67-555「ホント、素直じゃないんだから」

 初めて彼の胸に沈み込んだ時の事を今でも鮮明に思い起こせるのは、我ながら記憶の妙、不思議なものだとしみじみと思う。
 ああそうだ、僕がぼろぼろと涙をこぼしたものだから、キョンは柄にもなく大慌てになったものだった。
 その様子があまりにも心地良く、悪甘いと。ロクでもない僕の心はそんな思いを感じたものさ。
 ぎゅっと抱きしめた感触、温かさ、匂い、どれもたまらなくてね。
 これが僕のものなのだと思うとぞくぞくとした。

 ただ隣にいるだけで、語り合うだけで、頬が緩み、笑顔が止まらない程度には幸せになれる自分は知っていた。
 けれどやっぱりその一歩先は、もっともっと心地良かったのだ。

 ああそうだ、ここだ、ずっとずっとここが良かった、ここに来たかったのだって。
 ようやくたどり着けたのだと、とてもとても嬉しかった。
 日々を重ねた甲斐があったなって思うと
 笑顔も涙も止まらなかった。

『ねえ、キョン』
『なんだ佐々木』
『くく、確かに僕は頑固者かもしれないね。生き方も夢も。自分で決めたものに対して、僕は結構頑固なんだ』
『知ってるよ。だが、今度は俺から提案をさせてくれんか』
 すっぽりと僕を腕で包み、彼は言ったものだ。
 そっけなく髪を梳く指が心地よい。

『決めるのはお前だ。けど今後は俺にも考えを聞かせてくれ。俺にも考えさせてくれ。……たまにでもいい。俺にも相談してくれ』
『ふ、くく、逃がさないよう人を捕らえておいてそれを言うのかい?』
 だがそれは魅力的な提案だ。実に、魅力的な提案だよ。
 キミがそれを望んでくれるのならね。
『なあ佐々木』
『うん?』

『要は、なんだな。一人で考え込むなよ。俺じゃ頼りないかもしれんがな』
『……うん』
 頼りないなんて事はないよ。むしろ……おっと。
 うん。そう、魅力的だ。実に、ああ、実に魅力的な提案だね…………。
 ………………
 ………


 それから唇を重ねて、一つ一つ日々を重ねて、時には一つ一つ答えあわせをしていった。
 難解な僕を一つ一つ彼に明かすのは、たまねぎの皮をむくよりもよほど涙腺を刺激したけれど、よく煮たたまねぎよりもよほど甘かった。
 難解な彼から一つ一つ言葉を引き出す度に、僕も彼も熟したトマトのように赤く染まっては笑いあった。
 わたしの中にある彼を大好きな気持ちが、一つ一つ彼と釣り合っていくのが嬉しくて
 好きなヒトに、同じくらい好きになって貰えるのが心地良かった。

 けれど、こんな時にまで負けず嫌いな僕がむくむくと顔を出すことには苦笑した。
 わたしの気持ちは誰にも負けない。たとえキミにだってね、と。
 そうやって僕らは二人で競争をした。

 一緒に居て楽しい友達で、心の中を今度こそ明かせるくらいに親友で、その隣を誰とも分かち合いたくないくらいに恋人で
 そしていつでも隣にいていい社会的地位に、すなわち僕らは夫婦となった。

 それからも一つ一つ本音を語って、おちょくって、おちょくられて、初めてホントにケンカして、ぶつかり合って。
 ああそうさ、僕らだっていつでもベタベタしていた訳じゃない、ケンカくらいたっぷりとやってきたさ。
 それでこそ夫婦というものだろう? けれど世間一般の水準に比せばまだ足りないと思う。
 もっとぶつかりあおう。だから敢えて苦言を呈させてもらうよ。

「キョン、僕らは夫婦になってまだたったの八十年足らずしか経っていないのだよ?」

 いいかい、確かに平均寿命の上では女性の方が長命だとされる。
 けれど、そう、キミはまだ僕よりも大きいじゃないか。すっかり縮んでしまったくせに、まだ僕よりも大きいじゃないか。
 ああ、そうさ。あー、大、体ね、そん、な、風に、僕の、頭を撫でてくるような……ふん。言っちゃ悪いがそんなのキミには似合わないぞ。
 キミはもっと平凡を持していたじゃないか。こと最期に及んで何ドラマチックな死なんぞ演出しているんだい。
 そうだろキョン、まったくキミのエンターテイメント症候群は何時になったら完治するんだ。
 ここはフィクションじゃない。だからそんな演出はいらないのだよ。
 だから、目を覚ましてくれ、そんなのいらないから。
 僕が欲しいものなんてキミが一番知ってるだろ。
 ああ、ホントまったくキミって奴は。
 やれやれ、やれやれだよ……。


 ……静かにしてくれよ、キョンが眠れないじゃないか。そんなに僕が泣いていちゃ妙かい?
 ……ごめん。キミ達も彼と僕の直系だというのに冷たいことを言ってしまった。これでも動揺しているんだ、許して欲しい。
 ……ああ、そうか。僕、か。

