14-577「巨人の歌」

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「ええ、そうです。ここにはアレは出ないし、最初からいないの」 その日、私はたったひとつだけ嘘をついた。 正直に全てを話せば、ひょっとしたら彼の考えを変えられたのかもしれない。 でもしなかった。そんなアンフェアなことは、彼女が一番望んでいないことだから。 私は、時の止まったようなオックスフォードホワイトの空を見上げる。 この空間に、確かにいたのだ。あの茜色に輝く優しい巨人は―――― 『巨人の歌』 自分にその力が芽生えたのは、4年前のことだった。力を同じくする仲間ともすぐに会えた。 そして、私たちに力を与えた「彼女」をこの目にするのにも、それほど時間はかからなかった。 静かな人だな、というのが、私が彼女に抱いた第一印象だった。 しゃべらないという意味ではない。口数に関していえば、彼女はそれまで出会った誰よりも多かったから。 でもその語り口はあくまで穏やかで、機知に富んで、私の心に静かに染み入った。 とても同年代とは思えない、落ち着いたたたずまい。 だから私は敬意も含めて、彼女のことが好きになった。 彼女にはまだ接触しないでおこう、ということになった。そのかわり見守る、それも四六時中。 もちろん抵抗はあった。だれも好き好んで、同年代の女の子を見張りたいとは思わない。 でも、私たちにとって彼女はかけがえのない存在だったし、なにより情報も不足していた。 現状を維持するために静かに彼女を見守る、それが一番いいように思えた。 彼女と話ができなかったのは、ちょっと残念ではあったけれど。   ----------------------------------------------------------- 私たちの前に「彼」が登場したのは、彼女が中三になった春のことだった。 学習塾でたまたま同じ教室になった、中学校のクラスメイト。 ふたりはぽつぽつと話し出し、やがて笑い合うようになり、無二の親友になった。 実際、彼は彼女にとってこのうえない話し相手のようだった。 他の男子には敬遠されがちだった彼女の長口上をごく自然に聞き、 気のない返事をしたり言い負かされたりしながらも、たまに彼女すら驚くような返答をよこす。 そんな時、彼女はとびっきりの笑顔を見せた。 いつしか私も、私の仲間たちも、自転車に乗るふたりを見つめるのが楽しみになっていた。 そんなある日のこと。 私が見たわけではないので伝聞になるのだけれど、 中学校の教室で、彼は彼女にこんなことを言ったそうだ。 ―――おまえ、回りくどくて理屈っぽい言葉遣いを直せばさぞかしモテるだろうに――― 彼女は笑いをこらえながら、恋愛感情なんて精神病の一種だと、いつもの調子で返したという。 えー、それはあんまりじゃない? という当時の私が抱いた感想はさて置いて、 この会話がきっかけになったのだろう、ある変化が起こった。ここではない場所で。 いつものように、私は仲間とともに彼女の空間に向かった。 いままで何も起こったことはないけれど、空間に異常がないかを定期的に見回るのは私たちの慣習だ。 それに、私はこの場所が好きだった。現実感に乏しい、でも暖かな光に満ちた穏やかな世界が。 彼女の心の中のようなこの空間に入れることを、私は密かに誇りにしていたのだけれど… その日、空間に入った私は、そこに一生忘れられない光景を見た。 オックスフォードホワイトの空を背景にそそり立つ、夕焼けのような茜色をした巨人の姿を。 何度も話合いの席を設け、でも決裂に終った組織から話は聞いていた。 もうひとつの空間の主である少女が生み出す破壊の象徴、「神人」のことは。 でも、ここにはそんなものはいなかったし、そもそも私たちは戦う力など持っていない。 思わず恐怖して後ずさりする私たちの耳に、あの「音」が響いた。 ―――それは、巨人の歌だった。 およそヒトの言葉ではなく、男か女かも判然としない不思議な声…でも、私にはそれが歌だと分かった。 なぜって、私はこれほど喜びに満ちた旋律を、いままで聞いたことがなかったから。 あくまで優しく穏やかに、でも高らかに響きわたる歓喜のコラール。 暖かく力強い歌声に満ちたこの空間は、喜びにうち震える彼女の心そのものだった。 