15-477「キョンと佐々木の消失」-1

※はじめに
本SSの製作にあたり、part10スレに投下された『無題(1)』および『無題(2)』の設定を
一部拝借させていただきました。この場を借りて、お断り、並びに御礼申し上げます。


熱を出して倒れた長門のもとへ、俺は走っていた―――はずだった。
先頭を行くハルヒの背中が揺れている。続く古泉と朝比奈さんの背中も。
そして、最後尾を走る俺が視界のほんの端っこに小さな影を捉えた次の瞬間、
ものすごい勢いで急降下してきた一羽のカラスが、ハルヒの鼻っ面をかすめた。
とっさに身を引き、小さな悲鳴をあげるハルヒのスローモーションめいた映像。
それが、たぶん俺がこっちの世界で見た最後の光景だったのだろう。
この0コンマ何秒か先の未来に、世界は変わったのだ。あの奇妙に歪んだ世界に。


『キョンと佐々木の消失』

話は昨日の日曜日に遡る。あの忌々しい未来人野郎と許すべからざる朝比奈さん誘拐犯とディスコミュニ
ケーションを地で行く宇宙人と、それに俺の旧友である佐々木とのいろいろな意味で忘れられない会合か
らの帰り道、俺は自分の迂闊さに悪態をついていた。くそ、店に財布忘れた。
家まであとわずかという距離まで来て雨の中を喫茶店まで戻る憂鬱さを、俺ののっぴきならない財政事情
が吹き飛ばすまでに大した時間はかからなかった。そもそもなぜ自分で支払いもしなかった店に財布を忘
れる事態に陥ったのかを本気で考察しながら、俺はもと来た道を歩いて行った。

幸い、俺の財布は喜緑さんが無事に保管してくれていた。念のため後で中身を確かめたが、宇宙人お得意
の情報操作もされていないようだ。いや、増える方向にならいくらでも操作してもらいたいもんだが。
と、礼を述べて店を出ようとした俺を喜緑さんが呼び止める。「同じ席に置いてあったので、お連れの方の
忘れ物ではないでしょうか?」と差し出されたそれに、俺は大いに見覚えがあった。

それは、黒いポケットラジオだった。佐々木の物だ。確か中学時代に従兄弟の兄ちゃんに買ってもらった
代物だったと思う。一時期のあいつはラジオの投稿番組にすっかりハマり、投稿番組というコミュニティ
に見る集団心理、なんて話を自転車の荷台からよく聞かされたもんだ。妙に懐かしいな。
なんにせよ大切なものだろう。あいつから親友認定された身としては、責任もって届けてやるのが筋とい
うものだ。俺はその旨を喜緑さんに約束すると、鉛色の空の下、ゆるゆると帰宅の途についた。



そして翌日の、まさにたった今だ。
ハルヒの眼前をかすめたカラスはそのまま急上昇に転じ、あっという間に青空に引っ付いた小さな染みに
なっていた。その様子をマヌケ面をして見つめていた俺が視線を地上に戻すと、そこにはハルヒも古泉も、
あの麗しの朝比奈さんすらも―――掻き消えたようにいなくなっていた。
俺がカラスを見上げていた間にはぐれたのか? ずいぶん足の速いことだと、まだこの時はのんびりと構
えていた俺は、深く考えるでもなく携帯でハルヒをコールした。

「ただ今おかけになった電話番号は、現在使われておりません―――」

は? 俺は液晶表示でコール先が間違いなくハルヒであることを確認してから、もう一度かけてみた。同
じアナウンスが流れる。あいつ番号変えたのか? そういう情報はシェアしろよな…って待てよ、俺が最
後にハルヒに電話したのっていつだったか…まあいい、古泉の奴なら繋がるだろう。

「ただ今おかけになった電話番号は、現在使われて―――」

なんだ…? 本能的に血の気が引いた。この1年間で鍛えられた俺の超常現象センサーが警告音を発して
いる。それを無視して、俺が知る限り最も頼りになる番号に発信する。すまんな長門、熱で辛いところを
呼び出しちまって。だが、いつもの沈黙を期待していた俺の耳に届いたのは。

