9-650「ワン・セグメント・ホワイトリボン」

~1~
期末テストの結果を下から数えた方が、明らかに時間短縮を図れることに業を煮やしたお袋が
下した決断によって、学習塾の冬期講習スペシャルコースに叩き込まれた俺は中学生活最後の
冬休みにもかかわらず、学校の授業時間よりも塾の講義で机に突っ伏す時間が長くなってしまった。

冬季休暇プランとしては、蜜柑の皺でも数えながら年末特別企画番組を炬燵で見つつ、
友人から借りた某大作ゲームの一つでもこなして、午睡を日課とする老猫の様に過ごし、
それでも一応受験生らしくその合間にしばしば机に向かう予定ではあったのだが
どうやらクリスマスどころか大晦日の日ですら、除夜の鐘を聞く頃まで机に齧りつかにゃならんらしい。
反抗すれば年に一度しかない、貴重な臨時収入の機会を失うという図式をちらつかされて渋々…というわけだ。

ともあれこの受験生という存在は、四季ごとのささやかなイベントですら
大いに端折らせる事も辞さない進学邁進集団となってしてしまうらしい。
思えば、この前の夏休みも夏期講習のせいで殆ど遊んだ記憶は無かったし、
いったい何がそこまで駆り立てさせるのだろうかね、勉学意識ゼロのこの俺を除いた受験生連中は。
おかげでこの椅子獲りゲームに厭でも参加せざるを得なくなっちまうじゃねえか。

「しかしキョン、この時期にもなって四の五の言う輩はキミくらいだよ。諦めたまえ」
前の席から振り返って、少し呆れ気味に俺の愚痴に下した佐々木の評価は社会通念上、完璧に正しい。
それ位は俺にだってわかるさ。だがこのやるせない気持ちをどう整理すればいいんだ、佐々木よ。

「まあ、言わんとすることは判らないでもないよ。この受験戦争はキミがさっき
椅子獲りゲームと比喩したような、言い換えれば競争社会の縮図であるにもかかわらず、
実力が結果に反映されないことを嘆いているのだろう?違うかい、キョン」 

まあな、自分の価値は所詮他人には判らないものだしな、しかしお前は今、競争社会といったが、
それがイコール実力社会とは限らないぜ、何故ならば…

「何故ならば実力が発揮される機会が『完全な』均等では無いではないからかい、キョン。
端的に言えばそうだ。少なくとも現代社会は不平等な競争を強いられている。でもいいかい、そもそも…」

いかんな、この手の話題に佐々木は滅法強い。このままでは佐々木が〆の言葉を出すまで
適当な合いの手を出すくらいしかできないだろう。旗色が悪い時はさっさと話題を変えることにする。
とりあえずその辺りの思考実験は御偉い学者先生方に任せるとしようじゃないか。
そう今はこの冬期講習を完うするのみだ。さもなければ…

「さもなければ小遣いを減らすとでもキミの御母堂は仰っているのかね、くっくっくっ」
ええい佐々木よ、俺の思考をトレースして先読みするのは止めてもらいたい。
ことごとく当たるのはさすがに背中が薄ら寒く感じるじゃないか…。


~2~
佐々木と話し込んでいるうちに、最後の講義も終わった教室の中は閑散としてきたが
今更どうにか成りそうな代物ではないという事を、痛感させる講義内容にホトホト疲れ果てた俺は
佐々木との会話をもう少し続ける事にする。
特に今日の数学の講義は、初めはただの人参やらジャガイモだったのが、いきなり何の前振りも無く
作ってあった具材を画面の端から取り出して、いつの間にかシチューか何かに仕上がっている
そんな3分間料理番組を見ているようで全くチンプンカンプンだったぜ。

「あれはキョンが悪い訳ではないよ。どうやらあの講師は風邪で倒れてしまった本来の方の臨時らしい。
僕から見てもテキストを音読するだけの、あの講義内容では果たして理解できたかどうか不安に陥るよ。
数学というのは計算の過程を知って初めて理解し、センスを磨けるというのに。あれでは数学の醍醐味が
薄れてしまう。という訳でだ、キョン」

不意に立ち上がった佐々木は、座ったままの俺の前に自分の掌を重ねて俺を促すように一言

「復習を兼ねて僕の家で勉強会をやらないかい?」
俺はこの佐々木の提案について少し確認をしなければならないようだ。
今や非常に純度の高い砂金に置き換わった、俺のもう残り少ない砂時計には
実に魅力的な提案であることは間違いない。だがしかし佐々木、本当にいいのかよお前は?

