26-886「夜とコーヒーと本と彼」

 テーブルの上で小さく存在しているブラックコーヒーを、僕は一気に飲み干してしまう。
喉の奥で、余韻が残る。苦い。だが、悪くない。と言った感じの余韻。
僕は先程までコーヒーが注がれてたコップを、テーブルに置く。コツンと音がする。
沈黙という海の中で、その音は波に紛れて消えてしまう。
だが、僕の耳の奥にはしばらく、その、コツンという音が存在し続け、そして呼吸している。
 飲み干してしまった苦いコーヒーに対して、僕はもう興味が湧かない。何故だろう?きっと、本質とズレが生じているからだと、僕は考える。今すべき事は、コーヒーについて考える事では無い。
 では、今すべき事はなんだろう。一体、僕は今何をすべきなのだろうか。
膝元に置いてある、電話帳ほどの厚さを誇るこの読みかけの本を読みきってしまう事か?いや、違うはずだ。なぜならこの本は、僕がこの空白の時間を埋めるべくして所持してきた存在だからだ。
 なぜだろう。酷く頭が痛い。そして、記憶が一部分、どこかに飛んでしまっている。
ここはどこだ?僕の部屋だ。そして僕は今、冷たく固い椅子に腰掛けている。
ジーンズのポケットには?携帯電話が入っている。他には、何も無い。
膝元には、先程も述べたように、電話帳程の厚さを誇る、読みかけの本。
 そして、テーブルの上には、相も変わらず、コーヒーカップだ。


 窓が開いている。風の強い夜だ。闇は随分と深く、見つめていると、丸々呑み込まれてしまいそうだ。
いや、既に幾らか、僕の意識は実際にその闇に呑み込まれている。
随分と深い場所まで僕は呑みこまれ、そして異物のように、その闇に吐き出される。僕の意識は、また元の僕の部屋へと戻ってくる。やはり、頭はズキズキと、痛覚がする。
 僕はこの時点で、何度も辺りを見渡している。そこにある何かを見つけ出そうとするように。
だが、いくら注意深く見渡しても、何も見つからない。当然だ。何故ならそこは、何の変哲も無い、いつもの僕の部屋だからだ。
 僕はジーンズのポケットに入っている携帯電話を取り出す。
着信が、一件。
見覚えのある番号だ。そして、僕の大好きな十一列だ。
僕は素早くその番号に、電話を掛ける。
 「もしもし」
「はいよ」。と、少し寝ぼけているような声が返ってくる。
「やあ、先程電話を貰っていたようだが、気づかなかったよ。すっかり寝ていたんだ」
「なに、気にするな。しかし佐々木よ。こんな時間に電話を掛けなおすのは、少し非常識じゃないか?」
と、聞き苦しい説教が聞こえた。だが彼も、本気で怒っている訳じゃなさそうだ。
僕は、くっくっと、喉の奥で笑う。
「寛大な心を持ってして、僕の非常識な行為を受け入れてくれよ。キョン。キミも男なのだろう?」
彼は言う。
「俺はかれこれ三時間くらい前には、もう布団の中で夢を見ていたんだ」、と。
「どんな夢だい?」。僕は言う
「そんなこと聞きたいのか?」キミは言う。
「もちろん」。と、僕は言う。そして続ける。「興味津々だ」、と。
彼は少し迷う。いや、迷っていたのかもしれない。というのが正しい。仮説を立てる事しか、今の僕には出来無い。何故なら僕は、彼の姿を受話器越しに想像する事しか出来無いのだから。少なくとも、今は。
 彼は言う。
「夢の中での世界は、朝だ。俺は見知らぬ部屋の中で、見知らぬテーブルに向かって、パンを食べているんだ。牛乳を片手に。窓からは眩しいくらいの朝日。そして、台所にはエプロン姿のお前がいる」
僕はその話を聞いて、少しだけ顔が赤くなる。その夢には僕も登場してくるのか。
 彼は続ける。
「そんで、お前は俺に向かって言うんだ。『そろそろ会社の時間じゃない?あなた』ってな。つまり、夢の中の俺達は結婚しているんだ。お前の左手の薬指には、綺麗な指輪がある」
そこまで言って、少しの沈黙。僕は彼が話し出すのを待っている。彼は、僕の感想を待っているのかもしれない。
 「それで、続きは?」と、僕は仕方なしに問う。
彼は言う。
「佐々木。お前さ、これから俺が話す事を聞いて、引いたりしないと約束できるか?」と。
僕は言う。
「内容にもよるね。それよりも、キミはなんていう夢を見ているんだ。反省してくれ」
彼は言う。
「夢なんて、俺は見たくて見てる訳じゃねえぞ。内容なんて、それこそ俺の意思とはまったく別の所で作り出されているんだ」
「それでも、脳裏のどこかで微かに思っている事を拾い集めて構成されているんだよ。夢とはそういうものさ」
「お前、人が夢を見る構造を知ってるのか?」
「さあね。少しも知らない。今度調べておくよ」
 僕達は受話器越しに、小さな声で笑い合った。