「ただ今おかけになった電話番号は、現在―――」

3度目のそれは、間違って取ってしまった霊界からの電話並みに破壊力があった。恐いものから反射的に
目を逸らすように終話ボタンを押した俺は、自分の心臓が嫌な脈の打ち方をしているのを自覚する。
くそ、落ち着け。俺が取り乱すとロクなことにならないのは経験済みじゃないか。去年の12月と同じ失敗
を繰り返す気か? 朝比奈さんに怯えきった目を向けられたあの時のような。いやいや、まてまて、まだ
朝比奈さんにかけていないじゃないか。
一縷の望みをかけて通話ボタンを押した俺を出迎えたのは、そうなることがあらかじめ決まっていたとい
わんばかりの、無機質なアナウンスだった。

状況を整理する必要があった。近場の公園のベンチに腰掛けて缶コーヒーをすすりながら、俺は考えるこ
とに意識を集中させようとしていた。俺を除くSOS団全員と突如連絡が取れなくなった。何故だ。オス
の三毛猫が生まれるのに匹敵するくらいの偶然が起こって、あいつらが一斉に電話番号を変えたのか? 
馬鹿言うな。ハルヒはともかく、朝比奈さんや古泉なら即座に新しい番号を伝えてくるのは間違いない。
それに長門に至っては、ほんの30分ほど前にハルヒが電話したばかりじゃないか。
そもそもハルヒ達はどうなったんだ? そうだ、電話が繋がらない以前に、あいつらが実際に居なくなっ
たから俺は電話をかけたんだ。一体、何が起こっていやがる。
唾を飲みこみ、せり上がってくるパニックを抑える。俺は震える指で、頼れる先輩にコールした。

「やあ! どしたいキョンくんっ。んー? なんか声に元気がないよっ! ふえ? あたしに聞きたいこ
と? おうっ、オトメの秘密以外だったらなんでも答えてあげるっさ!」
鶴屋さんの破天荒なテンションに少し勇気づけられて、俺は言葉を選ばずストレートに質問した。
―――変なこと聞いて申し訳ないんですが、ハルヒ達がどうなったか、ご存知ありませんか?
受話器越しにも分かるタメに続いて、聞こえてきたのは彼女の爆笑だった。
「ぶははははっ、キョ、キョンくんどーしちゃったのさっ!? ハルにゃん達なら、揃って転校しちゃっ
たばっかじゃないかっ! 君が引越し手伝ったんだろー! どうしたのだ少年っ!?」
―――え?
「だ・か・らっ! みくるもハルにゃんも長門っちも古泉くんも、みーんな昨日、カナダに転校しちゃっ
たんじゃないかっ! 君らのHRでも言ってたはずだよっ!? キョンくんホントに大丈夫かい?」
鶴屋さんの声がやけに遠い。俺は何か適当に返事をして、そして適当に電話を切った…ように思う。

念のため、谷口と国木田にも確認を取ってみたが結果は同じだった。―――今朝のHRで言ってたじゃな
いか、お前が引越し手伝ったんだろ、連中はもういないんだ、お前大丈夫か? と。
ああ、大丈夫じゃないさ。俺はさっきまであいつらと長門のマンションに向かってて、その途中で飛んで
きたカラスを何気なく見上げて、目線を戻したらあいつらがいなくなってて、不思議に思ってまわりに聞
いたら昨日全員カナダに引っ越しました、だと? 何だよそれ。
俺だってこの1年でいろいろと奇妙な目に遭って、そりゃある程度の免疫はできてるつもりさ。でもこれ
はあんまりじゃないか? デタラメだ。去年の12月に紛れ込んだ改変世界の方がまだマシだ。立場は違え
どあいつらはちゃんといたし、それなりに納得できる背景もあった。でも今回のこれは何だ。
まるで、今まで住んでいた街がいきなり核ミサイルで吹っ飛ばされたような理不尽さだ。それに、カナダ
に転校という不吉な符合のおまけつきと来た。俺は消滅する朝倉のイメージを頭から追い出し、とっくに
空になった缶コーヒーを見つめて―――自分に落ちる、誰かの影に気付いた。



