5-804「二人三脚」

「――じゃあ、二人三脚の組はこれで決まりですね」
学級委員が黒板へ書き出したその一覧を見て、クラス中で嘆息と忍び笑いが巻き起こっていた。
まったく、飽きもせずに他人の関係をよくよく観察したがる連中だぜ。
思春期だとかそんなもん知ったことか。迷惑を被る俺達の立場にもなって欲しいというものだ。
「まあ、決まってしまったものはしょうがない。お互いベストを尽くそうじゃないか、キョン」
忌々しげに顔を歪める俺に、隣の席の佐々木がくつくつと笑いながら、そう声を掛けてきた。
――そう、俺の相棒は誰あろう、こいつなのである。

放課後の体育祭の練習などかったるいにも程があるが、本番で醜態を曝す嗜好なんぞもさらさら無く、
またペアの佐々木の事もあるしで、渋々ながらも参加せざるを得ない。一体全体、何故に二人三脚
などという競技が三年の全員参加競技なのか理解に苦しむ。うちの学校はアホか?
などと準備運動をしながら漠然とした不満を練り上げるのに勤しんでいると、俺の二人三脚の相棒が
こっちへ寄ってくるのが目に入った。
「どうした、随分と不満そうじゃないか?」
皮肉めいた笑みを浮かべた表情から投げかけられたその問いへ、俺はこう返したのだった。
「なに、お前とはよくよく一緒になる事が多いなと思ってな」
こうもよく重なると、クラスの連中が俺達を担いでるんじゃないかってな気分にもなってくるぜ。
「――まあ、キミの言いたい事も判らないではないがね、キョン。しかしペアの相手を前に、
 それは随分と失礼な物言いだとは思わないのかな? 僕と組む事はそんなに不満か?」
その口元こそは笑みを浮かべているが、まなじりをキリキリという効果音付きとも思える勢いで
吊り上げながら佐々木が答えた。
「――不満なんて、そんな事思ってねえよ。お前に迷惑なんじゃないかと思って、な」
「迷惑? ――ああ、そういう事か。半年間も揶揄されてれば、もう慣れっこだ。今更気にする事
 でもあるまい。それはキミとて同様だと、そう思っていたがね」
それはまあ、そうだけどな。今更クラスの連中がどう言ってるのかなんて気にしてたら限が無い。
正直なところ、俺は佐々木とのペアになった事は前向きに考えている。
他の女子連中じゃ恥ずかしさを覚えない訳じゃないが、気のおけないこいつとなら安心というものだ。
「――ふん、そうかい。所詮キミにとっての僕の役割なんてそんなものなんだろう」
そう吐き捨てて、佐々木は俺に背を向けてしまった。今日は随分と情緒不安定だな。
「……今日は随分と絡むじゃないか。何かあったか?」
そう言った俺の言葉に佐々木は首を回し、顔だけをこちらに向け、責めるような憂いたような、
何とも言えない複雑な視線で俺を見つめてきた。
うーん……やり辛いな。
しかしそれも束の間、佐々木は何事かを僅かに呟いた後、
「――まあ、僕としてもキミとのペアなら気兼ねなく、容易いがね。結構な事だよ。
 いつまでもこんな事をやってても時間の無駄だ、練習を始めようじゃないか」
そう言った佐々木の顔はいつものそれへ戻っていた。やれやれ。女心と秋の空――か。

