8-683「「赤いバーチェッタ」

僕は静かに夢を見る。
暖炉の傍のロッキンチェアで。
伯父さんの宝物、赤いバーチェッタの夢を。





見なければ良かった、と思った。
同時に、自分の目が信じられなくもあった。

それは八月も後半に差し掛かったある晴れた日のこと、
私はいつものように炎天の下を図書館へと向かっていた。
夏季休業中の課題などというものはとうの昔に終わらせていたが、
だからといって怠惰に過ごすなどというのはもってのほかである。
後期からは再び英文や数字そして無意味な単語記号の羅列が、
私の生活にさながら極海のメエルシュトレェムのごとく大穴をあけてしまうに違いないのだ。
日々の生活に少しでもゆとりと潤いを保ち続けるためにも、
今のうちにアドヴァンテージをとっておくのが望ましい。
かくしてそのような悲しい結論に達した私は、少しでも快適な環境を求めて
図書館の自習質へと足しげく通う事になったのだ。
しかしなぜ入学後わずか四ヶ月で受験生の真似事などしなければならないのか。
今年の春、やっと高校受験から開放されたばかりなのに。
それにしても暑い。ひたすらに。こうも暑いと食事も満足に喉を通らない有様だ。
帰りには久々にアイスでも買おうか。そんな事を考えながら歩道橋の階段を下り始めた矢先だった。

彼の姿を、見たのは。
なんとも奇異な光景だった。
私が中学時代に唯一仲良くしていた男子生徒、
キョンという少々間抜けなニックネームを持った彼は、なんと自転車の後ろに
二人の女子生徒を乗せて遊歩道を疾走しているのだった。
私は急いで歩道橋を駆け下りたが、すでに彼の見慣れた自転車は遠く走り去っていた。
足の速さに自信がないわけではないが、さすがに息せき切って彼を追いかける、なんてのは私らしくない。
厳密には彼の知っている私ではない。それに…
いったいどんな声をかけていいのか、わからなかった。


かばんを無造作に床へ放り投げ、ベッドに顔から倒れこむ。
いつもならば薬用石鹸で念入りに手をあらい、うがいをした後ホームウェアに着替えるという
プロセスを踏んだ後の行動なのだが、それをするのさえ億劫だった。
だってキョンが、あのキョンが、女の子を自転車の後ろに乗せて走っていた。
それも、あんなに一生懸命の、楽しそうな顔で。
だめだ。考える事が多すぎる。




週に一度の大冒険。
ひそかにこっそり堂々と。
伯父さんの赤いバーチェッタで風を切る。
夢は覚めない。




気がつくとひたすらに広い空の下にいた。辺りは一面の小麦畑。
その中を貫くように通る一筋の道の上で私はぼんやりと一人たたずんでいた。
突然後ろからジリリリと激しくベルを鳴らされて、慌てて飛びのく。
その弾みで足を踏み外し、小麦畑に転がり落ちてしまった。体のそこかしこを麦で刺し泥で汚す。
そんな無様な私を尻目に自転車はゆっくりと、不自然なくらいにゆっくりと遠ざかっていく。
そこでピンときた。あれに乗っているのはキョンだ。
私は急いで路上へ這い上がり全速力で自転車を追いかける。
だってキョンが待っていてくれるのだ。あの後ろに乗るのは私しかいない。
最初はなんて声をかけようか。おはよう、ひさしぶり、げんきだった?
そんな凡庸な言葉しか出てこない自分を呪いつつ走る。もうすぐだ。
気がつけばもう手を伸ばせば届く距離にキョンがいる。
どこへ行こうか。どこだっていい。今ならこの自転車でどこへでもいける。
「やあ、久しぶりだねキョン」
ちょっと乗せていってくれないか、そういいかけた私は途中で言葉を飲み込んだ。
荷台にはもう先客がいたのだ。セーラー服姿の女の子。さっきはいなかったのに。
「待って」
私の半ば叫ぶような呼びかけが聞こえていないのか、少女とキョンは談笑しながら去っていく。
なんで。どうして。
少女に問う。何であなたはそこにいるの。そこは私の席なのに。
キョンに問う。どうしてそんなに楽しそうなの。
中学を卒業して、私と別れて、つまらない毎日を送ってるんじゃなかったの?
…もう……わたしがいなくても…いいの?