 僕は大きな欠伸をする。眠気がある訳じゃない。退屈な訳でもない。むしろ、楽しい。僕は彼との会話を、いつだって心から楽しんでいる。
膝元に置いてある分厚い読みかけの本に、栞を挟んで、閉じる。この本の役割は、今まさに一仕事終わった訳だ。何かを発信する側と、何かを受け取る側。
この本は、何かしらの概念を僕に向けて発信し、そして僕はそれを溢さないように拾い続ける。それは僕が考えるこの世で最も心地の良い作業の一つだ。
 僕が空のコーヒーカップに手を伸ばし、そして中身が無い事を再認識している間に、受話器越しに彼の言葉が聞こえてきた。
「夢の話をしてもいいが、俺が全て話し終えた後、この話は忘れてくれ。覚えていても良いが、口に出したりしないで欲しいんだ」
「そんな前置きをされると、益々興味が湧くよ。一体その夢のオチはどんなものなのだろう」
「オチって程の物でも無いんだけどな」。彼は困ったように言う。
 そして、一呼吸分の沈黙。僕と彼はその沈黙を分け合う。
実に大切そうに、お互い、両手で掬い取るようにして、その沈黙を分け合う。

 彼は夢の続きを話し始める。
「お前が夢の中で、台所から、俺の方に向かってくるんだ。朝食用に、目玉焼きに、そしてカリカリに焼いたベーコンが乗っけてある皿を、お前は俺の目の前のテーブルに乗せる。
そんでお前は、俺の隣の椅子に腰掛ける。そして、色目を使って、俺に言うんだ。
『昨日の夜は激しかったね』。ってさ」


 僕は彼のその話を聞いた後、こう思った。
多分、僕は目の前に彼がいたら、容赦なくこの握り拳を振り上げていただろうとね。
まずい。頬が赤い。この馬鹿男は、なんていう話を僕にしてくるんだ。
まあ、夢の話をしてくれと言ったのは僕だけど、それにしても、卑猥だ。そして下品だ。まったく。けしからんな。…まったく。
 彼は言う。
「いやしかし、あの時のお前は可愛かったな。そんで、とてつもなく女っぽかった」
それを聞いて、僕は少し腹が立つ。
「なんだねそれは。普段の僕が可愛くないと。そして女らしくないとでも言いた気だね」
と、少し声に怒り気を混じらせて言う。
 彼は、言った。
「普段のお前は、もっと可愛いぞ」、とね。
そして僕は思う。切実に思う。ああ、ついに本物の馬鹿になってしまったんだな。キョンよ。
そんな口説き文句のような台詞をキミは言うようなキャラでは無かったはずだぞ。おい
そんなふうに思いながらも、自分の顔が真っ赤になるのに気づく。ああ、動揺の余り、コーヒーカップを床に落としてしまった。空で良かったと思う。ああ、本が床に落ちる。そして、椅子が大きな音を立ててひっくり返った。
 そして僕は、何かにつまづいて顔面からベットに飛び込む。…痛い。
「フダンノオマエハ、モットカワイイゾ」…?確かに彼はそう言った。誰に向かって?
無論、僕に向かってだ。
いやいや待て待て、ありえないアリエナイ。そんな事はあるはずがない。だって僕はこんなにも女の子らしくない存在なのだぞ。
 別に、嬉しくない訳じゃない。「可愛い」。なんて、はっきり言って、色んな人に言われ慣れてる。
言われ慣れてはいるが、彼に言われるとなると、それはまた別の意味を持つ。もっともっと、深くて重い意味を持つものになるのだ。
え?ちょ、…ちょっと待ってくれよ。おいおい。なんで顔を赤くしてるんだよ僕は。受話器越しには、まだ彼がいるんだぞ。
おいおい。そうじゃないだろう。冷静になれ。得意分野のはずだ。冷静になれ。専売特許だろう。冷静になれ。そうだ。冷静になれ。なってしまえ。
呼吸よ落ち着け。鼓動よ静まれ。いつの間にこんなに乙女になってしまったんだ僕よ。これじゃあまるで、僕が彼に恋しているようじゃないか。
僕が彼に、恋している?
 ボクガカレニ、恋シテイル?
そんな馬鹿げた話が、あっていいのだろうか。
 でも、事実だろう?
 僕はキミを想うと胸が震えるんだ。それは、そうだね、ロックンロールと似ている。
別に興味がある訳じゃないが、ただの例え話さ。僕の胸はロックのように激しく震える。
僕はキミを想うと心が落ち着くんだ。それは、もちろん。クラッシックに似ている。
別に興味がある訳じゃないさ。ただの仮定だ。僕の心はどんな場面であっても、キミの表情を想うと心が落ち着くんだ。
 僕はキミを想うと、体の何処かが疼くんだ。
とても恥ずかしい事実ではあるが、そう、それは疑いようもない僕の中に確かに存在し続けている事実だ。真実だ。僕はキミを想うと、体が疼く。
そして、誰も慰めてはくれないから、僕は自分で自分を慰める。慰め続けている。
夜中に、布団を殻のように全身に被って、恥ずかしい声をあげながら、僕は僕自身を慰めるんだ。キミを想いながら。それはとても恥ずかしく、卑猥な話であるが、認めざるを得ない事実なのさ。そうだ。
 恋をするってのはこういう事を言うんだろう?
大人になれよ。僕。そうさ、僕はいつだって大人でありたいと願い、願い続けてきた。今だってそうさ。どんな状況にも慌てず、冷静に片付けてしまう、そんな大人に。
大人ってのはね、歳を重ねるだけじゃなれないのさ。苦労や悲しみを、冷淡や情熱を、血や汗を、そんな汚らしい物を経験として並べて、初めて僕は大人になるんだ。
そうさ、僕よ。大人になれよ。僕は彼に恋している。それは事実なんだ。
 僕は言う。
「素敵な夢を見たね」、と。