彼のたったひと言が、彼女にこれほどの変化をもたらすとは。 いつしか巨人に対する恐怖は解け、私たちはいつまでも、その歌声に聞き入っていた。   ----------------------------------------------------------- その日を境に、巨人のいる風景は彼女の空間の常となった。 普段の巨人は何もせずただそこにいて、私たちも巨人に対して何かをすることはなかった。 でも、巨人がそこにいるだけで不思議と心は落ち着き、私は彼女同様、この巨人も好きになった。 そして巨人は、時おりあの歌を聞かせてくれた。 夕焼けの道を走る自転車の荷台で聞いた、彼がまだ小さかった頃の話に。 バス停までの星空の下、彼が贈った励ましともつかない励ましの言葉に。 昼下がりの教室、借りた本が面白かったと言いながら見せた彼の笑顔に。 何気ない日常の中の小さな輝きに、彼女はあの理屈っぽい口調で理屈っぽく答え、 いっぽうで茜色の巨人は、全身を震わせながら喜びの歌を歌い上げた。 そんな光景を何度か見ているうちに、私はあることに気がついた。 あれほど饒舌な彼女に、なぜ「静かな人」という印象を持ったのか… それは、けっして彼女が本心を明かさなかったからなんだ、と。 本心を伴わない彼女の言葉はなんの刺激も与えずに、私の心にただ静かに届いたのだ。 巨人の歌を知っている私には、彼女が自分を枠にはめているように見え、それがちょっとだけ残念だった。 今になって振り返れば、この頃は私たちも楽しかったのだと思う。 微笑ましいふたりの日常風景に、優しい巨人の歌声。 穏やかな日々に、彼女を観察するのが仕事であることを私たちは忘れかけたけれど、 時の流れは否応なく現実を運んでくる―――彼女は、卒業式を迎えた。 これも、伝え聞いた話になる。 卒業式が終った校門前で、彼女は彼に、こんな言葉をかけたという。 ―――これでお別れだね、キョン。でも、たまには僕のことを思い出してくれよ。     忘れ去られてしまっては、いくら僕でも寂しくなるというものだ。覚えておいてくれ――― また連絡してくれ、とは言わなかったそうだ。 でも私には、自分の枠を精一杯の気持ちで外した、彼女の心からの言葉に思えた。 そして、この日を最後に、茜色の巨人は歌うことをやめた。    ----------------------------------------------------------- 県内でも有数の進学校に入った彼女は、表面上はなにも変わらないように見えた。 新しい友達に囲まれて、勉強にも持ち前の才能を発揮する彼女は、いつも笑っていた。 でも変化はあったのだ。歌をなくした巨人は、まるで何かを待つように虚空を見上げるようになった。 桜が散り、梅雨が明けた。彼からの連絡は来ていない。彼女は笑い、巨人は虚空を仰ぐ。 進学校は短い夏休みに入る。彼からの連絡は来なかった。彼女は笑い、巨人は虚空を仰ぐ。 残暑が終わり、木の葉が色付く頃。まだ連絡は来ていない。彼女は笑い、巨人は虚空を仰ぎ続ける。 そして、冷たい雨が枯葉を濡らしていたあの日。 これは、私が実際に目にしたことだ。 その日、いつものように市内の進学塾に向かう彼女の後を付けて、やや距離をおいて私は歩いていた。 数年前からずっと続いている彼女の観察。今日は私が担当だった。 彼女の正確な歩幅を追いながら、「彼に連絡入れちゃいなよ」とこのまま声をかけてしまおうかと考え、 でも観察者である自分の立場を思い出し誘惑を断ち切ったその時、彼女が止まった。 気付かれた? と目を向けたその先、彼女の視線を横切る形で――― 彼と、もうひとりの空間の主―――涼宮ハルヒが、ひとつの傘に収まって歩いて行った。 ふたりが彼女に気付くことはなかった。彼らが去って、彼女はしばらく呆然と立ち尽くした後――― 何事もなかったかのように歩き始めた。歩幅を乱して。 とてつもない悪寒が、私の背中を走り抜けた。 任務も忘れて反対方向に走り出した私の脳裏に、夕焼けの自転車、星空のバス停、陽だまりの教室… もう戻ることのできない遠い日々の情景が断片的にフラッシュバックし、現れては消えていった。 冷たい雨が肌を刺す。あれ、傘はどうしたんだっけ? …よく分からない。 私は走った、私の大好きな彼女の空間に。私は走った、優しい巨人がいるあの空間へ。 