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大学のレポートなど、公開しても差し支えなさそうなのを並べていきます
みんなで学をつけてこうぜ!



『もやしもん』という漫画の影響でいろいろ気を使ってます
ためになったお話を載せたサイトを紹介
人体常在菌のはなし
http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho83.htm

風邪を引いたホモサピどもが多いので薀蓄を一つ。ホモサピが酵素を作る量には限りがある。酵素は主に消化と代謝に分けられる。病気の時は消化に良いものを食べるのは生物学的にも正しいのだ。 もやしもん9巻より

消化にいいおかゆ・うどんはもちろん、食物から酵素を取り組むことを考えれば発酵食品、生の野菜果物などがオススメ。 加工食品は微妙。酵素はタンパク質だからね! 焼き魚と大根おろしの食べ合わせなんかもいいらしい。


界面活性剤

界面活性剤ってセッケンだけでなく保湿クリームや乳液など至る所に使われていると聞きました

でも界面活性剤てお肌によくないらしい
皮脂を根こそぎ奪っちゃって表皮常在菌が困っちゃうとかなんとか

ってことは化粧はもちろん
肌の乾燥を潤すクリームが逆に肌を乾燥させてるってことではなイカ!?

つまりはお肌のためにやっていることが実は逆効果なのではないかという疑念
化粧品メーカーに喧嘩を売ることになりそう
ホントのところはどうなのか、調べていきたい

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メタボ


調べ足りないところ

  • 夜食は本当に体に悪いのか
  • 酒に弱い若者が本当に増えたのか
  • 自炊をする一人暮らしの人の割合
  • 一家庭が料理にかける時間
  • こんなことを書いた自分が生活習慣を治す気がさらさらないこと
  • ってかメタボって本当に問題なん?w


「忙しい生活」が肥満を生み出す


肥満の原因には過食、誤った食事パターン、運動不足が挙げられる。それぞれについてさらにその原因を調べてみた。
第一になぜ「過食」してしまうのか。まず考えられるのはストレスだ。ホルモンのバランスが崩れ、食べ過ぎ、飲み過ぎに陥ってしまうという。飲みの場といえば、最近は酒に弱い若者が増えたようでオツマミでごまかしているうちに……というパターンがあるかもしれない。オツマミは高カロリーのラインナップだからだ。
ストレスの元になるといえば、無理なダイエットも一因だ。食事制限による栄養不足に陥ると人体にホメオスタシスがはたらき、省エネで活動できるようになる。ここでいつもどおりの食事をすると、過剰のエネルギーが脂肪として蓄えられてしまう。
また、忙しい生活のお供であるファストフードは手でもって簡単に食べられる。それだけ早く食べてしまいがちだ。これにより満腹感を得られない。結果、ただでさえ高カロリーなジャンクフードの代名詞を食べ過ぎてしまうことになる。 
第二に「誤った食事パターン」について。真っ先に思いつくのがパソコンの普及だ。いつでもどこでも仕事や遊びができるようになった。昼夜の概念がなくなり、3食リズムが崩れる。深夜遅くまで起きて朝は何も食べない人が増えた。そして逆に深夜に食べてしまう。よく◯時以降は何も食べないのがよい、といわれるとおり、夜は腸の動きが活発になり、食べたものが吸収されやすくなる。まして体は動かさない割に脳はフルに使うので糖分が欲しくなり、ついつい高カロリーの洋菓子を食べるなんてことはないだろうか。
第三に「運動不足」について。ただでさえ交通機関の発達により自分で動く機会がなくなったというのに、またここでもパソコンの普及が関係する。買い物も調べ物も椅子に座ったままでできるようになった現代、一歩も外に出ずとも生活できるといっても過言ではない。便利な生活になったことで浮いた時間を非日常のスポーツに回すといったことが必要だろう。
これらをまとめると、「忙しい生活」が現代に肥満をもたらしているのではないだろうか。ケータイやパソコンが日常生活に溶け込んだことで、公私の時間の区別が曖昧になり、昼夜かまわず何かに追われる日々になった。休む暇もなく、理想的な食事をとることできなくなっていると考えられる。