「やはりキョンか。遠目にうなだれる姿を見てすぐに分かったよ。君のシルエットは、昔からかなりエキセン
トリックなものなんだが、君自身は気付いているのかい?」
顔を上げると、そこに制服を着た佐々木の姿があった。仕立ての良さそうな黒ブレザーに同色のスカート、
胸元には臙脂のストレートタイ。彼女の通う有名進学校のものだ。口元には、くつくつとした独特の笑み。
俺の中で、緊張の糸が急速に解けていくのが分かった。だがその速度が速すぎる、やばいな。
「酷い顔だな、まるで幽霊でも見たかのようだぞ。念のため確認しておくが、まさか僕の制服姿を見たか
らそんな顔になったのじゃあるまいね。だとしたら僕にも怒る権利が―――おい、キョン?」
気が付けば、俺は佐々木の両肩を掴んでいた。くそ、何やってんだ俺は。でも佐々木、聞いてくれ、ハルヒ
達がいないんだ。朝比奈さんも古泉も、さっきまで俺と一緒にいたのに―――
「ちょ、キョン、肩を離してくれ、一体…どうした?」
突然消えちまって、まわりの連中に聞いたら全員カナダに引っ越したなんてことを―――
「何を言って…い、痛い、痛いよ、キョン!」
去年の時とは状況が違うんだ、あいつらに電話も通じないし、あの長門の部屋すら不通で―――
「……………」
何かあいつらのことで知ってることはないか? どんなことでもいいんだ、佐々―――

「――――――落ち着けっ!! キョン!!!」

氷のように鋭い叱責が全身を貫いた。びくりと体をのけぞらせた俺の顔に、暖かいものが触れる。佐々木
の手だ。佐々木は両手で俺の顔を包むと、憂いをたたえた黒い瞳で俺の目を覗き込んでこう言った。
「キョン、僕と君の記憶には特に齟齬は無いように思える。実はここ最近、橘さんが僕のところに毎日連
絡をよこして来てね、頼んでもいないのに涼宮さんの動向なんかを伝えて来るんだ。正直なところ少々辟
易しているんだが、今日の昼休みの電話で彼女は言っていたよ。涼宮さんは、普段どおり学校に来ている
とね。だから君の記憶は正しい。何があったのかは知らないが、少し落ち着きたまえ」
それだけだった。たったそれだけのことで、俺の心は嘘のように鎮まった。そうしていったん落ち着いて
みると、さっきの俺が佐々木にしたことがまざまざと脳裏に蘇ってきた。ぐあ…最悪だ俺、マジで成長し
てねぇ。佐々木すまん、本っ当にすまん! この通りだ。
「気にするな、と言ってもどうせ君は聞きそうにないからね…ひとつ貸しだよ、キョン」
ああ返すとも。トイチで一年引っぱった借金を一括返済するくらいに大きくして返すさ、必ずな。

「ところで佐々木、さっきの話だが…本当なのか?」
「僕の方こそ良く聞きたいね。いきなりのことで僕も半分くらいしか聞いていないが、涼宮さん達が4人
まとめてカナダに転校したとか言っていたね。まさかとは思うが、君ともあろうものがそんな荒唐無稽な
話を信じて、あそこまで取り乱したわけではあるまいね」
俺はここに至るまでの状況を説明した。最初は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて俺の話を聞いていた佐
々木だったが、話が進むにつれて顔つきは真剣そのものとなり、話を聞き終わると同時に「ちょっと待っ
てくれ」と自分の携帯からどこかに電話をかけた。
どうやら電話の相手は橘のようだ。佐々木は俺から聞いた話の要点を伝え、得られた反応に対して2~3
質問し、最後に「ぜひお願いする、よろしく」と言って電話を切った。