そして、壁を抜ける感覚がして世界が変わり―――私は天に向かって絶叫する、巨人の姿を見た。 あの歓喜の歌がこぼれた口から、こんなにも悲しげな声が出せるのかという声を上げ、巨人は泣いていた。 頭を抱え、巨体を揺らし、大気と、おのれの魂を震わせながら全身で泣き叫び続けていた。 視界が滲む。喉が痛い。ああそうか、私も泣いてるんだ。どうりで頬が熱いわけだ。 大好きだった巨人との別れの時が来たと、子供のように泣きながら私は悟っていた。 やがて巨人は私の前で、体をのけぞらせ、ひときわ切なく叫んだ後、茜色の火花となって砕け散った。 オックスフォードホワイトの空から、茜色の雪が降っている。 クリーム色を希釈したような空に映える、いつか見た夕焼け色の雪が。 その幻想的な光景の下で、私は泣いていた。 巨人のいない、引き裂かれた彼女の心の底で、私はいつまでもいつまでも泣き続けていた。   ----------------------------------------------------------- これも、後から仲間に聞いた話だ。 巨人が消えたあの日、塾から帰った彼女は、自室で号泣していたのだという。 お互いにちぐはぐな行動をとってきた彼女と巨人は、最後の最後で、ともに泣いたのだ。 それがあまりに悲しくて、私はまた泣いてしまった。 その後、私と仲間たちは考えを変え、彼女に対して積極的に干渉することになった。 あれほどの絶望の中でも、彼女の巨人はいっさい世界を破壊することなく、逆に自らを消滅させた。 彼女を神様にしたい、彼女のような人に神様になって欲しい。みんなの思いは一緒だった。 はじめて彼女と話ができた時は、とても嬉しかった。でも、あの巨人のことは彼女には話していない。 自分の心がそこまで覗かれていることが分かったら、誰だって嫌だろう。私だって嫌だ。 まして、誇りすら感じるほどに自分を律している彼女なら、なおさらのこと。 私は自分ができる方法で、彼女にアプローチしていこうと思う。 いつか彼女とあの巨人が、ともに喜べる日が来るように。 だから、今日はじめてこの場所を訪れた彼に向かって、私はこう言うのだ。 「あたしはここにいると落ち着くの。とても平穏で、優しい空気がするでしょう、あなたはどう?」 fin
「ええ、そうです。ここにはアレは出ないし、最初からいないの」 その日、私はたったひとつだけ嘘をついた。 正直に全てを話せば、ひょっとしたら彼の考えを変えられたのかもしれない。 でもしなかった。そんなアンフェアなことは、彼女が一番望んでいないことだから。 私は、時の止まったようなオックスフォードホワイトの空を見上げる。 この空間に、確かにいたのだ。あの茜色に輝く優しい巨人は─── 『巨人の歌』 自分にその力が芽生えたのは、4年前のことだった。力を同じくする仲間ともすぐに会えた。 そして、私たちに力を与えた「彼女」をこの目にするのにも、それほど時間はかからなかった。 静かな人だな、というのが、私が彼女に抱いた第一印象だった。 しゃべらないという意味ではない。口数に関していえば、彼女はそれまで出会った誰よりも多かったから。 でもその語り口はあくまで穏やかで、機知に富んで、私の心に静かに染み入った。 とても同年代とは思えない、落ち着いたたたずまい。 だから私は敬意も含めて、彼女のことが好きになった。 彼女にはまだ接触しないでおこう、ということになった。そのかわり見守る、それも四六時中。 もちろん抵抗はあった。だれも好き好んで、同年代の女の子を見張りたいとは思わない。 でも、私たちにとって彼女はかけがえのない存在だったし、なにより情報も不足していた。 現状を維持するために静かに彼女を見守る、それが一番いいように思えた。 彼女と話ができなかったのは、ちょっと残念ではあったけれど。   ----------------------------------------------------------- 私たちの前に「彼」が登場したのは、彼女が中三になった春のことだった。 学習塾でたまたま同じ教室になった、中学校のクラスメイト。 ふたりはぽつぽつと話し出し、やがて笑い合うようになり、無二の親友になった。 実際、彼は彼女にとってこのうえない話し相手のようだった。 