66-819「ふむ。この自習室は暖房がよく効いているね」

「こらキョン、起きたまえ」
 対面で眠る彼からの返事はない。
 まったく、模試で解らなかったことがあると聞いてきたのはキミではないか。
 なのにキミが寝てしまっては話にならないだろう……?

『迷惑かけて悪いな』
『くっくっく、別に構わないよキョン』
 それは土曜日の塾が終わった後、塾の実習室、パーティションで区切られた一室での事だ。
 珍しく勉強についてキョンから自主的な質問があり、僕が答え、それを実際の問題へと反映させるというサイクルが行われた。
 が、三サイクルほどでキョンが居眠りして途切れてしまった、とまあこういう訳さ。
 まったく我ながら困った友人を持ったものだよ。

「こーら!」
 強めに呼びかけてもピクリともしない。
 そういえば、日頃から朝は妹さんの暴力的行為で叩き起こされているとか言っていたな。
 もしやよほどの衝撃でなければ目覚めさせるのは困難なのかい? しかし暴力は僕の望むところではない。
 まずは頬を軽くはたいてみようか。

「キョン、キョン、起きたまえ」
 ぺちぺちべちべちぱちばちばちと徐々に強くしていったが起きない。
 そういえば今日は土曜か。週休二日ゆえ塾に入るまでは休みの日だった曜日だ、キョンには厳しい日取りなのかもしれないな。
 しかしだ、それでもこの場はタイムイズマネーの法則を適用しよう。
 僕もキミの友として心を鬼にしなければなるまい。

 かくなる上はと参考書を振り上げる。
 さて、丸めてはたくか、威力重視で角で行くか、そこが問題だよキョン。さあ

「ん……」
「ん」
 ふと。そういえば、こんな風にキョンの顔を見下ろすのも久しぶりかもしれないな。
 塾に通い始めた当初は寝てばかりだったが、やがて春が過ぎ、夏が来て、秋を越えた辺りからは流石に身が入ってきた。
 そうとも、このようにわざわざ自習するくらい身が入ってきたのだ。
 だからこんな風に寝こける彼を見るのは久しぶりであり……。

 うん。だからだ。
 だから私は手を止めたのだ。だからこうして見つめているのだ。そこに他意はない。
 それにね、適度な休息は心と身体を休めるというものだろ。だからこの行為を僕は友人として許すべきなのだ。
 僕とてキョンに嫌われたくは、いや、そう、せっかくの友達に嫌われたくなんかない。

「ねぇ、キョン」
 返事は無い。ただ安らかな寝息が返ってくるばかりだ。
 漫画とかならここで僕の名前でも呼んでくれるのだろうけれど、キョンのような鈍重な感性の持ち主にそこまで期待はしない。
 鈍重な感性の……といっても彼は決して無情でも愚鈍という訳でもない。

 むしろ彼は聡い。その聡さゆえに冷めて斜に構えるような人だ。
 世の中の無情さをさっさと先回りして知ってふりをして諦めてしまうような、そんな人だ。
 他人に対しても、いや特に自分自身に対してさえ、どこかそんな先回りを利かせている節がある。

 そんな彼が、今、私の目の前で眠っている。
 決して格好良くも可愛い訳でもない、どちらかといえば「間抜けな」とでも呼ぶべき寝顔。
 けれど二人きりの時にそんな寝顔を見せてくれるのが、そんな彼の、私へのほんのちょっとの信頼感の表れであるのなら……。
 私の前でなら無防備でいても良いと、無意識にでも思っていてくれるという事ならば……。
 なんとなく、本当になんとなく彼の髪に触れてみる。

『……私のものだ』
 どこかで誰かが呟いた気がした。すごく聞き覚えのある、けれどはっきり「女」を匂わせる、私自身の声が……。
 ふつふつと何かが胸内を満たした気がして、私は自分に急停止をかけた。


「うん?」
 そんな暖房のよく効いた暑い部屋でじっと見つめていると、キョンの口元に異変が生じた。いかんヨダレがノートに落ちそうだ。
 すぐさまハンカチを取り出し、起こさぬようそっと彼の口元を拭ってやる。
 そんな二人きりの自習室で彼の口元に手を添えた僕の図。

 ……って私、今、何かすごく恥ずかしい事をしているのではないだろうか……?

 思わず周囲を見渡したが、当然ながら周囲には区切られた小部屋の壁があるだけだ。
 というかこの行為こそむしろ「恥ずかしい行為」だよね。
 うん、落ち着け私。

 キョン、まったくキミという奴は。
 さすが我が友というべきか? 意識がないというのにこの僕に恥をかかせるとはなんて奴なんだ。
 くく、だが僕とてただ辱しめられているだけの小さな人間ではないよ。
 目には目を歯に歯を、ここはハンムラビ法典に従おうじゃないか。

 では彼に恥をかかせてやるにはどうすればいいだろう。
 そうだね、今この場には僕ら以外に誰も居ない、なら「外に出てから有効になる」ような行為が望ましいはずだ。
 例えば、そうだね、確かカバンに母からもらった口紅が潜めてあったはずだ。
 くっくっく、僕も遺伝子的には女性なのだからね。

 あったあった。
 そう、僕は遺伝子的には女性なのだよキョン。
 だからその利点を活かし遺伝子的に男性であるキミを辱しめる行為をだね、この口紅を使って、そう……。



「ささき、おい、ささき?」
 何だい、起こすならもっと素直になれないぶっきらぼうで大人ぶったしかし心根は優しいツンデレ少年風に頼むよ。
「……今のアホな台詞は聞き流してやるからさっさと起きろ」

「おや、おはようキョン」
 何で人の部屋にいるんだい?
「ここは俺の部屋だ」
「おやそれは失礼」
 そうそう、そうだったね。
 ここはキミの部屋、そして今は中学ではなく高校の三年だ。

「すまんな。自分の受験勉強で疲れてるだろうに、俺なんかの勉強まで見てくれてるんだから」
「ストップだよキョン」
「む」
 ぴっと人差し指をつきつけ軽くカサついた彼の唇を塞いでやる。

「何度も言うが僕にとっては決して迷惑なんかではない。それに誘ったのは僕だ。
 これは僕にとっても見直しとして非常に重要だと言ってるだろう? それに現在試行している勉学の体制をキミに転用・適用する事で
 僕自身のやりかたも見直せるのだ。これは決して迷惑なんかではない。そうとも何度も言うようだが僕はキミに迷惑など」
「わかった降参だ」
 両手なんかあげて大げさだねキミも。くっくっく。

「いいかね、僕だって迷惑だと思ったら口にするさ、だからだね……」
「いいから顔でも洗ってこいよ。可愛い顔が台無しだぜ?」
「含みのある言い方だねえ、まあ僕とて従うにはやぶさかではないけれど」
 にしてもキミのジョークは毎度ながら面白みに欠けるねキョン。
 が、確かに顔がちょっとベタベタするのは確かだ。
 寝汗かな?
「では洗面台をお借りするよ」
「おう。ちゃんと返せよ」
「くく善処する」

 善処ってなんだよ、という声を背に受けて階段を下り洗面室を覗き込んだ僕だが、鏡を見て
「……やられた」と声を上げてしまう。

「まったく、いつかの仕返しかい?」
 思わず人差し指で唇をさする僕の頬には、透明なリップクリームでテカテカした花丸が描き込んであったのだった。
 しかし、その真ん中にどこかカサついた感触の名残を感じるのは果たして僕の気のせいなのかな?
 まったく我ながら困った親友をもってしまったものだよ。くっくっく。
)終わり

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最終更新:2012年05月13日 01:23
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