第陸話 嘘と嗚咽

アルビオンに向かい飛行する飛空船の一室で、ルイズは仁王立ちのまま使い魔に向かって突き刺すような厳しい視線を投げかけた。シンジはベッドに腰を掛けながら息を詰め、じっと床を見つめている。
気まずい沈黙を破ったのはルイズだった。

「ワルドの杖は使い物にならなくなったそうよ……。あんた、メイジにとって杖がどれだけ大切なものか分かってる?もちろん、魔法の発動には必要不可欠。そして、なにより杖は私たちメイジの誇りを象徴するものなのよ。あんたはそれを叩き切っちゃったわけ」

「決闘をけしかけてきたのはワルドさんじゃないですか。自業自得ですよ」

「私、あんたを止めたわよね?どうして私の命令を無視したの?」

「……すいません」

「すいませんで済む問題じゃないわよ!私は主人であんたは使い魔、あんたは私の命令に従う義務があるのよ!わかってんの!?」

シンジの顔に暗い光が燈ると、彼の細い指先がかすかに震えた。

「わかります。ルイズさんにとって、ぼくはただの使い魔ですものね」

ルイズが怪訝そうな顔をする。

「……は?」

「誰でも良かったんですよね、使い魔なんて。別にぼくじゃなくても…。フリッグの舞踏祭の時は、同情であんなこと言ったんでしょ?」

シンジは低い声でそっけなく言い放った。

「ちょ、ちょっと、あんた何を言ってんのよ!!」

シンジは感情を爆発させ、声を張り上げた。

「もういいじゃないですか、勝ったんだから!良かったですね、ルイズさん。あなたの使い魔は伝説のガンダールヴだそうですよ。オスマンさんがそう言ってました。
良かったですね。本当に良かったですね。別にワルドさんがいなくたって、あなたの伝説の使い魔が、きっとあなたを守ってくれますよ」

鳶色の瞳に火花を散らせて激昂したルイズは、自虐的でいやらしい微笑みを浮かべる少年の頬を渾身の力で叩いた。

「少しは冷静になった…?」

シンジは力なく自分の頬を撫で、冷淡な色を浮かべるその顔でルイズを見つめた。

「別に…。ぼくはさっきから冷静ですよ。どうぞ、気に喰わないんだったら、何度でも殴ってください。ぼくはルイズさんの使い魔ですから、ご主人様からどんな仕打ちを受けようと、文句は言いませんよ」

膨れ上がる感情の赴くまま、ルイズは右手を伸ばしシンジの胸倉を思いきり掴むと、彼を無理やり立ち上がらせた。

「このバカシンジ!いい、良く聞きなさいよ…!」

「ええ、何でも言ってください。何でも聞きますから」

「あんたの全てが私のものにならないんだったら、わたし、あんたなんか要らない……!」

「……え?」

ルイズの本意を掴みかねたシンジは眉をひそめる。
ルイズはシンジの反応を無視し、彼の体を床に向かって勢いよく突き飛ばした。
倒れこむ少年に氷の様な軽蔑の眼差しを向けた後、ルイズは扉に向かった。

「今の言葉、心に刻んでおきなさい」

扉が乱暴に閉められ、鳴り響いたけたたましい音にシンジの肩がびくっと反応した。

「そんなに婚約者の方が大事なんですか…」

さっきまでルイズが立っていた場所に向かって、シンジはポツリと呟く。よろよろと立ち上がり、ズボンの埃を払うと、とぼとぼと甲板に向かって歩き出した。一人で部屋に閉じ込もってはいたくない気分だったのだ。

「なんだよ。勝ったのはぼくなのに…。けしかけてきたのはむこうなのに…」

甲板についたシンジを出迎えたのは、船を巻き込むように強く吹き荒れる風と眼下に広がる厚い雲だった。

「アルビオンが見えたぞー!」

鐘楼の上に立った見張りの船員が大声を上げる。
シンジは側弦から身を乗り出し、眼下を覗き見たが目に映るのは白い雲だけである。

「なんだよ、どこにも見当たらないじゃないか」

「どこを見てるんだよ、シンジ」

声の方向に振り返ると、そこには柔らかいブロンドの髪をたなびかせるギーシュがいた。

「ほら、あれがアルビオンだ」

ギーシュの指差した方角を見て、シンジは息をのんだ。巨大としか形容のしようがない光景が広がっていたからだ。
雲の切れ間から、黒々と大陸が除いていた。大陸ははるか視線の続く限り延びている。地表には山がそびえ、川が流れていた。

「驚いたかい?」

「はい、こんなのを見たのは初めてです」

ギーシュは純粋な少年の有様に小さく笑い口を開いた。

「浮遊大陸アルビオン。ああやって、空中を浮遊して、主に大洋の上をさ迷っているんだ。大きさはトリステインの国土ほどある。通称『白の国』」

「どうして、白の国なんですか?」

ギーシュは大陸を見やった。大河から溢れた水が、空に流れ落ちている。その際、白い霧となり、大雨を広範囲に渡ってハルケギニアの大陸に降らすのだとギーシュは説明した。

「ただ、諸説は他にもたくさんある。神々の月、つまり、白き月の影響を強く受けて移動するから、白の国と呼ぶようになったんじゃないかと言う学者もいるしな」

シンジはギーシュの話を聞きながら、ひりひりと痛む頬を無意識に撫でる。
シンジの頬に浮かぶ赤みに気付いたギーシュは微笑みながらそのラインを親指でそっとなぞった。

「これ、ルイズにやられたんだろう。落ち込んで見えるのは、それが理由かい?」

「別に落ち込んでなんか……」

「キュルケが心配してたよ。きみは色んなものを自分一人でしょい込もうと片意地張らせ過ぎてるって」

ギーシュは側舷に両肘を付き、雲によって作られた地平線の彼方を見やった。ギーシュらしくもなく、何事も見透かすような澄んだ瞳をたたえる青年の横顔をシンジは物静かに見つめている。

