15-549「約束」

『約束』

「############」
 部屋に携帯の電子音が鳴り響く。いけない、仮眠を取るつもりが本格的に寝入ってたみ
たいだ。時間は、あれまだ10時前か。
 携帯を見ると鳴っているのは自分で設定したアラームじゃなくて、着信だった。
やっぱり音色を全部同じにするのはよくないかな。
 そんなことをぼんやり考えながら携帯に手を伸ばす。相手は……誰だろう。
 表示には見慣れない数字。誰かが携帯変えたとか、かな。
「はい、もしもし」
 深く考えずに出る。少し無用心かもしれないけど、半分寝ぼけてそこまで頭が回らない。
 まあそんな眠気も電話に出た次の瞬間には吹き飛んでしまったけどね。
「―――。―――」
「……やあ、久しぶりだね」
 聞こえてきたのは聞き覚えのある、けれどここ一年以上聞かなかった声だった。
「―――」
「……そう、会ったんだ」
 電話先の声は震えているけど、力がこもっていて高揚しているのが解る。
「うん、解ってる。もちろん、協力させてもらうよ。……約束、だからね」


「もういい!」
 受験も差し迫った中学三年のある日の昼休み、教室に凛とした声が響いた。
 誰も彼もが声の主に視線を送るが、その誰も彼もが信じられないものを見たような顔だ。
 実際僕だってそんな顔だったのだと思う。僕は自他共に認める飄々とした性格だけど、
流石にこれは受け流せないなあ。
 だってさ、あの佐々木さんが泣きながらキョンを睨みつけてるんだよ?

「お、おい、佐々木? どうしたんだよお前」
 キョンが慌てて近づこうとするのを視線だけで止める。そして何も言わぬまま踵を返す
と唖然とする周りには目もくれず、教室を出て行ってしまった。
 残されたキョンには冷たい視線が注がれる。まあ、普通そうだよね。
 けど当の本人は一番わけが解らないって顔してるんだよね。これはいつものことだけど。
「ずいぶん怒らせたみたいだけど、今度は一体何したの?」
「国木田か。聞きたいのは俺の方だよ」
 クラスを代表して僕が尋ねと、キョンは疲れたように椅子に座った。
「だからキョンが知らずに佐々木さんを怒らせるのなんていつものことなんだって。とり
あえず何を話してたのか教えてよ」
「そうは言っても、ホントにただ話してただけだぞ? 進路のことで、北校に決めたって
言っただけだ。そしたら佐々木が――」

その後の詳しく話を聞いて、二人の会話を再現するとこんな感じ。
『俺は志望校を決めたぞー!佐々木―!』
『へえ、どこにしたんだい?』
『……ノリの悪い奴だな。まあいいや、北校だよ北校』
『ふむ、北校か。確かに今のキョンの学力なら妥当なところだね』
『まあな。お前はどこにしたんだよ? やっぱ私立とか行くのか?』
『そのつもりだったけどね。最近僕も北校にしようかなって考えてるんだよ』
『はあ!? なんでだよ、お前ならもっと上が狙えるだろ?』
『別に勉強なんてどこへ行ってもできるんだし、親に負担をかけない公立もいいかなって
思ってね。くっくっ、それとも何かい、僕には北校に来て欲しくないのかい?』

「――って佐々木がからかってくるから、『ああ、お前が来たら倍率が上がるからやめてく
れ』って返したんだよ。そしたら急に不機嫌になってきて、しまいには、」
「さっきのあれってわけか。はあ、なるほどね」
 結果を見れば案の定、いつもどおり佐々木さんが仕掛けて撃墜されたってところか。
 けど毎度毎度撃墜するキョンもキョンだけど、それでも仕掛ける佐々木さんも佐々木さ
んだよね。いい加減もっといい男で妥協すればいいのに。……日本語変かな。
 僕が呆れて黙り込んでいると焦れたキョンが情けない声で尋ねてくる。
「おい、国木田。どうなんだよ、やっぱ俺が悪いのか?」
「うん、そりゃあこれは――」
 僕はいつもみたいに答えようとした。佐々木さんの真意が悟られないようにぼかしなが
ら、キョンの鈍感さを指摘しようとして―――止めた。
「……佐々木さんが悪いね」
「ほ、本当か!?」
 キョンが勢い込んで聞いてくる。自分が悪くないことの嬉しさより、佐々木さんが間違
っていることに驚いているみたいだ。
「だって怒る要素が何一つないよ。多分キョンに見事に切り返されたのが悔しかったんじ
ゃないかな」
「そ、そうか? 佐々木がその程度のことで怒るとは……」
「キョン、女性にはね、月に一回情緒が不安定になる日があるのさ」
「な!? ま、まさか、そうなのか!?」
「恐らくね。まあ強いて言うならそれに気付けなかったキョんが悪いってことだよ」
「そうか……。そうだったのか、佐々木」
 本気で納得するキョンは放っておいて、僕はついさっきの佐々木さんを思い出していた。
 佐々木さんがキョンに撃墜されるのはいつもこと。もう何度も見てきたことだ。
 その度ごとに不機嫌になったり、凹んだりリアクションをするけど―――。
「にしても佐々木の奴、俺に切り返されたのがそんなに悔しかったのか。いくら情緒不安
定とは言え、なにも泣くことはないだろうに……」
 それでも、今まで佐々木さんが泣いたことは一度もなかったんだ。

