2-134「世界と君の手」

「キョンくん電話だよ~」
風呂の扉が遠慮なしに開かれる。
妹よ、いい加減恥じらいくらいは覚えてくれないか。
湯船に浸かっているからまだよかったものの、まったく。

それ以前に、なんでどいつもこいつも俺が風呂に入っているときに限って電話がかかってくるんだか。
「はい、キョンくん。」
あぁ、サンキュー。で、用が終わったのなら早く出て行ってくれないかな、妹よ。男の肉体の神秘を知るにはまだ君は早い。
「は~い。」
あまりにも幼すぎるわが妹の将来に不安になりながら、電話に耳を当てた。
あ、いけね。誰からかかってきたか聞くのを忘れた。
古泉あたりだったら問答無用で切って、風呂から上がるまで待たせよう。

「もしもし。」
「やぁ、キョン。こんばんは。」
この声は―


「佐々木?」
「声だけで電話の主が僕であると言うことを看破してくれたのはうれしいが、そんな素っ頓狂な声を出されると思わずこちらも狼狽してしまうよ。」
うそこけ。お前の狼狽した姿など見たこともないし、想像もつかん。
ちょっと見てみたいが。

しかし、俺が驚いたのは事実だ。
対となる宇宙人に未来人に超能力者、あの一件があったからな―

「で、何のようだ?」
思わず声に警戒心がこもる。
「君は今お風呂に入っているようだね。よかったら、またあとでかけ直すが―」
「いや、かまわない。話してくれないか。」

悪いが、のんびりバスタイムを楽しめるほど悠長な気分にはなれない。
「そうか、わかった。この間話した、例の須藤の言っていたクラス会の件なのだが―」
「おい、ちょっと待て。」
思わず佐々木の言葉をさえぎってしまった。

「クラス会の話はこの間話しただろう?」
それは、そうだが。あんなぶっ飛んだ電波話を聞いた後だ。てっきり、もっといかれた話が来ると思っていた俺は大いに拍子抜けした。
「そのクラス会の下見をしたいのだが、キョン。
今度の土曜日、君も候補地探索に同行していただくことをお願いできないだろうか。」

不思議探索よりかは見つかる確率が高そうだな。
しかし―
「悪いが、例の連中らが一緒だとしたら、俺は拒否させてもらう。
待ち合わせ場所であいつらの姿を見かけたら、俺は迷わず帰るからな。」
我ながらつっけんどんな返事だ。
連中に会うことが怖いわけではない。
ただそんな嘘をついて俺を引っ張り出そうとしているなら、それが気に食わないだけだ。

「大丈夫だよ、キョン。彼らは来ない。神に誓ってもいい。僕らだけだ。」
俺は少し罪悪感を抱いた。
そうだ、こいつはそんな嘘をつくような人間ではなかった。
「わかった、いいぜ。ただし、二人だけで、だ。」
そう、二人だけがよかった。
これ以上、余計な人間が加わって話をややこしくしたくなかったし、
それに佐々木と二人で話したかった。

「ありがとう、キョン。」
そして、少し間を空けて、佐々木がつぶやくように言った。

「―僕も君と二人だけで会いたいんだ。」


翌日、放課後の部室にてSOS団恒例不思議探索を土曜日にやると大声で宣言したハルヒに、
俺はその日は用事があって行けないことを伝えた。

「ちょっとキョン、あんたそれでも栄光あるSOS団の団員としての自覚あるの!」
近隣の高校にまで名を轟かすSOS団の軍功は身にしみて存じ上げてはいるのだが、
それを人は栄光と呼ぶかどうかは知らん。
とまあ、予想通り怒鳴られたが仕方がない。

アヒル口で、団長席に胡坐をかいたハルヒはそっぽ向きながら
「まぁ、仕方がないわね。
 私もものわかりのいい団長だから、団員の都合は考えてあげるわよ。
 土曜日の不思議探索は残念ながら中止、決定!」
予想外にあっさりと俺の欠席届けは受理された。