「キョン、キミが懸念しているのは今日の日付のことかい?」
「ああ、その通りだ。」


今日12月24日という日はクリスマス特有の派手なイルミネーションが、歓楽街のネオンサインよりも
明るく街中を照らし、赤い服を着た白髭の太っちょ爺さんが世界中の子供達の願いを叶える為に、
宇宙人よりもハイスペックに地球を飛び回る日。
余談だが、オランダの子供達は12月5日と12月24日にプレゼントを貰うチャンスが2度あるらしい。
全く以って羨ましい限りだ。そしてクリスマスであろうが、全然問題は無いと言う佐々木の誘いを断りきれず
佐々木とともにあいつの家に向かう途中の俺がいる訳だが、いやさてどうしたものかね。

「一応遅くなるかもしれないから家に電話をしておいた方がいいね」
という佐々木に促されるように公衆電話から自宅へ電話を掛けることにする。
暫くして電話に出た妹に事情を説明し、晩飯を前にお預けを食わせるのは兄としては忍びないので、
先に喰っておけというと
「…キョン君てば、あたしを置いてあの人のところへいくのね、くすんっ」
小学生の妹は芝居じみた声でぐずり始めやがった。最近のお子様が見るテレビの時間帯には
昼下がりの爛れた不倫恋愛ドラマなんか流すようになったのかよ。
電話口でたどたどしく語る妹が言うには、折角のクリスマスなんだから家族そろって一家団欒
てやつを希望しているらしいのだが、さりとてこちらも人生の岐路に差し掛かっている訳でな。
許せ妹よ、なんか買って来てやるからさ。
「!!!じゃ~あ~、ク~マさんのぬいぐるみぃ~」
といきなり素に戻って言う妹にガシャンと受話器を置かれ、呆然と立ち尽くす俺が
テレビドラマに感化され易い妹に不安を感じるのは、兄として全く不自然ではないはずだと思うがどうなんだろうか。
もう少し俺に…いや普通に素直だったら、こっちも良い兄貴振りを発揮できると思うのだがね。


~3~
「なかなか交渉上手な妹さんじゃないか。将来が楽しみだねキョン」
電話を済ませた俺にニマリと口元を緩ませながら佐々木は近づいてきた。
その瞬間、成長した妹が言い寄る男共に甘言を弄して手玉に取る様が浮かぶが
そのありえない仮想映像を首から上だけのラジオ体操で脳内から全力で排除する事にする。

「くっくっくっ、買い物ならちょうどいい。この先に新しく出来たショッピングモールがあるらしいんだ。
僕も少し買い物がしたいから、僕の家に寄る前に見に行こうじゃないか」
塾から歩いて向かったそのショッピングモールの中は、辣腕経営者が街往く人々の財布が緩むこの時期に
オープニングセールを合わせる事に成功したせいか、想像以上の人だかりでかなりの熱気に溢れ返っていた。
その息苦しくなるような人ごみを掻き分ける様にして進むうちに、はぐれない為の配慮が俺と佐々木のどちらかから
出たものなのか定かではないが、ふと気がつくといつの間にか俺の左手は佐々木の右手を繋ぎ合わせていた。
尤もお互いがそのことに気がついたのはかなり経ってからのことなんだがな。
気付いた時の佐々木の表情は、少し俯き加減で微かに頬と耳たぶが赤く色づいていた様な
気がしたのだが、恐らくショッピングモール内の熱気のせいなのだろう。

「…ああ、済まないキョン。でも、もし…差し支えなければ是非このままでいてもらいたい。
僕の体格ではこの人ごみのなかでは埋没してしまう恐れがあるからね」

気にするなよ佐々木。お前にはこっちの都合でこんなところでの買い物に
わざわざ付き合わせているだけなのにな。いいからさっさと済ましちまおうぜ。
佐々木は俺の言葉に硬直したような表情をした後、首から上は徐々に自己解凍しつつも
声帯はフリーズしたままなのか恐ろしくトーンの低い声で

「…………何というインセンシティブと言うべきか…フーリッシュ…いやシリーもしくはステューピッドかな、
一体どの言葉を今の状況に当てはめればいいのか悩むところだね」