「女性はいいね……」

「……え?」

「女性は心を潤してくれる。神の造りだした珠玉の極みだよ。そう思わないかい?」

「はぁ」

そうか。この人は正真証明のバカなんだ。
シンジは、少しでもギーシュの言葉に何かを期待した自分を情けなく感じた。

「ぼくにとってはね、女性は薔薇の花なんだ。迂闊に手を伸ばすと、トゲに刺さってしまうこともある。だけど、その美しく咲く様は、常にぼくの心を癒してくれるんだよ」

落ち込んでいる時に、他人の与太話を聞かされること程、たまったものはない。シンジはうんざりしながら、それでもギーシュの言葉に耳を傾けた。

「ぼくの世界は素晴らしいぞ。なにせ、女性が存在しない大地など、ハルケギニアにはないからね。つまり、ぼくの世界は薔薇の園なんだ。目を開けば、そこかしこに咲き誇る薔薇の花が見える。最高だよ」

「……そうですか」

シンジが俯きかげんに小さな声で相槌をうつと、ギーシュは少年を静かに見つめる。
ふと、金色の髪に差す光りに優しさが燈ったような気がした。

「シンジ。どうやら、きみの世界にはハリネズミしかいないようだね?」

息が止まる。心に杭を打ち込まれた様な激痛が走った。

「他人に触れれば、傷つくと思っているんだろ?だったら、自分からは求めない方がいい、そう思っているんだろ?」

「そんなの……、違います!」

「違わないよ。だけど、きみは思い違いをしている。全ての人達がきみを傷つけるためにあるわけじゃない」

シンジはギーシュの言葉に激しい困惑を覚えた。

「きみが望むのならば、きみの世界は、きみが願うように形作られていく。それだけは忘れてはいけない事なんだ」

「……分からないよ、そんなの」

ギーシュは空を見上げ、シンジの肩を抱いた。

「空を見なよ。この透き通る様な青さだけは、いつまで経っても変わることはないんだ。だったら、きみはこの空の下で、きみなりの世界を作ればいい。きみが立ち上がると言うなら、ぼくはいつだってきみに協力するよ。きみはぼくの憧れだからな」

頼むからほっといてくれ、という当惑と、本当に頼っていいの、という切なさの混じった複雑な声色でシンジが呟く。

「ギーシュさん、何を考えてるんですか?」

「何も考えちゃいないさ。きみはぼくの事をバカだと思っているだろう?」

ギーシュはそう言って、愉快そうに首を振った。

「そう、ぼくはバカだよ。きみとの決闘でそれを自覚した。だけど、気付いたんだ。それこそが、ぼくの取り柄なんだってね。だから、損得なんか考えないさ。きみが笑えば楽しそうだって、そう思っただけだ」

シンジの凍てつく心が緩やかに溶かされ、透き通る雫へと、その姿を変える。それが少年の涙として、純粋な瞳から溢れ出すのに、そう時間はかからなかった。

「ギーシュさん、ありがとうございます…。本当にありがとうございます……」

ギーシュは背中にたなびく自身のマントをハンカチ代わりにシンジの涙を拭った。それは、彼の誇りの行き末を示した瞬間でもある。

「辛い時は空を見上げればいい。そして、ぼくの言葉を思い出せ」

シンジは弱々しく頷いた。

「そろそろ、アルビオンに着く。皆を呼びに船室に行こう、もちろん、ルイズのとこにもな」

少年はギーシュの優しさに、涙を流すことでしか応えられなかった。






アルビオン国内で二番手の規模を誇るスカボローの港町は物々しい雰囲気に包まれていた。激しい内戦の渦中にあるのだから、それも当然だ。
しかし、この町も反乱軍に占領されてからそれなりの時が経過し、船長が言うにはこれでも大分マシになっているそうだ。
初号機の威容は街を闊歩する反乱軍の目を否応なく引いたので、シンジは黒マントを羽織り、トリステインの貴族にして高位のメイジという身分を偽ることになった。
港で行われていた反乱軍による検閲の際も、初号機はシンジの使い魔ということで無理矢理通したのだ。
街道を行き交う人々から奇異の視線を向けられることに慣れてしまった一行は道の真ん中を威風堂々といった風体で前に進む。
実際のところは、端を歩くと後に続く初号機の巨大な足が街道に列なる商店の庇や看板を破壊してしまうのではないかという危惧の方が大きかった為なのだが。
ルイズは前を歩くシンジの横顔をちらりと伺った。少年はギーシュとの談笑の合間に時折笑顔をこぼしている。
使い魔の様子が先ほどまでと違うことに、ルイズは聡く気付いていたが、話しかけることだけは憚れた。