その後、佐々木さんは始業ギリギリになって教室に戻ってきた。
 いつもならとっくに立ち直ってる頃合いなのに、隣の席のキョンとは目もわさない。
 やっぱりおかしい。こんなのいつもの佐々木さんじゃない。
僕の中の第六感がしきりに異常を伝えてくる。
何かいつもとは違う事態になっていると。
このまま放置すると、何か取り返しのつかないことになると。

 念のためキョンには今日一日おとなしくしてるよう言い聞かせた。さっきの話を本気で
信じているキョンは一も二もなく応じてくれた。
 そのおかげで結局その後二人は一言も会話をすることなく過ごした。
 一人で帰る佐々木さんの背中はいつも以上に小さくて、とても哀しそうだった。
 一抹の罪悪感を抱えながら、僕は佐々木さんに話しかけた。

「よお、佐々木」
「!」
 ぱっと明るい顔で振り向いた佐々木さんの顔は、僕を認識したとたんに暗くなった。
 解っていた反応だけど、傷つくなあ。
「どう? キョンの真似。似てた?」
「国木田、悪いけど僕は今君の冗談に付き合う気分じゃないんだ」
 佐々木さんは疲れたようにそう言うと会話を切り上げ、また歩き出した。
 疲れてるとこごめんね、佐々木さん。でも付き合ってもらうよ。
「そういえば聞いた? キョンって志望校北校にしたんだって。春には『あんな坂毎日登
るなんて考えられねえ。北校行くぐらいなら私立行く』なんて言ってたのにさ」
「国木田、君――」
「私立に行くんじゃなかったのって聞いたら、親にものっすごく怒られたんだって。そん
な金はないって。妹にまで叱られたって言ってたよ。あはは」
「おい、国木田」
「まあ、そう言う僕も北校志望なんだよね。キョンよりかは危なげないつもりだけど。キ
ョンに一緒に桜を見ようねって言ったら、『また一緒か』って言ってたよ。ひどいと思わな
い? 宿題とか予習とかあれだけ人に頼っておきながらさ、感謝の気持ちがまるでないよ」
「国木田、君いい加減に、」

「本 気 で 北 校 を 受 け る つ も り だ っ た の ? 」

 言いかけたままの姿勢で佐々木さんが固まる。
 ひとまずは成功か。ガードは崩した。
 こうでもしないと本音が聞けそうにないしね。
「……僕がどのような進路を選ぶかは僕の自由だろう」
 それでもすぐに返せるのはさすが佐々木さんだね。
 けど残念。そんな反論はとっくに予想済みだよ。
「キョンは佐々木さんに怒鳴られてひどく傷ついていたよ。佐々木さんがどんな進路を選
ぶか、それは勝手だろうけどね。僕の友人をいたずらに傷つけないでほしいな」
 言いつつ我ながら卑怯な手だと思うね。
 キョンを盾にされたら佐々木さんは手も足も出ないのに。
 もっともこれぐらいの理論武装でもしなくちゃ、佐々木さんに口で勝つことができない
んだからしょうがないよね。うん、不可抗力不可抗力。

「キョンは……何か言っていたかい? 僕のこと」
「ううん、何にも。あれ以降はキョンもずっとだんまりだったし、僕のほうからも話題に
はしなかったからね」
 これは嘘。あの後佐々木さんの目の届かないところでは、散々話しかけられたんだよ。
 佐々木の機嫌はいつ治るのかとか、お詫びには何かしたほうがいいのかとかね。
 けれどそんなことを話すわけにはいかない。きっと話した途端に元気になって、僕なん
かあっという間に言いくるめられちゃうからね。しっかり弱ってもらわなきゃ、文字通り
話にならないんだから。……キョンに知れたら絶交されるかもな、僕。

