとんど毎年、二人は涙に暮れることになるのだ
よ。天帝が与えた罰とはいえ、これではあまりにも二人が不憫とは思わないか?」
 天帝がそれだけ怒ってたってことだろ。とはいえ何故それほど怒髪が天を衝くに至ったのか
は、俺の記憶にはないがね。
「それはね、キョン。二人が逢瀬にかまけて、天帝から任された大切な仕事を怠けるようになっ
たからだよ。だから天の川の両岸に二人の住まいを引き離したのさ。年に一度だけ、七夕の日
にのみ会うことを許してね」
 くっくっ、と小さな笑声が聞こえてくる。
「僕が『恋愛感情なんて精神的な病の一種』だと話したのを覚えているかい?こういったエピ
ソード一つ取ってみても、『粗悪な障害物』といった思いを新たにするものさ。トロイア戦争
だってパリスとヘレネーの不倫が戦争の引き金になったのだしね。周りの人々をもまきこんで
しまうのだから、まったく本当に質が悪い」
 饒舌になった佐々木に反論したくなるのもいつもの流れだ。ま、口で敵うはずもないんだが
ね。

「だけどよ佐々木。周りにとっちゃ『仕事を阻害する障害物』でも、当人たちにとっちゃ一生
もの、というか、頭ん中がそれ一色になっちまう一大事だろ。無理に引き離して、それでも二
人はきちんと仕事をしたのか?それこそムカついて、天帝の仕事なんて放り出しちまいそうな
もんだが」
「そこが天帝の巧妙な所さ。キョン、年に一度だけは会えるんだよ。もし『二度と会ってはな
らん』という話であれば、それこそ二人は絶望して何をしたか分からない。そう、ロミオとジュ
リエットのようにね。だけど『年に一度は会える』んだ。それも最高権力者にして権威者であ
る、天帝のお墨つきでね。それでも二人はサボタージュを決行すると思うかい?」
 さて、どうかな。俺だったら年に一度しか家族と会えない職場なんて即座にオサラバしたく
なるものだが。
「でも真面目に勤め上げたなら、もっと頻繁に会えるようになるかもしれない。これはねキョ
ン、労働環境というよりもむしろ監獄生活なのさ。模範囚は罰が軽減されるものだろう?」
 なるほど、そう言われてみればそうかと納得してしまう。
「だから催涙雨を頻繁に引き起こすのは、天帝の差配ではありえないのさ。牽牛はともかく、
織姫は天帝の実の娘なのだしね。絶望して心中でもされたら困る。だからこれは無粋な人間の
仕業なんだよ、キョン。改暦したのに七夕の日付はそのままで設定した、お役人仕事の悪弊な
のさ」
 佐々木の手が俺の背中に触れる。俺は平静にペダルをこぎ続けたがね。動揺するほどのこと
でもないさ。
「そして今日が、その旧暦の七夕なんだよ、キョン」
 なるほど、確かにここ連日の晴れ続きで猛暑な熱帯夜すぎる夜空なら、間違っても催涙雨な
んてことはないだろうよ。
「それなのにこうも建物が多くては、二人の星も天の川も見づらくて敵わない。それでふと、
こんな話をしてみたくなったのさ」
 まぁ夏休みの講習はサラリーマン営業時間で、夕暮れまっしぐらの辺りがまだ明るいっての
もあると思うがね。
 家の前の上り坂に差し掛かり、俺は立ち漕ぎに切り替えながら、ふと口にした。
「なら、見に行くか?」
「え?」
「夕飯を食った後なら完全に暗くなるだろうし、少し高台にある公園にでもいけばよく見える
だろうさ。今日は俺ん家でメシ食ってくんだろ?なら、丁度いい」
「……」
「あ、それともあれか?やっぱ早く帰らないと怒られるか。なんなら俺が自転車で家まで送るぞ」