「悪いな、ハルヒ。」
「ふん。」
機嫌悪そうにいつものアヒル口。

ふと振り返ると古泉が俺になにやらアイコンタクトをとっている。
やれやれ。


学校からの帰り道、いつもどおり最後尾を男性陣が歩く。

「まったく、やっかいなことをしてくれましたね。」
古泉がいつもの微笑みを絶やさず、軽く肩を上げた。

「土曜日の探索を断ったことか。」
「それもそうですが、どちらかというとその断る原因の方ですね。」
よく俺の行動をご存知なこった。

「現在我々『機関』の一番の懸案事項ですから。
 あなたが、彼女と二人で会うことを僕は責めるつもりはありませんし、
 それは誰にも責める権利などないことでしょう。」

だったら、これ見よがしに嘆息するのはやめてくれ。

「彼女とあなたはそうやって話し合わなければならなかったでしょう。
 それについては僕も全面的に賛成です。ただし―」
古泉は大げさに間を置いた。



「事の成り行きに世界の命運が握られているということを忘れないでください。」


そして土曜日の朝が来た。
午前11時の待ち合わせだったが、7時にはもう起きていた。
なぜか、落ち着いていられなかった。
一体何を恐れているのか、そして期待しているのか。
自分でもわからない。

約束の30分前に駐輪場に着いた。
待ち合わせ場所はいつもSOS団が使うあの駅前で、クラス会もその周辺でやるつもりだった。
繁華街を歩くなら自転車はないほうがいい。
自転車を駅前の駐輪場の有料スペースに置いて振り返ると、
あいつがいた。

「やぁ、キョン。おはよう。」
両手を後ろで組んで佐々木がドッキリに成功したように、悪戯っぽく笑っている。
なんで毎回毎回俺を驚かせる登場の仕方をするんだ、お前は。

「よう。」
俺は片手を上げて応える。
って、待ち合わせ場所はいつもの駅前じゃなかったか?

「僕も君もここには自転車で来るだろう?
 人通りの多い煩雑としたあの駅前で待つよりも、ここで待つほうが確実だと思ってね。」

それはそうかもしれないが―
「それに、何よりここで待つほうが少しでも早く君に会えるだろう。」

佐々木は喉を鳴らすように笑った。

俺と佐々木は駐輪場を出て、駅前を歩いていた。
あくまで本日の目的はクラス会の下見だ。
クラス会の人数や一人当たりの予算、連絡方法などを話しながら、辺りを散策する。

相変わらずの佐々木の小難しい話に俺が相槌を打つ。
たわいもない雑談、懐かしい光景。
そうあるようにお互い意識していただけかもしれない。
でも、あの頃とは変わらないまま。
そう、思わずあのいかれた非日常を忘れてしまうくらいに。
この瞬間がいつまでも続けばいいと思わなかった、と言えばきっと嘘になる。

ほんの少しだけ俺の前を歩く佐々木も、少しだけはしゃいでいるように見える。
少しずつ高度を上げていく太陽に照らされた佐々木の笑顔が時々俺を振り返る。
あいつの顔が輝いて見えるのは、きっと太陽のせいだろう。

そうこうしているうちに手帳にメモを取っていた佐々木が話しかけてきた。
「さてと、キョン、キャンディデイトはいくつか挙げられたね。
次なる課題としては、だ、僕らはここからベストキャンディデイトを選ばなければならない。
ここはやはり実際に食事をしてみるのが早いかな?」
佐々木は俺の目を見ながら悪戯っぽく笑う。