また、この3点に加えて「料理にかける時間」の変化も関係しているのでは、と考えた。
昔に比べて食事の種類は豊富になり、多様化した。人気は高カロリーの肉、塩や脂肪分をたくさん含んだ洋風の食事。しかし、代わりに廃れてしまったのは日本食。健康維持に役立つミネラルや栄養価を多く含む日本食だが、あいにく調理に時間がかかる。茶碗蒸しのように微妙な火加減が必要なものや絶妙な調味の加減が必要なものなどなど。その点洋食、フライ系調理は楽で早い。
晩婚化の現代、独りで暮らす人が増えたと思われる。結婚していたとしても、共働きがままある。安く済むとはいえ自炊で料理に時間をかける人は少ないのではないだろうか。なかには弁当系男子というイレギュラーなブームがあるようだが、身の回りをみるに自炊した残りを弁当にもってくる人はほとんどいない。 自炊しなくても生活できる便利な時代なものだ。楽なインスタント食品、カップ麺、レトルトカレーなど一人暮らしの、とりわけ学生にはありがたいものが溢れている。また、コンビニの弁当も添加物たっぷりなだけあって美味しく感じてしまう。外食だってそうだ。だが、これらも例にもれず低栄養価・高カロリーである。
 楽で手早く済ます食事を求めるあまり、私たちは即・肥満につながる食事を行っているのではないか。「忙しい生活」の日々であるが、健康で生きるために、ゆっくりとした食事をとってみてはどうだろう。


参考文献:「食と生活」1984年発行




グループ討論のまとめ&感想
 メタボリックシンドロームがなぜ問題なのか。それは生活習慣病と密接な関係があるからだ。
もじどおり日頃の生活習慣が悪いことで起きる生活習慣病は、同じく生活習慣の悪さが原因の大部分を占める肥満によって目で見ることができる。生活習慣病には糖尿病・高血圧症・動脈硬化症・高脂血症・脳卒中などから脳梗塞、心筋梗塞といった死や後遺障害が残る重大な疾患まである。メタボによってこれらが引き起こされる、というよりこれらを引き起こす悪い生活習慣の結果メタボになったというのか。いずれにせよメタボリックシンドロームは改善するべきに越したことはない。
 では、どうやって肥満を解消し、メタボから抜け出すのか。それは適切な運動、適切な食事、規則正しい生活をすればよい。具体的には、1日3食規則正しく食べる・ゆっくり食べる・ゆっくり食べる・ながら食いをやめるといったことを意識して実行していかなくてはならない。また、飲酒や喫煙も避けるのが理想だ。ストレスの捌け口でよく使われる方法の二つだが、スポーツやウォーキングなど、肥満を防ぐ解消法に切り替えていけば一石二鳥である。
 しかし、理想の生活ができない故の生活習慣病である。口でいうのは簡単だが、実行はなかなか難しい。正直そんなの知ったこっちゃないと思っている学生が大半だろう。
 ここでひとつ提言する。「ストレスを感じない生き方をしよう」と。ストレスは過食・飲酒・喫煙と肥満を引き起こす元であるし、ストレス自身も生活習慣病の原因だ。病は気から、自分はメタボだと鬱屈していては体が弱ってしまう。いかにもメタボ体型なのに明るく健康的に生きている人も多いではないか。脂肪の多さがそのまま死亡に繋がるわけではなかろう。たしかに、忙しくストレスを感じやすい現代社会ではあるが、ストレス(・・・・)を感じたらストレ(・・・)ッチをす(・)るなどして、体をいたわってあげるのが精神的にも肉体的にも健全ではないだろうか。せかせかしない生き方こそが健康な体を作るのだと思う。

参考;生活習慣病の原因と予防 http://www.heiz-west.com/



銀イオン

消臭・殺菌効果があるとされる銀イオン そもそもその仕組みがよくわからないのだが
お仲間の銅は10円玉を花瓶にいれておくといい、などお婆ちゃんの知恵袋的に使われている
しかし、なんでも濡れるとその力は失われるらしい
では、巷に溢れる銀イオン配合の靴下・タオル・ボールペンとは一体どの根拠があるのだろうか
汗や皮脂をもろに受ける製品たち
本当に消臭・殺菌されているのか?

むしろ溶けた消臭・殺菌成分が皮膚を介して口の中に入ることもあるそうで
世の抗菌グッズとはなんなのか、という疑問

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法学の諸問題

法学レポートで色々調べたさいに参考にしたサイトを大胆紹介

医療現場における監督責任



NHKインサイダー取引



危険運転致死傷罪


離婚後300日問題




ミネラルウォーターの化学


3.はじめに
以前、ミネラルウォーターについて研究した本を読んだことがある。そこでは、ミネラルが体に良いと述べられていたが、正直まゆつばである。水に溶けているわずかなイオンの違いで健康によい悪いがあるのだろうか。ミネラルが体のなかでどのようなはたらきをするのか興味をもった.これがミネラルについて調べた理由である。