それにしても、だ。
二人三脚の効率的な練習方法など知る訳も無く、どうしたもんかね、と俺は頭を掻いていた。
「佐々木は何か知ってるか? 二人三脚の練習法とか」
「さて、ね。生憎とそっち方面の知識は持ち合わせていないんだ、家に帰ったら調べておくよ。
 とりあえずは皆と一緒の練習をするしかないのではないかな?」
一緒の練習ねえ――
校庭を見回すと、なるほど、既に脚を結び付けて歩く練習をしているのが結構いるようだ。
「まあ、あれをやるしかないわな」
「そうだね――ほらキョン、左足を出したまえよ」
紐を携え、右足を出した姿勢で屈み込んだ佐々木が言った。すまんな。
「別に気にする事でもないさ――さて、僕達も歩いてみようか。
 取り敢えずは結んでいる方から踏み出してみよう、キミは左足からだな」
「よし、判った」
せーの――
最初の数歩の内は割と上手く歩けていた俺達だが、十数歩目辺りから佐々木が段々遅れ始めてきた。
歩幅の差を俺がすっかり失念していたせいだ。無理させちまったかな――
「すまん、大丈夫か?」
「ああ――気にしないでくれたまえよ。しかし最初から結んで歩くよりは、解いた状態で歩調を
 合わせる練習をした方が効率的かもしれないね」
そう言って佐々木は、顎に手を当てしばらく何やら考えていたようだが、やがて
「よし」
と呟いたかと思うと、俺にこんな提案をしてきたのである。
「キョン、歩調同期の練習を兼ねて、しばらくは一緒に登校しよう。僕達には自主練をやってる
 時間も余り無い。ならば練習に使えそうな要素は須らく練習へ取り込むべきだ。そうだろう?」
まあ、そりゃそうだろうが――
「佐々木、お前って何時くらいに学校来てたっけ?」
「大体8時15分には校門をくぐれるようにしているかな。なに、毎日10分程度早出するだけだ、
 簡単な事だろう?」
10分か――かなりきついな。朝の10分は夜の1時間に匹敵する貴重さだ。もうちょっと遅くならないか?
「やれやれ、何を言っているんだキョン。キミの生活改善にもなって一石二鳥じゃないか。
 それじゃ明日の朝からキミの家へ寄らせてもらうから、よろしく頼むよ」
もはや断れる段階に無い事に俺は気付いた。ただ佐々木の言葉に頷くのみである。
やれやれ、妙なことになっちまったな。

「キョンよ」
練習後、顔を洗っている時に須藤の奴が話し掛けてきた。
「お前らジャージ着て練習してるけどさ、競技本番はジャージ着用禁止だぜ」
はああああああああ?! おいちょっと待て須藤、何だそのルールは。
「冷てえよ、バカ。水が跳ねてる。落ち着けって。
 ――キョン、お前も三年なんだ、これが初めての体育祭ってじゃないだろう。
 まさかお前、全競技がジャージ禁止ってルールを忘れてた訳じゃないよな?」
忘れてたどころか忘れてる事すら忘れてた。そういや三年の連中が妙にむず痒そうに二人三脚を
やっているなあと言う記憶が今になって思い起こされてきた。
マジかよ――
「ま、俺としては羨ましい限りだがよ」
呆然としていた俺に須藤がそう言ってきた。
「羨ましいって、何が」
「お前ね」
俺の言葉を受けた後、須藤は悟りを持たぬ衆生を哀れむ禅僧のような憐憫の情を浮かべた表情で
俺にこう言ってきたのだった。
「あの佐々木との二人三脚のペアなんだぞ? あの白く美しいおみ足と正当に密着できるんだぞ?
 それなのにお前って奴は……とてもじゃないが同じ男子とは思えんね」
俺にはお前の言ってる事はさっぱりワケ判んねえよ、須藤。と言うか何だお前、佐々木のファン
だったのか? 隠れファンが多いとは国木田から昔聞いていたが――
「まあ好意が無いと言えば嘘になるわな。言動はちょっと変わってるし理屈っぽくて取っ付きにくい
 ところはあるけど、それも彼女の魅力さ。第一あの容姿に目を惹かれない男子がいるかよ」
そういうもんかね。しかしお前らが勝手に期待するような関係は俺と佐々木との間には無く、ならば
代わりにどんな関係なのかと言えばただの友達付き合いだ。妙な気を起こす方がどうかしてるという
ものだぜ。
「ふん――ぬかせ。まあお前以外の彼女のペアってのもピンと来ねえけどな。せいぜい頑張んな」
そう言ってタオルを片手に須藤は去っていった。くそ、何だってんだ、あいつ――

