『スイッチの入れ方』
我ながらうまい事やったものだと思う。
僕は編集部の自分にあてがわれたデスクで本日分の雑務をこなしながらふとそんなことを思った。
仕事の内容はキョンの書いた今月分の原稿の推敲。
あとはページ数や本の装丁に合わせて改行やらを変化させるだけだ。
ほんの1年前までこの仕事は僕のものではなかった。
僕のデスクから数えて5席分ほど離れた先輩のものだった。
先輩は結構な年だけれどもいまいち押しが弱く、神経質なタチのようだ。
当時先輩は期待の売れっ子を任された重圧やらのせいで胃をやんでしまった。
そのせいで入院とあいなり、同期の中でもそれなりに優秀と評されていた僕がピンチヒッターとして彼の担当をすることになった。
当初の予定では退院まで、せいぜい数ヶ月だ。
その期間までに僕がキョンの担当として相性が抜群であることを見せ付けなければならなかった。
それにばっちり成功したおかげでこうして毎日キョンの家に入り浸っているわけだけどね。
聞くところによるとそのせいで編集部内での僕のあだ名は今や「通い妻」らしい。
そのおかげか初期のころこそうっとうしいほどあったコンパのお誘いももはや無駄ということが知れ渡っているのかほとんど無い。
もちろん人間関係のための飲み会くらいは参加するのだけれどそれもだけだ。
キョンはこのことを素晴らしい偶然くらいに思っているようだけれど僕にしてみれば偶然だったのはピンチヒッターに僕が選ばれるまでだ。
それから後はもはや必然といっていいだろう。
キョンがやる気を出すのはどういう時か?
キョンが本気になるのはどういう時か?
それを知っている僕ならば経験の差など吹き飛ばしてキョンから原稿を取ってこれるという確信があった。
僕はキョンのスイッチが何か知っているからね。
よし、これで終わり。
「編集長、先生のところに言ってきます」
同僚の女の子達がニヤニヤしているけれど気にしない。
さて、今日のお昼は何にしようかな。
編集部とキョンのマンションまでは車で30分ほどの距離。
その間にあるいつものスーパーで食材を買い込む。
うん、今日はしょうが焼きにしよう。
20分ほどかけて材料を選んだ後キョンのマンションに向かう。
大学のときにとった免許と中古で買った軽はこんなとき役に立つからいい。
そこから10分で到着、時間はいつもどうりだ。
キョンのマンションははっきり言って僕らの年齢にしてみればかなりいいマンションだ。
最初のころこそ自宅で書いていたようだけれど半年も過ぎたころ彼の妹さんが完成しかけのデータを吹き飛ばしてしまったことがあったそうだ。
キョンは妹さんには適当に叱るだけ済ませたようだけれど作家としてはそうはいかない。
徹夜で原稿を打ち直し完成するころには1人暮らしを決意したといっていたね。
そこで買ったのがこのマンション。
実を言うと僕も購入について相談されたので覚えている。
紹介したのも僕だしね。
キョンは「広すぎないか?」なんて言っていたけれど「どうせ家に居る職業なんだからいいところにしたほうがいい」と丸め込んだんだっけ。
広い家を勧めたのにはまた別の思惑があるのだけれど……まぁそれは割愛しよう。
キョンのデビュー作、キョンはそこそこなんて言うけど実は結構な売り上げを誇っている。
それによってキョンが得た印税は僕のような新入社員では到底届かない額だ。
そして彼は基本的に無趣味だからお金も使うことが無い。
だからちょっとばかりいいマンションでも買うだけの余裕があった。
今では僕も1日の半分はそこにいるんだけれどね。
車を来客用の駐車場に止めた後エレベーターに向かう。
エレベーターが来ると9と1しか使うことの無いスイッチの内迷わず9を押す。
キョンの部屋は925号室。
もう何度も通った通路を歩く。
キョンの部屋に向かう途中キョンのご近所さんに出会ったので軽く挨拶を交わす。
彼女が僕のことをどう認識しているのかは知らないが恐らく会社の同僚と似たり寄ったりなのだろう。
きっと僕の指紋が一番着いているであろうインターフォンを鳴らして数秒、キョンが出てきた。
「やぁキョン。調子はどうだい?」
「よぉ佐々木、良くはないな」
どうやら余りはかどっていないらしい。
仕方ないな、今日もスイッチを入れてあげようじゃないか。
「今日はしょうが焼きだよ。30分ほどで出来るからね」
「何時も悪いな」
「いいさ、それで原稿が出来るならね」
「ぐっ……もうちょっと待ってくれ」
なんてやり取りはもう何度目かな?