4.本論
人間の体の95%は、炭素(C)、水素(H)、酸素(0)、窒素(N)などがつながった有機物で成り立っている。無機物(無機化合物、鉱物)が占めているのは残りのたった5%だけ。 しかし、ほんのわずかでも体に大きな影響を与えるのが無機物(以後「ミネラル」と称す)である。
ミネラルは、生命維持に欠かせない五大栄養素(他にはタンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン)の一つでもある。ミネラルは体内では生成されないため、食品から摂取しなくてはいけない。カロリーはなく、ビタミンと同様に、酵素の活性も助けている。
ミネラルには約100種類あり、必須ミネラルだけでも現在16種類とされている。少々風呂敷を広げ過ぎなので、身近なミネラル摂取の機会であろうミネラルウォーターに含まれるものに焦点を絞って調べた。
水に含まれるカルシウム塩とマグネシウム塩の量の指標(硬度)が一定水準より少ない場合を軟水、多い場合を硬水という。一般的にナトリウムの含有量が多いとしょっぱく、マグネシウムを多く含めば苦味が生じる。カルシウムを取り過ぎるとマグネシウム不足を起こすため、マグネシウム:カルシウムが1:2という量がよい。しかし、体に良いイオンのバランスでも、美味しさの点ではバランスが悪いこともありうる。
ミネラルは身体に入ると、血液と混ざり、血液の流れをスムーズにする。また、溶媒である水の分子は小さいために、体の細胞の隅々まで行き渡る。これらによって、血液の働きを助け、酸素や栄養を運び、私たちの体を元気にしてくれるというわけだ。食物の消化・吸収、老廃物の排出、体内の酵素の活性化を助ける、体内の体液量や酸・アルカリの調整など多くの仕事をしてくれるようだ。

 ミネラルウォーターを構成する主なミネラルについて表にまとめた。


5.まとめ 
イオン 働き 他に含まれる食物 備考
|カルシウム|骨や歯の組織を形成血液凝固作用心筋の収縮、|干しエビ、煮干し、ワカサギなどの小魚類、|欠乏すると、発育不良や骨粗鬆症の原因となり、歯や骨が弱くなる。
神経の鎮静トリプシンなど酵素の活性化作用 チーズなどの乳製品 ゴマ、脱脂粉乳、ワカメ、コンブ、緑黄色野菜など。 神経過敏になりやすい。高血圧、動脈硬化の原因にも ビタミンCやDが不足すると体内吸収が悪くなる。
|マグネシウム|骨格形成を促進
精神安定作用酵素の働きを活性化糖分をエネルギーへと変える役割ホルモンの分泌に関係|貝、魚、肉類、豆腐、小麦胚芽、玄米、アーモンド、ピーナッツ、きなこ、ソバなど。
天然塩 |ストレスなどで欠乏しやすくなり、カルシウムを定着させにくくする
ビタミンの吸収には不可欠。
食品の加工や調理の過程で約8割が失われてしまう|
|カリウム|神経や心機能の調整
利尿作用
細胞内液の浸透圧の調整など。
神経伝達や筋肉の収縮にも大きく関係|バナナなどのくだもの、パセリ、ほうれん草、ジャガイモ、ブロッコリー、ニンニク、魚、アーモンド、ピーナッツ、干しブドウ、肉類など。|欠乏すると、腸閉塞や、味覚、筋力、反射機能の低下を招く。
疲労感も|
|ナトリウム|浸透圧の調整
PH(ペーハー)を正常に保つ。
筋肉や神経の興奮性を弱める。
発汗と同時に排出される|食塩、塩辛、しょうゆ、みそなど 欠乏すると、胃液の減少、食欲減退、倦怠感、精神不安定など。筋肉痛の原因になることも
取り過ぎても高血圧を招く恐れがある|


  • 人間の体の95%は、CHONなどによる有機物で無機物=ミネラルは5%ほど
  • ミネラルは体内では生成されない
  • ミネラルは酵素の構成成分になったり、酵素の働きを助けたり。
  • ミネラルは血液と混ざり、血液の流れをスムーズにする。
  • ミネラル同士で働きを打ち消し合う作用のあるものも
  • わずかだがバランスが大事

6.感想
ミネラルという文字がゲシュタルト崩壊を起こした。
アルカリイオン水
なんてものが売られており、 
ご飯をアルカリイオン水で炊くと非常においしく炊きあがりも早い
体内の活性酸素を除去してくれる
などの効能が謳われているが、
カルシウム・マグネシウム・カリウム・ナトリウムはどれもアルカリ
(土類)金属元素であることを考えると、あながち効能は嘘ではないのかも、と思える。
水中のイオンがごはんつぶの浸透圧を調整したりPHを調整したりによって旨みを引き出すのかもしれない。
 しかし、本当はミネラルが体内でどんな「化学反応」をすることで、体に良いのかを調べたかった。いろいろ文献を探してみたが、酵素の働きを助ける、ヘモグロビンと結合して働きを助ける、などの記述はあるものの、具体的な「なぜ、どのように助けるのか」はわからなかった。これにはたとえば酵素の成分は何か、ヘモグロビンを構成する元素は何か、といった生物と化学の両方の深い知識が必要なのだと痛感した。
人間も元素で出来ている以上、ミネラルによって体調が変化するというのは確かだろう。
生物はもちろん、食べ物だって元素で出来ている。食事は元素を吸収するはたらきとも言えるのだ。そうして体内に取り込んだミネラルのはたらきについて、生物の視点からアプローチできるようこれから知識をつけていきたい。