「橘さんがこれから合流してくれるそうだ。キョン、確かに君の言うとおり、僕たちは深刻な事態の渦中
にいるのかもしれない。取り乱すのも無理からぬことだ、さっきは疑ってすまなかった」
いや、お前に謝られるとむしろ辛いんだが。それより、何か分かったのか?
「橘さんはこう言っていたよ。今日の昼休みに寄越した電話の内容は、涼宮さん達の転校に伴う善後策に
ついてだったと。それと、昨日の喫茶店での会合内容も、それに準じたものだったそうだ」
俺は溜息をついた。誘拐魔に期待していたようで癪だが、超能力者にまでそう言われると不安になるぜ。
「君が電話をした学友も含めて、涼宮さんの転校を肯定する者がこれで4人だ。実際に涼宮さん達と連絡
不能な状況が起こっている以上、僕らが共有している過去とこの世界の過去に齟齬があるのはどうやら確
実だね。これで、僕も傍観者ではいられなくなったというわけさ」
だから君に協力するよ―――と、佐々木は柔和な微笑をたたえて俺に言った。



橘との合流場所は、例のSOS団御用達の喫茶店だった。橘を待つ間に佐々木はもう一本電話をかけ、
塾を休む旨の連絡を入れていた。なるほど、あの公園を通りかかったのは、塾に行く途中だったのか。
でもズル休みしちまっていいのか? お前の学校、予習無しについていくの大変だろ?
「勉強の遅れは後からでも取り戻せるさ。それに、今の僕にしかできないことをしたいじゃないか。親友
のあんな顔を見てしまってはなおさらだ。僕はこう見えても情には厚いんだよ」
それについては猛省中だから言うな。せいぜいここのコーヒーくらいは奢らせてもらうからさ。
「いい心がけじゃないか。くくっ、この話はしばらく使えそうだな―――っと、橘さん、こっちだ」
昨日と同じく私服姿で店に現れた橘京子は、佐々木の隣の席に座るとアップルティーを注文した。

「いやー、キョンさんとこうして連日会えるなんて、私も組織内で鼻が高くなるというものです。お互い
に不幸な誤解もありましたが、話合いを続けていけばいつかきっと分かり合えますよ」
朗らかな笑みを向けてくる橘だが、俺は内心穏やかではない。こいつは朝比奈さんを攫った連中の主犯格
なんだ。お前が忘れても、俺は許すつもりはないからな。
「キョン、すまないがその話は今回は無しで頼む。今日の目的は、お互いが持っている情報をオープンに
して共有化することだ。で、キョン。まず君にいくつか質問をしたいのだが、いいだろうか」
おう、何でも聞いてくれ。俺のなけなしのプライベートに関すること以外なら何でも答えるぜ。
「結構だ。では、君がこれまでに体験した『異世界』とはどんなものだったのか、まずは詳しく聞かせて
もらえないか。異世界の定義については君に任せる」
俺は要点のみを答えた。朝倉の情報制御空間、古泉に連れて行かれた閉鎖空間、ループする8月、カマド
ウマの砂漠、長門の改変世界、雪山の古城、それに…ハルヒが隣にいた新世界。改めて並べると、その数
とバラエティの多さに驚く。ハルヒと話が合いそうな某FBI捜査官だってこんなには体験してないぜ。
「少々羨ましくなるくらいの見事な遍歴だね。では、そこからの脱出方法についても聞かせてくれ」
これも順番に答える。長門による救出、古泉の同伴、えーと…宿題? 長門と古泉の活躍、長門の緊急脱
出プログラム、長門とハルヒと古泉の連携プレー、最後のは…黙秘権を行使するぞ、これっぱかしは。
「それは、僕の前では話せないという意味なのかい?」
いや、これは誰に対しても平等かつ普遍的に話せないものであってお前だけが対象ではないから安心しろ。
「ふうん…僕としては、それはむしろ残念だけどねぇ。まあそれはさて置き、その長門さんの作った改変
世界というのはなかなか興味深いね。過去一年間の範囲で情報の改竄が行われていた、か」
佐々木はそう言って自分でまとめたメモをペンで弾いた後、橘に視線を向けた。

