2012/03/11





一年。

あのとき、簡潔に言って、僕は仙台にて一週間、水道・電気・ガスのない生活をしてました。

今から書き綴る文章は、何もメッセージ性なぞ無い、ただの自分語りです。
逆に言えば僕が引用なしに書く文章であり、ホントの意味での日記でもあります。

あれは現実だったのか、夢かゲームかなにかだったんじゃないかと記憶をねじ曲げようとして、のうのうと平和に生きてる僕ですが、おそらく実在した事件だったのでしょう。
そのことについて書き綴ってたメモがありました。

相対化してみれば、僕が味わったのは日常への些細なスパイスひとかけらに過ぎません。でも、謙虚になっていては、死を経験してからじゃないと何も書くことはできない。
あえて、ここは悲劇のヒロインを気取りたい。それでは、なんの生産性もない物語をお楽しみください。





去年、僕は仙台の予備校に通ってました。住処は電車で15分ほどの予備校の寮。
早々と推薦合格したので、とっとと退寮してよかったのですが、近くの自動車学校で免許をとりつつ、めいっぱい仙台を堪能してたのです。
そろそろ実家に帰るかと思い歯医者の治療も済ませ、荷物をまとめていました。


11日、予備校の合格祝賀会でした。基本夜型なのでいつものように寝坊。急いで電車に乗ります。結果としては急ぐ必要はなかった。
特に式典が行われているでもなく、わいわいがやがや合格した浪人生共が話に花を咲かせてました。
ひとり先に合格を決めてたアレで喜びを分かち合うのもなんだかなーって感じでそそくさこそこそと予備校を後にします。
そもそも自学メインだったし親しい友人がいなかった。

その後、街をぶらぶら。店に立ち寄ってはBGMへの文句をTwitterで呑気に呟いてましたね。
すっごいどうでもいいことだけど、コーヒーを飲みたかったのに甘いフルーツ牛乳的な飲み物を買ってしまい最悪な気分だった。そんなことも覚えてます。

目的も達成したので寮に戻りましょうか。盛岡じゃ使えないSuicaを気取って使い仙石線へ。
地下と地上を一度に味わえて面白い(?)線路なんですが、高架線というのかな。とにかく高い橋の上に苦竹駅というのがあるんですね。
そこに止まると思ったらガタガタガタガタ。今日の運転手は下手だなーと思ったのは束の間。謎の耳障りな音とともに


地震だ。


どよめき。悲鳴。パニック。恐怖。そして少しの高揚感。(おさまった?)少しの安堵が顔を見せたところで第二波が。
余裕もなくなります。橋の上… 窓ガラスの外から橋の継ぎ目が割れて見える。
横転? 倒壊? 落下? 不安がよぎる。

揺れは収まり、車内に「ほっ」と音が聞こえた気がします。とりあえずTwitterに呟きますね。さすがに「じしんなうw」とは言えませんでしたが。
しばらくドアは閉まったまま。え、閉じ込められた?と笑えない状況を想像してたら、ここで降りてくださいとの指示が。電車はストップ。歩いて帰ることに。
目を落とすと線路を支える橋の床が数センチ抜けていました。駅の途中で降ろされ、しかも土地勘がなかったのですが、幸い自動車学校の路上教習で通ったことのあった道でした。
寮まで結構距離はあるけど、なんとかいけそう。しかし寒い。

集団下校ってあったじゃないですか。不謹慎ながらも、ちょっとワクワクしませんでしたか? 
いやーびっくりしたねーなどと見ず知らずの人と話題を共有しながら同じ道を歩く。プチイベントですね。さながら非日常を祝うお祭り気分。
道中に散乱したガラスに気をつけなきゃねーなんて。写メも何枚か撮りました。ヤ◯ダ電機が火事になってたり、信号が機能停止していたり。
物珍しそうにはしゃいでた自分を否定できません。

道中で老婦人に話しかけられました。さて、今の地震の規模はどれだけだったのかな。阪神淡路大震災に比べたら大したことないだろう。建物だってそんなに壊れちゃいない。
機械に強い若者らしく、携帯を駆使して情報を探ります。・・・ネットがつながりにくい。このときは茨城が震度6で、宮城は震度4と書いてあった気がします。
これで震度4? んー橋の上だから揺れたのかなーと話しながら、献身的にも茨城の心配を。今考えるとどんな情報だって話だ。
老婦人は福島住みで、ちょうど宮城の塩釜方面に住む娘さんに会いにきてたようです。

今考えると塩竈って…。


僕の寮は福田町にあります。苦竹から歩いて2.30分だったかな。老婦人と別れます。お菓子をいくつか貰いました。
ときどき彼女を思い出しては心の奥が重くなります。どうだったのかな。知りたいけど、知りたくないかもしれない。


寮に戻るやいなや、寮長に急いで5階(最上階)に行けと促されます。え、な、なに? エレベーターは使えない。階段を昇る昇る。
水道管にヒビがはいったのか、廊下はびちゃびちゃ。顔見知り程度の他の寮生もみんな集まってます。近くの住民も集まって来ました。誰かの持ってきたラジオが騒がしい。
津波? 大きな津波が来るって?