7.参考文献など
細胞・身体・栄養素・酵素と健康・老化・病気の連鎖http://www.revo2030.net/revive/
ミネラル早わかりガイドhttp://www.bolexcinema.com/

最終アクセス日 2011/07/31




『人間と遺伝子の話』の読書感想文


9話 他人に親切にする理由

<要約>
 生き物の進化に理屈付けをしたウォレスとダーウィンの「自然選択説」には生き物に多様性を与える「変異」やそのものとなる「遺伝子」の知識が欠けていた。これにメンデルの遺伝の法則と遺伝を支配する要素についての知識を加えたのが今の自然選択説を作っている。
自然選択とは、同じ種の個体たちが「選択の篩」にかけられたとき、ふるい落とされた個体は子孫を残せないで、ふるい落とされなかった個体が子孫を残していくということ。「種」の違う生き物のあいだの押しのけあいではない。「弱肉強食」とも違う。肉食獣が好むのは草食獣の肉で、草食獣が好むのは草というように、仮にシマウマが肉食性だとしてもライオンを食べたいとは思わない。シマウマがライオンに襲われず生き残ったのは、いつも群れの内側で行動するようにして、かつそれを実行できた個体である。「運も実力のうち」こそ「選択のふるい」の真骨頂であるといえる。
 このように、自然選択や進化によって、その環境に適した遺伝子が集団のなかで増えていく。こうして以下のような「利己的な遺伝子」が残っていく。
1. 遺伝子には、(ほかの遺伝子を押しのけてでも)自分自身を増やそうとする性質がある。
2. 生き物(の個体)とは、遺伝子が自分のコピーを最大に増やせるようにつくりあげた道具だ。だから生き物の個体は、それをつくった遺伝子の利益になりそうな利己的な行動をする。
3. まれにみられる、別の個体の利益になりそうな利他的な行動には、自分の遺伝子を増やそうとする意図が隠されている。身内びいきも子育てもその表れ。
しかし、働きアリや働きバチは、女王に対して一生を奉仕活動に捧げる。実は、働きバチと女王バチのゲノムはおなじなのだが、育つときの栄養の違いだけで女王とそれ以外にわかれてしまう。ここでE・O・ウィルソンは「同じゲノムをもっているなら、女中ハチだって交尾して自分のこどもを産めるはずだ。なのに、なぜそうしないで、一生奉仕し続けるのだろう。」と考えた。自分自身の遺伝子を残さないように行動させる遺伝子が、なぜ自然選択でふるい落とされないのか。
 その答えとなるべく、「生き物は血縁の近さに応じて助けあい行動ができる」という仮説がある。つまり、血縁の近い個体を大勢助ければ、「ソイツらの生き残りで、自分の消滅を帳消しにできるから」、ハチやアリはそのような行動をとっているのでは、と考えることができる。そうすれば、自然選択という選抜試験の場において、自分の遺伝子には受験の機会を与えず、女王に尽くす、ハチやアリの奉仕の遺伝子が自然選択に耐えてきたことに説明がつく。「自然選択の試験では、自分の体よりも、自分の遺伝子の生き残りを優先するような個体が合格しやすい」のだ。
<考察>
 この章のタイトルは「他人に親切にする理由」だが、本文で直接は触れられていない。
しかし、文の内容から鑑みるに、アリやハチが奉仕的に生きるように、人間も利他的に生きるのは何も自然に反してないということを言いたかったのだと思う。
「情けは人のためならず」の言葉があるが、他人に親切にすることが、結果として自分の遺伝子を残すのに都合がいいと遺伝子に刻まれているのだろう。
考えてみよう。全ての人間が利己的な行動しかとらなかったらどうなるか。まず、子育てをしなくなる。「利己的な」視点で見ると、赤ちゃんを育てる行為は無償の奉仕だ。何の利益にならない。よって、すぐに人間という種が途絶えるのは用意に想像できてしまう。
人間の赤ちゃんは哺乳類の中でもとりわけ自立するまで時間がかかる。シマウマが生まれてすぐに立って歩けるのに対して、人間は親のもとで丁寧に育てられて、立てるようになるのは数年でやっとだ。そんな圧倒的に繁殖に不利な条件でも、このように繁殖し続けているのは、外敵に晒されない安全な環境を自分たちで築いたことと、利他的に行動をする遺伝子があってのことだと思う。他人に優しく、赤ちゃんに優しくすることで、大事に大事に遺伝子を伝え、残していったのだ。
このように、助けあいをすること、他人に親切にすることは、人間を人間たらしめている遺伝子によるのだと思う。「利己的な遺伝子」という言葉にかこつけて、人間が環境破壊をするのはその仕業だ、なんて暴論はいけない。人間は元来他人に優しくできる生き物である。その遺伝子に従っていこうではないか。