翌朝の事だ。いつものように俺が朝食を摂っていると、ピンポーンと玄関の呼び鈴が調子外れの音で
鳴り響きやがった。こんな朝から誰なんだよ――
「あ」
佐々木だ――まずい、とっとと支度をして出なければ――えーとカバンは何処だ?
「キョンくーん、お姉ちゃんが迎えに来てるよー」
ああ妹よ、そんな事は判っている。押っ取り刀でカバンを携え玄関へ急ぐ。
「――行ってきます」
「行ってらっしゃい、佐々木さんによろしくね」
はいはい、覚えてられるか判りませんけど、判りましたよ。
ていうかオフクロのやつニコニコしやがって、何がそんなに可笑しいんだろうね。まったくよ。
玄関を出て真っ先に目に入ったのは、誰がどう見ても明らかに不機嫌そうな佐々木の顔だった。
「――すまん、本当にすまん」
あいつの口から何事かが飛び出るよりも早く、開口一番に俺は詫びた。今の俺は他に語るべき言を持たん。
「はあ――まったく、昨日の約束をもう忘れているとは、キミの記憶力は鶏にも劣るのかな?」
何やら芝居がかった仕種で大きく頭を振り、誰の目にも明らかな「やれやれ」というジェスチャーを
してみせた佐々木だったが、次の瞬間にはいつものこいつへと戻っていた。
「キミに対する不満は百万遍を以ってしてもまだ言い足りないところだが、そんな無為な事をしても
 建設的でないだろう。有り体に言えば時間の無駄、だからね。
 ――まあ、少しくらいは登校中にでも聞いてもらうとして、だ。さて、学校へ急ごうか」

「歩調を合わせるって言ってもな……いつも通りに歩くだけだろ?」
「まあ、そういう事になるだろうね。然るにキョン、昨日の練習の時にキミは前へと進む事へと
 意識の重点が置かれていたのではなかったかな?
 二人三脚と言うのは勿論団体競技ではないが、そうかと言って個人競技でも無かろう。
 身体能力の劣るパートナーの事を少しは気遣って貰えると有難いのだけれどね」
「――すまん」
よくよくお前には迷惑を掛けてしまっているな、佐々木。
「なに、迷惑なんてそんなのお互い様だろう。それにキミの言う迷惑にはもう慣れたよ」
そう言って唇の端を歪めて笑ってみせた佐々木だったが、次の瞬間
「――つ」
と、何かの痛みに顔を歪ませた。
「おい、大丈夫か?」
「――大した事は無い、ちょっとした頭痛だ。心配には及ばないよ」
何言ってんだ、よく見たら随分と顔色だって良くないじゃねえか。随分と青白く見える。
そんな顔してそんな事言ったって、ただの強がりにしか見えん、説得力の欠片もないぜ。
俺は左掌を佐々木の額に当て、もう一方を自分の額へと当てた。単純な体温の測定方法だ。
「――少し熱いな? 本当に大丈夫か」
「あうぅ……ああ、うん、どうか気にしないでくれたまえ、本当に大した事じゃないんだから」
「そうか――でもしんどかったら言えよな、俺が肩を貸す位なら安いもんだ」
「ああ、申し訳ない――まったく、キミときたら妙なところで優しさを見せるものだから」
頭痛に眉間を歪めながらも、何か楽しそうにくすくすと佐々木が笑う。
俺の前ではまるでした事の無い、珍しい笑い方だった。

