3-96「天体観測」

やぁキョン、聞こえるかい。
もし聞こえていたとしたらそれは異常だよ。今すぐ病院で精密検査を受けることをお勧めする。
もしかしたらあらゆる項目の世界一を載せた本に名前を残せるかもしれないね。

ところでキョン、キミは覚えているかな。
去年の今ごろ、僕たちはこうして恒星が輝く夜空を眺めていたよね。
正直、こんな夜分に外に連れ出すキミの心境が知りたかったが、あの時はそこまで気が回らなかったよ。
そんな考えより、キミと二人で天上の星を見上げていることの方が遥かに重要だったんだ。
今思えば、その気持ちを疑うべきだった。ただ、僕は心のどこかでそれを否定していた。
キミに精神病だと豪語してしまった以上、認めてしまえばキミを裏切ることになると思ったんだ。


それだけは、いやだった。


君を親友だと思っていた。だからキミを裏切りたくない。
そんな手前勝手なプライドのために、僕は「親友」であることを選んだ。
その選択が間違っているとは思わなかった。だからそれからもキミと普通に接していられたんだ。
だから、僕は正しい道を歩んだんだと信じていた。



―――――信じていた、はずなのに……


どうしてだろう、こんなにも胸が痛いのは。
思い返せば、キョン――キミと別れてしまってからだった。
それでわかったんだ。僕のあの時の選択が間違いであったことに。


――――――――どうして、今ごろになって気づいてしまったんだろう

知っているかいキョン、この星の外である宇宙はいずれ消滅するという説があるんだよ。
もちろんこれは可能性の一つでしかない。
有力な説としては、「宇宙は無限に広がり続ける」というのがある。
つまりこの宇宙は文字通り無限に広がり続けるということさ。
一般相対性理論から導出される、いわゆる「開いた宇宙論」では
宇宙は永遠に存在しつづけることになるらしい。けど、膨張を続けるうちに
いずれはいかなる生命体も存在できない状態に安定化する。
すべての恒星が燃え尽きるまで1014年
すべての惑星が公転軌道から蹴りだされてしまうまで 1015年
銀河系が崩壊するまでは1019年
そして全ての物質がブラックホールに飲み込まれるまでは
――――短く見積もって10の1026乗年かかるんだよ。
これと反するのがさっきの説だ。ビッグクランチ理論では膨張を停止させ、
収縮に転じさせるのに十分な質量が宇宙には存在すると仮定している。
このとき何が起こるかは誰も予想できない。
それは宇宙が誕生した瞬間何が起こったのか、それを知る事とほぼ同義であるとされるからね。

ただ、どちらにも共通して言えることはそれまでに至る時間が果てしないことだよ。
明日や1年後なんて話じゃない。
少なくとも僕たちが生きている間は決してお目にかかれない事象であることは間違いない。
そのことを考えれば、僕たち人の人生とは星の寿命と比較するだけであまりにも微細なものでしかない。これが宇宙スケールになるともはや滑稽としか言いようがないよ。
けれど、たとえどんなに小さくてもそれが僕たちに与えられた時間なんだ。
僕たちは、この宇宙にとっては一瞬ですらない時間をまるで永遠に続くような錯覚を持って生きているんだよ。


……きっとキミが聞けば、「何が言いたいんだ?」と言うだろうね。
だから答えるよ。僕の言葉が届くことを願って


――――キミと一緒にいた時間は、僕にとっても、あまりにも短い時間だった


あの夜の時と同じように、僕はこの場所で待っていた
あの夜の時と同じように、僕は同じ服装で待っていた
あの夜の時と同じように、僕は――――ただキミを待っていた
直前に聞いたラジオの予報では、雨は降らないらしい。これもまた、全く同じ

約束の時間、午前二時

キョン――――キミがいないことだけが、違っていたんだよ

『――悪い佐々木、待たせちまったな』
『問題はないよ。時間には間に合ってるからね……とはいえ、
 こんな時間に呼び出しておいてギリギリで来た理由は気になるところだがね』
『すまん、こいつを探すのに時間がかかっちまって』
『……キョンに計画性が無いのは知っていたが、せめて電話をかける前に
 準備をしておいてもバチは当たらないと思うんだが』

目を閉じれば、あの時の様子が鮮明に浮かぶ
一年も前の出来事だというのに、僕はキミの顔を思い出せるんだ
キミの声を、思い出せるんだよ

『それで、その望遠鏡で何をするんだい。まさかとは思うが他人の行動原理を
 調査するために被験者を探すことに使うつもりかい? そうなると僕は
 キミを矯正するために携帯で3桁の番号を押すことになるんだが』
『遠回しに"覗き"と言っているのはわかったが、俺はお前からいつも
 そういう風に見られていたのか』

僕と交わしたキミの言葉は、今でもなお僕の耳に届いてるんだ

『くっくっ、もちろん違うとも。しかし人間は時として思いも寄らぬ一面を
 持つ事がある。それは激情という名の本能に突き動かされたもので、
 男であるキミがそんな陳腐な電気信号に逆らえなくなってしまう可能性も
 ある。キミが自身の肉体を制御下におく事ができなくなった場合、僕が
 とれる最良の行動を言ったまでだ』
『言っておくが俺はそんな趣味も無ければ野蛮でもないからな。
 それより、さっさと始めようかね』