10話 生き物と利己主義

<要約>
 利己主義とは、「見かけはどうあれ、他人の都合なんか考えずに、自分さえ良ければいいっていう自分本位の考えや行動」である。
生き物の行動は、基本的に自分本意である。死なないよう、とにかく自分を生き延びさせようとする身勝手こそが生き物の基本だ。ヒトは互いの自分勝手さを許せる度合いに納めておくため、集団ごとに掟や規則を作る。が、生き物である以上、自分本意な行動をしてしまう。
 人間が抱く最大の欲望は「不老不死」である。しかし、有性生殖=遺伝子組換えをし、酸素を利用して呼吸する限り、廊下を止めることはできない。そして、死も避けられないのである。そのため、せめて健康でいようと、病気は治そうとする。ここで、病気を治して長生きしたい患者と、ヒポクラテスの誓いに基づき延命を至上とする医者との両者の利害が一致し「延命作業」が行われる。
 「延命作業」の一例に、臓器移植がある。体の他の部分に比べて痛みや衰えが激しい臓器があるなら取り替えたい願望のためだ。これには、今のところ第三者の、同じ「ヒト」から臓器を貰うしかない。この臓器移植を成功させるために脳死が定められた。
 しかし、脳死による臓器移植手術の裏には人種差別によって現れる人間のあくどい利己主義が現れていた。白人患者への臓器提供元を確保するために、黒人市民が、「交通事故」と銘打たれて殺されていたのだ。黒人を人としてみていない患者の利己主義のためである。また、医者のほうも手術を成功させる功名心という利己主義的な考えによって、差別をままとしたのかもしれない。
 差別の例として、凄まじい人間の利己主義の実例がある。フォートピット砦攻防戦で、イギリス守備隊が、砦を包囲したデラウェア族に対し天然痘病棟の毛布二枚とハンカチ一枚をプレゼントした。そのせいで、天然痘がたちまちデラウェア族に広まり、ブドウの房が落ちるようにばたばたと死者が出て、筆舌に尽くしがたい光景にしたという。今の言葉で言う生物兵器である。戦争のため、自分の国のためなら、他民族の大虐殺をよしとしてしまう人間の怖いところだ。
 このように、生き物の利己主義という「理系」に思われるテーマは、意外にも政治や経済という「文系」の典型話題に繋がるのだ。

<考察>
先の章で、『人間は元来他人に優しくできる生き物なのだ。』と述べたが、時に人間は利己主義にかまけてとんでもないことをしてしまう。
一人の命を長引かせるために、他の一人の命を奪うことが起きていた臓器移植。生物兵器による他民族のジェノサイド。肌の色や目の色といった些細な違いを大きな違いとみなし、ヒトは過ちを繰り返してきた。
同じヒトという種であるのに、なぜこうも殺しあってしまうのか。たしかにカマキリなど共食いをする生物は他にもいる。が、人間は生きるため食べて殺すのでもなく、ただ殺すために殺す。これはヒトの種だけに見られる悲しい特徴であると思われる。
同種内での「運も実力の内」である「自然選択」の性なのだろうか。自国の敵である部族を排除すれば自分の遺伝子を残せる考えなのだろうか。いや、違う。これも先の章で述べたように、ヒトがヒトを殺める仕組みは遺伝子に刻まれているわけではないはずだ。人間が後天的に創りだした「文化」によって、遺伝子に反する、行き過ぎた利己主義がはたらいてしまうのだと思う。ヒトが勝手に「文化」を作って勝手にそれに則って戦争や紛争を起こす。なんとも不毛なことではないか。
 元来、人間は利他的な行動によって遺伝子を残そうとできる種のはずだ。情けは他人にかけることで巡り巡って自分に良いものをつれて返ってくる。現代は昔ほど差別が酷くはないではあろうが、未だ残っているのは確かだ。人間が勝手に作った「違い」による差別など忘れ去って、互いに思いやり、尊重し会える社会が理想である。過度な利己主義に注視し、生き物の自分本意な行動と上手く付き合っていくべきだろう。


