死刑(抑止力・殺人発生のメカニズム・贖罪社会正義終身刑・厳罰化更生その他・冤罪・廃止論)

死刑の抑止力・殺人発生のメカニズム・贖罪社会正義終身刑・厳罰化更生その他・冤罪・廃止論に関するよくある勘違い


「加藤が秋葉原で通り魔したのは派遣労働だったから。格差社会が原因」
動機は「自分の掲示板を荒らされ人間不信が募り自棄自棄になったから」「荒らされることがどれ程苦痛かを世間に知らしめたかったから」である。どれほど格差があろうと殺人しない人は殺人しないので、格差は一切、原因ではない。このように「目に見える分かりやすい何か」のせいにしたがるのは、原因帰属バイアスの一種である

格差であれ何であれ摩擦が大きくなれば犯罪は増加傾向となる。
極一部の人間が行わないというだけでそれが全てに適用できるという思想はどこから来たものだろうか?
「原因」という言葉の意味が日本語のそれとは乖離しており独自解釈のものらしい。


「通り魔したのは掲示板を荒らされたから。荒らしが原因」
荒らしにあるのは「通り魔の原因」ではなく「彼に通り魔を実行する決心を誘発した原因」。どれほど荒らされなりすまされても全く動じない者もいるので、荒らしは原因ではない。「行為者の心の病」が常に唯一の全ての行為の原因である

決心を誘発させたものの事を日本語で「原因」と言う。
彼の独自解釈による「原因」とは何なのだろうか?
「用語集」を参照されたし。


「どれほど劣悪な教育環境で育っても、通り魔しない者はしない。だから環境は原因ではない」
子供は親の躾け方次第でどうにでも育つので、その個性に応じた最凶な環境を与えれば冷酷無比で極悪非道な子供に育てることは幾らでも可能。先天的な個体差があるので程度問題だが、絶対に通り魔しないという確証はない。つまり「どんな人間も、それなりの環境に置き条件が整えば通り魔をする可能性はある」ということである
にも関わらず個人の問題に矮小化すれば当然問題の解決が先送りされるため、似たような事件が続くことになる。体験から何も学ばなければ似たような経験を繰り返すのは、個人も集団も同じ。犯罪は社会の鏡。事件や事故は全て、学習が十分でない証拠

上記の「加藤が秋葉原で通り魔したのは派遣労働だったから。格差社会が原因」の項目の
どれほど格差があろうと殺人しない人は殺人しないので、格差は一切、原因ではない。
この部分と矛盾している。
自分が説明した内容と同様の内容を「よくある勘違い」とし、自らまた別の解答をしている。
大丈夫か?

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最終更新:2011年07月06日 00:52
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