「お待たせしたね。では、橘さんにもいくつか質問をしたいのだけれど」
「はい、佐々木さんにならプライベートなことまでガンガン答えちゃうのです!」
「いや、そういうものは大事に仕舞っておいて欲しい。聞きたいのは、時系列ごとの情報の変化だ。まず
確認だけれども、今日の昼に私に寄越した電話の内容は、涼宮さんの転校に関することで間違いないね。
決して、彼女が今日学校に来ていた、という内容ではなかったと断言できるかい?」
「できるわ。涼宮さんが転校したのは昨日ですから、今日になってそんな電話をするはずがありません」
「では昨日の会合―――この店で行った会合はどんな内容だった?」
「涼宮さんの転校は私たちにとって絶好の機会だったから、この機を逃さず佐々木さんに神様になっても
らおうと…で、キョンさんの説得に当たったんですけど、話してみたらすっごく頑固で」
おいおい、考えが甘すぎなんじゃないのか誘拐犯。でも妙だな…ま、この疑問は後にしておこう。
「ではさらに時を遡るよ。橘さん、あなたはいつ、誰から、涼宮さんの転校の情報を得たの?」
「昨日聞いたんです…組織の…えーと、あれ?」
なんだ? いきなり橘の供述が曖昧になった。佐々木がさらに問い詰める。
「それは組織の人間だったの? だとしたら男性だったか女性だったかは?」
「えーと、なんで…? 顔が浮かばないです…あれ?」
「聞き方を変えよう。あなたは本当に…『人間』から情報を得たの?」
なんだそれは。佐々木は、既に何らかの確信を持っているらしい。でなければこんな質問なんてできっこ
ない。対する橘は、すでに顔を俯けてしまっている。
「メールや電子媒体だった可能性は? それとも手紙? あなたは『何』から情報を得たの?」
「…変です。どうやって情報を得たかのイメージが全くありません。涼宮さんが転校したという事実だけ
が頭の中心にあるような感じで…ちょっと恐いです、ね」

「…橘さん、申し訳ないがあと少し付き合ってくれ。昨日の会合について、あなたは私に事前に連絡をく
れたね。確か前日の土曜日、午後8時頃だったと思う」
「そうですね…たぶん、そのくらいの時間だったと思います」
「では」と、佐々木は少し唇の端を歪めながら「その時の会話の内容は?」橘に訊ねた。
「え~、どんどん勢いづく涼宮さんのSOS団に脅威を感じた私たちが、他の勢力と力を合わせて作った
対抗組織の顔見せのため…って」
そこまで言って、ようやく橘も矛盾に気がついたらしい。顔が心なしか青ざめて見える。
「おかしいね。前日の連絡内容と、当日の会合の内容が異なっている。それとも、日曜になって涼宮さん
が転校したという情報を得て、議題を変えたのかな? 会合の司会役はあなたが務めていたけれど、そう
したセッティングをした記憶は?」
「あり…ません。すみません佐々木さん、あたし、ちょっと頭が痛いです」
「もういいよ。追い詰めるような聞き方をして悪かったね。でも、お陰で大事なことが分かった」
俺にも何となく分かってきたぜ。そうか、あまりに事態が急変したんで気付かなかったが、ここは…
「―――この世界は、改変された世界なのか」