「……君はたまに、とても良いことを言うね」
 きついが短い坂が終わり、俺は再びサドルに腰を下ろした。当然佐々木の手は離れている。
「なんだそりゃ。褒め言葉か?」
「そう聞こえなかったとしたら、僕の国語能力もまだまだ改善の余地があるようだ。褒め言葉
が伝わらないほど空しいこともないからね」
 お前の国語能力に問題があるとしたら俺は日本人として最低限の日本語能力を持っているの
か不安になっちまうぞ。相対的な国語の点数差からいってな。
「いや、そんなつもりはなかったんだ。すまない。冷静に鑑みるに、やはりわたしの伝え方に
問題があったんだと思う。ただ誤魔化そうとしただけで、君の国語能力をあげつらったわけじゃ
ないんだ。いや、これも言い訳かな。とにかくすまない」
 そう言った佐々木の頭が背中にコツンとあたる。
 やっぱり行きたくないのか?それなら……。
「それは違う」
 やけにキッパリと佐々木は答えた。
「僕はとても行きたいよ、キョン。旧暦の夜空、七夕の本当の星空を見てみたいんだ。それは
僕自身が気付いていなかった、心の奥底にあった本当の望みだとも言える。だから、……キョ
ン」
 なぜか俺の背中に佐々木の掌が触れた。頭もそのままだ。
「誘ってくれてありがとう。喜んで同道させてもらうよ」
 両手で荷台に掴まらないと危ないのにな。そういえばお前さっき自分のことを“わたし”と
か言ってなかったか?俺はそんなことを考えていたけど結局何も言わなかった。佐々木も何故
か沈黙が苦痛ではなかったようで、それ以上は何も言おうとしない。
「そうだ、家ではこの事は口にするなよ。妹がついてくって騒ぎかねん」
「そうだね。わかった」
 短い受け答え。背中に感じる動かない頭と掌。
 なんなんだろうね、これは。



2.真っ暗な道のり 

 佐々木との事前打ち合わせが功を奏し、『お星さま見にいくの?あたしもいくー!』なんて
妹が騒ぎ喚く事態は回避された。
 しかしそれ以上に騒いではしゃいで喋りまくったのは母親だ。俺に渋面を引き起こしたうえ
佐々木をして苦笑いを浮かべさせて尚お袋は喋り続けた。夕飯前も、食事中も、食後のデザー
ト(むろん普段は出ない)とお茶の時も、そしていよいよ佐々木を送ろうかという時まで、喋
りに喋るのだから呆れるを通り越して俺は感嘆のため息をもらしたものだ。
 まあ『学校での俺の素行や評判』とか『塾での行状』くらいを聞きたがるのは構わないし、
『昔の俺の恥話』もまあ佐々木になら、口も堅いし一つ二つ話す分には我慢しよう。
 しかし『このままだと佐々木さんと同じ大学いけなくなるよ』とか、『女性を送る男の心構
え』だとか『あちらの御両親への挨拶の仕方』だのとの妄言は全く聞くに堪えないね。
 佐々木が笑顔で聞き流してくれたことが唯一の救いだよ。まったく。

「楽しい人だね、キョンのお母さんは」
「そうか?うるさいだけだぞあんなの」
 自転車を挟んで俺達は公園への坂道を並んで歩いていた。
「キミは贅沢だね、キョン」
「なにがだよ」
「普通を嫌ってる」
 いや、俺らくらいの年代は誰だってそうだと思うが?
「でもそんな普遍的なものにこそ、本当の価値は存在しているものだよ。キミも青い鳥の話は
知っているだろう?」
 ああ、本当の幸せは身近な所にあったって話か。こういう流れで聞くとお説教くさく感じる
ぞ。
「そうかい?」
 くつくつと佐々木は笑った。
「なら話を変えようか。せっかくのきれいな星の夜だ。どうせなら楽しい話がしたい」
「そうだな」
 それに否やのあるはずもない。
「アルタイルもベガも、本当は何万光年も離れているものらしいね」
 佐々木は笑みを浮かべたまま夜空を見上げた。

「だから僕らの見ているこの光は、もう何万年も前に、それらの星から放たれたものになる」
「そうなるな」
「もしかしたら今頃、その星は存在していないかもしれない。寿命を迎えて爆発してしまうか、
白色矮星に変わってしまっているのかもしれない。だけど今、僕らはそれを見ることができて
いる。何万年も前に放たれた光、その情景を。ねえキョン。もしかしたら遠い未来に、まるで
顕微鏡で小さな微生物を読み取るように、あの僅かな光から遠い過去の情景を読み取れるよう
になるかもしれない。そんな風に考えたことはないかい?」
「ああ。宇宙人でも写ってりゃ最高だよな」
「そうだね。あれらは太陽と同じ恒星らしいけれど、そこに未確認生物の飛ばした飛行物体が
横切っていたとしてもも何らおかしくはない。人類が飛ばしたボイジャーだって、どこかの天
体から見れば太陽を横切って見えるのかもしれないのだからね」
 振り向いた佐々木が、悪戯っぽく笑う。
「キミはまだ、宇宙人に会ってみたいのかい?」
「まあ……」
 けちょんけちょんに言われた“エンターテイメント症候群”の話を思い出す。
「だけどさ、いるんなら会ってみたいってのが人情ってもんだろ。まぁ、友好的か敵対的かは
さておくとしてだ。いや、仮に友好的な宇宙人だとしたら佐々木だって会ってみたいと思うん
じゃないか?」
「まあ誰かが会って安全だと充分に確証の得られた後になら、会うのにやぶさかではないよ」
「ファーストコンタクトはごめんってわけか。まったく、佐々木らしいな」
「そう、僕は慎重な女なのさ。自分の器はわきまえているからね。ファーストコンタクトだっ
て?それはつまり“地球人類の第一印象が僕で決まる”って話だろ?いやいや全力で遠慮した
いね。相手が友好的になるのか敵対的になるのか。その分水嶺を担うなんて荷が重過ぎる」
「でも驚きや未知との遭遇だぜ?」
「映画のように素晴らしいものとは限らないじゃないか。というか映画だって、『幸せな遭遇』
か『侵略とそれに対する防衛戦争』の二択ではなかったかい?その判断材料にされる“遭遇”
なんて、僕は遠慮したいね。全力で」