「北校に行こうかと思ったのは、本気だよ」
 数秒の沈黙を経て佐々木さんは静かに話し始めた。
「キョンにも言ったけれど、勉強なんてやろうと思えばどこでもできるものだよ。北校生
でも東大に行く人は行くだろうしね。だったら、お金のかかる私立より公立のほうがずっ
といい。何より親友と過ごす高校生活というのも――」
「佐々木さん、僕が聞きたいのはそんな上っ面なことじゃないんだよ」
 とびっきり最上級の笑顔で言葉を割り込ませる。
 まったく、あれだけ言いつめられてまだ仮面を捨てずにいるなんて、大した自制心だよ。
これはもう感心するしかないね。

「くくっ、やっぱり見逃してはくれないか」
 佐々木さんは観念したように嘆息すると自嘲気味に笑った。
「僕は今まで生きてきた中で、勝てる勝てないは別として絶対に敵に回したくないと思っ
ている人間が二人いるんだ。一人はキョンで、もう一人は君だよ、国木田」
 佐々木さんと敵対したくないのは僕も同意だけど、なんで?
「君は怖いからね。毎日話しているけどいつも腹の底が読めない。君の腹は真っ黒すぎて、
まるで深い闇のようだよ。うかつに近づけば引きずりこまれそうだ」
 嫌だなあ、僕のような善良な人間を捕まえて。
「善良な人間は人の弱みを平気で突いたり、凍りつくような笑みを浮かべたりしないよ」
 ああ、それは確かに。

 それからもう一度喉を鳴らして笑うと、佐々木さんはまた黙り込んでしまった。
 けれどさっきとは違い、今度は話してくれそうな雰囲気がある。
「……キョンのそばにいたかった」
 程なくして佐々木さんは小さく呟いた。
 その声を出したのはいつもの整然とした佐々木さんではなかった。
 すべての仮面をはがされた、一人の女の子の告白だった。
「'私'にとって、キョンは特別な人。他の誰にも代えることのできない、唯一の親友。彼
にだけは何があっても嫌われたくない、心の底からそう思える」
 いつしか口調も変わっていた。きっとこれが素の佐々木さんなのだろう。
 理性も理屈も取り払った、佐々木さんの本心。
 今更ながら、仮面を剥ぎ取ったことに罪悪感を覚える。
 けれど、か弱くて無防備な佐々木さんはかまわず本音を紡いでいく。
「でもキョンにとって私は違う。彼にとって、私は大多数の中に埋もれるただの友人。距
離が開けばそれで終わる、その程度の関係。きっと高校が違えば連絡も途切れてすぐに忘
れられてしまう」
 否定することはできなかった。
 きっと佐々木さんの予想は正しい、そう思えた。
 僕自身、北校に入らなければそうなるだろうと思う。
 けれど、だったら、
「だったら特別な関係になればいいじゃないか。佐々木さんが告白して、キョンと付き合
えばそれで済む。別の高校に行っても付き合い続けることができるよ」
 当たり前のように出た言葉に、佐々木さんは涼やかに笑った。

「私の両親が離婚していることは知ってる?」
 突然の言葉に一瞬戸惑ってしまう。
 確か聞いたことはある。キョンが「あいつは母子家庭だから大変だ」とかなんとか。
 けれどそれが今何の関係があるというのだろう。
「私の両親ね、それはそれは激しい大恋愛だったんだって。周囲の反対も押しのけて、半
ば駆け落ちするように上京して、若くして結婚した。結婚してからもお互いのことを愛し
合って、鴛鴦夫婦の見本みたいなものだったって」
 両親のことを語る佐々木さんの言葉はまるで無機質だった。
 何の感情も込められていないように。ただ淡々と言葉を吐き出す。

「だけど、離婚した」

 その一言だけには激しい嫌悪が込められていた。
「離婚する直前、私は中学一年生のころの二人はひどいものだったわ。相手のことを疎ま
しがって、蔑みあって。過去の大恋愛が嘘のよう」
 佐々木さんは顔を歪め、吐き捨てるように言った。
 そうして僕はようやく、佐々木さんの真意に触れることができた。
「私はね、怖いのよ。キョンと付き合って、愛し合って、そして……嫌いになるのが」
 キョンと離れたくない、忘れられたくない。
 けれど近づきすぎて嫌いになりたくもない。
 だからただの友人としてそばにいたい。
「……嫌いになるとは限らないじゃないか」
 どうにか言葉を搾り出す。
 こんな反論が効くわけないと知りながら。
 佐々木さんは静かに首を振る。
「私は小さな人間だから。きっと近づけば近づくだけ、キョンの嫌なところに目が行くわ。
キョンみたいに相手を丸ごと受け入れるなんて、私にはできっこない。だって私は、あの
二人の娘なんだもの」
 そういうと佐々木さんはにっこりと笑う。
 とても痛々しい笑顔だ。
 かける言葉が見当たらない。
 どんな優しい言葉も今の彼女には届かない。
 どんな綺麗な言葉も今の彼女は癒せない。
 だから僕は、
「くだらねえ」
 一蹴してみることにしました。

