解釈する側の自由と責任、感情自己責任論

解釈する側の自由と責任

反証不能の「感情自己責任論」

もし刺激を受けた全ての人が怒るなら、その白黒模様の記号に怒りの原因があると言える
しかし実際には反応は人それぞれ。各人の価値観は異なるので、人によっては怒りを感じない
即ち読者が怒るか怒らないかは、文章の存在ではなく、読者自身の解釈の仕方如何で決まる
解釈を殆ど反射的自動的無意識的に行っている為、多くの人は「自分が選択している」という意識がない。その為に短絡化して怒りの原因を情報の発信者と見なす

これが彼の持論の中心を成す「感情自己責任論」であるが、「もし刺激を受けた全ての人が怒るなら」という点に着目しよう。

「クラスの殆どから苛められるのは、苛められる側に原因がある証拠」
40人中40人が苛めていたとしたら、その40人一人一人に原因があるということである。40人が100人でも同じこと。物事の良し悪しは数の大小で決まらない
(「人権侵害行為(DV・虐待・虐め・差別その他犯罪)、今いじめられている人へ、家庭内暴力への対処 」より)

「100人中99人が同じ評価なら、尊重すべき」
10億人全員が同じ評価であっても、各人の主観であることに変わりはない
(「人権侵害行為(DV・虐待・虐め・差別その他犯罪)、今いじめられている人へ、家庭内暴力への対処 」より)

「全ての人」とはいったい何のことを指すのか。
仮に地球上の全人類が同一反応を示しても「70億人各人の主観」であると断ぜられるだろう。
すなわち「全ての人」なるものは存在しない。彼の論は反証不能なのである。
ところで「主観評価法」という言葉をご存じですか?



「いやいや、そもそも書き手が書かなかったら怒りは生じないのだから書き手にも原因があるではないか」
読む側が「これ以上読んだら怒りが沸きそうだ。読みたくない」と感じたら、いつでもその場で目を逸らしたり瞑ったりそのページを閉じたり出来る。つまり、「読み手が読まなかったら怒りは生じない」のである
それをせず読み進めたのは他ならぬ読者の意思決定。従ってその選択結果(怒り)は甘受すべきである
書き手にあるのは、あくまでも「情報を発信した(読む機会を与えた)原因」であって、「読み手の怒りの原因」ではない
彼は「怒り」を例にして論を進めているが、むろん感情は「怒り」以外にも多様だ。
彼の論をに基づけば、エンターテイナーが芸をして観客を楽しませても、それは観客が自ら情報を取捨選択し自らの意思決定で「楽しんだ」のであり、エンターテイナーの才能は否定されることになる。
観客が見なければ「楽しむ」ことはなかったのだから。

また、他の項目でも同様のことが言えるが、彼は「原因」と「責任」を混同している節があり、議論を混乱させている。(参考:用語集



例えば貴方がある情報に接してどれほど憤りを覚えたとしても、それはあくまでも貴方の判断基準・尺度に照らして貴方自身が無意識的にせよ選んだ解釈の結果であって、その情報の発信者には「貴方の憤りに対する原因・責任」は全くない
ここで言う「強要」とは肉体に対して直接的物理的な実害が及ぶケースのみであり、暴言や誹謗中傷については、騒音となるもの以外「強要」に当たらない。例えそれが脅迫文でも、恐怖心を抱く事自体は読み手の勝手な所為、自業自得である

脅迫は犯罪であり、脅迫をした側に責任があります。
自ら手に取った本の内容と送りつけられた脅迫文では状況が全く違います。
状況を考慮せずにどのような状況においても情報の扱いを自己責任と一般化するのは誤りです。

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最終更新:2011年07月07日 18:56
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