「相手が侵略者になるっていうなら、戦うのさ。そして外敵に対して一致団結する世界人類!
これこそ熱くなるストーリーってやつだろ?」
「勝てるならね」
「佐々木ってホント現実的だよな……」
「そんなことはない。僕だって夢くらい見るよ」
「へぇ?そりゃ良いこと聞いた。聞かせろよ」
「しんどかったーとか、怖かったーとか。そんな気分くらいしか残っていない代物さ。それで
も聞きたいのかい?」
「マジモンの夢かよ……」
「冗談だよ。でも、夢か……キョン、キミはあるのかい?将来こうなりたいとか、こうしたい
……そんな夢が」
「なんだ、俺が言うのか?」
「僕の夢が聞きたいのなら、先に対価を払ってもらわないとね」
「夢の話を振ったのはお前じゃなかったか?まぁいいか。……しかし、夢ねぇ」
「宇宙飛行士とか、漫画家とか、そんな夢でも構わないと思うよ。僕らはまだ若い」
「俺のことどんな風に見てんだよ。そんなガキっぽい夢は持ってねぇぞ」
「じゃあ、どんな夢?」
 冗談風味が10%にも満たないような眼で、でも笑いたいのを堪えるように頬を震わせなが
ら、佐々木が俺を見ていた。
 なんだかね。やけに食いつくじゃないか。
 とはいえそんな遠い将来のことなどそうそう考えるものでもない。そんな目標や計画がある
ならきっと成績が下降の一途を辿る事もなかっただろうし、塾通いをしながら志望校の合格率
が変移なしの水平線を描く事もなかっただろうしな。しかしこんな答えで佐々木が納得するは
ずもない。
「そうだな……」

 もったいぶるわけではないが、考えもしなかったことを心に問い掛け、何とか言葉に結びつ
けていく。
「本当はそんな将来設計がゼロになっちまうようなぶっ飛んだ出来事を期待してたんだけどな。
恐怖の大王が降ってくるとか」
「古い伝説だね。でも、もうその時は過ぎてしまった」
「ああ。だから俺だって少しは考えたさ。だがね。そうそう簡単に目標とか野心とかいうもの
は芽生えてはくれないらしい。せいぜい望むとすれば、高校に入ったら彼女を作って毎日を楽
しく過ごすってことくらいかね」
「彼女?」
 佐々木が揺れ動く紐を見つけた猫みたいな眼差しになる。
「キミが恋愛願望を持っていたとはね。これまでの中学生活からは窺い知れなかったよ。それ
とも僕には内緒で恋人探しに邁進していたのかな?」
「よしてくれよ。お前に隠し事ができるなんて思っちゃいないさ」
「そうだね、キョン。でも少し想像してしまったよ。キミが暇を見つけては口内をねり歩いて
目ぼしい女子にチェックを入れ、それを……そうだな、国木田あたりと情報交換しているのさ。
『3組の誰それはお前の好みに合うんじゃないか』『情報ありがとうキョン!お礼に今度うち
の姉を紹介するね』なんて会話をしたりしてね」
「あいつ姉ちゃんがいたのか?」
「ものの例えだよ、キョン」
 白熊の居住圏みたいな目つきで、佐々木が微笑んだ。
「やけに食いつきがいいじゃないか」
「いや、まぁなんだ、知り合いに予想もしない身内がいたと分かれば興味を引かれるものだろ
う?」
「まぁそういうことにしておくよ、キョン。年頃の少年が“お姉さん”に憧れるのは自然なも
のだからね」
「いや、だから別にそんなつもりは……」
 言いかけて、ふと思いつく。

