6-171「いろがみ」

「いろがみ」

 まいどまいど、馬鹿馬鹿しく思うんだが、この寄せ書きってのはどういう習慣になるのかね。
そんなことを思いながら、俺は色紙に書く担任教師へのお別れの言葉を考えていた。オリジナ
リティの溢れる文面にしようと考えるモノの、下手の考え休むに似たり、一向に進まぬ。終い
には、“ご苦労様でした、キョン”と綴るのが精一杯というところだ。本名ではなく、クラス内で
本名より知られた通名で書くあたりが抵抗の足跡か、色紙をひょいと隣席の佐々木に手渡した。
 佐々木は、ふむと短く嘆息し、色紙を一瞥した後に、筆箱から筆ペンを取り出した。そして、
“一期一会”となかなかの達筆ぷりで一息に書いた。さらさらっと署名。
 その迷いのなさに思わず、理由を聞いてしまったのも無理からぬというところだろう。
「ん、なんで“一期一会”なのかって? うむ、こういう寄せ書きのたびに記入する文章を考
えるのは無意味だとキミは思ったことはないか、僕はそう思っている。そこで、よっぽどのこ
とがない限り、どんな寄せ書きでも、僕は自分の好きな言葉を書くことにしている。その言葉
を今回は一期一会にしてみただけのことだ」
 なるほどなあぁ。ヘンに納得させられるな。一年受け持ってもらった担任教師には、ちょっ
と失礼じゃないかと思わないでもないが、俺の書いた言葉だって決して褒められたモノじゃ
ない。それなら、佐々木の流麗な一筆の方がよいようにも思えた。
「キョン、聞いてくれないか。そして、良ければ僕の疑問に答えて欲しい。毎回、疑問に思っ
ているのだ。ああいう寄せ書きをどうして色紙の裏に書くのかね。クラスのメンバー全員で、
先生に対して感謝の意を述べるというのに。それこそ大いに失礼に当たるのではないかと
思うのだが」
 色紙って、白い方が表だろう。
「何を言っているんだ、キョン。白い方が表なのだったら、アレは白紙だ。色紙なのだから、
色の付いている方が表に決まっているだろう」
 うお、確かに、言われてしまえばその通りだ。うっ、俺が知らないと思ってやがったな。
なんだその、悪戯がうまく行った悪ガキみたいな得意な笑顔は。あ~あ~、俺は知りませ
んでしたよ、そんなこと。
「たとえば、これがサイン色紙であるのなら、裏書きするのは分かる。自分は色紙の表に書け
るような人間ではありません、という遠慮の心と捉えることも可能だからだ。しかし、師に対し
て感謝の意を述べるのに、そんな遠慮をしていては返って失礼ではないかな」
 むむむ、それは確かに。だが、言っておくが、このクラスで色紙の白い方が裏だって思って
いるのは、たぶん、お前だけだぞ。
「そうなのだよ。うむ、それも分かっているんだ。だから僕はああいう寄せ書きを受け取るたび
に僕だけは表に書こうかと数瞬、悩んでしまうのだよ。まぁ、これはキミだからこそ話した、
僕の秘密のひとつというわけだ」
 寄せ書きを見て、思っていたのはそれか。
「そうだ。僕は寄せ書きを受け取るたびに、うまい悪戯を考えついた小学生のような気分になっ
てしまうのだよ」
 わかったよ、じゃあ、俺がお前から何かを受け取るようなことがあったら、キチンと裏面も
見ることにするぜ。
「ああ、キョン、ぜひにそうしてくれたまえ。知っての通り、僕は結構へそ曲がりな所がある
からね」
 まったく、口の減らないヤツだな。
「もちろん、それもよく言われるよ。そうそう、キョン。色紙ついでに教えておこう。色紙と
は元々は和歌を記すための物だ。小倉百人一首などの和歌さ。ちなみに百人一首は、鎌倉時代
の歌人藤原定家がある貴人の別荘の襖色紙に載せるために依頼を受けたのが始まりだそうだ。
定家は壁一面に百枚の色紙を貼り付けて、あーでもない、こーでもないと悩んだようだよ」
 そりゃまた、ずいぶんと広い壁をお持ちのようで、うらやましい限りだな。
「実際どのくらいの広さだったのかはさすがに知らないがね。一面に百人一首が描かれた襖は、
なかなかの風流だったのではないかな」
 風流か、俺にはまったく縁のない話だな。
「キミが朴念仁なのはいい加減よく知っていたつもりだがね、言うに事欠いてそれはないだろ
う。落花流水の心を忘れてはいけないよ」
 落花生?
「あ~~、もういいよ」
 そう言うと、佐々木はぷいすと横を向いた。周囲のクラスメイトがこっちを見てくすくすと
笑った。
「そこまで言ったんだ、今日の放課後は開けておきたまえ、キミに付き合ってもらいたい場所
がある」
 ん、付き合うのは構わんが一体何をするつもりだ。
「お茶を飲みに行こう。美味しい茶菓子もでるのだ。そうだな、午後二時にキミの自宅まで迎
えに行くよ、家の前で待っていたまえ。ああ僕らは学生だから、格好は制服でよい」
 なんだよ、ドレスコードのある喫茶店なんかあるのかよ。
「まぁ楽しみにしていたまえ。キミの期待を裏切ることはないよ」
 そういって、佐々木はにやりと唇を歪めた。考えてみれば、イヤな予感はしていたんだよな。
この時に。