『あんたの全てが私のものにならないんなら、私、あんたなんて要らない……!』

なぜ、あんな事を言ってしまったのだろうか。
あの光景を思い出すだけで、恥ずかしさのあまり、ルイズの顔は紅潮せざるを得ない。

「どうやって、王党派と連絡をとればいいのかしら。王都以外の街は全て反乱軍の占領下。その王都も包囲されて陥落寸前なんでしょ?」

キュルケがワルドに尋ねた。

「陣中突破しかあるまい。ここスカボローから、王都ニューカッスルまでは馬で一日だ」

「反乱軍の間をすり抜けて?」

「そうだ。それしかないだろう。まあ、さっきの検閲と同様に反乱軍も公然とトリステインの貴族には手出しはできんだろう。それに、こちらにはこのオーガがいる。そんなに難しいことではないだろうな」

キュルケは緊張した面持ちで頷く。初号機に関わりたくないからだ。
そして、一行を乗せた初号機によるアルビオン大陸大横断が始まった。
時速二百キロメートルで大陸を疾走する巨体がアルビオン中で噂になるのもそう時間はかからないだろう。

「シンジ!」

ニューカッスル付近に陣を敷く反乱軍を目にしたギーシュが叫ぶ。

「飛び越えます!皆さん、しっかり掴まっていてください!」

褐色の肌にも関わらずキュルケが顔を蒼白させた。陣の縦長はおよそ三百メイル。飛び越える、あれを?

「ちょ、待っ……」

キュルケの言葉が終わる前に、スピードに乗った初号機が空を突き抜けるような跳躍を見せた。踏み台にした大きな一枚岩が砕け散り、空気が割れる。

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

ルイズの間抜けな悲鳴が直下の反乱軍陣地にこだました。
巨大な質量が作り出した着地の衝撃に耐え切れず、平原がめくれあがる。慣性に引きずられた初号機の足が長さ百メイルにも及ぶ大きなくぼみを大地に作りあげた。
皆の無事を確認し、シンジは再びニューカッスル目指して、初号機を走らせた。
何が起きたのか、何が現れたのか、常識外れの光景を目の当たりにさせられた反乱軍は呆然と初号機の背中を見送るしかない。
一行の瞳に大陸から突きでた岬が見えた。
その突端には、高い城がそびえている。あれこそがニューカッスルの城らしい。
ニューカッスルまで、あと僅かというところで、遠く離れた岬の突端の上から、巨大な船が降下してきた。
本当に巨大、としか形容できない禍々しい巨艦であった。一行が乗り込んだ貨物船の優に十倍はある。帆を何枚もはためかせ、ゆるゆると降下したかと思うと、初号機目がけて舷側に並んだ砲門を一斉に開いた。

「まずい!!」

ワルドが叫ぶ。
空気を劈くような轟音が響くと巨大な黒い砲弾が初号機に襲い掛り、ルイズは咄嗟にシンジの胸に顔を伏せる。
しかし、初号機の翳した右手から忽然と浮かび上がった赤き発光を伴う六角形の障壁が、全ての砲弾をなんなく受け止めた。

「大丈夫です。顔をあげてください」

他人を安心させる優しさを含んだ声にルイズは素直に従った。

「これは……?」

「以前、説明したじゃないですか。これがA.T.フィールドです」

「……きれい」

A.T.フィールドをぼんやりと見つめる少女の言葉を聞いて少年は笑った。

「そんなことを言う人、ルイズさんくらいですよ」

A.T.フィールドの存在を知らないばかりに、その後も執拗に無駄な砲撃を続ける巨艦に辟易したルイズは使い魔に一命を下した。

「やっちゃいなさい。ただし、墜落させるまでもないわ」

初号機は手ごろなサイズの岩を握り、手の平でそれを二度跳ねさせると巨艦に向かって華麗なオーバースローを披露した。音速で放たれた岩は、シンジの狙い通り艦橋からそびえるマストを立て続けに三本程へし折って、空の彼方へと消え去った。
初号機に再び岩を握らせ、砲撃を止めた巨艦に無言の圧力を加える。
未知なる存在の威圧に屈した巨艦は船首を翻し、慌しく後退した。
パニックに陥った艦内の光景が容易に想像つき、キュルケは小さく呟いた。

「……このオーガに関わったことが運のつきね」

自分もこのオーガに関わってしまった不幸な人間だということに気付いたのは、それからまもなくのことである。
ニューカッスルの城門がジェリコの壁の様になっていたのだ。いくら開門を求めても、返ってくるのはもの寂しい風だけで、それはルイズの身分を明かしても変わりなかった。
もちろん、原因は初号機にある。
禍々しい鬼の様な存在を引き連れる一行の言葉を信用するのは容易ではない。内戦中ならば、なおさらのことだ。

「通れないなら、飛び越えるしかないんじゃないか。まさか、破壊するわけにもいかないだろうし」

話し合いの結果、ギーシュの案が採用され、ニューカッスル城のほぼ中央に位置する美しい庭園も初号機が着地した際に、あらかた破壊されてしまった。
後に残るのは踏みにじられた国花の残骸と吹き飛ばされた木々だけである。まるで王党派の行く末を示しているようで、ルイズはなんとなく気落ちした。
直後、宮廷の入り口から完全武装した衛士隊が現れ、それぞれの獲物を腰から引き抜くと一行に厳しい視線を向けた。