窓から見えるすぐそこの川が逆流! 逆流って知ってますか。逆に流れるんですよ。川が。いざ目にしてみると圧巻。水位がどんどん増していきます。
あわや橋が浸水するところでした。用水路を通して周りの田んぼがゴミを運んだ塩水で汚されていきます。

その時は沿岸がどうなっているかまで頭が回りません。強い余震が続く。そのたびにビクビク。エレベーターがガランガランいってるんですよ。落ちるんじゃないかこれ。
と、とにかく津波の危機は去った(自分のいるところは)。4階にある自室の様子をみます。荷物まとめてるし、段ボールにまとめたし、まぁ大丈夫だろう。
いや甘い。ぐっちゃぐちゃだった。文字通り「足の踏み場がない」状態に失望。

外は空気も読めず大雪です。どんどん積もっていきます。日が沈んでいく。暗くなっていく。電気は点かない。点くわけがない。
部屋の片付けもままならず、どうにか毛布だけもってきて廊下で寝ます。
エレベーター前が広いので、そこを共有スペースに。ろうそくを灯してみんな集まってその場をやり過ごします。
寒いけど、床が痛いけど、一人は心細い。暗いのは怖い。

すっかり暗くなった頃。夜の7時くらいでしょうか。
全然知らなかったんですが、町内会が近くにあるようで。そこから人が来て、こっちに来なと。パックに詰めたご飯も配ってくれました。
そういえばずっとまともに食事をとっていない。朝は寝坊で大急ぎだったので朝食抜き。昼にマンハッタンバーガーを食べてたくらい(とメモにあったんだけどマンハッタンってどんなだっけ)。で
も、不思議なことに空腹感がない。強がりじゃなくて全く無かった。危機的状況に陥ると感覚がシャットアウトされるみたいですね。
結局、貰ったお茶碗一杯分のご飯を食べきったのは3日後でした。

街灯も切れた真っ暗な道を歩き、町内会にいったものの人がいっぱい。とんぼ返りです。情報が錯綜してます。小学校に避難だ。いやもう人が入らない。パニック状態。
まぁこのときに冷静を保っていられるほうが無理ですな。
寮で寝ます。廊下で寝ます。寝付けないけど、大きな揺れに邪魔されるけど、頑張って寝る。

さて、ここからメモが切れたので駆け足で。

日が登って来ました。ようやく活動できる、とはいえ、何より情報がはいってきません。
ライフラインはいつ復旧するのか。被害はどれだけなのか。そもそも今回の地震はどれだけのものなのか。
テレビも無ェ。ラジオはある。車は走れるガソリンが無ェ。ラジオが頼り。とにもかくにも実家に戻りたいのですが、新幹線も動いてない。高速道路も通行止め。
どうしたらいいんだ・・・ 陸の孤島って感じです。電車で15分って結構な距離。 

頼りは携帯電話。でも、電気がない。乾電池を使って充電できるとはいえ、もちろん限りがあります。
無駄にはできない。なのに、アンテナの調子が悪く、家族と電話もメールもままならない。
詳しい仕組みはわかりませんが、電気が通らないせいで基地局もダウンするのでしょうか。バッテリーを大事にしたいのに。気をもみます。

水は一応はなんとかなりました。寮に蓄えがあったようです。でも、飲み水には使えない。各自がペットボトルの買い置きを持ち寄って分け合うことに。
とはいえ色々つらい。風呂は入れないので、ペーパータオルや制汗スプレーで。トイレは極力外で。男子寮だったのでそこは融通がきくっちゃきく。
ちなみに僕の断水経験は三度目です。一度目はグアムでの大型台風に見舞われたとき。二度目は正月八戸の水道管破裂事故。まぁ大変です。
その教訓と節約のためにペットボトルに水をいれておいたのがちょっとした手洗いに役に立ちましたね。

そうこうしている内に外界から人が! 寮を運営する会社からいろいろ物資が届きました。これで飲み食いには困らない。平常時には困るんだけど、非常時には十分すぎた
。でも、外も混乱しているとかの情報が入ってきます。じわじわ絶望の気持ちも広がっていく。別地方で震度7だったともネットで見た。
もしかして、日本ヤバイんじゃないか? 復旧なんてするのか? 冗談ではなく、ほのかに死の気配を感じました。人生1位。
2位は先のグアム旅行。飛行機が飛ばない帰れない。幼心に傷を植えつけた。3位はスキーのリフト。これもガチ。

しかし、あらためて電気がないと何もできないのを感じます。夜6時にはほぼ真っ暗。それから朝6時まで明るくなりません。
半日を寝るしかないんです。部屋は片付いたので、ベッドに寝ることはできます。でも、一人という心細さと、止まない余震で気が気じゃない。
夜空を眺める余裕はない。むしろ雪が降っていたほうが明るくて助かる。皮肉なことです。