11話 人間の尊厳と科学の進歩

<要約>
 ハックスリーは彼の小説「Brave New World」にて、新世界を予言した。ここでのbraveの意味は「勇敢」でも「素敵」でもなく、「野蛮」。軽蔑されるべき意味である。とどまることの知らぬ着快文明の発達が行き着いた先、人間が自らの尊厳を見失う逆ユートピアの姿を諧謔と皮肉の文体で描いてある。
 物語の始まりはフォード632年。ベルト・コンベア式の流れ作業による、大衆車の大量生産の時代だ。自動車のコストを下げるため、単調な作業を一日中繰り返す「流れ作業」の工員を集めた。今ではロボットがやる作業を人間にやらせる「非人間性」に、人間の尊厳はどこへいってしまったのだろう。
 技術の発達で、人間の生殖もコントロールできるようになった。体外受精とクローン人間の作成だ。体外受精の成功率を上げるための「人工子宮」の研究は、現代日本でも進められている。超未熟状態で生まれた早産児を救うことを目的として、羊水を満たした合成容器の中に入れて、へその緒を生命維持装置につないで生育を助けるのだ。また、受精卵の着床を人工子宮で研究しているところもある。この2つの技術がドッキングすれば、人工子宮でこどもをつくることが可能になるかもしれない。代理母出産問題にて「生まれた子の母親は出産した女性」との判断がくだされたが、これを適用すると「人工子宮が母親」な子供が生まれてしまう。
 人間は、ヒト自体の能力を拡張することにも夢中である。筋肉増強剤、赤血球増産薬で運動能力を。美容整形で見た目を。そして優勢思想に基づきノーベル賞受賞者精子バンクをつくり、脳を(これは失敗したそうだが)。優秀な人間になろう、つくろうとする野望は絶えることはない。
 フランケンシュタインという有名な話がある。「怪物」を作り上げてしまった博士は、知識を得すぎたことを後悔した。たとえ動機は無邪気な功名心であったとしても、人類にとりかえしのつかない災禍をもたらしてしまうかもしれない。同じように、原爆製造の死期をとったR・オッペンハイマーもこう語る。「結果を目の前につきつけられた後でなければ、人間は自分がしようとするコトの重大さを理解出来ない。自分もその一人だった。」科学の進歩は魅力的だが、時にはそれを制限しなければならないのだ。
 現実の世界は、先のハックスリーの小説での予言に近づいている。これらも、「勤勉」な努力の賜物だ。そして、勤勉さは資本主義への流れを産む。資本主義を象徴するマーケットでは、自己責任が基本だ。自己責任とは、自由でもあるが、そのぶん保証してくれるものはない。社会的な強者と弱者の差をよりはっきりさせてしまうおそれがある。
 人間の探究心は止められないが、ホドホドで満足するよう心がけたいものだ。何事もトコトン極めようとしてはいけないのだ。

<考察>
資本主義は医療の世界にも進出している。ヒポクラテスの誓いの頃は、医師から授かる恵みだった医療が、今では医療技術者から買うサービスに変わったのだ。
市場原理がはたらくということは、基本は自己責任だ。その例として、インフォームド・コンセントがある。表向きは「医学的処置や治療に先立って、それを承諾し選択するのに必要な情報を医師から受ける権利」だそうだ。だが、裏をかえせば、「説明は充分したのだからあとの責任は負いません」という意味もありそうだ。この考えが生まれたのはたしか訴訟大国アメリカなのを考えるとあながち間違いでは無いような気がする。
そもそも、専門知識のない一般市民に丁寧に最新技術を説明したところで理解してもらえるはずがない。結局のところ、有無も言えずただ承諾を選ぶしか無い。一見、弱者である市民を救う権利に見えるが、それは医者にとっての免罪符ではないのか。
とはいえ、やはり外国産のインフォームド・コンセントがそのまま馴染むわけもなく、日本では自己責任を押し付ける動きは少ないようだ。医者と患者の医師疎通の場として、上手くアレンジされて馴染んできたと思われる。これも、ホドホドの心がけなのだろう。
ホドホドの心がけは医療技術の場では特に重視されなければならない。これは一般にいう「倫理」と呼ばれる。技術の発達を倫理の視点で制限することが求められるのだ。技術がいきすぎてしまうと、精子バング、体外受精、人工子宮の流れで、実験室だけでこどもをつくることが可能になる。機械的にヒトを量産することもできるかもしれないのだ。そうなったら、もはやヒトはヒトなのだろうか。生殖によって遺伝子を残していく、という大半の生物の理を外れてしまいかねない。人類は「神」になるのか。
科学の進歩により、私たちは「人間とは何か」を改めて探求しなければならないと考える。どこからがヒトで、どこまでがヒトなのか。答えは簡単にはでないだろう。あるいは、答えは出してはいけないのかもしれない。過去の人種差別ではヒトがヒトでないとされ、数々の悲劇を産んだ。ここで出した答えによって、また何か差別が生まれることもありうる。やはり、ここもホドホドに留めておくのが無難だ。たとえば、救世主兄弟の技術。無理に急いで救った命が、倫理の糾弾で追いつめられるのは幸せだろうか。まだ、科学の進歩に、それを受け入れる人間が追いつけていない。いったん「待った」をかけることも必要なのではないだろうか。