「十秒待つ!杖を捨てろ!」

衛士隊の中で、最も大柄で豊かな髭をたくわえた男が、一行に大声で命じた。
お互いに目配せをした後、一行は素直に杖を捨てた。どちらにせよ、初号機がいる限り、身の安全は保障されている。
あまりにも従順な態度を見せる侵入者に拍子抜けしたものの、髭の男は厳しい顔のまま口を開いた。

「貴様ら何者だ?」

ルイズが毅然とした態度で答えた。

「トリステイン王国がラ・ヴァリエール公爵の三女、ルイズ・フランソワーズです。アンリエッタ姫殿下より、ウェールズ皇太子殿に宛てた密書を言付かって参りました」

「……密書?して、その内容は?」

「貴方は密書の意味をご存じなくて……?他言出来ないからこそ、密書は密書たりえるのですわ」

ルイズの痛烈な皮肉に、髭の男は顔をゆがめ、頬を蒸気させた。
その時、宮殿の入り口から青のマントを羽織った凛々しい金髪の若者が現れ、それに気付いた衛士隊たちにどよめきの色が浮かび上がる。

「皇太子殿、危険です!下がってください!」

金髪の青年は衛士隊を制し、ルイズの指に光る指輪を見つめた。

「彼女が薬指に嵌めているのは水のルビーだ。水のルビーは私の従妹であるアンリエッタが所有するもの……。つまり、彼女らは間違いなくトリステイン王国の大使だよ」

「貴方は…?」

ルイズが訝しげにたずねると、金髪の青年は魅力的な笑顔を端正な顔に浮かべた。

「アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューターだ」

皇太子を名乗る男に向かい一行は慌てて膝をついた。シンジだけ、少し出遅れたのだが、それはいつものことである。
ウェールズは自分の薬指に嵌っていた指輪を外すと、ルイズの手を取り、水のルビーにそれを近づけた。
すると、二つの指輪が共鳴し、虹色の光を振りまいた。

「この指輪はアルビオン王家に伝わる風のルビーだ。水と風は虹を作る。王家の間にかかる橋さ」

ウェールズは壮麗な笑顔を浮かべた。

「ようこそ、アルビオンへ」

ルイズ達は深々と頭を下げる。

「して、密書とは?」

ルイズは手紙をウェールズに差し出した。
ウェールズは、愛おしそうにその手紙を見つめると花押にキスをした。それから、慎重に封を開き、便箋を取り出した。
しばらくの間、真剣な顔で手紙を読んでいたが、そのうちに顔を上げた。

「姫は結婚するのか?あの、愛らしいアンリエッタが。私の可愛い……、従妹は」

言葉の間に走ったわずかの沈黙が心に引っかかったが、ルイズは無言で頭を下げ肯定の意を表した。
再び、ウェールズは手紙に視線を落とす。最後の一行まで読むと微笑んだ。

「了解した。姫はあの手紙を返して欲しいとこの私に告げている。何よりも大切な手紙だが、姫の望みは私の望みだ。そのようにしよう」

ルイズの顔が輝いた。

「さあ、私に付いてきなさい」

ルイズたちはウェールズに付き従い、彼の居室へと向かった。城の一番高い天主の一角にあるウェールズの居室は、王子の部屋とは思えないほど質素なつくりだった。
木でできた粗末なベッドに、椅子とテーブルが一組。壁には戦の様子を描いたタペストリーが飾られている。
王子は椅子に腰掛けると、机の引き出しを開いた。そこには宝石が散りばめられた小箱が入っている。
蓋が開けられると、その内側には、はっきりと彼女とわかるアンリエッタの肖像が描かれていた。

ルイズ達がその箱を覗き込んでいることに気付いたウェールズははにかんで言った。

「宝箱でね」

中には一通の手紙が入っていたウェールズはそれを取り出し、愛しそうにキスをした後、開いてゆっくりと読み始めた。何度もそうやって読まれたらしい手紙は、すでにボロボロであった。
その様子を見守っていたルイズは、二人の関係が従妹の領域を越えた只ならぬものであることを、確信していた。
ウェールズはその手紙を丁寧にたたみ、封筒に入れると、ルイズに手渡した。

「これが姫から頂いた手紙だ。この通り確かに返却したぞ」

「ありがとうございます」

ルイズは深々と頭を下げると、その手紙を受け取った。

「明日の朝、非戦闘員を乗せたイーグル号が、ここを出航する。それに乗ってトリステインに帰りなさい」

ルイズは、その手紙をじっと見つめていたが、決心したように口を開いた。

「あの、殿下……。戦況は芳しくないと街の者から聞いたのですが、実際のところはどうなのでしょうか?」

ウェールズはにこやかに微笑んだ。

「その者は実に優しいな。芳しくないとは、随分とオブラートに包んだ言い方だね」

「と言いますと……?」

「我が軍は三百。敵軍は五万。万に一つの勝ち目もない。我々にできることは、はてさて勇敢な死に様を貴族派の連中に見せ付けることだけだ」

ルイズは深々と頭をたれて、ウェールズに一礼した。

「殿下、恐れながら申し上げたいことがございます」

「なんなりと申してみよ」

「この、ただいまお預かりした手紙の内容、これは……」

ウェールズは、ルイズが言いたいことを察し、困ったように微笑んだ。

「きみが想像している通りだと思うよ。ぼくとアンリエッタは恋仲だった。そして、この手紙は恋文さ。人は嫉妬深い生き物だからね。この手紙が白日の元に晒されたならば、ゲルマニア皇帝と姫との結婚は取り消されるのは間違いあるまい。 そうなれば、なるほど同盟相成らず。トリステインは一国であの恐るべき貴族派に立ち向かわなければなるまい。結果、我が国と同様にトリステイン王室も倒れることになるだろう」