 こんなの随分久しぶりだった。さて何十年ぶりだろう……そりゃびっくりするだろう。悪かった。
 ふ、くく、老婆の語り口としては年甲斐のない事はだはだしいね。
 そりゃそうさ。やれやれ………
 ………………
 ……


 ……どうだいキョン、そちらで楽しくやっているんだろう?
 だが残念ながらこちらはもっと楽しい。何故ならキミの葬式からこっち、随分と身内が構ってくれているようでね。
 確かに僕は経験則でしか判断できない凡人だから、そちらの様子はわからないし、そちらには既にいつものメンバーが到着済みだろう。
 けれどこちらはこちらでみな可愛いものだよ。昔から人は孫に甘いというけれど、キミだって随分可愛がっていただろ?
 くく、いつも威厳だの何だのとしかめっつらしていたけどね。
 僕の目はごまかせないことくらい知ってるだろ?

 だから当分はこちらも楽しくやらせてもらうよ。
 くっくっく、キミはそちらでハンケチでも噛んで、せいぜい悔しがっているといい。
 そちらに僕らの孫やひ孫が着くのはずっとずっとずっと先だろうし、その時には彼らの姿も成人しているだろうからね。
 ああ、そういえば「そちら」ではキミ達はどんな姿を、いったい何時頃の年齢の姿をしているんだい? ちょっと興味深いね……
 死んだ時の姿? それとも結婚の前後? もしや中学時代? まさか高校時代だなんて言わないだろうね。
 さすがの僕も怒ってしまうよ? だってキミはもう僕の…………
 ……………
 ……


「……ホント、素直じゃないんだから」
 四十九日の翌日。おばあちゃんも眠るように逝ってしまった。
 お父さん達を差し置いて、式をかくしゃくと差配しつつ、「せいぜい長生きをして、彼をたっぷりと待たせてやるのよ」と昨日まで笑っていたのに。
 いつもの縁側に腰掛けて、けれどいつも手にしていたはずの研究手帳、彼女の代名詞である著名な研究の為の手帳ではなく
 その手に持っていたのは小さな、彼女の日記帳だった。

 いつもキョンじいちゃん……そう呼んだら必ず一回目は怒ったけれど……
 キョンおじいちゃんの傍に居た時のように、嬉しそうに頬を緩ませて、幸せそうに目を閉じて。
 すっかり小さくなったおばあちゃんは、おじいちゃんの四十九日を、最後の後始末をしっかりとやり終え、その翌日、眠るように息を引き取った。
 きっとおじいちゃんを待たせない為にだろう。

 当人に言ったらきっといつものように滔々と反論を並べ立てただろうし、きっと向うに行ったらまずおじいちゃんにお説教をするのだろう。
 あの妙に律儀で、理屈っぽいところはなおせばいいのに。そう子供心にも思ったけれど、結局最後までそのままだった。
 まったくね。身内にもバレバレなのに何であんなだったのかしら。
 あんなに幸せそうな顔してたくせにさ。

 思えば、いつもじいちゃんの周りには人が絶えなかった。
 キョンじゃない。じいさまと呼べ。そう時代遅れの老人の威厳をたっぷりに振舞おうとする……けれどどうにもどこかで抜けてて締まらない人だった。
 けど、そんな意図せずトボけたところが何故か私は大好きだったし、皆大好きだったのだろう。
 とりわけ、おばあちゃんは、そうだったのだろう。

 だから、逝ってしまったのだろう。
 自分を置いて先に行ったおじいちゃんにお説教をする為に、それを待っているおじいちゃんを待たせないように、なるべく急いで。
 けれどしっかりと後始末をやり終えて逝ってしまった。
 おばあちゃんはそんな人だった。

「やれやれ。ホント、素直じゃないんだから……」
 おばあちゃんが最後に見た風景、望んだ風景くらい、私にも解るよ。
 私の涙腺が分泌する液体にまみれ、急速に滲むおばあちゃんの寝顔は、おじいちゃんの隣に居た時と同じ、どこまでも幸せそうな笑顔だから。
 これからまた、会いに行くんでしょう? じゃあ、いってらっしゃい。
 ね、おばあちゃん。
)終わり

……………………………
…………………
………

『ふ、くく良いではないかキョン。キミだって僕のそういう痴態を題材として己を慰めてくれたことがあるのだろう?』
『そんな妄想しとら……んとは言わんが実現するとは毛ほども思っとらんかったわ!』
『そう抵抗するなよ、うぶなネンネじゃあるまいに』
『おい待て佐々木、だから式は明日だ! というかそれは男の台詞だろうに!』
『くく、つまり僕の言葉遣いからすればなんら問題がないという事か』
『……佐々木!』
『え、きゃっ……!? ちょっと、え、キョン!?』

『や、めてそんなつもりじゃ、その、だから明日までお預けだって、キョ、キョン、キョン!? あ、あ………!?』

 ぱたん。
 おばあちゃん、日記帳がR18指定相当ってどうなのさ……もうなんというか色々だいなしだよおばあちゃん。やれやれ。
)終わり

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最終更新:2012年07月17日 13:18
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