「自然なものだってんなら、佐々木。お前はどうなんだ?」
「どう、とは?」
「年頃の少女が“お兄さん”に憧れたりはしないのか、って話さ」
「そんな機会がもしあったなら」くっくっと笑みを噛み殺し「理性を総動員して捻じ伏せるだ
ろうね。感情をコントロールするいい練習さ」
「……お前、本当に恋愛が嫌いなんだな」
 いつの間にか、公園にたどり着いていた。
「言ったろう?精神病の一種だと。なんならまた例を挙げて説明しようか?」
「遠慮しとく」
 目指す高台は、ここを突っ切ってから更に階段を登らなければならない。
 自転車を公園の入り口で止めて、鍵を掛ける。
「でもそんな心構えを崩すような大恋愛に出会うかもしれんぞ。そうなった時、佐々木のよう
なタイプはかえってどっぷり嵌っちまう気がするがね」
 二人並んで歩き出し、砂場を突っ切っていく。
「おや」
 突然、佐々木は顔を近づけてきた。「僕はもしかして口説かれているのかな?」
「なっ」
 俺が仰け反ると、ひどくおかしそうに佐々木は背中を丸めた。
「冗談だよ、キョン」
 長い睫毛にたまった涙を拭いながら、上目遣いで佐々木は笑った。
「冗談さ」

 

3.星空 

 階段を登りきると、そこが展望台になっている。
「……へぇ」
 隣で佐々木が目を細めた。
「中々いい場所だね、ここは。昼間なら海まで見えるんじゃないか?」
「まぁな。いや、今でも見えるはずだぞ」
 歩きながら指で示す。
「あの正面の……ああ、またビルが増えたな。でも微かに見えるだろ?水平線」
 俺の指に佐々木が顔を寄せる。
「どれだい?」
「一番大きなビルの、左隣」
「……ああ、なるほど。でも確証は持てないな。もし仮に平らで黒い建物だと言われたとした
ら、とても反論できないだろう?」
「確かに。まぁ俺は知ってるから確信あるけどな。また今度、明るい内にでも来るか」
「そうだね、是非」
 そうして崖の手前にある、柵にまで辿り着く。
「すごい眺めだね、キョン。僅かとはいえ星空が見下ろせる場所にあるよ」
「ああ、ここまで来るとけっこう星がたくさん見えるんだ。ガキのころ裏山めぐりをしていて、
そん時偶然見つけたのさ」
「裏山めぐり?」
「クワガタ探しとか、まあ昆虫採集だな」
 なるほど、と佐々木は一つ頷き、「キョンも野山を好む平均的少年だったわけだね」なんて
のたまいやがった。
 そしてまた夜景に目を向ける。
「でも、確かに居並ぶビルが無粋かな。昔はあんな物なかったんだろう?」
「ああ。だからさっきも言ったが、海がよく見えた」
「昼夜関係なく?」
「昼夜関係なく」

 なんだかそのまま海が見えるまで透視を試みようとするかのような眼差しをした佐々木の肩
を、俺は叩いた。そして上を指し示す。
「七夕の星を見るんだろ?言っとくが俺は見つけ方を知らんぞ」
 当てにしてるからな、佐々木。博識なお前のことだ。きっと目当ての二つ星どころか周辺星
座の神話物語まで語ってくれると信じているぞ。
「期待に応えたいのは山々だけど」
 弦月型に口を開いて。
「確かに知識はある。だけど、―――面目ないことに、天体観測なんて初めての経験なんだ。
夏の大三角は比較的見つけやすいものらしいけれど、さて、実際見つかるかとなると、……ど
うかな、自信がないよ」
「見つけやすいってんなら見つかるさ」
 カバンから双眼鏡を取り出す。我が家にあった唯一の代物だ。
「言ってくれ。どうすりゃいいんだ?」
 俺が促すと、佐々木は笑みを深めて少し下がるように指示を出した。
「まずは南向きに立つんだ。南はこっちでいいのかい?そうか。ならそこで天頂方向―――真
上を見上げるんだ。その辺りで一番明るい星が、ベガ……織姫さまだよ。何せ0等星だからね。
すぐに見つかるんじゃないかな」
 ああ、……あれか?
「見つけたのかい?」
 顔を寄せてきた佐々木に双眼鏡を渡して、空の一点を指差した。
「多分、アレだろ」
「うん、……そうだね。本当に明るい……」
 天の川も近いしな。
 ……ん?しかし佐々木よ、やけに静かだな。いつもの薀蓄はどうしたんだ?
 佐々木は口を噤んで双眼鏡越しに星空を見上げている。
「ええと、佐々木。次は彦星でいいのか?」
「……ああ、そうだね」
 佐々木が俺に笑みを向ける。なんだか今眺めた0等星が乗り移ったかのような笑顔だ。