「やはり、殿下は姫と恋仲であらせられたのですね」

「昔の話だ」

「殿下、トリステインに亡命なされては…?恐らく、姫もそれを望んでおります」

「それはできんよ」

ウェールズは笑いながら言い、ちらっと時計の針を伺った。

「さて、今からささやかな祝宴が行われる。君達は我が国が迎える最後の客だ。是非とも出席して欲しい」




パーティーは城のホールで行われた。簡易の玉座が置かれ、そこにはアルビオンの王である年老いたジェームズ一世が腰掛け、集まった貴族や臣下を目を細めて見守っていた。
滅びを前にした宴にしては、随分と華やかなパーティーで、悲壮さはどこにも感じられない。
王党派の貴族達はまるで園遊会のように着飾り、テーブルの上には、この日のためにと摂って置かれた様々なご馳走が並んでいる。
ウェールズが会場に現れると、貴婦人達の間から歓声が飛んだ。若く凛々しい王子はどこでも人気者のようだ。
彼は玉座に近づくと、父王になにか耳打ちをした。
陛下はウェールズに支えられる形で立ち上がり、小さく咳払いをすると、ホールの貴族と貴婦人達が一斉に直立した。

「諸君。忠勇なる臣下の諸君に告ぐ。いよいよ明日、このニューカッスルの城に立てこもった我ら王軍に反乱軍【レコン・キスタ】の総攻撃が行われる。彼らは、ご丁寧にも書状で、その事実を告げてきた。 この無能な王に諸君らはよく従い、よく戦ってくれた。しかしながら、明日の戦いは、もはや戦いとは呼べない。おそらく一方的な虐殺になるであろう。朕は忠勇な諸君らが傷つき、倒れるのを見るに忍びない」

老いたる王は、ごほごほと病的な咳をすると、再び言葉を続けた。

「したがって、朕は諸君らに暇を与える。長年、よくぞこの王に付き従ってくれた厚く礼を述べるぞ。明日の朝、巡洋艦イーグル号が女子供を乗せてここを離れる。諸君らも、この艦に乗り、この忌まわしき大陸を離れるがよい」

しかし、だれも返事をしない。一人の貴族が、大声で王に告げた。

「陛下!我らはただ一つの命令をお待ちしております!『全軍前へ!全軍前へ!』今宵、うまい酒のせいで、いささか耳が遠くなっています!はて、それ以外の命令が耳に届きませぬ!」

その勇ましい言葉に集まった全員が頷いた。

「おやおや!今の陛下のお言葉は、なにやら異国の呟きに聞こえたぞ?」

「耄碌するには早いですぞ!陛下!」

老いた王は目頭を拭い、馬鹿者どもめ……、と小さく呟くと、杖を掲げた。

「よかろう!しからば、この王に続くがよい!さて、諸君!今宵は良き日である!重なりし月は始祖からの祝福の調べである!よく飲み、食べ、踊り、楽しもうではないか!」

ホール内が喧騒と歓声で包まれ、シンジは憂鬱になった。
死を前にして明るく振舞う人たちは、勇ましいというより、この上なく悲しかった。
ルイズはそれよりも感じることがあったらしい。顔を振ると、この場の雰囲気に耐え切れず、外に出て行ってしまった。
シンジは追いかけるべきか迷ったが、ワルドがいることを思い出し、彼を促した。
シンジはワルドの背中を寂しそうに見つめ、床にうずくまった。
座の真ん中で談笑していたウェールズがそんな少年の様子に気付き、声をかけた。

「ラ・ヴァリエール嬢の使い魔の少年だね。気分でも悪いのかい?」

明日に死を控えつつも、他人に気をかける存在が不気味で仕方なかった。
シンジは立ち上がると、気まずそうにウェールズに尋ねる。

「失礼ですけど……、その、怖くないんですか?」

「怖い?」

「死ぬのが怖くないんですか?」

ウェールズは笑った。

「そりゃあ、怖いさ。死ぬのが怖い人間なんているわけがない。王族も、貴族も、平民もそれは同じだろう」

「じゃあ、どうして?」

「大切なものがあるからだ。守るべき大切なもの大きさが、死の恐怖を忘れさせてくれる」

「そうですか……」

「きみにもすぐに分かるさ。きっとね……」

それだけ言うと、ウェールズは再び座の中心に入っていった。
シンジはぼんやりとその背中を見送った。

「大切なもの……、か」




ルイズを見失ってしまったワルドは、前方を歩くメイドに声をかけた。

「きみ、桃色髪の少女を見かけなかったか?」

人気のない暗い廊下は声を良く通らせる。メイドは立ち止まり、眼鏡の影が差す瞳の奥に怪しい光をたたえた。

「やっと、見つけた」

メイドの声には不穏の響きがこもっていた。

「なに…?」

振り返るメイドの右手に月明かりを反射するものが握られていることに気付いたが、予想外のことに反応がわずかに遅れ、首先にナイフを突きつけられた。
百戦錬磨のワルドは、メイドから感じられる殺気が偽りではないことを察し、早々と抵抗を諦め両手をあげた。