「昼前に待ち合わせているんだ。もともとそのつもりだったんだろう。」

くっくっと佐々木は笑った。
「それはよかった。君の懐事情を僕は知らないからね。
 先立つものがない場合はファーストフードでも致し方なしと思っていたのだよ。」

お前がどこぞの団長様のように「罰金!」とか言い出さなけりゃ大丈夫だ。たぶん。

「っても、候補の店を全部食べ比べるのは無理だぜ。」
リストアップされた店は十軒程度に上っていた。

佐々木は風を受けて揺れる髪を払いながら言った。
「これから毎週末に二人で食べ歩けばいい。
そうすれば半年くらいでこの辺りの飲食店をコンプリートできるかな。」

おいおい―

「冗談だよ、キョン。」
そう言って佐々木は首を少し傾げて、愉快そうに笑った。

「そんな困った顔をしないでくれよ―」

そして、目線を俺からはずして佐々木はつぶやくように言った。


結局、候補に選んだ店から一軒選んで実際に食事をしてみて、
よっぽどひどい場合だけ考えようという話になった。

さすがに俺と佐々木が一時間ちょっと歩き回って探しただけあって、
店内の雰囲気はおしゃれな落ち着いたイタリアンレストランだった。

二人でそれぞれ千円ほどのパスタセットとピッツァセットを頼んだ。

「まぁ、コストパフォーマンスは上々といったところだろう。」
佐々木はピザを一口一口ゆっくりと食べながら、ひそひそ声で俺に話しかけてきた。
その食べ方は、豪快極まりないハルヒとも、また別の意味で豪快な長門とも、
おっとりとした朝比奈さんとも違って、新鮮な感じがした。
まるで食べるところを人に見せたくないような食べ方は、
なぜか妙に佐々木に似合っているような気がした。
今まで知らなかったな―

「そうだな、悪くないんじゃないか。会費も一人二千円程度だしな。」
俺は適当な相槌を打った。
中学のクラス会程度にご馳走なんか期待してはいけない。

「よし、会場はここで決定としよう。次に同窓会の連絡についてだが、
 ここは順当で凡庸なアイデアで申し訳ないが、女子は僕が、男子ということでいいかな?」

そうだな。

「それとも、もし誰か君の心の中に想う女子がいるなら、
 その子に招待状を送るという役は君にお任せしてもいいのだが。
 どうかな、キョン?」
両手に顎を乗せて佐々木が偽悪的な笑いを浮かべながら俺を見る。
佐々木のどこか深い色に染まった瞳が俺を覗き込む。

そんなのがいないことぐらいお前は知っているはずだろう―

「そうだったね。
 ―少なくとも中学時代の僕の知る範囲ではそうだったね。」

佐々木の瞳の中に、まるで深海に取り込まれたような俺の姿が見えた。
その中で、何かを見透かされたような気がした。
続く言葉が出ない。
俺はどこか、なにか見つかってはいけないものを見つけられてしまったように目をそらしていた。
それがなにかはわからなかったけれども。

佐々木は唇を結ぶように笑った。
一瞬、どこか寂しげに見えたのは気のせいだったのだろうか。


それからは、お互いクラス会についての事務的な話を進めていって、キリのいいところで店を出ることにした。
食事代をワリカンだ。
しかし、悲しきはパブロフの犬並みに染み付いた習慣かな。
条件反射で思わず伝票を手に取っていた。

「女性と食事する際のマナーはきっちり教育されているようだね。」

クラス会の会場も決めて、連絡係も決めて、今日やるべきことは終わった―
はずだった。
店を出てとりあえず駅前の方へ歩いていると、突然佐々木の足が止まった。
見てはいけないものを見てしまったような佐々木の顔から、その目線の先に目を向ける。
涼宮ハルヒ。
そこには涼宮ハルヒがいた。

ハルヒは目を見開いて立っていた。
その表情からはSOS団をサボって女の子とデートしている団員に対する怒りは感じられず、ただ驚愕の一言あるのみだった。
一瞬時間が止まったようだった。
何もやましいことはないはずだ。
なのに、なぜ俺は言い訳を必死で考えている?
なのに、なぜ俺は逃げ出したいような衝動に駆られている?
なのに、なぜ―

古泉の言葉が頭に響く。
俺はどうすることもできず、そこにいた。


沈黙を破ったのは佐々木だった―
「こんにちは、涼宮さん。」
佐々木は女と話をするときは、普通に女言葉を使う。
だから、男言葉でしか話したことのない俺にはその声色の奥の表情を伺うことはできなかった。

「あ、こんにちは。」
ハルヒがまるで催眠術から覚めたように答えた。

「ごめんなさいね。大切な団員さんを一日借りちゃって。
 中学校のクラス会の幹事を二人でやることになって、その下見に来たんだ。」
佐々木は俺をキョンとは呼ばなかった。