「今、キョンは南向きに立っているわけだろう?」そう言いながら俺に双眼鏡を手渡す。
「そこからベガを見上げて、その左下―――南東方面へ移動した所にアルタイルはあるそうだ。
天の川の側なんじゃないかな」
 俺は早速見上げるが……んん?中々それっぽいのは……。
「ちなみに一等星だよ。ベガよりは暗いけど、それでも相当に明るいはずさ」
 うーん……。
 そういえば佐々木、夏の大三角ってことは、もう一つセットになる星があるのか?
「デネブのことかい?」
 そいつの見つけ方を教えてくれるか?
「デネブも一等星だけどアルタイルよりは光度が落ちる。見つけやすいとは思えないけどね」
 いいじゃないか。見つけやすさの相性みたいなのがあるかもしれん。
「そこまで言うのならいいさ、教えよう。ベガに視点を戻すんだ。そこから東北東、やや左上
の方にあるはずだよ」
 お、あれか?
「もう見つけたのかい?」
 いやまだ確証が得られん。佐々木。夏の大三角ってのは正三角形か?二等辺三角形か?
「確か……直角三角形だったはずだけど」
 てことは、あれがアルタイルか!分かったぞ佐々木!
「本当に分かったのかい?」
 ああ、完璧だ。見ろ。あれがデネブ、あっちが彦星だ。
「……よく分からないな」
 俺が指し示す先に佐々木が目を細める。
「んー、色か何かで違いがあればなぁ。どれも似たような色してやがる。彦星はホレ、天の川
のすぐ側だぞ。ほんと沿岸って感じだ」
 懸命に指し示してみせても、佐々木の眉は中々開かない。

「そういや佐々木」
「なんだい?」
「七夕の話だがな。両岸に二人がいて、雲もなく晴れている。だが天の川は―――こういうの
も変かもしれんが―――水が枯れてるわけじゃないんだろ?二人はどうすんだ?顔を合わせて
おしまいか?それともどちらかが泳いで対岸まで渡るのか?」
「確かに、泳いで渡るには辛い川幅だろうし、顔を見て終わりではあまりに切ない話だ。でも
ね、キョン。そんな話ではきっと語り継がれる事もなく、すたれて忘れられてしまったんじゃ
ないかな。人々は分かりやすい物語を望むものだからね。伝説では……」
 つと顎を上げる。
「カササギが、二人の橋渡しをしてくれるのだそうだ。白鳥座の両翼が天の川を横断している
から、それがそのカササギだとも言われているね」
「白鳥座ねぇ……。見つけ方は知ってるのか?」
「ああ。さっきデネブの話をしただろう?あれが白鳥の尾羽にあたってね……」
 佐々木の説明を聞くと、俺はすぐに残りの四つ―――いや八つか?―――の星を見つけるこ
とができた。おお、分かりやすい十字形だ。
「なるほどね。確かに天の川の両岸を橋渡ししてるな」
「そうだね。ただ僕は牽牛星が見つからないのが気になるよ……」
 その聞きなれない声に、俺は笑ってしまった。
「佐々木にも苦手なものがあったなんてな」
「キミが僕のことを過大に評価してくれるのはありがたいが、真実の姿はこんなものさ。あり
ふれた凡人といっても過言ではないよ」
「学年総合10位内が常連のお前を凡人呼ばわりなんて、学校でも塾でも認める奴はいないと
思うぞ」
「アンバランスなだけさ。そうじゃなければここで醜態を晒している説明がつかない」
「なんだ。俺が先に星を見つけたら、お前の醜態か?」
「ああ、非常に悔しいね。見つけ方を教えた者としては、何としても名誉を挽回したいよ」
「双眼鏡使うか?」
「……一応、借りておく」


 ……それでもしも、見つかったのなら。
 叶えたい願いを心に呟くぐらい、いいよね?
 


4.心の声 

 ―――でも本当の望みは違うよね。
 心が心臓のように脈を打つ。
 ―――知ってもらいたいのでしょう?


「佐々木、見つかったか?彦星」
「うん。……あったよ」
「そりゃ良かった」
 それにしちゃ静かだな。さっきまであんなに饒舌だったのに。
「考え事か?なんか、ぼーっとしてるぞ」
「そうかい?いや、キミがそう言うからには、そうなんだろうね」
「願い事でも考えてたのか?あいにくここには笹も短冊もないが」
「そうだね。短冊に願い事を書いて笹に飾り、その成就を祈る……遠い昔にしたはずの行為も
今は忘却の彼方だ。願いが叶ったのかどうかさえ思い出せない」
 おいおい本格的におかしなことを言い出したな。何を感傷的になってるんだ?
「キミは覚えてるのかい?かつて自分が何を願い、それが叶ったのかどうかを」
「まぁ……覚えちゃいないな」
「僕も、覚えちゃいない」
 弦月型に口を曲げて、佐々木が笑う。
「でも別に腹も立たなければ悔しくもない。そんなものなのさ。叶うとも思ってはいないし、
いつまでも引きずることもない。忘れてしまうんだ。そんなのはきっと」


 だから望む必要もない。いつか忘れてしまうんだから。
 ―――でも今すぐは無理よね。
 だからって言葉にする必要なんてない。
 ―――彼ならきっと聞いてくれるよ。
 僕はこのまま彼とは違う高校に行って別々の道を行く。自然な事さ。
 ―――本当に、それでいいの?


