目覚ましのベルが鳴るより早く、僕は床を抜け出す。
さて、今日は火曜日だ。
「いってきます!」
暖かく輝く空の下、らしくないくらい足が軽い。いつもより薀蓄が冴える。
それは火曜日の特徴だ。
「そうかい? 嘘は言っていないつもりだよ?」
「まったくキミという奴は」
中学校。いつものように隣の机に肘をつき、乗り出すように覗き込む。
キミの表情はいつも通りの困り顔さ。
休み時間を楽しく過ごし、机を合わせて給食を食べる。
食事中に喋るだなんてはしたない? くっく。そんな事を言うなら一度彼と話して見るべきさ。
きっと誰でもこんな気分になるのだろうと僕は確信しているね。
これは僕にとって何より貴重な時間なんだ。
でも、火曜と木曜は特別だよ。
下校時間があるからね。
二人で彼の家まで歩き、それから自転車に二人乗り。彼の荷台が僕の席。
さて、どんな話をしよう。どんな顔をしてくれるかな?
「安心することだねキョン。キミの考えはきっと正しいさ」
「くっく。キミが思うならそれでいいよ」
自転車だから顔は見えない。
けれど、くく、きっと困った顔をしているのだろう。
なんとなく額を預けてみる。体温が上がってゆく。そうだね。きっと困った顔だろう。
「くくっ」
なんて素敵な空間だろう。
そうとも、ここは僕の場所だ。僕の居場所なんだ。誰でもない僕の場所なんだ。
限りある今を満喫するのは子供の特権だ。
だから、僕は今、この心地良い空間をたっぷり楽しむべきなんだ。
たった十数分の道のりだけど、十秒を、十分のように感じたい。もっともっと、あらゆる知覚を動員して。
今を、もっと感じたい。
『佐々木さんらしいね』
ふと思い出す。
いつか国木田くんが僕をこう評した事を。
旧交を温め、想い出を語る僕に向かって「佐々木さんらしいね」と。
そうかもしれない。
何故なら僕は「中立」だから。
女には女の、男には男の言葉と思考で、常に「対等」にあろうとした。
それは僕の主義であるとも言えた。それは思考のノイズを抑え、思考に適した状態を僕に生み出してくれるからだ。
だがそれは、深い関わり合いを放棄するという事でもある。
何故なら僕は「中立」だから。
おかげで思索にたっぷり浸れる。
代わりに深い友誼や思い出というものがイマイチ少ない。
だから僕は、いくつかの楽しい思い出を、繰り返し楽しむことの方が多いのかもしれない。
まるで、大きなパンに、ほんの小さなクリームを精一杯に広げて塗るように。
オックスフォードホワイト。クリーム色をとことん希釈させたような、セピア調の明るいこの空間のように……。
『佐々木!』
「どうしたんだいキョン? 後ろを向いちゃ危ないよ?」
あれ? なんでキョンに顔があるの?
あれ? 何故? キョンはこんな顔だったかな?
「キョン。急がなくちゃ塾に遅れてしまうよ? それとも僕ともっと話したいとでも言うのかな?」
『冗談言ってる場合か! 一緒に戻るぞ!』
「戻る? 家にかい?」
『違う! 現実にだ!』
急速に認識する。急速に理解する。
あの日、彼の自室に押しかけた僕がした事。してしまった事。
キョンの信頼を逆手にとって、口先三寸で丸め込み、理屈詰めで「強奪」して成り上がった「神様の力」の事……。
彼女から奪いとった「願望を実現する能力」の事を。
『同意しろ現地人』
強奪条件は僕とキョンの同意。
彼らはキョンを「脅迫」して同意を迫った。
だって彼は同意しないから。彼はエンターテイメント症候群であり「非日常」を愛する人なのだから。
僕だって同意しなかった。
なのに藤原くんは僕を「脅迫」なんてしなかった。思えばそれは、僕の本心が「同意」していたからだったんだ。
僕の本心には心から「望むもの」があり「神様」になりたがっていたのだから。
キョンは同意しなかった。
結局、僕は彼を騙した。彼を「同意」させ、願望実現の能力を奪ってしまった。
僕は欲しかったんだ。欲求が希薄な僕が、はじめて心から欲しいと思った、最高の「ご馳走」を。
ああ、なんて解り易いトリックスター。
神や自然界の掟を破り、誰かを騙し、物語をひっかきまわす道化者。トリックスター。
ああ、なんてズルい仕掛けだろう。
一度奪ってしまえば、意外と「逆」は難しいのだ。
だって涼宮さんは、まだ「自覚」に至っていないのだから。
彼女に「同意を得る」という事は、彼女に「神様になりたい」と強く自覚させなければならないのだから。
「キョン。何を言っているのかな? 塾に遅れてしまうよ」
『佐々木!』
ああ、何を言っているんだ。
「それは確か北高の制服だろう? そんなもの着て、いったいどういうつもりだい? キョン? キミは何を」
『佐々木!』
ああ、何を言っているんだ…………キミは。
僕と塾に行くのだろう?
さあ自転車の荷台に乗せてくれ。一緒に行こう。
もう、私から先に降りたりなんかしないから、だから荷台から降ろさないでおくれ。
キミと二人乗りするバランスを崩すのを、怖がったりなんかしないから。
……彼を捕らえているのは、カチューシャをつけた女神様。
……そうだよ、私が憧れたあなたなら、居場所なんて作れるでしょう?
あなたは「仮面」なんて付けなくても友達がいるのでしょう?
そうよ、彼の隣じゃなくても良いでしょう?
お願いだから返してください。
勝手だけど返してください。
だから、キョン、私を憎まないで。キョン、キミだけでいい。身勝手だけど信じてください。
お願いだから――――お願いだから、信じてください。
お願いだから――
『……ああ。そうだな。一緒に行こうぜ」」
「うん。急がないと時間がないよ」
「おう。急ぐぞ佐々木!」
「しかしそんな制服、どこで手に入れたんだい?」
ブツリ、と何かが千切れた気がした。
私たちを包む大きな何かが、もっともっと大きな何かから、切り離された気がした。
誰かの声がする。とてもとても聞き覚えのある声
『キョン、世界を変えるのは別にいいさ。
ところがね、使い勝手が悪いのは、世界を変えてしまえば、自分自身も変わってしまうって事なんだよ。
そして自分自身の変化に僕は気付けないんだ。僕は世界の要素のひとつである故に、世界が変われば僕自身も変わってしまう。
世界を変化させた事に自身が気付けないジレンマ、力を持っても、決して認識に至ることはないのさ――――』
とても大事な事の気がした。
でも、そんな事はどうでもいい。
キョンが傍に居るのだから。これは僕とキミとの物語なのだから……。
)終わり……?
最終更新:2012年03月23日 18:30