1-707「月明かりの帰り道」

「キョン,僕は今まで,所詮,人間の魂や思いはその体の中に閉じ込められていて,それらが交わりあうこと,理解しあうことは不可能だと思っていた.」
目の前に所在なげに立った佐々木が俺から目をそらしながら,つぶやいた.
いや,俺に語りかけていた.
「僕にできるどんな手段を用いても,僕は君に僕の考えや感情,つまり心を伝えるのは不可能だろう.どれだけ,君に僕のことを理解してもらいたいと願っても.そして,僕が君のすべてを理解することも.」
月明かりを浴びて立ち尽くす俺の中学時代の「親友」.
そこに,いつもの佐々木はいなかった.
それは,まるで初めて出会うごくありふれた十代の少女のように感じられた.
「佐々木?一体どうしたって-」
「キョン,お願いだから聞いて欲しい.」
俺は言葉を呑んだ.
中学時代,俺はこの道を佐々木と歩いていた.
同じ月明かりの下,同じこの道を.
「だから,ずっとばかばかしいことだと思っていたんだよ.理解できないとわかっているものを必死に理解しようとしてもがくことを,理解してもらえないとわかっているのに必死に理解されようとして傷つくことを.それをずっと滑稽なことだと思っていた.そして-
僕はそれからずっと逃げていた.」
今日の夜,佐々木が俺の家に訪ねてきた.
そして,こう言った-キョン,君に話したいことがあるのだが.今夜,少しばかり月夜の散策に付き合ってもらえないかい-
佐々木はいったん言葉を止めて,俯きながら歩く.
俺は先に行かないように,遅れてしまわないように,その横を歩く.
ほんの少しでも,歩く速度がずれてしまったら,佐々木がどこか遠くへ行ってしまう気がしていた.
「涼宮さんはすごい人だよね.」
顔を上げて唐突にハルヒの話題を持ち出した.
ハルヒがすごいって?確かに,ある意味というかいろんな意味ですごい奴ではあるが-
「僕にはとても真似できそうにないな.」
佐々木がため息交じりに笑う.
思えばこんな笑い方をする佐々木を見るのは初めてではないだろうか.
「いや,ハルヒの真似なんてできる奴なんか日本中探してもいないと思うぞ.」
あんな人間の形をした台風が日本にそうそういてたまるか.あんなデタラメ変態パワーは一人で十分すぎるほど十分だ.一万円札でチロルチョコを買うよりおつりがくるぞ.
って,佐々木もそういえばハルヒと同じような能力を持っているんだったけな.
「くっくっくっ」
佐々木が喉の奥を鳴らす独特の笑い声をだした.
「なんだよ.」
「いや,失敬.涼宮さんの話となると,まるで別人のように君は快活になるね.」
はじめて佐々木が俺の顔を見た.
悲しそう表情の上に貼り付けたような笑顔だ.
ハルヒはどのような表情をしたらいいかわからないとき,怒ったような顔をする.
そして,佐々木は笑ったような顔をする.
「涼宮さんがうらやましい.僕もそうすればよかった.」
心なしか佐々木の言葉から理論の鎧がなくなっている気がした.
「君に自分自身の感情をぶつけられる.君のために嫉妬したり怒ったり悲しんだり,そして笑ったりできる.僕ができなかったことを,私が怖くてできなかったことを-」
彼女が「私」と言った.
声が心なしか震えている.
佐々木はまた俺から目をそらす.
「僕の心の中を見ただろう?」
橘京子に連れられて入った佐々木の閉鎖空間を思い出した.あのセピア色の静かな世界を.
「彼女は,橘さんは僕の心の中を穏やかで安定した世界だと言った.」
そうだな,あれはまるで時間が止まったように穏やかだったよ.
「でもキョン.あそこは閉じられた世界なんだよ.穏やかなる安寧の場所.
 それは僕が閉じこもっている自分自身の殻に過ぎない.
 僕は穏やかな人間などではない.ただ,傷つくのを恐れて世界を拒絶している,弱い人間なんだ.世界に否定されるのが怖い臆病な人間なんだ.そしてそんな閉ざされた世界に常に僕の心は存在している.」
どうしたんだ,佐々木.らしくないぞ.
俺の知っているお前は,いや,俺の見ていたお前は-
「キョン,君と出会えたことが僕にはうれしかった.いつだったか,君のよさを僕は話したね.でも,君の本当のよさは,世界を否定しないこと,あるがままを受け入れてくれるところなんだよ.こんな僕でも君は普通に接してくれた.」
いつだったか,佐々木の言った-僕には彼女たちしかいないんだ.他に寄って来てくれた人はいなかったよ-という言葉が突き刺さる.
「僕に話しかけてきてくれたのは君だけだった.それは,涼宮さんも同じことだったろう.」
ハルヒとの出会いを思い出す.そう,あいつに話しかけるなんて奇特なまねをしたせいで,こんな驚天動地の意味不明毎日が非日常祭りに首を突っ込んでしまった大馬鹿野郎は俺だ.俺だけだった.俺しかいなかった.
「せっかく彼女より先に出会えたのに.どうして気づくのが遅かったんだろう.あの時のほんのたった一日だけでいい.そのたった一日だけ,あの帰り道が今と置き換わってくれていたなら-」
佐々木の声が夜の闇に消え入りそうに響く.
俺はどうしたらいいのだろう.どうするのがいいのだろう.なんと答えればいいのだろう.
何も変わっていなかった.あの時,ハルヒに何も言えなかったまま.
声を出さない笑顔を,佐々木は俺に向けた.
そこにはあの偽悪的な顔色も,自嘲的な響きもなかった.
「キョン,ありがとう.最後まで聞いてくれて.」
はじめてみる.はじめてきく.はじめてはなす.目の前にいる少女と.
「さてと,夜も更けてきたね.暦ではもう春だというのに,深くなっていく夜の四十万はまだ肌に突き刺さるようだ.こんな夜に君を連れ出して申し訳なかった.この月夜の散歩もそろそろお開きとしようか.」
佐々木は,俺の驚いた表情を察したのか,「いつもの」俺の見慣れた佐々木に戻った.
「それでは,キョン.ま-,いや,さよなら.」
そういって佐々木は足早に歩き出した.
「お前をバス停まで送るのがお決まりのコースだろ.」
俺は無言で消え入るように立ち去る佐々木の背中を追いかけた.
佐々木は無言のまま歩く早さを少し緩めた.
俺も無言でそれについていく.
バス停までの15分程度の道のり,会話はなかった.
ただ,初めて月明かりを浴びて隣を歩く少女をかわいいと思った.
見慣れたバス停に着いた.
運悪くもうバスが目の前に来ている.
「じゃあ,キョン.今日は迷惑をかけてしまって申し訳なかった.」
佐々木はこちらを振り返らずにバスに乗り込む.
「佐々木!」
思わず俺は大声を出していた.
驚いたように佐々木が振り返る.
「またな.絶対に,またな.」
彼女が笑った.恥ずかしげに手を振った.
月明かりの中,彼女を乗せてバスが静かに走り去っていく.
-そうだよ,お前はそんな風に笑えるんだよ.まっすぐに笑えるんだよ.

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最終更新:2007年10月10日 10:45
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