今度は上目遣いで睨み付ける様に俺の顔を凝視した後、プイと横を向く。
こちらとしては気を利かせたつもりだったのに、非難された様な気がするのはなぜだ判らん。
少し気まずい雰囲気のなか、どうにかファンシーショップのブースに辿り着いた俺たちは
クリスマス一色に飾られた店内を物色することにする。様々な商品が並ぶ中で、ちょうど手頃な
大きさと値段の吊り合いの取れたクマのぬいぐるみを見つけるとレジに向かう行列に並ぶ事にする。
すると佐々木は
「キョン、僕の買い物はすぐ済むからさっきの広場で待ち合わせることにしよう、じゃあ後で」
といって人ごみに消えてしまった。
あれから怒っている様子は見られなかったが、一瞬とはいえ俺の行動の何かが、
佐々木を不快にさせてしまったのはどうやら間違いなさそうだ。
ならば為すべきことは只一つであり、ましてやこれから佐々木の家に行って色々と
御教示願わなければならない立場であるからして、機嫌を取っておいても損は無いはずだからな。

そう決断すると、店内を見渡してすぐ傍の陳列棚に目的の品物を見つけると、買い物カゴにそれを放り込んだ。
~4~
買い物を済ませ、佐々木とバスに揺られること十数分。バスを降りてそこからまた暫く歩くと目的地である佐々木邸が視界に入ってきた。
「さあキョン、ここが狭いながらも愛すべき我が家だよ」
佐々木邸の見た目はごく普通の木造建築物なのだが、芝の植えた庭や木々に目を通すと、
常日頃から手入れの行き届いているのが素人目にも判る。
その刈り込んでいる芝を見た途端、白いワンピースに麦藁帽子を被った佐々木が草むしりに精を出す様子が
何故だがわからないが脳裏に浮かんでしまった。
しかもその情景を思い浮かべている間、佐々木の呼びかけに気がつくまでかなりの時間呆けていたらしい。

「全く…僕の家の敷居はキミにはそんなに高いのかい?遠慮しないで入って来て貰いたいな。」
「すまん、なんとなく佐々木の家らしくてなと思って」
「一応ほめ言葉として受け取っておくよキョン。言い忘れたが、生憎と僕の両親は不在だ。
だからキミをキチンともてなす事ができるかどうか甚だ不安ではあるのだがね」
その不在の理由を聞くと佐々木曰く、今朝方両親の恩師にあたる方が急に倒れたらしく、取る物も取り敢えず
新幹線に乗って佐々木の両親はその恩師の方の入院先に向かうことにしたらしい。

「で、さっき電話で聞いたところ、今のところ安静にしているけどまだ予断を許さないらしいから今日は向うで宿をとって戻らないそうだ。」
「てことは二人っきりなのか?」
「そういうことになるね。最近は押込み強盗も出没しているらしいし、頼りにしてるよ、キョン」


リビングルームに案内された俺は、そこで佐々木とテキストを開いて課題を解くことにする。
向かい合ってカリカリと書き綴るシャーペンの音が、独特の緊張感を伴って空間に伝播し、耳朶を僅かにくすぐる。
いつになく滑らかな俺のペン先は、普段はすぐ停滞する英語の構文や数学の公式を淀みなく書き込んで行き
一息つく頃には課題の大半を埋めることが出来た。これはいったいどういうことなんだろうね。

「男子たるもの3日会ざれば刮目をもって見よと言う事じゃないかい、キョン」
呉下の阿蒙になぞらえてくれるのは有り難いが、呪い殺されるのは性分には合わなくてね、
俺はこれからも善良な人生を歩む事をモットーにしてるのさ。
ちなみに俺は課題の一々を佐々木に根堀葉堀聞いたりなどしちゃいない。
普段と違う事といえば遊んでくれとせがむ妹の代わりに目の前に佐々木がいる位なんだが
こいつの顔を見ると給食の箸が進むのと同じように筆も進むのかも知れん。