ハルヒはまだ目を丸くしたまま
「あ、そう。」
と短く相槌を打った。

「でも、もう用事は済んで帰るところだったんだ。
 あぁ、キョン。せっかく涼宮さんと会えたんだから、二人でお茶でもしてきたらどうだい。
 僕は学校の課題がたまっているので、悪いが一足先に帰らせてもらうよ。」
そう言って佐々木は踵を返して歩き始めた。
普段のあいつらしくない早足で、駐輪場とは反対の方向へ。
向かい合うハルヒとは反対の方向へ。

俺はただ馬鹿みたいに立ち尽くすことしかできなかった。


「キョン!」

聞きなれたハルヒの大声で俺は意識を取り戻した。

「ハルヒ。」

両手を腰に当てて、見慣れた傲慢不遜な怒り顔が俺を見据えていた。

「何やってるのよ!」

すまない。
とりあえずの言い訳のように謝ってしまった。
でも俺は、一体、何に対して?

「このバカキョン!」
ハルヒが俺の腕を引きずり寄せる。

相変わらずの馬鹿力だな。
抵抗することなく俺はハルヒの元に引き寄せられた。
乾いた音が響く。
人通りの多い往来の真ん中でハルヒが俺の頬を叩いた。
痛みが少しずつ広がっていく。

「しっかりしなさい!早く彼女を追いかけてあげるのよ!」

そして、ハルヒの予想外のセリフに俺はまた驚くこととなった。

「ハルヒ?」

ここで初めて俺はハルヒの目を見た。
俺を見るハルヒの目はいつもの挑戦的な目で、そして真摯に俺を見据えていた。

「早く行ってあげなさい!
わざわざ私がSOS団恒例行事を中止にしてあげたのよ!
事情は知らないけど、こんな中途半端なんて許せないことだわ!」
そう言って俺の腕を放すと、ハルヒは腕組みをして力強く俺を睨み付けた。

いつだったか、お前は俺に目線でパワーを送るとか馬鹿なことを言ったことがあったよな?
まさか、その瞳に本当に勇気付けられることになるとは思わなかったよ。

ありがとう、ハルヒ―
俺の声は都会の喧騒にまぎれてハルヒに届いたかどうかはわからなかった。

自分の卑小さが憎かった。ハルヒを信じられていなかったこと、そして―

俺は佐々木の元へ駆け出した。


駐輪場とは見当違いの方向へ佐々木は歩いて行ったんだ。
追いかけるにしても、行き先なんて皆目俺には見当がつかなかった。
ただその方向へまっすぐに、がむしゃらに走った。
急がないとあいつを見失ってしまう。