「寂しいこと言うなよ」


「え?」
「俺が思うにさ、願い事って、そん時自分が一番大切にしてる望みだろ?いわば本心だ。まぁ
俺も短冊に書いた願い事なんて覚えちゃいないし、小学校の卒業文集に書いた“将来の夢”み
たいに、思い出したら小恥ずかしくなる代物だとは思うがね。けど」
 佐々木の真似をして弦月型に笑って見せる。
「きっと無駄じゃあない。忘れちまうからするだけ無駄、みたいな言い方をするこたぁないと
思うぜ」
「キョン」
「何だよ」
「照れてない?」
「うるさいな」
 俺はまた空を見上げた。
「俺だってみんながいる所でこんなこたぁ言わねぇよ。ここにはお前しかいないし。それに…
…押し黙って眉間にしわ寄せてるお前見てると、なんかモヤモヤする」
「そう?優しいなぁキョンは」
「もう二度と言わん!」
「ふふ、そうなのかい?しまったな。ICレコーダーでも準備しておくんだった」
「……録音して何に使う気だお前は」
「もし高校に進学して、勉強についていけなかったり、些細な事で悩んだりした時に聞き直す
んだよ。それを励みに心を立て直すのさ」
「……悩みがあったら、電話くらいしてもいいんだぞ」
 だから恐喝材料を集めるような真似はやめてくれ。

「いや、いいんだ。キミはキミで高校に入った後、色々な物事や出来事に立ち向かって行かな
ければならなくなる。その時、僕の事なんかで煩わせたくない。それに意気揚々と進学校に入っ
ておいて、時も置かずに別の高校へ行った旧友に電話したり弱音をこぼすのでは情けなさ過ぎ
るからね」
「そういうもんかね」
 俺はいまいち納得できなくて佐々木を見たが、
「そういうもんだよ」
 佐々木が弦月型に笑うから、口を噤んだ


 ―――強がるのね。
 それが僕だもの。
 ―――それじゃあ、胸の痛みは治まらないよ?
 いいさ。どうせいつかは消える。


「さて、そろそろお開きにしようか」
 星空が見えるくらいだ。女子が出歩くにはどうしたって遅い時間帯といえる。
「ああ……そうだね」
 名残惜しそうに、佐々木はまだ星空を見上げていた。
「どうした佐々木。UFOでも飛んでたか?」
「いや、キミの興味を引くものはなさそうだよ」
 口の端を吊り上げて、佐々木は俺を見た。
「行こうか」
 ああ、と応えて二人で歩き出す。
 夜も深まったというのに、まだ蝉が力強く鳴いていた。

「ねぇ、キョン」
「何だ?」
「僕が北高へ行ったら、変かな」
 ん?と俺は首を捻って。
「おふくろさん、いいって言ったのか?」
「いや……」
「ま、そうだろうな。俺も佐々木くらい勉強できりゃ、そっちの高校選んだだろうし」
「……そうなのかい?勉強漬けになるよ、きっと」
「お前くらい勉強できたらって前提だぞ。そこまでやらなくても大丈夫だろ」
「分かってないな、キョンは」
 小さく笑う佐々木が、階段を先に下りていく。
「僕は必死に勉強して今の成績、学年順位を保っているのだよ。あんな進学校に行ったなら、
その競争が激化することはあっても沈静化することはないだろうね。より勉強ばかりの毎日に
なるというわけさ」
「やだな、それ」
 階段を下りると小さな公園。街灯に羽虫が集まっていた。
「……佐々木はそれでいいのか?」
「仕方がない。何せスポンサー様の御意向だ」
「そんな言い方はよせよ」
「でも間違ってない。くくっ、本当に、キミのお母さんがうらやましいよ」
「そうか?あんな母親でよければいつでも交換に応じるがね」
 俺みたいな息子なら多分、その教育ママ的情熱を何度も冷水に晒される心境に陥ったあげく
菩薩の如き境地に至るだろうさ。俺が肩を竦めると、なぜか佐々木は立ち止まっていた。

「ん、どうした?」
 初めて見る目つき、初めて見る顔で佐々木は俺を見ていた。逆光でよく見えなかったが。


 ―――真実はいつだって残酷だ。


「そろそろ声を落とした方がいいかもね。もう寝ている子供もいるかもしれない」
「ん、ああ、そうだな」
 俺達はぼそぼそと会話をしながら、自転車まで歩いていく。


『高校に入ったら彼女を作る』なんて、そこでどんな女の子に出会うつもりなんだろ?
『一緒の高校へ』なんて話をふっても全然なしのつぶて。
『キミの隣にいたいから、僕も北高へ行く』なんて言ったら、どんな顔するのかな?