その日、佐々木は体育の授業を見学した。
――くそ、俺と言う奴は。

「キミには済まない事になってしまったね――しばらくは放課後の練習も無理そうだ」
放課後、どことなく気だるそうな様子で佐々木が俺に言ってきた。
お前のその体調不良だって、何もお前が悪いわけじゃないだろう。
佐々木から済まないと思われる事なんて、俺には微塵も覚えがないがね。
「そうかい、キミがそう言うのなら、まあそういう事だと捉えておくよ」
くっくっと笑ってみせる佐々木だったが、やはりどこか力ない印象だ。
「――辛そうだな。そういや今日は塾があったはずだが、大丈夫なのか?」
「ああ、体調自体は問題では無いんだ、給食の後で薬も飲んだしね。今こうしているのは
 症状緩和後の精神的な余波のようなものでね。幻症、とでも言ったところかな」
そんなら良いけどな。友達の調子の悪いところを見るのは、正直あまり気分のいいもんじゃないぜ。
「そうだね――まあ来週あたりには回復していると思う。それまでは我慢してもらうしかないな」

さて、明くる週の月曜日の朝。
「キョンくーん、おヨメさんが迎えにきましたよー」
無邪気な妹のその一言に俺は飲んでいた茶を盛大に噴き散らかし――そうになったところを必死に
堪えたが、その結果として喘息患者のごとく咳をまき散らかす事となった。
「ゲホッ……馬鹿な事言ってないでお前は自分の支度をしなさい!」
「あらあら、いいじゃないの。佐々木さんがあんたのお嫁さんになってくれたら、母さん感激だわ」
母さん――あなたまで俺をからかうのはやめてくれませんか。
朝からこんなダメージゾーン――何でそんなものが自分の家になきゃならんのか――に居たのでは
今週どころか今日の俺の身も持たん。とっとと家を出るに限るぜ。
「よ、おはよう」
玄関を出て開口一番、俺はそう言った。
「おはよう、キョン」
そう挨拶を返してきた佐々木はいつものシニカルな笑みを浮かべていた。
先週と比べて顔色も随分と良くなっているようで、何よりな事だ。
「調子はどうだ?」
「おかげさまで。体育祭の練習も参加できそうだよ。――しかし、キミの家は賑やかだな」
喉の奥で笑う佐々木。
「まさか僕がお嫁さん、なんて言われてるとは想像もしていなかったよ。
 キョン、一体キミは僕の事をキミの御家族へ何と話しているのかな?」
やれやれ、その話かよ……正直俺も勘弁して欲しいんだがな。
別にお前の事を彼女だ何だと吹聴したりしてるわけじゃねえから、安心してくれていいぜ。
「そうかい――」
佐々木はふっと短く息を吐いて微笑した。
それが何となく憂いを帯びたものに見えたのは、俺の錯覚だろう――