「恐らく正解だ、キョン。君が長門さんのマンションに向かっている途中で『SOS団の4人が転校する』
という情報改竄が行われたのだろう。改竄の過去への影響力はきわめて短く約1日。そして、僕とキョン
だけには何故か改竄が及んでいない―――現時点で集まる情報は、こんなものだろうね。構成としては、
12月に長門さんが作り出した世界に極めて近いものなのだと思う。情報を改竄された特定の個人の存在、
大きく開きはあるものの改竄が過去に遡って行われている点、そして、僕らのようなイレギュラーの存在、
―――共通項が多過ぎる。事態収拾にあたってのモデルケースとして、長門さんの改変世界は大いに参
考にされるべきものだと思う」
緊急脱出プログラムか。でも、あれは長門が自分で用意したものだ。この世界にあるんだろうか。
「長門さんと同等の能力を持つ誰かが用意しているかもしれない。これは仮説に過ぎないが」
長門にタメ張れるような奴となると限られるな…と、俺は連想しかけたおぞましい存在をあえて頭から振
り払った。あんな、いつ動いたかも分からない腕で人の手首を鷲掴むような奴―――って、ああ!
「な、なんだキョン、いきなり変な声を出して」
「喜緑さんだ、喜緑さんのことを忘れてたぜ…あの人なら何とかできるかもしれない」
「喜緑さん? え~と、誰でしたっけ、それ?」
いただろ昨日、この店のアルバイトで、九曜に腕つかまれて因縁つけられたかわいそうなお方が。
「あたしのいた昨日にはそんな人いなかったですよ。佐々木さんはどうですか?」
「僕にとっての昨日とは、つまりキョンの昨日だからね。覚えているが…その彼女がどうかしたのか?」
彼女もまた、宇宙人製の有機アンドロイドであることを俺は説明した。長門とは属している派閥が違うら
しいが、少なくとも敵になる存在ではないはずだ。そういえば、今日は店内にいないな。
「なるほど。橘さんの昨日には登場しなかったというから、彼女が既に改変に巻き込まれている可能性も
否定できないが…当たってみる価値はありそうだ。キョン、明日学校で接触は可能かい?」
生徒会室の主みたいな人だからな、会えると思う。それと、念のため長門のマンションにも行っておきた
い。ひょっとしたら、あいつが何か手がかりを残してくれているかも知れんからな。
「分かった。だが時間も遅くなってきたことだし、今日はここでお開きとしよう。長門さんのマンション
は明日の放課後に訊ねればいいだろう。橘さん、無理をさせてすまなかったね」
「いいえ、佐々木さんがお困りなんですから、私としては今後も全面的に協力しますよ。ただちょっと、
今日の話はさすがにショックが大きくて…」
自分の信じていた世界が嘘っぱちだと言われたのだ、そりゃ頭痛もするだろう。俺はちょっとだけ橘に同
情した。俺と佐々木が元の世界に戻れたとして、その時こいつは―――どうなるんだろう。

足元がふらつき気味の橘を店先で見送った後、俺は先程の会話中に湧いた疑問について訊ねてみた。
「橘の話じゃ、昨日の会合には俺も出席していたみたいだな」
「君と話してみたらとても頑固だった、と言っていたね。嘘ではないと思う」
「だがな、俺のクラスメイトと先輩は、昨日の俺はSOS団の引越しを手伝っていたと言ってたんだ。余
程の過密スケジュールを組まないと両立は無理だぜ。一体、この世界の過去はどうなってんだ?」
佐々木は、答える代わりに何かを考えながら…しばらく視線を中空に漂わせた。
「矛盾はいくらでも出るのだろう。君が話してくれた長門さんの改変世界に比べると、アラが多過ぎるよ
うな気がしてならない。まるで、小さな子供がついた嘘のような世界だ」
そう言った佐々木の瞳には、静かな決意じみたものが宿っていた。
「それ故に、僕は君とともにここから出られることを確信している。誰がついた嘘なのかは分からないが、
拙い嘘は綻びるものだ。その綻びは、必ず元の世界に通じている。今はそう信じようじゃないか、キョン」
この歪んだ世界に放り込まれて動揺していた俺に、揺るがない指針を与えてくれたお前が言うんだ、信じ
るさ。そのお礼って訳じゃないが―――俺は、ポケットの中でもて遊んでいたものを佐々木に手渡した。
「昨日の忘れもんだとさ。大事なんだろ、これ」
差し出された黒いポケットラジオをしばらく見つめていた佐々木は、それを手にとってこう言った。
「………ずっと探していたんだ。ありがとう」