 午後二時、家の前に立っていたら、音も立てずに、黒塗りの高級日本車が着いた。なんだな
んだと思っていると、運転手らしき男が降りてきて恭しく後部座席を開けるではないか。まさか
……そこから新緑色の振り袖も艶やかな佐々木がどこの良家の子女かというような優雅な動
きで降りてくる。
「やぁ、キョン。待たせてしまったようだね。行こうか、乗ってくれたまえ」
 な、なんだ。何が起こっているんだ。分からぬまま俺は車に乗せられていた。俺たちを乗せ
た車は再び音もなく動き出す。これ、返って危険なんじゃねえか。
「そうだねぇ。最近の高級車は逆に始動時などは音が出るようにしているものもあるようだよ、
むろん、内部的には静穏を維持してのレベルで」
 で、佐々木よ。俺は一体、どんな企みに付き合わされるんだ? 茶を飲みに行くのではな
かったのか?
「ああ、その通りさ。母の付き合いのある人がね。今日、野点を開いているのだ。それに参加
させてもらうのだよ」
 のだてってなんだ?
「野点とは野外で自然の風物を愛でながら茶会を開くことさ。古くは武士たちが狩りを行なっ
た際に、一緒に茶も飲んだことから来ているようだよ。時期的に見て、おそらく今回の主役は
桜、ソメイヨシノだね」
 お前はいいが、俺はどうなる。こんなくたびれた制服で顔を出せる席なのか、それは?
「そうだな、せめてシャツはキチンとズボンに入れたまえ。あとは上着の前をキチンと止めて、
うん、これでよい。キミは中学生なのだから、制服がフォーマルだ、問題はない。それに野点
では、それほど五月蠅くは言われないさ、特に今回のように不特定多数の人々が参加するよう
な催し物ではね」
 わさわさと、佐々木が制服の前を止めて、髪の毛を弄る。やめろう。お前は俺のお袋か。
「やや、これは失敬。どうにも、近所の子供を見ているようでね」
 悪うござんしたね。

 そんなことをしている間に、車は純和風の屋敷の前についていた。
「さぁ、ついた。それでは僕はここから少々大きめの猫を被るからね、普段と違っていても
笑ったり、不用意な発言をしては、いけないぞ、キョンくん」
 そういって、佐々木は静かに微笑んだ。ああ、そうだな。わかりましたさ。
 車は音も立てずに、車宿りに止まる。見れば周囲は、同様かそれ以上の高級車ばかりと来た。
 運転手が俺の横のドアを開け、慇懃に一礼。俺はそれにうながされるようにまろびでた。
伸びをして、振り返ると、車内からは佐々木の右手が、すっと差し出される。
 どうした、降りないのかよ?
「キョンくん、エスコートしてくれないの?」
 あ、さいですか。気が利かずに申し訳ない。俺が手を取ると、舞踏会にやって来たお姫様の
ように優雅に降りてくる佐々木なのだった。しまったな、ちょっとドキドキするかも……。
 おいおい、佐々木相手に俺は何を考えているんだ。
 で、どっちいくんだ。お嬢様。
「キョンくん、こっちよ」
 佐々木が右手の袖をそっと押さえながら、手のひらで方向を示す。へいへいってなばかりに
そっちに向かう俺なのさ。


