66-779「キョン、自分自身こそ厳しく律すべきだよ」

「やれやれ」
「こらキョン、そうダレていてはやれる事も出来なくなるよ?」
 中学三年の一月、寒空、軽く粉雪の降る中をそれでもやっぱり僕らは自転車で二人乗りをしていた。
 これはそんなある日の出来事。

「と言ってもそろそろ受験だ。俺だってナイーブになったっていいだろ?」
「くく、ナイーブ? 繊細って柄じゃないだろ」
「ほっとけ」
 他愛もないじゃれあい。
 でも、こんな時間が今僕は何よりも好きだった。

 期限付きのじゃれあい。
 そうとも、もうすぐ受験を迎え塾が終わる。もうすぐ進学となり中学生活が終わる。馴れ合いが終わる時間、タイムリミットは刻々と近付いている。
 けれど僕らは変わらない。変えるつもりなんかない、好意を彼に振舞うつもりなんかないんだ。
 だって、期限付きの関係なのだから。

「なら俺はどんな奴だってんだよ」
「くっくっく、僕にそれを聞くのかい?」
 質問に質問で返す。するとキョンは何を察したのかまた例のアレを言った。

「やれやれ」
 そうさ、僕らはこんな関係でいい。
 あの雨の日、それでいいんだって決めたのだから。

 これ以上踏み込んだら、きっと「佐々木」に戻れない。
 あの雨の日のように「佐々木」じゃなくて「私」を見てって叫びだしたくなってしまう。
 きっと昔の弱い「私」に戻って、彼に依存してしまう。きっと彼に依存して、離れただけで「寂しい」などと思う弱い私になってしまう。
 迷惑なんかかけたくない、寄りかかるんじゃない、急かすんじゃない、例え向かう先が違ったっていいんだ。
 彼といつ出会っても、いつでも並んで歩ける僕でありたい。

「キョン、そろそろ受験なんだ。むしろ自分に厳しくすべきだよ」
「お前そんなに正しい事ばっかり言って疲れないか?」
 まるで内心を見透かしたような言葉。
 ふふ、これだから面白いんだね。

「言われっぱなしの俺はそろそろ限界だぜ」
「そう言うがねキョン、そうだな、自厳他寛という言葉を知っているかい?」
「ん? 自厳他愛?」
「惜しい、自厳他寛だ」

「他人には優しくするのもいいだろう。人間は寛容であるべきだ。
 けれど自分自身はむしろ厳しく律すべきだよ、でなきゃ人間、ダメになるというものだからね。
 得てして他人に厳しい者は自分自身にも厳しく、同様に他人に優しい者は自分にも優しいものだ。でもそれでは上手くいかないものだろ」
 我ながら可愛くない物言いだ。けれどこれも僕の本質なんだよ。

「こういうのを自厳他寛と言う。儒学者である佐藤一斎が言志四録の中で遺した言葉だよ」
 そうさ、この強い強い「佐々木」である事も僕の喜びの一つなのだ。
 強くあろうとしなければ、すぐ私は感情に流されるから。
 そう、だから僕は理性的であるべきなのさ。

「その理屈だと、佐々木は他人、つまり俺には優しくすべきじゃないのか?」
 キョンが屁理屈を返す。そうさキョンはいつもちゃんと聞いてるから、だから理屈を返してくれる。
 それも一度や二度じゃない、いつも、いつでも、いつだって、頑固で意地っ張りな僕にちゃんと向き合ってくれる。だから僕は

「おいおい悲しいことを言わないでくれよ、キョン、キミにとっての僕は友達じゃなくて他人なのかい?」
「そりゃ言葉の綾だ、別にそんな意味じゃねえよ」
 ちょっとだけ動揺した声が嬉しかった。

「それより急ごうじゃないかキョン。今日は塾が、すぐには受験が、残酷なる未来が僕らを待ってるよ」
「やれやれ。俺にはナイーブになる暇さえないのか」
「くっくっく」

 そんな、クールを装った僕の時間。
 けど別に今の関係が嫌いという訳でもないのだ。例えどこかフィルターを通した関係であったとしても、僕らは楽しい。
 せっかく生まれたこの空気を、彼との世界を壊したくなんかないのも確かなんだ。
 この世界は、あー、そうだ、とても好ましいのだから。


「(ナイーブか)」
 雪がちらつく窓の外、ふと思い出した冬の記憶。
 今は高校二年の冬の空。ナイーブ、それは繊細で傷付き易い様、或いは素朴で素直な様を示す和製英語。

 けれどキョン、キミはその語源を知っているかい?
 それはとあるフランス語の女性形。ナイーヴ、素直や無邪気という意味だけじゃなく、鈍感って意味もあるんだよ?
 キミがもし意図して言ったのだとしたら、僕はどうリアクションすれば良かったのだろうね。
 まったく、彼の鈍重な感性にはいつも気を揉ませられるよ。

「くくっ」
 ま、語源の方のナイーヴには「お人よし」や「バカ正直」って意味もあるんだけどね。
 そっと携帯電話を取り出す。さっき電話を鳴らしたのは、キョンからを意味する個別着信メールの音。
 メールを見て下校後の予定を組み立てていると、また僕の顔面筋が勝手に笑顔に変わっていくのを感じてしまう。

 そうさ。クールを気取る僕だけど、うきうきしているのは認めるよ。
 だって今は離れているのだから、だから「佐々木」じゃなくたって構わないもの。彼に会うまでに再起動してやればいい。
 それまでは、ただの一人の女の子でいたっていいじゃないか。

 自厳他寛。自分に厳しく他人に優しく。
 だけど厳しくあるだけじゃ、理想だけじゃあ疲れてしまう、意地を張り続けちゃ、逆に彼を心配させてしまう。
 それじゃ逆効果なんだって、たまには「私」でもいいんだって僕は知った。
 私情を隠しきれるほど、僕は「僕」ではなかったのだ。

『じゃあ、僕はこれから塾に行かなきゃいけないんでね。話が出来て、嬉しかったよ、キョン』
『じゃあな、親友! また同窓会で会おうぜ』
 それは、僕があの春の別れで見せてしまったセンチメンタルな感情。

『んん、もう!』
『え、橘さん? ……キョン?』
『佐々木、あんなセンチメンタルな別れなんかで騙されるとでも思ったか?』
『俺はお前に迷惑なんかかけたくねえと思ってる。けどな、お前が俺にそんな心配をしてるならお門違いってもんだぞ、佐々木』
 それは、あの春のセンチメンタルな別れでキョンに心配をさせてしまったから起きた事件。
 ぶっきらぼうに撫でられた記憶、思い出すだけで幸せに浸りたくなってしまう事件。

 僕は知った。
 自分に厳しくあるだけじゃ、硬い硬い枝でいちゃ、しなれず折れてしまうこと。
 そんな危うい姿じゃ、逆に彼に心配させてしまうって事。
 私だって、僕であるという事。
 わたしはわたしという事。

 何事もバランスさ、だから今は「私」でいい。
 彼に会う時「佐々木」である為、今は「私」でいたっていい。
 もっとも、いつかはキョンの前でも「私」でいたっていいんじゃないかな、なんて思い始めていたりもするのだけれどね。くっくっく♪
)終わり

 驚愕及びムック本「観測」の発売後、2012年5月時作成。
 観測はともかく、春~冬に起きたという事件については驚愕ラストにある件のキョンの台詞から「何か」が起きたという解釈で。

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最終更新:2012年05月11日 01:07
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