「後ろに乗れよ。帰りは下りだから速いぞ」

「ああ。キョンのドライビングテクニックを堪能させてもらうとしよう」
「おお、任せとけ」


 でも、真実は残酷だ。
 困るに決まってる。キミのそんな顔も好きだけれど、でもその時だけは、絶対に見たくない
んだ。


 降り落ちてきそうな星空の下を、快速で自転車がとばしていく。
 佐々木は無言で荷台の端を掴んでいた。


 ―――この時が最後のチャンスだったのに。

 

5.今でも 

 ……いつからが夢だったのか。
 目蓋を開ければ巨人の肩に乗っていた。“巨人”だなんて突拍子もない存在だけれど、なぜ
か親近感しか覚えない。
 巨人は鼻歌を歌っていた。耳に馴染むメロディ。
 眼下には見覚えのある町並みが広がっている。だけどそれらは一様に輪郭だけが浮き上がっ
ていて、後はオックスフォードホワイト一色に染まっていた。
 でも空は違う。満天の星空が広がっている。
 巨人の肩は空に近くて、ほんの少しだけ空と町の際を見下ろせるくらいの高さ。
 見覚えのある高さ。そこには邪魔なビル群もない。
 海が見えた。星空のように黒い海。
 ―――そういえば結局、海は見に行かなかったな―――
 そんなことを考えて、空を見上げる。
 天頂付近にベガ、左下にアルタイル、左上にデネブ。すぐに見つかる。
 ―――あの時願い事をしていたら、叶ったのかな―――
 取り留めのない事を考えて、思わず苦笑い。
 今でも覚えているよ。あの夏の日、煌く星。笑った顔、困った顔。
 もしあの日に戻れたとしても。
 きっと僕は同じ事をする。

 静かに目を開けるとわたしは目の周りを拭った。ベッドの上に体を起こし、今度は頬を擦る。
遠い思い出。何度も見た夢。主観が何度も入れ替わり、モノローグと心の声が入り乱れて混沌
とした物語。だけどそれも薄れて遠ざかる。夢は忘れるものだから。

 もう夜は明けていた。小鳥の鳴き声が聞こえる。春の日差し。それにようやく街の温もりが
追いつき始めた季節の、代わり映えのしない一日。
 塾しかないのに、平日と同じように目が覚めてしまった。だけどそれだからといって二度寝
なんかしない。
 僕は誰かさんとは違うからね、キョン。
 机に置いてある年賀状に目を送り、立ち上がる。携帯の番号が書いてあれば良かったのにな。
でもそんな事したらプライバシー的に多大な問題があるよね。なんてとりとめのない事を考え
て、そしてそれが今の距離感かなとも考えて。
 みんな溜息で振り払って部屋を出る。こうやって、これからどんどん離れていくんだ。来年
は返事も出さない方がいいかな。もしかしたら向こうからも来ないかもしれないけど。もう一
回眦を擦った。どうせ忘れる。どうせ消える。心がそう教えてくれる。
 ―――いつか、夢にも見なくなる。

 進級して時間割の変わった塾に合わせて、遅めの出発時間。自転車を漕ぎながらほんの少し
だけ考え事をする。
 新しいカリキュラムの事。昨夜やった学校の復習と塾の予習。
 話に聞く、涼宮ハルヒという女の子の事。
 ―――曰く、学校中の部活に入ってすぐ辞めた、バニーガール姿でチラシ配りをしていた、
SOS団なんていう“不思議探偵”クラブを立ち上げた、草野球大会で優勝候補のチームに圧
勝した、体育祭のクラブ対抗リレーで陸上部に勝って優勝した、変な映画を撮って上映してい
た、バニー姿でバンド演奏していた、節分には豆まき大会、バレンタインにはチョコレートの
配布会、そして生徒会との諍い、即日配布完了した文芸部の機関紙―――
 これら全てに彼女は主体的な役割を務めたというのだ。どれだけアグレッシブな子なんだろ
う。中学時代から色々と問題行動を起こしてはいたらしいけれど。
 わたしとは正反対なんだろうな。溜息が陽光に消えていく。