…まったく根拠は無いがな。
「面白いことを言うね」
佐々木は爆笑をこらえるような表情になって
「キミのシナプスの伝達効率増加に、僕が一端を担っているとしたら大いに喜ばしい事だよ、キョン」
佐々木はさっきのパブロフの犬的な発言に大いに気を良くしたらしく、時折鼻歌交じりに課題に取り掛かっているようだ。
俺としても普段以上のペースで課題を解きこなし、普段は南アルプスの登山行に匹敵する課題の山も今日はどういう訳か
裏山のハイキングコース程度の楽勝さでどうにか終わりも見えてきた。こんなことなら冬休みの宿題も併せて持ってくれば
と思わずにはいられなかったぜ。
~5~
さて同級生の女子とクリスマスを過ごすというのは、青春ドラマにありがちなシチュエーションなのだが
俺と佐々木の間でそれを当てはめられるかどうか聞かれれば、このときの俺だったならノーと答えていただろう。
なんせ佐々木は恋愛感情を精神病の一種と言い切る輩だし、俺たちは塾で隣同士になって会話をする位が関の山で、
今日佐々木の家まで行けたのはその余禄以外の何物でもないはずだからだ。
この後はクマのぬいぐるみのついでに買ったあれを佐々木に手渡せば、クリスマスミッションは一応コンプリートで
あとは家路に向かうだけなんて考えていたんだが、あとから思い返すとまさしくこれは浅慮の極みというやつだろう。
その帰るタイミングを見図る様に佐々木の表情を伺っていると、先に発言したのは佐々木の方だった。
「キョン、さっきも言ったが今両親は出払っている。しかし今日の料理の仕込みだけは前の晩から完璧に済ませているらしくてね。
今しがた冷蔵庫を覗いたら、鶏の腿肉やらケーキやらが鎮座ましましているという訳さ。これはもう1人で処分できる量
ではないし、両親もいつ戻ってくるかわからない状況だ。キミの妹さんには悪いが、是非食べていってもらいたい。
僕も一人っきりで食卓に付くよりも、キミの顔を見ながらでも食べた方が大いに箸が進むというものなのさ。」
そこまで言うなら是非ご相伴に預からせてもらうことにしよう。妹には明日フォローしとけばケロリと忘れてくれるはずだ。
「それは重畳だ。早速支度に取り掛かるからそこで待っていてくれないかね。」

佐々木が調理場に向かってしばらくしてから、コトコトとスープ鍋が立てる音とローストチキンの香ばしい匂いが
リビングに漂い始め、それらに反応した胃袋を筆頭とする消化器官連合が猛烈な自己アピールを始めようとするところで
佐々木は一旦着替えるといって部屋を出た後、すぐ戻って来た。

「どうだい似合うかい、キョン」
振り返ると、白いファーの付いた赤い帽子とコート…いわゆるサンタ服に着替えた佐々木の姿が俺の目に飛び込んできた。
しかしいったいどこで買ったんだ、佐々木よ。しかもお前の着ているサンタ服は夏仕様と言い切れるような布地の少なさじゃないか。
「あのショッピングモールで安売りしていたから思わず買ってみたんだ。折角のクリスマスだし、何事にも雰囲気は大切だろうキョン」

鎖骨のかなり下の方から佐々木の体を覆い始める布キレは、佐々木の女の子として持っている2つの自己主張に
ぴったり張り付くようにデザインされており、そこから緩やかな曲線を描いた後、ヒップラインの頂点付近で終わりを遂げている。
そこから全く無駄のないすらっとした佐々木の足が伸びているのだが、これ以上見続けるのは何かを催しそうになりそうだ。
「どうやらお気に召してくれたようだね、くっくっく」
と言いながらスカートの端をぴらぴらと持ち上げるしぐさに思わずクラッと来てしまいそうになるが、
佐々木のどことなく挑戦的な表情を見て、何かドッキリでも仕掛けられているのかもしれんと思うことにする。
この後の佐々木の悩殺攻撃は俺の煩悩と本能を味方に付けて一方的に侵攻し、俺の情緒と理性は防戦一方だったのは言うまでも無いだろう。


「くっくっくっ、楽しかったよキョン」
最後のクリスマスケーキを平らげたあと、俺は自宅に引き上げることを告げると佐々木は冒頭のセリフを述べるに至る。
凱歌の響き渡る城内を見下ろす将軍のような勝ち誇った様子の佐々木に、俺は逆襲の一手を思いつきすぐさまそれを実行する事にする。

「…これは何だい?」
佐々木の眼前に俺は刺繍の入った白いリボンを取り出すと佐々木に差し出す。
「今日は色々と世話になったしな、そのお礼だ。こんなので申し訳ないが受け取って欲しい。」
そう言って佐々木にそのリボンを手渡すと、明らかに佐々木はそのリボンの扱いに困っている様子で、どうやら功を奏したらしい。
「…残念だけどキョン。僕の髪は岡本さんの様に長くはないからね、結うのは難しいかもしれない。その…なんというか
想定外だな、キミから贈り物を受けるというのは。でも…まあ合格祈願の鉢巻き代わりにはなるかもしれない、有り難く頂戴するよ。」
そうかい、俺にはこの状況は想定の範囲内だがな。じゃあ佐々木こいつはどうだ
「俺はお前のことが――」
俺の言葉に躊躇する佐々木に敢えて一息で言わず、一呼吸おいて残りのワードを突出させるべく肺の空気を吐き出そうとした瞬間。
佐々木は時限爆弾の解除スイッチをあと残り3秒で見つけた新米刑事のように俺にしがみついて来た。