その日の放課後、体育祭の練習時間。
「佐々木、お前本競技はジャージ禁止って憶えてた?」
俺の隣で準備運動をやっている佐々木へそう問い掛けてみた。
「愚問だね、それは。――過去二回も体育祭をやってきて、よもやそれを忘れている三年生が居るとは
 微塵にも思っていなかったが、まさかキミがその想定外だったとはね」
呆れ果てたような口調で返されてしまった。
んな事言ったって、年に一回の行事の事なんてろくに憶えちゃいねえよ。
「まあいい、記憶力の悪いキミの為に練習もジャージ無しでやろうじゃないか」
言って、佐々木がジャージを脱ぎだした。余り日焼けしていない、均等の整った健康的な脚が露になる。
くそ、須藤の野郎、余計な事を――
大体何でうちの学校は未だに男子短パン女子ブルマーなんだよ。おかしくねえか?
「――ほらキョン、キミもとっととジャージを脱ぎたまえよ。脚を結べないだろう」
「あ――ああ、悪い。ちょっと待ってくれ」
急いでジャージを脱ぎ、校庭の隅へと投げ捨てる。
差し出した左足を、佐々木が自分の右足と括り付ける。随分と手際が良くなったな、こいつ。
「――じゃあ、とりあえず歩いてみようか。
 ああそうだキョン、僕なりに二人三脚というものについて調べてみたのだがね」
言って、佐々木は右腕を俺の腰へ回してきた。
「わっ、ちょっと待て佐々木、何してる?!」
「こうやって相手の腰へ手を回して、腰部周辺の衣服の余りを掴むのが良いんだそうだ。
 確かに肩を組むと言うのは身長差のある相手には適していないだろうし、この方が合理的だろう。
 競技上の規定でもこの辺は明記されていなかったし、僕達はこの方法で行こうと思うが、
 異議はあるかな、キョン?」
「い――いや、お前がその方が良いってんなら、異存はない」
「そうかい、ならば結構。――次は掛け声だな。定番の掛け声と言えばイチニイ、イチニイだが
 まあこれはそのままで問題ないだろう。どのように掛け声を使うかの方が問題でね。
 どちらかをリーダーとして、その一人が掛け声を担当する方がいいようだ」
イチニイ、タンタン、イチニイ、タンタン、こんな感じかな――と手拍子を交えながら説明する佐々木。
「下手に順番に声を掛け合うよりも、予め分担しておく方が混乱が少ないと言う事だね。
 それに掛け声を出す者がペースメーカーになると言う点を考えても、理に適っていると言えよう。
 さて――」
と佐々木は一旦言葉を切り、
「――キミと僕、どちらがリーダーになるべきかな?」
「ふむ――」
と考え込むフリをしてみたものの、これは考えるまでもなく自明であるように思えた。
「俺はお前がやった方がいいと思うけどな」
ペースメーカーになると言う点を考慮すれば俺よりペースの劣る佐々木に合わせるのが適当であると
思われたし、また正確さと言う点についても俺よりこいつの方が優れているだろうからな。
しかし佐々木は俺の回答を受けて、くつくつと笑い出した。
「なるほどね――キミはエスコートするよりされる方が性に合っていると、そういう事かな?」
「なっ――そんな事言ってないだろ?!」
「冗談だ」
相変わらず低く笑い続けている佐々木だったが、やがて真顔に戻ると、こんな事を言ってきた。
「キミの言い分も尤もらしく聞こえるが、反論の余地もあるようだね。
 まず、何も遅い方の者に合わせるからと言って、それが遅い方の者がペースメーカーをやらなければ
 ならない理由にはならないと言う事。速い方の者が遅い方の者へペースを合わせる事は何ら問題では
 ない。ならば速い方の者が落としたペースを作る事も問題ないだろう。
 次に、今回のケースではペースメーカーの作るペースにはそれ程の正確さは要求されない。
 要は足を出すタイミングの目安になればいいのだから、さほど神経質になる事も無い訳だ。
 最後に、なるほどキミの言う通り、僕の方がリーダー的資質には恵まれているのかもしれない。
 だがそれは通常時の事だ。今回のように肉体的な運動を行っている状況下でも、それが適当なのかは
 僕には疑問だ。そしてキミは男子で僕は女子――体力的にはキミの方が優位だろう? 先に挙げた
 正確さと言う点を取っても、この条件を加味すれば僕がやるべきと言う理由は消えてしまうと、
 そう思うがね。どうかな?」
ぐうの音も出ないとはまさにこの事だ。
俺が漠然と思っていた佐々木がやるべきと言う意見を理屈で以って完璧に潰しちまいやがった。
まったく、こいつには敵わないな――仕方ない、掛け声は俺が担当するか。

さて、そんなこんなで体操着姿の中学生男女が互いの腰へ手を回しイチニイ、イチニイと掛け声を
上げながら二人三脚で競歩状態と言う、表現するだに恐ろしく恥ずかしい絵図で練習していた俺達
だったが、効果の程はそこそこあったようで、先週の練習時よりも大分上手く歩けるようになって
きていた。
「――そろそろ走ってみるかい? どんな感じなのか、まだ試していないからね」
そうだな――と、トラックを見てみたが、短距離競技の連中で見事に埋められている。あれで練習する
のはダメだな。その辺の空地でやるしかないか。
ちなみに二人三脚のコースはトラックを左回りに半周余り、と言うものだった。弧の部分がそれなりに
長く、厄介かもしれない。まあ、曲がる練習よりも先に真っ直ぐ走る練習だよな。
三十歩程度のダッシュを五往復程度やり、大体走るコツが判ってきたところで、またしても佐々木が
こんな事を言ってきた。
「あとはスタートだな。如何にして他競技者に先んじ、先頭に立つか――他の短距離競技でもそれは
 同様だろうが、殊にこの二人三脚という競技ではそれが重要なようでね。先んじた他競技者を抜こう
 にも幅は倍、こちらは加速が付け難いときている。それに集団に飲まれては埒が開かないのは目に
 見えているし、次第によっては自分達より遅い者の後塵を拝す事にもなりかねない。
 と言う訳で、スタートダッシュは戦術的にかなり有効であると言う事だ。これの練習も後日でいい
 からやっておくべきだろうね」