(キョン、キミが思い描いていた“彼女”は涼宮さんなのかな?ずいぶん破天荒な人みたいだ
けれど、万事世を眇めて眺めるキミにはお似合いなのかもしれないね。面と向かってはまだ無
理だけれど、いつかオメデトウを言わせてもらうよ。
 僕も“彼氏”と呼べる存在を探すべきなのかな。男言葉で距離を測るなんて事は止めて。で
もキミになら分かるだろうけれど、いや、キミには分からないかな?僕には本当に、そんな存
在は必要ないんだ。
 あの時胸を痛めた“願い”からも、遠ざかってから二年近くになる。毎晩見ていた夢も、今
では月に一度見るか見ないかだ。
 いつか忘れるのさ。あの時確信していたように)

 月極めで契約した駐輪場の手前に、別の有料駐輪場がある。違法駐輪に業を煮やした役所が
設置したものだけれど、まだ芳しい効果は見せていない。
 駐輪場の通路や歩道まで自転車が溢れているようではね。
『割れた窓』理論なんていうけれど、これでは料金を払ってまで正規の場所にとめる人は少な
いんじゃないかな?まあ、しばらくは取り締まりとのイタチごっこが続くんだろうさ。そんな
ことを考えながらスピードを落とす。
 そこに一人の男の人がいた。青年か大人かはいまいち分からない。強いて言えば―――同い
年くらいに見える。

 彼は違法駐輪を押しのけて、自分が通れるように整列し直して、自分の自転車を正規の置き
場所へと運んでいた。
「やれやれ」なんて溜息をつきながら。
 わたしは自転車のスピードを緩めて足を地面につける。月極めで契約した駐輪場は、もうす
ぐそこ。そのまま通り抜けられるスペースは充分にあるから必要もないのに、わたしは自転車
を降りて歩き出した。排気ガスばかりの街中で、なぜか深呼吸一つ。でもそれがおかしくて笑
いが込み上げて咽てしまった。だけどその男の子は振り返らない。そういう子なんだ。見間違
えるはずもない。


 ―――忘れるんじゃなかったの?
 心の声がする。
 ―――どうしたいのか、言ってごらんよ。
 意地の悪い、くつくつという笑い声。


 でも胸の高鳴りがうるさくて、それらに耳を貸す余裕がなかった。
 わたしはもう一度深呼吸をして、勝手に張り付いた満面の笑みの頬をマッサージして押さえ
込む。そして咳払い。声が震えるなんて冗談じゃないからね。
 でも若干広くなったその背中は、こちらを振り向く気配すらない。
 だからわたしはすぐ側まで近づいて、囁くように声を掛けたのさ。


「やぁ、キョン」

 

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オマケ)自転車を止めて小銭を払い、中学時代の四方山話。

「そういや佐々木、昔お前が言ってた七夕の話、覚えてるか?」
「…………」
「どうした?」
「ああ、覚えているとも。それがどうかしたのかい?」
「それなんだがな、お前『ベガとアルタイルは何万光年も離れてる』とか言ってなかったか?
あれなんだが、高校のツレが『ベガまでは約25光年、アルタイルまでは約16光年』とか言っ
てたんだ。で、調べたんだがやっぱり『何万光年』は離れていないらしいぞ。珍しく間違えて
覚えてたんじゃないか?」
「…………」
「佐々木?」
「くっくっくっ、そのツッコミは1年と8ヶ月ほど遅いな。あの場ですぐツッコまれるものと
ばかり思っていたけどね」
「なんだよ、意地が悪いな。ひっかけかよ」
「そうさ。ちなみにベガまでの25光年とは、分かりやすく直すと250兆kmという遠大な
距離になる。それでも銀河系の中心までが2万8000光年、隣の銀河である大マゼラン雲ま
では約16万光年という膨大な距離なのだから、まぁご近所さんといえるのかもしれないね」
「なるほど。でもいつもなら引っ掛けた後『まんまと騙されたね、キョン』なんて笑うよな。
なんでこれだけ種明かしを先延ばしにしたんだ?」
「…………」
「お、どうした佐々木?」
「その後の会話の流れというものがあったからね。うん。僕も忘れていたんだ」
「そうかい?」
「そうさ」
「佐々木」
「なんだい?」
「顔が赤い」
「…………」
 咄嗟に頬を押さえ、ハッと息を呑んで睨みつけて。
「くくっ、引っ掛かったなって痛ぁ!いきなり叩くことねぇだろ!」
「蚊がとまっていたんだよ。本当さ」
「……春なのに?」
「珍しいよね。逃げられてしまったけど」
「「…………」」
「そうかい」
「そうさ」

オシマイ)

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最終更新:2011年01月22日 21:11
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