~6~
佐々木はそのまま俺にしがみつき、顔をみせる事の無いまま呟くように喋り始める。
「ずるいよキョン、それは反則だ」
佐々木よ、さっきの言葉はブラフなんかじゃないぞ。お前の事を好きか嫌いかで問われれば間違いなく好きに傾くだろうし、
少なくとも嘘偽りで騙ってなんかいないぜ。ただお前に焚き付けられてしまった感はあるがな。
「…そうだね、正直に言うとショッピングモールであの時キミが見せた朴念仁ぶりに少しカチンと来てしまってね。
果たしてどこまでそうなのだろうかと思って色々と焚き付けてしまった。そしてどうやら本当の愚か者は僕の方だったらしい。
キミを焚き付ければこうなる事態は充分予想できたはずなのに、それを全く想定していなかったのだからね。」
俺は為すべき事を見出せずにただ黙って佐々木の身体を抱き寄せると、俺を見上げる佐々木の顔は幾分か赤らんでいた。
「率直に言って僕もキミの事を好ましく思っているよ。それは間違いない。僕が以前言った言葉を覚えているかい?
動物は愛情ではなく本能によって子を慈しみ守り育てていると。僕は愛情を否定したが本能的希求は否定していないんだ。
僕も一箇の人間である以上、然るべき時に然るべき相手つまりキョン、キミと結ばれたいと思っているのさ。」
佐々木は嬉しくもあるがどこか儚げな表情をみせると

「だがね、キョン。それでもキミの想いを今、受け取る事はできないんだ。」


次の日、塾をサボるための言い訳を二十通り程考え、その半分位まで開陳したところで怒り心頭のお袋に家から叩き出された俺は
自転車を昨日塾に置き忘れた事に気付いて、已む無くトボトボと歩いて塾まで行軍し教室に入ると珍しく机に蹲る佐々木を見かけた。
が、どう声をかけたら良いものか。
佐々木も俺に気がつくと一瞬だけあの泣き笑いとも取れる表情をみせるが、すぐさま消し去ると俺に近づいて来て一言
「キョン、昨日は済まなかった」
いや、謝るのは俺のほうであり、お前は全く悪くないはずだ。
「キョンは優しいな、……そしてこれが今の僕からの答えさ。」
といって佐々木から紙袋を手渡された瞬間、昨日の数学の講師がプリントを大量に持って現れたので慌てて席に着く。
それからどう時間を過ごしたかはっきり覚えちゃいない。結局佐々木にも聞けずじまいでクタクタの足でどうにか家に帰った後、
自分の部屋で紙袋を開くと何所にでも在りそうな小さな鍵とメモ用紙が一枚。そこには
『4回春が巡るまで預かって欲しい』
とだけあった。
それからの俺と佐々木は、表面上はいつも通りに過ごし卒業式の日別れた。後は皆の知るところだ。


俺はあの泣き笑いとも取れる佐々木の表情に隠された意味をこれっぽっちも理解できちゃいなかった。
あの当時の俺は終始にやけたハンサム超能力者のように女性心理に長けている訳ではないし、
白磁人形のような宇宙人産アンドロイドの表情すら読み取れるようになった顔色伺いスキルもなかったがね。
尤もハルヒに言わせれば今の時点ですら、ミジンコクラスな俺が昔に遡ってあれやこれやとやるとしたら
ミトコンドリアすら通りこして、これはもう原始の海に揺蕩(たゆた)ってなければならないだろう。
それでももし、過去に遡れる様なら昔の俺に蹴りをかましてやりたいところなのだが、あの時未来の俺が現れなかった事を
考えると、俺と佐々木にあった事はやはり規定事項なのだろうと推測する。そしてこれから事を起こそうとする俺の前に
ファニーフェイスな未来人さんが止めに入らないということは、やはりこれも規定事項なのだろうか。