なんかの感想文

日常と非日常とのつながりを助けるのが宗教だそうだ。ならば、生と死とのつながりをお手伝いするのは医者ではないだろうか。
動物は死期を悟り、自分から身を隠すという。おそらく、弱っている姿を見せることは外敵に襲われる危険があると本能的に知っているからであろう。死に目を見せたくないのか、身を隠した結果そのまま生き絶えるのかはわからないが、いずれにせよ彼らは死を意識している。それが野生界では当然なのだ。
しかし、私たちは日常で「死」に触れる機会が少ない。それは、同時に「生」を感じなくなっていることを示す。水も食料も豊富にあり、安全な人間界。そうそう死を意識することはない。今回の大震災でさえも、味わってから3ヶ月弱、ほとんどの人が前と何ら変わらない日常を生きている。心に負った傷があったとしても、表に出てくることはない。無事に生き続けられることが当たり前の生活に早くも復帰している。
それもそのはず、私たちは日常から死を徹底的に排除しようと努めているのだ。テレビでは凄惨な被害を見せない。実感の薄い数字が飛び交うばかり。悲しむ遺族の姿は見るにしろ、他者の死に共感してくれる人はどれだけいるだろうか。「葬」の文字は死を草で隠す様子を表しているという解釈も納得だ。なるたけ死を見たくない。非日常に押し込む。これが現代の私たちの在り方である。軽々と自分の命を捨てる人が増えたのはこのせいがあるのかもしれない。命に対する重みがないのだ。
その点、医学に携わるからにはたくさんの生と死を見ていかなければならない。死こそが日常だ。隔離された死が一挙に集まってくる。そして、人々に死を意識させる仕事も請け負う。また、生への努力を支える役目も果たさなければならない。責任重大だ。だからこそ、命について真摯な態度でなければならない。命の重みを持ち続ける必要がある。
医大生として、これから膨大な量の専門知識を頭に入れていくことになるだろう。じっくりと命とは何か、どう向きあうべきかなど考える時間はないかもしれない。となると、今この一年が重要となる。様々な分野の学問に触れ、自分なりの考えを深められるこの時期を大事にしていきたい。



『葱』 芥川龍之介


この話を元にした曲をミクさんに歌わせてみたい。
が、この自分の甘い、それこそ大曲ネギのように甘い解釈で世に発表していいのか。
そんなことを考えるとただただ間抜け面でネギを振るしか無いのです。



おれは締切日を明日に控えた今夜、一気呵成にこの小説を書かうと思ふ。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

ここから物語は始まる。いざ読み始めようと思った矢先、世間一般にいう小説の冒頭とは思えなかった。この芥川龍之介の『葱』という作品、なんと「小説を書いている小説家」を書いているメタ的な作品だ。
作品は夢見る若い美人な乙女――お君さんを客観的に、「観察する」様子で進んでいく。内容は今の言葉でいうラブコメ風の作品なのだが、この小説家の存在によりまた違った味が出ている。転んでもただでは起きない、というのだろうか。奇妙な構図から、あくまで冷静で、客観的で、理知的な芥川ならではの印象を受ける。 語り口はさながらテレビのライブ中継のような、実況兼解説がいる感覚で、これまた面白い。まさに書きながら展開や人物像を考えているかのようだ。(もしかしたら、本当にそうだったのかもしれない)

と思うと今度は横坐りに坐ったまま、壁の上のウイル――べエトオフェンの肖像を冷淡にぼんやり眺め出した。

それから翌日の午後六時までお君さんが何をしていたか、その間の詳しい消息しょうそくは、残念ながらおれも知っていない。何故なぜ作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからである。