赤いバーチェッタは追いまくられる。
「とまれ! とまれ!」とまってはいけない。
縛り首にはなるものか。





最悪の目覚めだった。
夢の内容はまったく覚えていないが、今の状態を鑑みればどうにも良くない夢だったのはいやでもわかる。
なにやら頭は鉛でも埋め込まれたかのように重いし、全身が生ぬるい汗でぬれていて気分が悪い。
これは下着を履き替えなくてはいけないだろう。
特に顔は体の中で一番汗をかいているようだ。…きっと、目は真っ赤に違いない。

目覚まし代わりのステレオコンポを止めようと枕もとのリモコンを取る。
いつもはクールジャズやらルネサンス音楽やらで目覚めるのが常なのだが、今日はなにを間違えたかハードロックがかかっていた。
今鳴っている曲はなんだったか。RUSHの『Red Barchetta』だ。
いかにも80年代のRUSHらしいSFチックな歌詞の曲だったはず。
確か自動車が禁止された近未来の世界でヴィンテージ・カーを乗り回すという少年の空想世界の話。
……そのせいであんな妙な夢をみたのだろうか。いや、まったく覚えていないのだが。


夢見の悪い日は続いた。
何度も何度も同じ夢をみるうちに、だんだんと内容を朝まで覚えているようになった。
…そんなもの、いらないのに。

夢の中で、私は何度も自転車を避けて転び、置いていかれ、追いつき、
……絶望する。
荷台に座る少女の顔は見えない。目鼻があるのかどうかもわからない。
なのに、彼女が笑っているのが伝わってきてしまう。それを受けてキョンが笑うのも。
あの、呆れと照れと慈しみの入り混じった微笑を後ろの彼女に向けるのがわかってしまう。
そして私は毎回毎回、子供のような抵抗をしてみせる。
あるときは自転車を避けないでみたり。
またあるときは思い切り石を投げつけてみたり。
でも結果は同じ。彼と彼女は先へ行き、私は終わりのない景色の中に取り残される。

別に期待していたわけじゃない、なんていったら嘘になるだろう。
キョンが乾けば私が水をやり、私が淀んだらキョンが水を取り替える。
そんな二人は、やはり別々ではいられなくて。やがて何の前触れもなく再会を果たす。
そんな三文小説のような展開を。
でもやっぱり神様ってものは残酷で、違う土地の水でも見事に咲いて見せたキョンを私に見せ付ける。
私の世界は濁りきって、腐臭を放つほどになっているのに。


学校が始まるころには、私はまるで病人のように弱りきっていた。
それでも最後の意地で学校は休むわけにいかないので、調子が悪いのを騙し騙し石畳の道を行く。
ふと足元に目を留めると、蝉の屍骸を蟻の群れが運んでいくところだった。
私も、あのまま小麦畑に倒れていたら、蟻が運んでいってくれるだろうか。
そうしたら彼も振り返ってくれるだろうか。


僕は逃げながら時計をのぞく。
そろそろご飯の時間になる。
早く帰らないと、間に合わない。
暖炉の傍のロッキンチェアで夢をみるんだから。
赤いバーチェッタは夕日を追う!



またここだ。
私は青空の下、小麦畑の道の上に立っていた。ベルが鳴る。転ぶ。
自転車が行ってしまう。…今までと同じように。

そこまで来て、なにやら無性に腹が立ってきた。
それは冷たいキョンにか、それとも不甲斐ない自分にかはわからない。
でもこのまま終わっていいはずがない、逃がしていいはずがないと思うと、
今まで萎えていた手足にも熱い血が廻りだす。
何で私ばっかりこんな情けない役回りをしなければならないのか。
キョンだって麦畑に転がり落ちなければ不公平じゃないか。
私は下腹に力を込めた。
「待てぇッ! キョォォオンッ!」
自分でも驚くくらいの声が出た。もうここまできたらイメージも何もあったものではない。
格好悪くたって、追いまくってやる!
どこまでも続く田舎道を、とにかく走る、走る…走る!!!
もうがむしゃらにめちゃくちゃに駆けた。もう目の前にあの自転車がいるのかどうかもわからない。
構うものか。今は走れるだけ走る、それだけだ。
と、突然目の前に真っ赤なオープンカーが現れた。こちらを轢き殺さんばかりの勢いで。
ぶつかる、と思った瞬間そのフェラーリと思しきオープンカーは私の目の前でぴたりと停まった。慣性などないかのごとく。
「…佐々木か? なにやってんだ?」
運転席からひょっこりと顔を覗かせたのは、ここ二週間ほどの間、焦がれて仕方がない顔だった。
「…キョン? だってさっき…」
「? なんだかわからんが、乗るか?」
首を傾げつつくいくいと手招きをする。私の話を聞こうとは思わないんだろうか。
「いいから乗れって。 なんかあるみたいだしな」
促されて仕方なく助手席に乗る。……この車は二人乗りか。
なるほど、赤い二人乗り車(バーチェッタ)ってわけか。
私が乗り込むと間髪いれずに、車は走り出した。
私とキョンの二人しかいないのに自動車の運転は大丈夫なのかとキョンの方をみると、
なんとステアリングやらアクセルやらが勝手に動いていた。
…もうここまでくれば、この程度のでたらめには驚いたりしないけれども。