翌日。
午前の授業を上の空で聞き流した俺は、昼休みに急いで弁当をかっ込むやいなや、早足で生徒会室に向か
っていた。あの生徒会長に事情を話すわけにはいかないが、喜緑さんが今日俺と会うことになっているの
なら、問題のないシチュエーションが用意されているだろう。俺にはそんな予感があった。
だから、ノックして入った生徒会室に会長の眼鏡面しかないと分かった時、俺は少なからず落胆した。そ
んな失礼な感想を抱く俺の内心を知ってか知らずか、早々に素の顔をさらけ出して用向きを聞いてきた会
長に、俺は喜緑さんの所在を訊ねた。
「喜緑君なら、家族旅行で一週間ほど休校しているよ。お陰で俺の方は忙しくてかなわん。もっとも、古
泉が慢性春女ごと転校してくれたから、下らんことに頭を使わないで済むのは助かっているが」
宇宙人製対人インターフェースが家族旅行。その答えだけで、喜緑さんがこの世界にはいないことは十分
過ぎるほど痛感できた。だが。
「その喜緑君から、お前にあるものを渡してくれと頼まれている。これだ」
そう言って、会長は机の中から一通の封筒を取り出した。丸っこい牛の絵柄がプリントされた、朝比奈さ
んのものに負けず劣らずファンシーな封筒だ。
「伝言はふたつ。今回私にできるのはここまでです―――それと、ラブレターではないので期待はしない
で下さい―――とのことだ。涼宮がいないから大丈夫とは思うが、俺に迷惑をかけることだけはするなよ」

封筒を受け取って生徒会室を辞した俺は、そのままトイレの個室に入った。その手のものでないことはご
丁寧に伝言つきで念を押されていたが、これも朝比奈さん(大)の指令を遂行した際に身についた条件反
射的な行動って奴だ。だが、封筒を開けた俺は「なんじゃこりゃ」と素っ頓狂な声を上げることになった。
そこには―――謎のアルファベットの羅列と、宇宙人用ビンゴゲームのシートにしか見えない奇妙な図表
が書かれているだけだったからである。



放課後。
佐々木達と合流する前に、俺は文芸部室に立ち寄っていた。別に何かを期待していたわけじゃない。何と
なく、今の俺の立ち位置を確認したくなったのだ。
見慣れたドアを開けたそこには、団長机もパソコンも、朝比奈さんの衣裳も古泉のボードゲームも、何も
かもがなくなったボロい部室が広がっていた。かつてポットがあった場所の近くに、俺用と客用の2つの
湯飲みだけがポツンと取り残されている。長門の蔵書だけはそのままの形で残っていたが―――まあ、い
ちおう文芸部室だしな―――例のSF長編に、あの栞は挟まってはいなかった。
別に期待していたわけじゃないさ。そう声に出して、俺は佐々木と橘の待つ喫茶店に向かった。

喫茶店には、すでに二人の姿があった。佐々木が制服を着ているってことは、こいつは塾を休んでいるの
を親に黙っているのだろう。何となく申し訳ない気分になる。さっさとこんな茶番は終らせるべきだ、で
きれば今日中にケリをつけたいものだが。
一方の橘はというと、昨日の帰り際に見せていた冴えない表情から一転、カラッとした晴れやかな笑みを
浮かべている。そういった気丈さには大いに賛辞を贈るところだが、俺がお前を許したわけじゃないんだ
からあんま調子には乗んなよ。
「もぅ~ひどいですよキョンさん。せっかく昨日のショックから立ち直って、お二人のために誠心誠意お
手伝いをしていこうと決めた矢先に、モチベーションを下げるようなこと言わないで下さい」
「そうだよキョン。彼女は僕らとは立場が違うにも関わらず、こうして献身的に協力してくれているんだ。
確執があるのは分からないでもないが、悪し様に言うのは少々頂けないな―――ところで、例の喜緑女史
とは無事に接触できたのかい?」
長引かせたくない話には、言うことだけ言った上でさらりと話題を変える。変わってないな。昔のままの
こいつに懐かしさを覚えつつ俺は、例の宇宙人用ビンゴゲームが書かれた手紙をテーブルに置いた。