芸術に憧れ、恋に恋するお君さんは、こともあろうに芸術家の卵であり、恋仲の田中君の前で『葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、「あれを二束下さいな。」と云った。』二人の甘く美しい幻想から、ふいに現実に引き戻される。ああ憐れむべきは田中君。甘美な世界からの現実。このギャップが実に滑稽で笑えてしまう。芥川の綴る文章がこれまで美しさをこれまでというほどに表現していたのはこのためか、と言いたくなる。薔薇や翡翠、琵琶に蜜からの大根、人参、漬菜、蕪、慈姑、牛蒡、八頭、小松菜、独活、蓮根、里芋、林檎、蜜柑である。その中でも、現実感の象徴に葱を選んだのも面白い。確かに独特の匂いがあるし、あの細長くカバンに収まり切らない形状も合間って存在感たっぷりだ。少し思い出しただけで台所や冷蔵庫が頭に浮かぶ。日常を表現する野菜として、他の野菜は葱の肩にも及ばないだろう。
 ユーモラスなお君さんという人物を深く考察してみるのもいいが、何よりこの作品の醍醐味は小説家IN小説の構図だと考える。
果たして、作中の小説家は芥川なのだろうか。
 私はそれほど芥川の作品を読んだことが無いので、答えを出すほどの確信や根拠はないが、今の時点ではおそらく芥川は芥川自身を書いたものだと思う。彼は自身を描くことで、メタ自分をつくり、自分さえも客観的に見ようとしていたのではないか。
文中にしばしば出てくる印象的な言葉に「サンティマンタリスム」がある。これはフランス語で、感傷的な傾向を表す言葉らしい。つまるところ、センチメンタリズムだ。この言葉は芥川の他作品、たしか「羅生門」にも現れた。現代の目からこの下人の行動を冷静に、客観的に見ているということを表すために用いたのだったか。この二作品で、共通するのは「客観」だ。

うっかりしているとおれまでも、サンティマンタアルになり兼ねないぞ。元来世間の批評家には情味がないと言われている、すこぶる理智的なおれなのだが。

まあこのままでペンを擱おこう。左様なら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治されて来給え。

小説家を芥川自身だとすると、この作品はさらに面白い。芥川は自身が批評家に情味がないと言われていることを知って、それをわざわざ文章に残し、批評家に見せつけるようにこの作品を書いた。なんとも挑戦的ではないか。自分は情味のある文章も書けるのだ。だがセンチメンタリズムに飲まれはしない。そんな芥川のどや顔を想像してしまった。
 さて、私は本を読むとはいえ、新書ばかり。小説の類はほとんど手をつけてなかった。というのも、堅苦しい文章に読みにくさを覚えるし、どこか所詮フィクションだという考えがあったからだ。しかし、「葱」を読み、かの有名な芥川龍之介もこのような小説を書くのかという驚きを知った。なんとも人間臭いではないか。青空文庫には他にもたくさんの話が残されている。時間の合間々々にでも、もっと彼の作品を読んでみたいと思った次第である。

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「カウンセリング論」ミニレポート


1) 車輪の国、向日葵の少女 
理由:大学合格後、地元の友人に勧められた作品。いろいろと思い出深かったから。

2) 罪を犯すと懲役に代わり、その罪に応じた「特別な義務」が科せられ、その犯罪者は「特別高等人」によって更生指導される架空の国でのお話。主人公はその「特別校当人」である。複数人の更正を受け持つが、なかでも親権者の命令を強制される「大人になれない義務」を持つ少女の話が印象に残った。

3)  子供がいくつになっても自己決定できない家庭。これはいわゆる機能不全家族に相当するだろう。主人公はプライベートともいえる家族関係に踏み込んで、根本から治そうと尽力する。その具体的方法は、フィクションのため実際にはできそうにないものだが、深いところからほぐしていく姿勢に、実際のカウンセリングと共通するものがあろう。
少女は料理に興味があり、将来は料理の専門学校に行きたいと思っているのだが、親の命令で料理をすることはおろか、台所に近付くことすら許されていない。その理由は、少女が覚えていない小さい頃に親の料理を邪魔してしまい、火傷を負った過去があるかららしい。しかし、主人公がその事件について詳しく訪ねようとすると、どこか避けられる感じを受ける。
(ネタバレになってしまうが)実は、その「特別な義務」を課せられた原因とは、虐待によるものだった。その家族は母子家庭なのだが、父親が虐待をして逃げてきたというよくある話とは趣が異なる。母親にこそ原因があったのだ。虐待は連鎖する。子供の問題を解決するには、親の問題も解決しなければならない場面が多々あると感じさせられた。人間を相手に行うカウンセリングはこういった難しさがあると思う。
主人公は、少女だけでなく、その友人や、親の周囲の人にも聞いて回る。話す態度・表情・口調に気を配り、言葉以外の情報も逃さまいとしていた。口に出したくないことにこそ、大事なヒントが隠れているものだ。最終的には親子ともに、カウンセラーなしで良い関係を築いていけるように持っていかなくてはならない。強制してはいけないのだ。親子揃って人一倍優柔不断であり、主人公がイライラした面もあった。それでも最後はやはり本人たちに決めさせようと我慢。それが見を結び、最後は家族に笑顔が戻った。
今の日本では、モンスターペアレントだったり育児放棄だったり、家族が機能していないケースがよく見られる。その不和に対して、家族単位で支援する人が求められている。子が子の、親が親の役割を演じることができなくなった現代の一面。第三者の専門家にアドバイスをしてもらいたいと悩みを抱える親も多いのではないか。
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最終更新:2012年01月07日 16:29