それなのに――目を開けてしまえば、キミの姿が無いんだよ
確かに聞こえていたはずなのに、目の前にキミはいなんだよ

キョン、君に言ったことがあるよね。
「恋愛なんて、精神病の一種だ」と。
皮肉なことに、幻聴という形でたった今それを僕自身が証明してくれたよ。

――――キミの声が、聞こえたんだからね
『とこれでキョン、どうして僕を誘ったんだい。
 天体観測とはキミ一人でもできるとても簡単な行為だと認識しているんだが』
『いや何、お前があまりにも理屈っぽいことを言うもんだから実際に見せて
 やろうと思ってな』
『くっくっ……なんだいキョン、昨日話した[観測論]がそんなにお気に
 召さなかったのかい?』
『あぁ、流石にそんな突拍子も無い理論だけは納得できないな。誰かがそれを
 見た時点で存在が左右する世界なんて勘弁願いたい』


あの頃の僕は、こんな事になるとは思わなかった
だから、今の僕が胸を痛めているんだ


『だから実際に目で確かめる。それは決して悪いことではないと思うけど、
 観測論を根本的に否定するのは難しいと思うんだ。それじゃたった今
 キミがある星を見たとしよう。そしてその星は肉眼では認識できないほど
 遠くにあるとする。キミが今その筒を覗いて見たそれは、他人が見たとき
 本当に同じ星であるという保障はないんだよ。いや、もっと厳密に言って
 しまえばその星はキミが見た瞬間に観測した状態のまま存在し続けるわけ
 じゃないんだ。だからキミが目を離した瞬間に、その星はキミが観測した
 状態と一致することはなくなるんだよ。観測論はそれを極端にした理と
 言っていい。これに基づけば、今キミが目を放した瞬間に僕という存在が
 消えるということも十分にありえ――――』
『佐々木』


暗闇の中で、僕は初めてキョンの真剣な声を"聞いた"
それは一年前の僕に宛てた言葉。一年前のキミが言った声

今の僕には、何も返ってはこなかった
ただ、この閉じられた目の先にいるキミだけが、何も変わらずにそこにいた

――――――――それは、観測論
キミの声が聞こえるのは、僕がキミを観測していないから
だから、僕が目を閉じている限り、キミは目の前にいるんだ
観測してしまった時点で――――――キミが――――――――消えてしまうんだ


172 :天体観測(5):2007/04/17(火) 21:01:32 ID:sjnW3RT/
キョン、僕はあの頃から随分と変わってしまったようだ
そして、僕を変えてくれたのは他ならぬキミなんだよ
キミに伝えたいことが、見つかったんだよ
キミに言いたかった言葉も、崩れてしまうほどに増えていったよ

ただ――――――――ひとつだけ、今も思い出していることがあるんだ


『――――くそ、降ってきたな』
『そうみたいだね。予報では雨なんて言ってなかったんだけど』
『ま、天気予報なんてそんなもんさ』


本当に、あの時と全く同じだよ
頬に感じる雫の滴り。予報外れの雨。
困ったような表情は、僕の知っているキョンと全く変わっていなかった。


『家まで送るぞ』
『必要ないよ。ここから家は近いわけだし、キミの翌日の行動に支障をきたすのは気が引けるからね』
『悪いが言い分は却下だ。元はといえば俺がお前を呼び出したわけだし、何よりお前を一人で帰す
 こと事の方が心配だ』
『くっくっ、キミはこんな時だけ僕を女性扱いするのかい?』


――――今、こうして思い出すことで気がついた
キョンは、きちんと僕のことを女の子として扱っていたじゃないか
それなのに、どうしてこの時言えなかったんだ
どうして、彼を止めようと思わなかったんだ

もう二度とやり直すことのできない過ち
それを今になって振り返ることが、こんなにも苦しいことだったなんて……


『それじゃ走るぞ。だんだん強くなってきたしな』


それが、この場所におけるキミの最後の言葉であることは、僕自身がわかっていた
だがそれは、一年前の僕に向けた言葉。今の僕に向けた言葉じゃない。
僕に向ける背中、あと4拍もしない内にキョンは僕の幻影と走り出してしまうだろう

――――そして、僕を置いていってしまうのだ


いやだ
キョンと離れたくない。離れたくなんか無い!

あの時、"私"はキミの手を握れなかった。こんな感情は嘘なんだと、ずっと思い込んできた! 
キミとの親友という関係を壊したくなかった。だからこれが正しいんだと信じてきた。
それが間違いであると気付かずに!

キミと別れたことで、"私"は変われた
今なら言える。キョン、キミが好きなんだと
今なら握れる。親友という関係を壊してでも欲したキミとの関係を




「――――――キョン!」



もう仮面なんかいらない。こんなものを付けていたがためにこんなことになってしまったのだ
"僕"ではなく"私"として、ただ"私"の本心を伝えるだけだった
キミの手を握ろう。そして受け止めて貰おう
それだけが私の望みだった




手を伸ばした
そこには何の感触も無かった


目を開けた
そこにキョンはいなかった


涙が止まらなかった
これが恋愛という精神病なのか


私はずっと見えていたものを見落としていたんだ。わかっていた事を理解しようとしなかったんだ
だからここへ来た。ここに来れば、もう一度キョンと会える。そう思っていたから
それ自体が幻想だったというのに、私はそれにすがってしまった
そうして結局、その幻を私自身が壊してしまったんだ

幻でもいい。それだけで私は十分救われるはずだった
それなのに、それを現実にしようとしてしまった
それが夢の終わりであることを知っていたのに、私は彼を求めてしまった


私は、胸を刺すこの思いをどうしていいかわからず
涙を流しながら一年前の帰り道を走り抜けた



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最終更新:2007年10月10日 10:55
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