 佐々木さんが目を見開いて驚いている。そりゃそうか、こんな口調はキョンの前でも出
したことがないんだから。
 仮面をむしり取ったせめてものお詫びさ。僕も少しは素を出さなきゃ不公平でしょ。
「さっきから聞いてりゃ、なんだそれ。悲劇のヒロイン気取りか。親の血筋で不幸になり
ましたって、ジュリエットにでもなったつもりか。遺伝子至上主義の無意義さと弊害性を
あの阿呆に声高に語っていたのはどこのどいつだ。それともお前は、親友と自称するよう
な相手に心にもない嘘を教えていたのか」
 どんな優しさも届かないのなら、どんな言葉でも癒せないのなら。
 僕はその傷をえぐってやる。
 薬で治せない腫瘍を、メスで切り取るように。
 これはキョンにはできない、僕の仕事だ。

「嫌いになるのが怖いから恋人にはならない? ずっと友人でいる? ずいぶんと殊勝な
心がけだが、それで本当に満足してるのかよ。お前があいつに抱いた感情ってのはその程
度で収まるものなのか。ここまできていい子ぶってんじゃあねえよ!」
「うるさいっ!」
 佐々木さんが怒鳴り返してくる。
 涙をこぼしながら、心の膿を吐き出してくる。
「そんなの、そんなの解ってるっ! この気持ちが収まらないことぐらい、解ってるっ! 
キョンのことが好きだから、誰よりも、何よりも大好きだからっ! でも恋人になって、
愛し続けられる保証がどこにあるって言うの? この想いがいつまでも続くなんて、そん
なこと解らないじゃない!」
 最後のほうは半分泣き声だ。
 普段は決して見ることのできない、友人の悲痛な叫びに、
「……それじゃあ、賭けてみる?」
 僕は笑顔で答える。

「……え?」
 佐々木さんの顔が引きつってる。
 おかしいな。優しさたっぷりの笑顔のつもりだったんだけど。
 まあいいや話を続けよう。
「佐々木さんはキョンとは別の高校を受ける。それで一年間できるだけ連絡をとらないよ
うにするんだ。まあ、佐々木さんの弁じゃあキョンのほうから連絡してくることはないみ
たいだし、佐々木さんが我慢すればいいだけの話だね」
「え、ちょっ……国木田? 話が見えないんだけど」
「一年間距離を置いて、それでもなおキョンのことが好きなら、その想いは本物だよ」
「!!」
 確かに、人の想いに絶対はない。女心と秋の空ってね。佐々木さんが不安に思うのも、
仕方ないことだとは思う。
 だからこれは一種の願掛けだよ。離れて冷静に考えながら、同時に断ち物もできる。
 なかなかご利益がありそうじゃない?
 佐々木さんはしばらくあっけに取られてぽかんと口を開けていたが、やがて楽しそうに
くっくっと笑い始めた。
「ああ、まったく。これだから君を相手取るのは嫌なんだ。これでも討論には自信があっ
たというのに、ものの見事に遣り込まれてしまった」
 結構こっちもいっぱいいっぱいだったけどね。
「その賭け、乗ろう」
 佐々木さんは力強く宣言した。
「何かに賭けてみるのもまた一興だろう。少なくともただ諦めるよりはずっといい」
 決意を込めて言い切った。その目には光が宿り、声には張りが戻っていた。
 覚悟は充分か。それじゃあ僕も、
「約束するよ。もしも一年経って、まだキョンのことが好きでいられたら、その時は僕が
手伝ってあげる。友人としてね」
 最後に友人曰く凍りつくような笑顔で締める。
 今度は佐々木さんも笑顔を返してくれた。
 ……ちょっと怖い笑顔だったけど。



 あれから一年と数ヶ月、時間をかけて佐々木さんは自分の想いを確かめた。
 それで昨日、偶然を装ってキョンに会いに行ったそうだ。
 先のことは解らないけど、彼女の気持ちは少なくとも一年やそこらで薄れるようなもの
ではなかったってことみたいだ。
 さてそうなると僕もいろいろやらなきゃいけないな。
 何せ友人との約束なんだから。破ったりしたら大変だ。
さてまずは何から行こうか。
 とりあえず、佐々木さんの印象を深めておくかな。
「キョン。これ、訊いていいかなぁ」
「何だ」

「最近、佐々木さんと会った?」

fin

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最終更新:2007年07月31日 00:02
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