くそっ、佐々木、お前はいったいどこに―


「キョン?」

背後から誰かが俺の名前を呼んだ。
聞きなれた声だ。
特に今日はよく聞きなれた声だ。
振り返るとそこに呆然と立ち尽くすショートカットの少女―佐々木がいた。

必死に走って危うく見過ごしてしまうところだったなんて、本当に今日の俺はどうかしている。

「どうしてここにいるんだい?」

必死に走ってきた俺はしゃべれない。両手をひざにつけて息を整える。

「涼宮さんはどうしたんだい?」

唇の端を上げて目を細める表情。そんなに悲しそうに笑わないでくれ。

「涼宮さんに追いかけるように言われたのかい?」

ああ―

「くっくっ。
 本当に君たちはまったく馬鹿がつくほどのお人よしで、馬鹿正直というやつだね。」

どこか自嘲的な独特の佐々木の笑い方。口元を押さえる手が震えている。
白い頬が赤く染まっている。

「でも、君が追いかけてきてくれるかもと思って、まっすぐ歩いていた僕はもっと馬鹿だね。」

佐々木―

「早く君の傍から消えようと早足で歩いていたはずなのに、
 気がつけば足取りは重くなって、
 そしてきっと君が追いかけてきてくれると期待していたよ。」

佐々木―
まるでそれは仮面が外れたように、佐々木はうつむいてその表情を隠した。

「まったく、本当に私は馬鹿だな。
 涼宮さんにはかなわないって思い知らされたっていうのに。
 本当に馬鹿だ―」

前髪に隠されて、佐々木の表情はよくわからない。でも―

「なんでこんなにうれしいだろう―」

やさしい6月の風が夏の足音を運んできた。暖かい日差しが彼女の頬で反射していた。
―彼女は泣いていた。


俺たちは海沿いのベンチに腰を掛けていた。
コンクリートの防波堤に縁取られた海岸線沿いには人通りは少ない。

あれから俺は佐々木に声をかけて、ここまで移動してきた。
歩いている間もお互いなにも会話はなかった。
そして、ベンチに座っている今も。

本音で語り合おうとしたとき、俺たちはあまりにも言葉を持たなすぎた。
そう思い知らされてた。

「本当は―」

海を見ながら佐々木が沈黙を破った。
その表情は今までに見たことがないくらい穏やかだった。

「本当は、君と同じ高校へ行きたかった。
 本当は、もっと君と話がしたかった。
 本当は、もっと君と一緒にいたかった。」

それから佐々木は小さな深呼吸をした。
小さな手が震えていた。

「迷惑をかけてごめんね。」

迷惑なんてとんでもない。
お前は何も悪くない。
謝るのは俺のほうだ。

「本当に君は優しいな。」

彼女は俺のほうを見て笑いかける。
今にも消えそうに力強く輝く、まるで蛍の光のような。


「君は覚えているかい?僕たちが初めて出会ったときを。」

よくは覚えていないが、学校では顔は知っているけど話したことはなかったな。
初めて会話したのはあの塾だったか。

「僕は覚えているよ。
 本当に他愛のない会話だったけど、君は僕の目を見て話してくれた。
 奇異の目ではなく、ちゃんと僕の目を見て。」

そして、佐々木は何かを決意したように小さく頷いた。
佐々木は俺の手に自分の手を重ねて、俺の目をまっすぐに見た。

「あんなふうに僕と話してくれたのは君だけだった。」

重なった手に少し力がこもる。彼女の温かさが伝わってくる。

「私がどれだけうれしかったか、君にわかるかい―」
彼女が笑う。
俺は何も言えない―
ただ、見つめていたかった。
ただ、その手の温もりをずっと感じていたかった。
たとえ自分にそんな資格がなかったとしても。


そして、どれくらいの時間が経ったんだろうか。
彼女は何かを決意したように立ち上がった。

「さてと、そろそろ僕は失礼させていただくよ、キョン。」

いつもの、俺のよく知っている佐々木だった。

「あぁ、そうだな。もういい時間だ―」
そう言って立ち上がろうとする俺を佐々木は手で制した。

「すまない、キョン。僕を一人で帰らしてくれないか。」

突然の申し出に俺は一瞬混乱した。
佐々木はそんな俺を見て軽くのどの奥で笑い声を上げるとこう言った。

「君には僕を見送ってもらいたんだよ、キョン。」

ちょっと待て、なんでそんなことを。

佐々木はちょっとおどけたように笑う。

「世界の変容はつまりは価値観の変容だ。
 言い換えるならば、たとえ自分以外の世界を意のままにできたとしても、
 自分自身が変わらなければ世界は変わらないんだよ。
 そう、ただ自らの在り方を変えるだけで世界は変わる。」

手を指先までそろえて伸ばし、胸を張るように佐々木は俺を見る。
くっくっとまるで手品の種明かしをしているように笑った。

「それはね。つまり―
 僕は変わりたい。
 心を隠したまま笑うのはもう―」

一点の曇りもない真剣な表情、初めて見る。

目の前の夕日に染まった世界が、まるで佐々木がそう望んだから、そうあるように感じた。

「もっとちゃんと君と向かい合えるようになりたいんだ。」

そう言って彼女は生まれたての笑顔を俺に向けた。


海を背景に夕日を浴びた彼女の姿はなんとも言えず綺麗で、
ただ俺の心に焼きついた。
目の前に広がる燃えるような光景が、
あいつの手のように暖かく感じられた。

じゃあね、とだけ佐々木は言って歩き始めた。
俺は佐々木の後姿を見つめる。彼女がそう望んだから。
木立に彩られた道。
あいつの心にはどんな自分自身の姿が思い描かれているのだろうか。
俺の姿はどのように描かれているのだろうか。

どんな形でもいい。
俺は、勇気付けてくれたあの瞳と、そして―
まだ手に残る暖かさに報いられるような人間になりたかった。

『世界と君の手』

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最終更新:2007年10月10日 10:52
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