…さてそろそろ話を今現在の視点に戻そうじゃないか。


~7~
俺はあの日渡された鍵とメモを机の引き出しの奥から取り出し、妹に出かけると伝えて自転車に乗ると佐々木の家に向かって漕ぎ出す。
しばらく漕いで俺の目の前に現れたあいつの家を見かけると、そこは3年と3ヶ月前のあの時と寸分も変わない佇まいで、
その強烈な既視感から3年前にタイムスリップした俺の記憶が脳内を駆け巡り、そしてどうにか舞い戻ってこれたという訳だ。

生け垣で出来た門を躊躇わずにくぐり、玄関のノブを捻ると手の中に小さな木箱を納めた佐々木が静かに佇んでいた。
「やあ、キョン久しぶりだ」
さっき大学のあの掲示板の下で鉢合わせしたばっかりじゃねえか。
「そうは言うけどね。僕としては3年ぶりに再会した気分なのだよ。キョン上がってくれたまえ」

高校を無事卒業し、超万馬券もかくやというまぐれ当たりが成功したのかどうか判らないが
俺はとある大学の合格発表の掲示板に自分の番号を見出す事が出来た。
そしてSOS団のみんなも俺と同じく、先に進学した朝日奈さんに追いつく様に同じ大学に進む事となった。
勿論佐々木もだ。そういえば佐々木よ、相変わらずハルヒと仲が良さそうじゃないか。

「そうだね、涼宮さんにはいつもその独創的な発想に驚かされっぱなしさ。その彼女の言葉が瞬く間に形作られて
現実のものとなっていく様を見ているのは実に爽快なものがあるね。こういってはなんだが、同性の僕から見ても
涼宮さんは大変魅力的だ。涼宮さんの傍にいるキミを見て焦った僕は、2年も早く前倒しでキミの前に出てくる羽目に
なってしまったけれど、それは嬉しい誤算だったのかもしれないね」
まあハルヒの交友関係が増えるのも望ましい事ではあるし、それはお前であることはまぎれもなく良い事だと思うがな。
まあいいさ、本題に入ろうか。

「3年前の…あの時もしキミの言葉を受け止めていたら、僕の箍(たが)は外れてしまっていたかもしれない。
僕の欲求は際限なくキミを求める事となったであろうからね。本気で駆け落ちも辞さなかっただろう。
そうなれば最早そこにあるのは破滅しかない。だから僕はあの時応じられなかんだよ、キョン。
そして自分の思いにむき合う事を恐れた僕はその想いをこの箱に封印することにしたんだ。」
お前がそこまで思いつめていたとはな。スマンとしか言いようが無い。
「さあその鍵を渡してくれないかいキョン」
ああ、そのためにここに来たんだからな。
俺は小箱を持つ佐々木に鍵を差し出すと、カチリという音と共に錠前を外した箱の蓋を開けた中からは
あの時の一片の白いリボンが入っていた。

「この中に3年間封印し続けた想いがあるんだ。でもつらい時にこの箱を見るとなぜか落ち着くことができてね。
だからキミが傍にいない3年間頑張れたのもこの想いのお陰でもあるかもしれないのさ。」
3年前に俺が佐々木にプレゼントした白いリボンを佐々木はいとおしく見つめる。
ようやくそのリボンも本来の役目を果たす事が出来そうだ。

「キョン、なによりも僕が嬉しく思っているのは、3年前の約束をキミがこうして覚えていてくれた事だよ。」
佐々木は3年の間に少し長くなった後ろ髪を左手で掬うとその根元をリボンで結び上げて振り返ると

「どうかな、似合う?キョン」
そこにはポニーテールの似合う可愛らしい女の子がはにかみながら微笑んでいた。



~ワンセグのおまけ~
佐々木よ、お前の俺に対する想いは充分に判ってやれなくて申し訳なかったと思う。
だが一つだけ腑に落ちないことがある。あの3年前と今とじゃどう違うんだ?
「なんという事だキョン。キミの朴念仁ぶりは益々磨きがかかっているじゃないか。
これでは、涼宮さんも苦労するというものだ」
あのな、15と18じゃ同じ未成年であることに変わりはあるまいし、第一なんで
そこにハルヒが出てくるんだ。関係ないだろう。
「いいや、おおありだよキョン。僕も争奪戦に名乗りを上げた以上、ある程度は覚悟
していたんだけど、これは想像以上の難物だね、くっくっくっ」
佐々木は獲物が目の前に現れるのを虎視眈々と待ち続ける提灯鮟鱇のように
深海にボゥと光る捕獲者のような眼光を向けると
「みんな、キミが婚姻可能年齢になるのを待ち望んでいるのさ」

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最終更新:2007年10月10日 21:51
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