――とまあ、かように練習を重ねて準備万端、機は熟したとばかりに迎えた肝心の本競技だが、実は
よく憶えていないのだ。
スタートダッシュで頭一つ飛び出した俺達はその後ひたすら全力疾走、無我夢中でコーナーを回り
二位以下に結構な差を付けて見事一位でゴールラインのテープを切ったものの、勢い余って停止に
失敗。ゴールから数メートル先で俺と佐々木は盛大にすっ転んだ――


「――――き、おい佐々木、大丈夫か?」
自分の名前が呼ばれている事に気付き、私ははっとした。誰――キョン?
「う……ん?」
私の、まさに目の前にキョンの顔があった。一体これは――ああそうだ、二人三脚でゴールした後で
彼と二人して盛大に転倒したのだ。
キョンの向こうにグラウンドが見えると言う事は、きっと彼が私を庇ってくれたのだろう。
「キョン、すまない、今どくから――」
「ちょっと待て、動くな。お前の右手がどうやら俺の体の下に潜り込んでる」
あ、そうか――彼の腰へ手を回していたからだ。
「体操着汚しちまって悪いが、一旦地面にうつ伏せになるように降りてくれないか?
 俺も体捻ってお前の手の上からどくから――」
「判った、そうしよう」
彼の機転により、特に混乱なく私達は互いに縺れた状態から通常に校庭へ座った姿勢へと復帰できた
のだが――
「痛――」
右手が痛む。やはりあれだけ派手に転んで無傷と言う方がおかしいだろう、見れば軽い擦過傷が
右手甲に出来ていた。
「大丈夫か、佐々木? って血が出てるじゃねえか、おい」
「これはただの擦り傷だよ、大した事はないさ。――っ」
鈍い痛みが走った。この様子だと打身か。思わず顔を歪めてしまったのだろう、キョンが心配そうな
面持ちで私の顔を覗き込んでいる。
「やっぱ保険医に診て貰った方がいいと思うぜ。立てるか?」
「ああ――大丈夫だ。しかしキョン、僕達の足は結びっ放しだったと思うが」
「そうか、そっちを解く方が先だな」
キョンはそう言って結び紐へと取り掛かったけれど、余り芳しくないらしく、苦戦している。
「佐々木、これ解けねえんだけど――どんな結び方したんだ、お前?」
「確か解け難いように8字結びにした上で止め結びをしていた筈だ――まさかこんな事になるとは
 思っていなかったし、競技本番での解け難さを優先したのが仇になるとはね。想定外だな」
「何だそりゃ、また面倒臭い事を――ああもう、こりゃ解くのは後の方が良さそうだな。
 悪いけどもう少し二人三脚に付き合ってくれ」
「あ、ああ――ひゃあっ?!」
膝立ちになった彼が急に私の腰を取って立ち上がるものだから、我ながら素っ頓狂な声を上げて
しまった。恥ずかしい――
「――しかしキョン、キミこそ大丈夫なのか? 僕を庇って下敷きになっていただろうに」
「ああ、お前よりは頑丈にできてるからな。大した事ねえよ。女子一人の下敷きになったくらいじゃ
 どうって事無いって――」
そう言って、キョンは顔を背ける。照れているのだろうか?
何か可笑しくなって、私はくっくっと喉の奥で笑い声を上げた。