そのうち、日中でも感じてくるのは「やることがない。」ただただ、暇。仕事がないってのも苦痛らしいですよね。
どっかの実験だかでは、何もしなくていい快適な空間に人を押し込めたら数日で気が狂ったとか。
気を休めることができないままに、無為に時間を頑張って潰してくしかありません。電気がストップしてるため、紙媒体の娯楽がありがたかった。

近くの工場が火事になってたこともありました。数日燃えっぱなし。だけど夜になるたび十数台の救急車のけたたましいサイレンが鳴り響きます。
きっと沿岸と中心部を行き来してたのでしょう。空襲のサイレンってこんなのだったのかなーなんて思うほど、不安を駆り立てた。

日が進み、mixiを見ると仙台市内は電気も水も復旧してるみたい。羨ましさを憶えつつ希望が見えてきます。次第に親との連絡が付き、寮生も引き取られていく。
なかでも、実家が流された様を新聞の写真で見て失意の某君の両親が迎えにきた感動的な一シーンもありました。

でも、都合よく忘れてましたけど、ものっそい気が立つんですよねあの環境。超絶ストレス下ですから。ささいなことでイラッ。
物食べる時くちゃくちゃ音立てんなよその言い回しむかつくわかってんだよわざとでも明るく振舞おうとしてんだよいちいち気分盛り下げるこというんじゃねぇなどなどああドス黒い!
ついに隣駅の地区に電気が見えた!明日には電気が復旧するぞ!と希望で満ち溢れてたのに、2日待っても電気が来なかった、あの、持ち上げられて突き落とされる感覚は筆舌しがたい。

流れ流れて震災より7日目。やっと自分の地区にも電気が届きました。が、なぜか寮には通ってない? 
気持ちは焦るなか、ちょうど盛岡行きのバスが復活したとの情報をゲット。全部の荷物はのちのち回収することにして、寮を後にすることにしました。
雪が降っていたので厚着をして、荷物もできるだけ詰めて。傍から見ればどこの流浪の民だと言わんばかり。しかも風呂入れてないわけですからね。でもそんなの気にしてられない。
放射能が雪に混じってうんたらなんてよくわからない情報も飛び交ってました。でもそんなの気にしてられない。

このとき知ったんですけど、タクシーってガソリンで動いてるわけじゃないんですね。ガスかなんかで動いてるから、閑散とした道路を割りと元気に走ってました。
タクシーに乗って仙台市内まで。街並みを見て、あーなんだよこいつら結構余裕じゃねぇかとちょっと思った。しかし立入禁止の駅を見てやっぱり尋常じゃないと思い直す。
ここで予備校にお世話になる。充電と、今後の立ち回りについて調べてもらいました。高速バスの仕組みがわかってなかったので不安いっぱい。
というか高速道路が復活したといっても、また大きな地震が来て取り残されたどうするんだって心配もつきまとうわけです。
あれこれ悩んだ末、盛岡に一泊することに。仙台に比べればだいぶ復旧しているようでした。
奇遇にも、震災のちょっと前にお金を引き下ろしてたおかげで、こういうことができました。電気が止まるとATMも多分使えない。現金は常にもっておかなきゃいけないとの教訓。

無事盛岡に。ホテルには風呂がある!一週間ぶりの風呂だ!!そして一週間ぶりのパソコンだ!(ノートパソコンも持ち歩いてた)
実は仙台市内はガスが駄目でお湯がでない家が結構あったみたい。
大変だなーと今までの自分の生活やらなんやらから他人事になれた気がして、いろいろとちょっと生きた心地がしましたね。

そこからはラッキーなことに何事も無く、実家に辿り着きました。


「ただいま」


今まで生きてていちばんですね。

その後、地震の様子、津波の被害をまともに見ることに。信じられない。渦中にいる間ってなんもわかんないんですよね。
隣駅まで津波が来てたとは・・・ゾッとする。でもゾッとするどころか、本当に、来たんだよなぁ…。何事も無く続くはずだった日常が途切れてしまったんだよなぁ……。

そして貴重な電気つかってまで情報ソースとして見てるのTwitterで他人事のように盛り上がってて、さいっこーにイライラしたポポポポーンも目の当たりにしました。
あれ、今でも聴くとトラウマが蘇ってくるからもう、ほんと、恐ろしい。
なんだよこんにちワンって。他のみんな動物名なのになんでお前だけ鳴き声なんだよ。頭湧いてんのか。不謹慎だぞ。


と、平和に軽口を言えるようになって、僕の被災経験は終わりを迎えました。



物語はここまで。
忘れちゃいけないと世間は言うけど、つらい気持ちなんて忘れたほうがいいのかもしれない。
でも、そしたらいつか本当に忘れちゃうかもしれない。これは僕には備忘録。
忘れて、思い出せなくなったら、無かったことになる。
無かったことに、しちゃいけない。


記憶を文章に任せて、平和な日常を呑気に生きていくのです。

ふふ、かっこいい。
最終更新:2012年03月12日 22:15