「きみは……?」

「オールド・オスマンの使いよ」

ワルドの眉が動く。

「……オールド・オスマンの?こんな仕打ちを受ける覚えはないんだが」

メイドはワルドを厳しい視線で見つめ続けた。

「とぼけたって無駄よ。あなた、色んなバイトに手を出しているようだけど、どれが本職なのかしら。オールド・オスマンはそのことが気になって夜も眠れないそうよ」

「なるほど。全てお見通しってわけか」

ワルドは天井を仰ぎ、小さく息を吐いた。

「しかし、今回の任務は最後までやり遂げるつもりだ。ウェールズ皇太子の暗殺も、手紙の奪還もな。抜かりはない」

メイドはワルドの首元に突きつけたナイフの切っ先を舐めるように滑らせた。そのラインからじんわりと血が滲む。
しかし、ワルドの態度は余裕そのものだ。まるで、この状況を楽しんでいるかのようにも見える。

「この答えじゃお気に召さないのかい?」

「皇太子の命に興味はないの。もちろん、手紙にもね」

ワルドの顔から笑みが消えた。

「どういうことだ……?今回の件は教会の意志だぞ」

メイドがはたと何かに気付いたようで、ぱちんと指を鳴らした。

「そうそう。オールド・オスマンから伝言を承っているの。神様気取りのぼけた老人達へね」

「伝言?」

「『神の導きにより計画の第一段階は終了した。【人類補完計画】は当初の予定通り進んでいる。そして、我々は貴方達の所有する時計よりも上等なものを手に入れた』。一字一句と間違えずに伝えてね」

ワルドは小さく笑った。期待通りの言葉で、内心安堵していたせいもある。

「なるほど、あくまでも教会に抵抗するつもりなんだね、彼は」

「あなたもでしょ?」

ワルドはしばし考え込むそぶりを見せた後、首を振った。

「いや。ぼくは知りたいだけさ。この世界の秘密をね」

「そう、なら勝手になさい。ただし、貴方の存在が我々の計画の障害となった時は……、わかるわね」

「肝に銘じておくよ」

「それとガンダールヴの少年に手出しはしないこと。これを破っても貴方を消すわ」

「……彼に何を期待しているんだ?」

「あなたに話す必要はないわ」

ワルドはメイドの瞳をえぐるような視線で見つめた。

「ガンダールヴルーン、――偽りの聖痕を刻まれた、神でもなく、人でもなく、悪魔でもない異質な存在。そんな奇形の神にできる事なんて、何一つないさ」

ここにきて、メイドが始めて笑顔をみせた。しかし、眼鏡の奥に光る瞳は真剣そのものである。

「奇形の神か。そんな穿った見方もあるのね。貴方、バイトのやりすぎよ。ストレス溜まって性格が歪んでいるんじゃないかしら」

「きみは知らないのかい。五千年前、リリンの時の指導者ブリミルはアダム族による【滅びの時】を阻止せんと、あろうことか悪魔【アスモダイ】と契約を結んだ。 ブリミルは神より授けられた楽園の一部をアスモダイに切り渡し、アスモダイはその見返りにと、生命の実をブリミルに授けた。そして、ブリミルは、彼に生涯の忠誠を誓った第一の弟子ガンダールヴに生命の実を与えたんだ。 しかし、その生命の実は、悪魔の瘴気によって腐りきっていた。本来、生命の実と知恵の実を併せ持つ者は神に等しい存在になり得る。世界すらも変えてしまう力を持つ全知全能の極みに立つことが許されるんだ。 しかし、ガンダールヴは自身の世界を変えるだけの力しか持たない欠陥品にしかなれなかった。リリンの中にはそれを進化の実などと大仰に呼ぶ連中もいるが、勘違いも甚だしい」

メイドは呆れたようにため息をついた。

「三十点」

「え?」

「貴方の回答につけられる点数よ。良かったわね、歪んでいたのは性格ではなくて、貴方の知識みたい」

「どういうことだ?」

「自分で調べなさい。ここまで一人でたどり着いたんでしょ」

メイドはワルドの頬を優しく撫でた後、首筋に走る傷口からナイフを離した。

「ごきげんよう」

そう言って、メイドの姿は闇に消えた。

「待てっ!」

すぐさま追いかけようと足に力を入れたワルドは、いつの間にか下半身まで土くれに埋まっている自分に気付いた。 恐らく、魔法によって練成されたものだろう。
ワルドは完全に手玉に取られたことに気付き、窓の外に浮かぶ月を眺め、薄く笑った。