そして彼は笑いながら言う。
「お前なら、そう言ってくれると思ってたよ」
そして彼は笑いながら、言うんだ。
「佐々木、メリー・クリスマス」
彼はそう言うと、僕が口を開くのを待たずに電話を切った。

 床に落ちて、ページがわからなくなってしまっている本と栞。
床に落ちて、カランカランと音を立てているコーヒーカップ。
床にひっくり返って、普段の役割をまったく果たせていない椅子。
 そして、携帯電話を握り締めながら、カレンダーを見つめる、僕。
「今日は十二月、二十五日」
 そうだ。確かに。昨日が二十四日で、明日は二十六日だから、確かに今日は二十五日だ。
カレンダーの次に、僕は時計を見つめる。
時刻は、午前の三時をとっくに周っている。一日のうちに、最も深い闇が世界を覆っている時間帯だ。
今日は、聖夜。クリスマス。
今はもう、途切れてしまった彼の受話器越しでの声を、僕は思い出す。思い出してから、脳でそれを分解する。
 窓はまだ、開いている。
そこから覗く小さな闇を、僕はまた見つめる。闇には、優しさがある。
それはきっと、闇の生態が変わったのではなく、僕の意識に変化が生まれたのだ。
もう闇は、僕を呑み込んだりしない。そして僕は、簡単に呑みこまれたりはしない。
なぜなら僕の意識はもう既に、何者かによって完全に呑みこまれてしまっているのだ。無論、彼だ。
 彼の存在そのものに、僕の全ては呑みこまれてしまっている。
「まったく、適わないね」、僕は小さく呟く。
クリスマスの存在に、当日まで気づかなかった世間知らずの自分。
そして、普段は鈍感で朴念仁のくせして、こういう所には何気に気がつく、彼。
「彼は、どんなプレゼントを贈ってくるんだろうね。期待しても良いのだろう?」
僕は夜空に向かって、語りかける。
夜空からは当然、返答は無い。
でも、それでいいのだ。夜空は口を聞いたりしない。そうさ、それが当たり前なんだ。
 あとは、彼に話そう。
話したい事、話してもらいたい事、いっーぱいあるんだ。それこそ、あの夜空では足りないくらい。
本とコーヒーカップを、テーブルの上に置く。そして椅子を起こして、電気を消す。
そして僕は、布団に潜り込む。今夜は良い夢が見れそうだ。程よく純潔で、程よく卑猥な、そんな夢が見れそうだ。
そんなのも、悪くないだろう?
僕だって年頃の女の子なんだ。彼だってそうだ。まだ十代。色んな事を経験して、大人になっていくんだ。そうだろう?
 僕は、静かに目を閉じる。

頭の中を、彼の色でいっぱいに染めながら。

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最終更新:2007年12月29日 01:14
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