    FDXDXGDVFFFFVGDFVD

      | A D F G V X
    ─┼―――――――─
     A| w t  h  4  v m
      D| j.  l.  s  1  r  d
..    F| b u. 6  z  a  i
      G| q 7. p  8 0 9
     V| 2 n. e  o  x. k
..    X| g  c.. y  f  3 5


「ほう、これはADFGVX暗号だね」
手紙を見るなり、佐々木はさらっと言った。えーと、解説もお願いできるんでしょうね、佐々木さん。
「第一次世界大戦中にドイツ軍が使用した有名な暗号さ。君が雪山の古城で見たという数式といい、宇宙
人はこうしたものにご執心なのかな? 上のアルファベットが二重のロックをかけられた暗号文、下の図
が換字表と呼ばれるものだ。しかし困ったな、この他に鍵文字がないと復号はできないのだが…」
そういえば、いつだったか長門が暗号史の本を読んでいたな。あいつとなら絶対に話が合うに違いない、
などと俺が考えていると、橘が尊敬の眼差しを佐々木に向けながら口を開いた。
「その鍵文字というのは、どんなものなんですか?」
「5文字から25文字程度のアルファベットで構成された単語だ。別に何でもいいんだよ。それこそ―――
sasakiとかtachibanaでも構わない」
「ははあ…ひょっとして、これがその鍵文字なのではないですか?」
橘は得意げな顔でそう言い、ファンシー封筒の裏に書かれた『kimidori』の8文字を指した。

「ああ、それかも知れないね。さっそく復号に取り掛かろうか。まずその鍵文字のうち重複する文字を後
ろから消していく。この場合、iがふたつ抜けて『kimdor』となる」
佐々木はテーブルに広げた自分のノートに、実際に文字を書き込んでいく。
「次に、これを数字に置き換えて転置鍵を作成する。アルファベットの若い順に、1から6の数字を当て
ていくんだ。dが1でiが2…という風に。すなわち転置鍵は『324156』となる。これを使って、
暗号文にかけられた第一のロックを外すのさ」
俺はもう見ているだけだ。佐々木は転置鍵をノートに書き込み、その下に一定の法則をもって暗号文を並
べていく。できあがったそれは、このような表になった。


.     3 2 4 1 5 6
    ─――――――――
     F D X. D X G
     D V F .F F .F
     V G D F V .D


「この表は縦に読むんだ。数字の順に、下の暗号文を縦方向に3文字ずつ拾って横に繋げると、第一のロ
ックが外れて別の暗号文に変換される」

    DFFDVGFDVXFDXFVGFD

「この暗号文にかけられた第二のロックの開錠に必要になるのが、キョン、君が宇宙人用ビンゴゲームと
評していた先ほどの換字表だ。暗号文を、この換字表に横軸、縦軸の順で当てていけば、復号が完了する
というわけさ。では始めるよ。横軸Dと縦軸Fが交差するのは『s』、次は…」
佐々木はどこか楽しげに、復号された文字をノートに刻んでいく。だが、その表情は文字が意味を成して
ゆくにつれて真剣になり、復号が終った時には深刻さを漂わせるものになっていた。
「…喜緑さんは、どうやら真犯人を僕たちに教えてくれたようだね。消去法で犯人に当たりはつけていた
けど、こうもストレートに突きつけられると…正直、身震いを禁じ得ないよ」
俺もさ。ハルヒを襲ったカラスからの連想で予想はしていたが、これは考え得る中でも最悪の答えじゃね
えか。俺は畏れのこもった目で、ノートに浮かび上がる『suoukuyou』の文字を見つめていた。



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