 そのお屋敷の庭園は見事な日本庭園であり、そこかしこに傘と簡易のベンチのような物が
置かれていた。客たちはてんでバラバラに邸内を散策しているようだ。確かに、あんまりお堅
い集まりとも思えないなぁ、これは。
「どうだい、なかなかの物じゃないか、良く手入れされた庭園という物は見ているだけでも
気持ちがよい、そうは思わないか」
 近くにいるのは俺だけなので、佐々木はいつもの口調で、問いかける。
 ああ、そうだな、と俺は心あらずという風に、答えていた。いや、それがすんごい美人が
向こうで茶を点てていたのだ。平安期のお姫様のような翠がかった長い黒髪は、桜色の振り袖
に良く映えていた。あっ痛、っっ、耳引っ張るな。
「何を鼻の下を伸ばしているんだね、キミが見るのはこっちだ、こっち」
 そういって、ぐりんと俺の首を反対方向にねじ曲げる佐々木、やばい、その方向はやばい、死ぬ。
 だが、その抗議も中途で消えた。そこには見事な桜の古木が立っていたのだ。
 苔むした幹には悠久の時を過ごした証明だ。こいつは、軽く見積もっても、俺たちの10倍は
生きているのだろう。それが、今年も見事な花をその枝一杯に開かせている。薄紅色の花は、
周囲の緑の中で、その木を浮かび上がらせる見事な働きをしていた。人によって計算され尽く
された自然の美。だが、この艶やかな花は決して、計算では開かない。そして、その花の下、
新緑色の振り袖を身に纏った佐々木はその桜すらも支配下に置いていた。
「どうだい、すばらしいだろう」
 佐々木は桜のことを言っているのだろう、恐らくは。だが俺は佐々木を含めたこの風景に、
同意を返していた。
「ああ……そうだな、とても…綺麗だ」
 俺の気持ちは桜に乗ったのか、佐々木は珍しく頬を染めた。
「な、なんだか、気恥ずかしいな。どうしたことだろうね。これは」
 その言葉には応えず、俺はじっと、佐々木を含む、その美しい風景に見入っていた。魂を
止める美しさというものは確かにあるのだ。詩人だね、俺も。

 そんなことをしている間に、車は純和風の屋敷の前についていた。
「さぁ、ついた。それでは僕はここから少々大きめの猫を被るからね、普段と違っていても
笑ったり、不用意な発言をしては、いけないぞ、キョンくん」
 そういって、佐々木は静かに微笑んだ。ああ、そうだな。わかりましたさ。
 車は音も立てずに、車宿りに止まる。見れば周囲は、同様かそれ以上の高級車ばかりと来た。
 運転手が俺の横のドアを開け、慇懃に一礼。俺はそれにうながされるようにまろびでた。
伸びをして、振り返ると、車内からは佐々木の右手が、すっと差し出される。
 どうした、降りないのかよ?
「キョンくん、エスコートしてくれないの?」
 あ、さいですか。気が利かずに申し訳ない。俺が手を取ると、舞踏会にやって来たお姫様の
ように優雅に降りてくる佐々木なのだった。しまったな、ちょっとドキドキするかも……。
 おいおい、佐々木相手に俺は何を考えているんだ。
 で、どっちいくんだ。お嬢様。
「キョンくん、こっちよ」
 佐々木が右手の袖をそっと押さえながら、手のひらで方向を示す。へいへいってなばかりに
そっちに向かう俺なのさ。


 そのお屋敷の庭園は見事な日本庭園であり、そこかしこに傘と簡易のベンチのような物が
置かれていた。客たちはてんでバラバラに邸内を散策しているようだ。確かに、あんまりお堅
い集まりとも思えないなぁ、これは。
「どうだい、なかなかの物じゃないか、良く手入れされた庭園という物は見ているだけでも
気持ちがよい、そうは思わないか」
 近くにいるのは俺だけなので、佐々木はいつもの口調で、問いかける。
 ああ、そうだな、と俺は心あらずという風に、答えていた。いや、それがすんごい美人が
向こうで茶を点てていたのだ。平安期のお姫様のような翠がかった長い黒髪は、桜色の振り袖
に良く映えていた。あっ痛、っっ、耳引っ張るな。
「何を鼻の下を伸ばしているんだね、キミが見るのはこっちだ、こっち」
 そういって、ぐりんと俺の首を反対方向にねじ曲げる佐々木、やばい、その方向はやばい、死ぬ。
 だが、その抗議も中途で消えた。そこには見事な桜の古木が立っていたのだ。
 苔むした幹には悠久の時を過ごした証明だ。こいつは、軽く見積もっても、俺たちの10倍は
生きているのだろう。それが、今年も見事な花をその枝一杯に開かせている。薄紅色の花は、
周囲の緑の中で、その木を浮かび上がらせる見事な働きをしていた。人によって計算され尽く
された自然の美。だが、この艶やかな花は決して、計算では開かない。そして、その花の下、
新緑色の振り袖を身に纏った佐々木はその桜すらも支配下に置いていた。
「どうだい、すばらしいだろう」
 佐々木は桜のことを言っているのだろう、恐らくは。だが俺は佐々木を含めたこの風景に、
同意を返していた。
「ああ……そうだな、とても…綺麗だ」
 俺の気持ちは桜に乗ったのか、佐々木は珍しく頬を染めた。
「な、なんだか、気恥ずかしいな。どうしたことだろうね。これは」
 その言葉には応えず、俺はじっと、佐々木を含む、その美しい風景に見入っていた。魂を
止める美しさというものは確かにあるのだ。詩人だね、俺も。

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最終更新:2007年10月10日 20:49
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