「……いつの世も、女性は怖いな」





シンジは真っ暗な廊下を、蝋燭の燭台を持って歩いていた。
塔と塔を結ぶ渡り廊下の中ほどに、開けた窓があり月明かりが差し込んでいた。
そこに涙ぐむ一人の少女がいた。桃色がかったブロンドの隙間から垣間見える白い頬を涙が伝っている。月明かりに映え、まるで真珠の粒のようだった。
その美しい横顔と悲しげな様に、シンジはしばらく見とれていた。
ついと、ルイズが振り向いた。蝋燭をもったシンジに気付き、目頭をごしごしと拭った。
シンジが近づくと、力が抜けたように、ルイズは少年の体にもたれかかった。

「ルイズさん……、どうしたんですか?」

ルイズがシンジの頭をぎゅっと抱きしめると、少年の前髪に温かい何かが零れ落ちた。

「いやだわ……。あの人たち……、どうして死を選ぶの?わけわかんない」

「大切なものを守るためだって言ってました」

「なによそれ。愛する人より、大切なものがこの世にあるっていうの?」

「……ぼくには分かりません」

「……早く帰りたい。トリステインに帰りたいわ。この国嫌い。イヤな人たちとお馬鹿さんでいっぱい。誰も彼も、自分のことしか考えてない。あの王子さまもそうよ。残される人たちのことなんて、どうでもいいんだわ」

残される親友のアンリエッタを想うと居た堪れない気持ちになり、ルイズは遂に嗚咽を漏らし始めた。
少女の様に泣きじゃくり、自分を抱きしめるルイズを見る。
この人には泣かないで欲しい。なんとなく、そう思った。
だけど、どうすれば……。
考え抜いて、少年は一つの結論を出した。

「ルイズさんはウェールズさんに死んでほしくないんですね」

「そんなの、当たり前よ……」

「分かりました」

少年の口調が硬いものへと変化したことに気付き、ルイズはシンジの頭から両腕をほどいた。

「ぼくとエヴァがいれば、五万の軍勢も簡単に退けられます」

「何を言っているの?」

ルーンが青く発光していることに気付いた時には、窓枠から現れた巨大な掌が少年を優しく包み込み、ルイズの視界から彼を掻っ攫っていってしまった。

「……行ってきます」

少年の呟く声が、はっきりと聞こえ、ルイズは弾ける様に窓枠から身を乗り出す。
驚異的な跳躍を終えた初号機は、すでに城外にいた。もはや、制止の叫び声が届く距離ではない。
なぜ、私はあの少年にあんな弱音を吐いてしまったのだろう。
なぜ、私はあの少年に涙を見せてしまったのだろう。
あの少年は、人一倍自己犠牲心が強い。ギーシュとの決闘で、私はそれを知っていたではないか。
私が弱い心を見せ付ければ、彼は必ず動く。
確かにあのオーガにかかれば、五万の軍勢を蹴散らすなど容易いことだろう。
だけど、そのオーガを使役する彼は、ちょっと捻くれてはいるけど、誰よりも心根の優しい十四歳の少年なのだ。
私は、彼を止めなければならない。
他ならぬ彼を救うために。

「……弱いご主人様でごめんね。すぐに行くから待ってなさいよ、バカシンジ」

ルイズは涙を拭って、仲間の元へと駆け出した。そこに血塗られた悲劇が待っているとも知らずに。





反乱軍の陣を目指して巨大な影が疾走する。
巨体の左肩に片膝をついた少年は、激しい向かい風を浴びながらも、視界全体に広がる松明の炎を冷静に見据えた。
暗闇に染まった大地を照らす無数の焔は、少年の体を巡る血液を一瞬で凍らせた。自分が対峙しようとしている相手の巨大さをまざまざと見せ付けられたシンジはワイシャツの胸元を左手で握りしめた。
少年の右手に握られた抜き身の長剣が無い筈の口を開く。

「相棒。どうするんだ?」

「決まってるよ、あの人達を止めなきゃ」

「お前さんに人殺しができるのかい?」

剣の言葉に激しい嫌悪感を覚えた少年は露骨に顔を歪めた。

「エヴァにはA.T.フィールドがある。そんなことをしなくても、なんとかなるかもしれない……」

「ならないよ。ああ、なるわけがねぇな」

「そんなのわからないじゃないか」

そう言ってシンジは片刃の長剣を背中に背負う鞘の中にしまった。この剣は、鞘に収められると言葉を失う。
耳に残るのは戦場に吹きすさぶ猛き風の音だけになり、いよいよ敵陣は目前にと迫った。
初号機の姿に気付いた歩哨の竜騎兵が警笛を鳴らす。
松明の炎が慌しく動き始めた。その光景に目を奪われつつも、シンジは周りを包む空気が如実に変化したことに気付いた。湿気を増し、急速に冷却された空気がシンジの肌を刺す。
空気が弾け、何かが爆ぜる様な音が響くと、突如現れた雷撃が激しい閃光を放った。
A.T.フィールドを展開する暇もなく、シンジはほとばしる白き雷の直撃を許してしまった。

「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

全身を駆け巡る衝撃に、声にならない悲鳴をあげる。シンジは焼け付くような痛みに耐え切れず、両膝を落とした。
油断すれば途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、怪我の確認をした。
衣服は焦げ付き、左肩が露出している。注視すると、焼き鏝をあてられたような酷い火傷を負っていた。
もう一度喰らったら、命にかかわるのは間違いない。
シンジはデルフリンガーを引き抜き、辺りを警戒した。