「お疲れさま、佐々木さん――右手、大丈夫?」
体育祭の後、顔を洗っている時に岡本さんからそう声を掛けられた。
「お疲れ様。着替えたらもう一度保健室で診てもらうつもり」
「そう、大した事ないといいね――」
私の隣に来た岡本さんは、くふふ、と可笑しそうに笑い出した。
「――ごめん。二人三脚の事、思い出してね。あんなに息の合ってるペア、見た事ないよ。
 ベストカップル賞なんてのがあったら満場一致だったのにね」
――その時の私の顔を鏡で見られたならば、まず間違いなく苦虫を噛み潰したような表情をしていた
事だろう。が、この手洗場には生憎と言うか幸運な事にと言うか、鏡は据え付けられていなかった。
「その手のからかいにも、もう慣れたけどね――でもそれに対する答えは変わらないよ、岡本さん。
 キョンとはそういう仲じゃ無いんだから」
「ふーん? じゃあどういう関係なのかしら? 今更友達なんて言ったって誰も信じてくれないよ」
顔をタオルで拭いながら、私はしばし回答を考える時間を作る。
「――親友、かな」
私はそう答えた。キョンと一緒の時間は私に他では得難い安らぎを与えてくれる――
確かに今となってはただの友達ではない。もっともっと貴重な存在だ。
「親友、ね――まあ、そういう事にしておきましょうか。
 どちらにしても、あなた達の間には当分誰も入れそうに無いわね」
顔を拭いながらそう言った岡本さんは、タオルで口元を押さえてくすくすと笑う。
それにつられてか、私も短く笑った。

「――擦り傷の方は浅く擦っただけだから大丈夫だとは思うけれど、打身と言う方が問題ね。
 骨折の可能性も無いわけじゃないし、明日の朝はお医者さんに診て貰ってから登校しなさい。
 担任の先生には私から伝えておきますから。あとそうね、炎症の可能性もあるから今日は入浴は
 控える事。体育祭の後で埃っぽいでしょうけれど、我慢してね」
「はい――ありがとうございました」
はあ――入浴禁止とは。年頃の女子としては相当に厳しい仕打ちだ。
保健室のドアを開けて廊下に出ると、少し離れたところに落ち着かない様子でキョンが立っていた。
「やあ、待たせてしまったかな」
「佐々木――大丈夫なのか、右手の怪我は?」
「生活に支障は無さそうだがね。箸も持てるし、字も書ける。ただ念の為に医者へ行って来いと
 言われてしまったよ。明日は遅刻だな」
「そうか――良かった」
キョンがほっと胸を撫で下ろす。そんなに心配してくれていたのだろうか、私の事を。
「キョン、別に今日の事でキミがそんなに心労を背負い込む事は無いんだ。
 あれは事故の様なものだったし、だからどちらが悪いと言う事も、責任を感じる事も無い。
 もう少し気を楽にしたまえよ」
「責任なんて感じてねえよ。俺はただ――」
強い意志を秘めた彼の視線が私の視界を射抜く。
「――大切な友達だから、心配するんだ。お前の事を、さ」
――ああ、そうだ。彼はずっとそうだった。常に韜晦しているように装っていて、その実真剣に
相手の事を思っていてくれる。そんな彼だから、私は――
「ありがとう、キョン」
キミと言う友人が居てくれて、本当に嬉しいよ――





おまけ:その帰り道
「打身になったところが炎症になっている可能性があるから、入浴は控えろと釘を差されてしまったよ。
 年頃の娘には酷な話さ」
「そりゃ厳しいな、俺ですらとっとと帰って一っ風呂浴びたいところだぜ」
「そこでキョン、相談なんだが――この埃っぽい身体を拭ってはくれないかな?」
「ばばッ馬鹿言ってんじゃねえよ?! 何で俺がそんな――」
「くっくっ、冗談に決まってるじゃないか。本当にキミはからかい甲斐があるね」

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最終更新:2007年10月10日 11:09
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