さあ、どうしたものか。
車に揺られる事数分。
すぐ横にキョンがいるというのに言葉がでてこない。
確か、話したい事があったはずだ。
いや、だからこそ何から話していいのかわからないのかもしれない。
その気まずい空気のなかで、私はひとつ重大な事に思い当たった。
「キョン、逆!」
「は?」
そうだ。私は自転車を追いかけた。で、車と正面衝突しそうになった。
車はUターンしていない。
したがってこの場合、私は自分の目当てのものからどんどん遠ざかっているという解を導き出せる。
「自転車! 自転車がいたんだよ! 僕はそれを追いかけて…」
「…自転車?」
なんとキョンは自転車なんかとはすれ違わなかったと言っている。
そういえば、このバーチェッタも突然現れたように見えたし、もうめちゃくちゃだ。

「佐々木」
極度の混乱状態に陥っていた私に、キョンがおもむろに声をかけてきた。
「なんで、そんなひどい顔してるんだ」
ひ、ひどい顔って。
確かに私は別段美人でも可愛くもないのはわかってるけど、
いくらなんでも女性に対してその物言いは失礼極まりない。
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃねえよ。
お前はその…ほら、見た目はいいほうだろ、相当」
その物言いにも引っかかるものがあったが、
それよりふいにキョンから贈られたほめ言葉に、
私は体中が自転車を追っていたときとは別の熱を帯び始めるのを感じた。
みると、キョンも真っ赤になってうつむいている。
普段がふてぶてしいだけに、なんだか可愛い。
「だから、そうじゃなくってな…何でそんな泣きそうな顔してるんだよ。
いつもみたいに小難しい講釈とか垂れないのか」
泣きそう? 私が?
「そうだな、たまには小難しくない佐々木の話、ってのも聞いてみるか」
「わたしの、話?」
ああ、キミはひどいやつだ、キョン。
せっかくこらえられそうだったのに。自分自身を騙せたかもしれないのに。
「うう…きょん…」
ああ、情けない。まったくもって嘆かわしい。
声に余計な振動がかかっている。
「…ょんの……かぁ」
ヴィブラートというにはあまりにもみっともない声の震え。
もうまともにしゃべれなくなった口元に、頬を伝って塩の雫が入ってきた。
その私の左肩に、キョンの手が優しく置かれる。
それでもう、完全に堰が切れた。

「落ち着いたか?」
「…うん」
車に乗り込んでどれだけたっただろうか。
散々泣き喚きながらキョンに当り散らすという前代未聞の醜態をさらした私を、
キョンは穏やかな表情でみつめていた。なんだか気恥ずかしい。
「気にするなよ。どうせ朝になったら忘れてる」
「? 何でそう思うの?」
「さあ…なんとなく、としか言いようがないな」
うそぶくキョンの右手をつねる。
「いてててて! な、なんかお前凶暴化してないか!?」
「ふん」
せめてもの仕返し。思い知れ。
「ったく、ウチのアホ団長じゃねえんだから…」
「お仕置き」
「おしおきって…なんだ今度は笑ってんのか、忙しい奴だな」
「…わたし、笑ってる?」
「おう、オペラ座の怪人チックにな」
だめだ、この男は。
今度は頬を思いっきりつねってやった。