「今のが、なんなのかわかる?」

「ライトニング・クラウド。風系統の高位魔法さ」

「魔法…、あいつか……!」

シンジは、視界の隅にさっきの竜騎兵を発見した。月夜に照らされて、右手に木製の杖を握っている姿をはっきりと捉えられた。
シンジは初号機を走らせ、巨大な右手で竜ごと騎兵を絡めとった。

「この人を人質にして、軍を止めよう」

「……は?」

この少年の戦争に対する認識が、一般的なものから根本的にずれていることに気付き、デルフリンガーは呆れるしかなかった。どこの世に、捕虜となった一人の雑兵を救う為、五万の軍勢の進行を止める指揮官がいるというのであろうか。
デルフリンガーがシンジの甘ったれた発案を諌め様とした途端、再び空気が変わった。

「相棒、またくるぞ!」

電撃がシンジの体に伸びた。
成すすべも無く反射的に翳したシンジの左手から、赤き波紋の障壁が浮かび上がった。襲い掛かる電撃を掻き消し、悠然と虚空に浮かぶその壁は、A.T.フィールドに間違いない。
シンジは唇を震わせながら呟く。

「エヴァ……?いや、違う……」

確かに初号機とのシンクロは確立されたままだ。しかし、初号機がA.T.フィールドを展開していないのは、感覚的によく分かっていた。
そして、目の前にそびえるA.T.フィールドは、それよりも、もっと身近に感じられる。

「まさか、ぼくが……?」

「ぼうっとするな、次が来るぞ!」

デルフリンガーの言葉で我に返ったシンジは初号機の左手からA.T.フィールドを展開させ、迫り来る竜騎兵を薙ぎ払った。
竜が地面に向かって緩やかに落ち行くのと同時に、先に展開されたA.T.フィールドは消滅した。
しかし、余計なことを考えている余地はない。
ぐずぐずしている内に、空には大量の竜騎兵が初号機を取り囲むように飛翔し、そして、陸には武装した兵士達がわらわらと群がっていた。

「A.T.フィールド全開!!」

広範囲に展開させたA.T.フィールドを前面に押し出し、波の様に押し寄せる軍勢を喰い止めたその時……。

「そこまでだ、ガンダールヴ!!」

聞きなれた声が響いた。
声がした方に振り向くと、グリフォンに跨るワルドとルイズがいた。
しかし、様子が変だ。

「オーガを止めろ。さもなくば、ルイズを殺す」

シンジは眉をひそめた。

「……どうして?」

鳶色の瞳から透き通るような涙が溢れていることにシンジは気付いた。
そんな彼女は心から悔しそうに顔を歪め、口を開いた。

「ワルドはレコン・キスタに与する裏切り者だった……。ウェールズ皇太子も暗殺されたわ。卑劣な彼によって」

ワルドは残忍な笑みを浮かべ、ルイズの首筋に突き立てたナイフの刃をシンジに良く見えるようにした。

「そういうことだ。ぼくはきみらの敵なのさ。だから、きみに余計な真似をされると困るんだよ」

シンジは呆然とワルドを見上げた。

「裏切ったな……、裏切ったんだな……、ルイズさんの気持ちを裏切ったな……」

力なく呟く少年の左手に刻まれたルーンから鮮やかな青い光が失われ、初号機の体が大地に向かってわずかに沈みこんだ。
ルイズが慌てて叫ぶ。

「なにをやっているのよ!私のことはいいから、あんた一人でも逃げなさい!」

シンジは俯きながら、大きく首を振った。

「……だめです」

「なんでよ!あんた、元の世界に戻ってやんなくちゃいけないことがあるんでしょ!だったら、こんなところで躓いてる場合じゃないじゃない!早くオーガを使いなさい!」

「……だめです」

「あんた、言ったじゃない!そのオーガがあれば、五万人の軍勢だって簡単に退けられるって!」

ルイズは顔を赤くしてまくし立てた。彼女の口から紡がれる悲痛の叫びは、涙に濡れている。

「だったら…! 今ここで…! それを証明して見せてよ!!」

「……だめなんです」

ルイズは遂に本格的に嗚咽を漏らし始めた。

「命令は聞くって約束したじゃない……」

少年は顔を上げ、決意したように口を開いた。

「ウェールズさんが言ってました」

「……え?」

「人は何か大切なものを守るために戦うんだって……。この世界でルイズさんよりも大切なものなんて、ぼくにはありません。だから、駄目なんです。その命令だけは聞けません」

そう言って微笑む少年を、死肉に群がるカラスの様な竜騎兵達が乱暴に組み伏せた。
こうして、ハルケギニア史上最強と称された使い魔は、主人というアキレスの健を握られ、いともあっさりと捕縛されてしまったのだ。
その光景を見守ることしかできなかったルイズは、ワルドの腕の中でいつまでも嗚咽を漏らし続けた。

「なによ、バカシンジのくせに……。バカシンジのくせにぃ……!」




嘘 第陸話

鳴咽


終わり


ギーシュ、大地の
       向
第七話    こ
       う
       に     
  



ヘ続く
最終更新:2007年09月28日 22:48
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