さて、それでは料理に取り掛かろうかな。
僕はこれ以降キョンに対して原稿を催促するようなことは決して言わない。
ただ料理を作って、一緒にお昼を食べて、その後は軽くキョンの部屋を掃除する。
それがすんだらお茶でも淹れてゆっくりと待つだけだ。
キョンのスイッチというのは催促されることでは絶対に入らない。
昔からそうなのだけど、彼が最も力を出すのはそういう空気になった時だ。
だから僕はそういう空気を作るために彼の胃袋を満たしまわりを整え、しかる後に彼の後姿をお茶でも飲みながら見つめる。
そうすれば彼の指先の速度は徐々に速くなっていくんだ。
「いつも美味いな、佐々木」
「そういってもらえると嬉しいよ」
食事中は原稿の話しもするけど基本的には四方山話。
それで彼が展開を思いつくこともあるので意外と馬鹿には出来ない時間だ。
もちろん僕自身が楽しんでいないなんて事はないのだけれどね。
僕もボキャブラリーにはそれなりに自信が有るけれど、それに新解釈を加えて面白くする能力はキョンに遠く及ばない。
僕のした話を元に僕には考え付かない展開を作ってくれるのは中々どうして編集者冥利に尽きるというものだ。
昼食を終えたキョンは再びパソコンに向かう。
指の速度は……うん、順調に速くなっているようだ。
この感じならば今度の締め切りも大丈夫かな?
……時間が空いたらまたどこかへ連れて行ってくれないだろうか。
この間は本当に楽しかったな……。
あのシリーズはとんでもなく恥ずかしいけれどこういう利点を考えれば我慢してもいいかもしれないな。
「なぁ佐々木よ」
「うん?どうしたねキョン」
「百人一首の編纂って誰だったっけか?」
「小倉百人一首のことなら藤原定家だね。鎌倉時代に天智天皇の命で編纂した」
「そっか、サンキュ」
時々キョンはこういう質問をする。
恐らく作中の人物に何か言わせようとして微妙に不安だったんだろう。
今のところ答えられなかったことは無いのでなかなか役に立っているようだね。
……うん、掃除はこんなものでいいかな。
お茶でも淹れよう。
「はい、キョン」
「お、サンキュ」
キョンの家に常備してあるお互いの専用湯のみにお茶を入れると片方をキョンのところにおく。
そういえばこの仕事は高校時代はあの先輩のものだったんだっけ。
ふふ、ごめんなさいね。私がいただいちゃいました。
なんてね。
さて、一通りのことはしたので後はお茶を飲みながら飲んでキョンの背中を眺めるだけ。
退屈そうに聞こえるかもしれないけれど中々有意義な時間だ。
…………
…………
…………
…………あ、手が止まってる。
「ねぇキョン。こうしている時間とは中々素晴らしいものだね」
「おいおい、俺は締め切りに追われて必死こいてるんだぜ?」
「それでも時間は穏やかじゃないか、喧騒もないし。こうして君のご飯を作って掃除して、お茶を飲みながらこうしているのは
何者にも変えがたい時間だと思うよ。……ずっと続けばいいのにね」
「ん、心配しなくても続くだろ?」
「ど、どういう事かな?キョン」
「俺が編集部から干されない限りはな、お前とは相性いいんだし……よし、これで行くか」
「…………」
やれやれ、やっぱりそう来るのかい。
まぁ何か思いついて手は動き出したようだしよしとしようか………。
「よっしゃ、出来た」
この彼の声が聞こえたのは夏の長い日照時間もそろそろ終わりを告げようというころ。
ふむ、今日は結構かかったね。
「どれどれ、じゃ見せてもらえるかい?」
「おう、プリントアウトするから少し待ってろ」
しばらくするとプリントアウトが完了し僕に原稿が手渡される。
1ページ目からゆっくりと文字を追う。
…………
…………
うん、今回も面白い。
キョンは何時も自分がいつか干される可能性があるようなことを言うがこの原稿の出来が続く限りそんなことはありえないだろう。
まぁ、キョンは昔から自分を一段低く見る傾向があったけれどね。
さて、原稿を受け取ったからにはそろそろお暇しなくては。
編集部で行わなきゃならない仕事も有るしね。
「うん、大丈夫。面白いよ。」
「そうか、ダメだしが出なくて良かったぜ」
「じゃ、そろそろ失礼しようかな」
「……あ、そうだ忘れてた。佐々木、これ持っててくれ」
そういってキョンは何かを持ってきた。
……鍵?
ってまさか!?
「この部屋の合鍵、この間時間が空いたとき作ってきたんだ」
「キョ、キョン?これを僕が持ってても言いのかい?」
「インターフォンにいちいち出るのも面倒だし、お前なら絶対悪用しないからな。持っててくれよ」
「う、うん、わかった。じゃあ明日からは直接上がらせてもらうよ」
「おう、そうしてくれ。それじゃぁな」
「うん、また明日」
そういって私は……僕はキョンの家を後にした。
……解っている。
仕事上の都合なんだろう。
キョンにそれ以上の意図なんか無いんだろう。
……でも、嬉しい。
僕は車のエンジンをかけるまえにキーホルダーに鍵をつけるとしばらくそれを眺めていた。
あのインターフォンにもう僕の指紋がつくことはないんだな……。
……今度何か理由をつけて僕の部屋の鍵もキョンにあげようかな。
そんなことを思いながら僕はキョンのマンションを後にした。
最終更新:2014年09月28日 21:10