「で、ほんとにどうなんだよ」
「なにが?」
「さっき、なんか色々言ってただろ。
俺がお前を置いてったとかなんとか…」
「う…」
さっき号泣してわめき散らしたときに口を滑らせたらしい。
「お前は、今が面白くないのか」
「…面白くないよ、全然。毎日同じ事の繰り返し。
それどころかだんだん悪くなってる。
もしかしたらこのまま年取って死んでいくだけなんじゃないかって、
時々すごく不安になる」
「そうか…」
キョンはなにやら難しい顔をして黙り込んでしまった。
何かまずい事をいっただろうか。
「なぁ、佐々木」
「なに?」
「この世界は、そんなにつまらないと思うか?」
…いきなり何の話だろう。妙にスケールが広がってしまった。
「俺もさ、現実はつまらん、そうに決まってるって数ヶ月前には思ってたよ」
「?」
「でもな、俺は知らなかっただけなんだ。
世界ってのは不思議な事、面白い事、いくらだってゴロゴロしてる。
ただ俺はそれに気づいてなかったから、つまらないって決め付けてたんだよ」
「わたしは、周りが見えてないっていいたいわけ?」
「そこまでいってないけどな。…なんかその口調は新鮮だな…
いやすまん、気休めみたいになっちまうけど、俺に出来た事がお前に出来ないわけないだろ? 
つまらないと思ってるものの中に、楽しい事の原石みたいなものが埋まってるかもしれない、
そう思ってみるだけで周りの景色がずいぶん変わってみえるはすだ。
…もっともそのせいで、俺の財布は軽くなる一方なんだが」
「…なんか最後が意味不明だが、まあいいか。
しかし、出費が激しいってまさかとは思うが、キョン、キミは妙な接客サービス系の店舗に入り浸っているんじゃないだろうね?」
「なんでそうなるんだ!?」
おおげさに顔をしかめるキョンに、茶々を入れながら笑う私。
忘れかけていた空気がそこにあった。


と、和んでいると、突然後ろからものすごい爆音が迫ってきた。
驚いて振り返ると、私たちの乗るバーチェッタの横を一台の車が追い越していこうとしている。
…いや、あれはただの車じゃない。確かあれはビールと生ゴミを燃料に動く、
世界で一番有名な自動車型タイムマシンだ。
…なにやらエプロンドレスを着た若い女性が乗っていた気がするが、気のせいだろう。
そしてみるみる遠ざかっていくタイムマシンの後を、
上空からアダムスキー型の宇宙船と謎の赤い発光球体が追っていった。
なにこのカオス。
「俺はこれだけ見つけたぜ」
三者三様の変態的物体を見送った後、キョンがおもむろに口を開いた。
なんだかとても、うれしそうな顔と声で。
「お前にも絶対見つかるよ。だから、そうあせるな。自分を追い詰めるな。
きっと世界は面白い事で―――――」




ゆれるゆれる、ロッキンチェア。
今日も明日も暖炉の傍で。
僕の素敵な夢を乗せて。



なぜだかは知らないが、今日はとても素晴らしい目覚めだった。
このごろよくみた悪夢がまるで嘘のようだ。
…というより、いったい以前にどんな悪夢を見ていたのか。
思い出せないのは少し悔しかったけれど、
なんだかとてもうれしい事のような気がした。

「さて、これでよし、と」
鏡の前で一人ファッションショーを延延続ける事1時間。
そろそろ出ないと『自然に』落ち合えないだろう。
何でも世間は春休みだというのに毎日飛び回っているというのだから恐れ入る。
で、今日も今日とて活動日、集合場所は例の駅前だというから、
あの辺をうろついていればいいわけか。
…正直、橘さんの情報は今ひとつアテにならないんだけれども。
最近知り合った妙な子について思い出し笑いをしながら、私は玄関から外へ出た。
大きく深呼吸をする。
さて、これから長い戦いの始まりだ。
なんせ相手はあのキョンを四ヶ月かそこらであそこまで攻略したのだから
相当手強い相手とみなければならない。
まあ、キョンが惹かれるぐらいなんだから相当変わり者で、
それでいてこの上ないほど素敵な女の子に違いない。
「…だからといって、負けるつもりはないけどね」
自転車を飛ばしていると、すぐに駅が見えてきた。
自転車から降りて線沿いのスペースで駐輪できそうなところを探す。
最終日とはいえ流石は春休み、なかなか置く場所がない。

見ると、先客がいるようだ。
置き場所を確保するのはやはり大変なのだろう。
……なんてね。私があの後姿を見間違えるはずがない。
さあ、いったいどうなる事やら。彼の反応が楽しみでしょうがない。
だって、私も不思議なカードをそろえたんだから。
自転車と彼、その後姿になんとなく懐かしさを感じながら、
私は戦いの口火を切った。

「やあ、キョン」



おわり

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最終更新:2007年10月10日 21:50
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