他の男子には敬遠されがちだった彼女の長口上をごく自然に聞き、 気のない返事をしたり言い負かされたりしながらも、たまに彼女すら驚くような返答をよこす。 そんな時、彼女はとびっきりの笑顔を見せた。 いつしか私も、私の仲間たちも、自転車に乗るふたりを見つめるのが楽しみになっていた。 そんなある日のこと。 私が見たわけではないので伝聞になるのだけれど、 中学校の教室で、彼は彼女にこんなことを言ったそうだ。 ───おまえ、回りくどくて理屈っぽい言葉遣いを直せばさぞかしモテるだろうに─── 彼女は笑いをこらえながら、恋愛感情なんて精神病の一種だと、いつもの調子で返したという。 えー、それはあんまりじゃない? という当時の私が抱いた感想はさて置いて、 この会話がきっかけになったのだろう、ある変化が起こった。ここではない場所で。 いつものように、私は仲間とともに彼女の空間に向かった。 いままで何も起こったことはないけれど、空間に異常がないかを定期的に見回るのは私たちの慣習だ。 それに、私はこの場所が好きだった。現実感に乏しい、でも暖かな光に満ちた穏やかな世界が。 彼女の心の中のようなこの空間に入れることを、私は密かに誇りにしていたのだけれど… その日、空間に入った私は、そこに一生忘れられない光景を見た。 オックスフォードホワイトの空を背景にそそり立つ、夕焼けのような茜色をした巨人の姿を。 何度も話合いの席を設け、でも決裂に終った組織から話は聞いていた。 もうひとつの空間の主である少女が生み出す破壊の象徴、「神人」のことは。 でも、ここにはそんなものはいなかったし、そもそも私たちは戦う力など持っていない。 思わず恐怖して後ずさりする私たちの耳に、あの「音」が響いた。 ───それは、巨人の歌だった。 およそヒトの言葉ではなく、男か女かも判然としない不思議な声…でも、私にはそれが歌だと分かった。 なぜって、私はこれほど喜びに満ちた旋律を、いままで聞いたことがなかったから。 あくまで優しく穏やかに、でも高らかに響きわたる歓喜のコラール。 暖かく力強い歌声に満ちたこの空間は、喜びにうち震える彼女の心そのものだった。 彼のたったひと言が、彼女にこれほどの変化をもたらすとは。 いつしか巨人に対する恐怖は解け、私たちはいつまでも、その歌声に聞き入っていた。   ----------------------------------------------------------- その日を境に、巨人のいる風景は彼女の空間の常となった。 普段の巨人は何もせずただそこにいて、私たちも巨人に対して何かをすることはなかった。 でも、巨人がそこにいるだけで不思議と心は落ち着き、私は彼女同様、この巨人も好きになった。 そして巨人は、時おりあの歌を聞かせてくれた。 夕焼けの道を走る自転車の荷台で聞いた、彼がまだ小さかった頃の話に。 バス停までの星空の下、彼が贈った励ましともつかない励ましの言葉に。 昼下がりの教室、借りた本が面白かったと言いながら見せた彼の笑顔に。 何気ない日常の中の小さな輝きに、彼女はあの理屈っぽい口調で理屈っぽく答え、 いっぽうで茜色の巨人は、全身を震わせながら喜びの歌を歌い上げた。 そんな光景を何度か見ているうちに、私はあることに気がついた。 あれほど饒舌な彼女に、なぜ「静かな人」という印象を持ったのか… それは、けっして彼女が本心を明かさなかったからなんだ、と。 本心を伴わない彼女の言葉はなんの刺激も与えずに、私の心にただ静かに届いたのだ。 巨人の歌を知っている私には、彼女が自分を枠にはめているように見え、それがちょっとだけ残念だった。 今になって振り返れば、この頃は私たちも楽しかったのだと思う。 微笑ましいふたりの日常風景に、優しい巨人の歌声。 穏やかな日々に、彼女を観察するのが仕事であることを私たちは忘れかけたけれど、 時の流れは否応なく現実を運んでくる───彼女は、卒業式を迎えた。 これも、伝え聞いた話になる。 卒業式が終った校門前で、彼女は彼に、こんな言葉をかけたという。 ───これでお別れだね、キョン。でも、たまには僕のことを思い出してくれよ。     忘れ去られてしまっては、いくら僕でも寂しくなるというものだ。覚えておいてくれ─── また連絡してくれ、とは言わなかったそうだ。 でも私には、自分の枠を精一杯の気持ちで外した、彼女の心からの言葉に思えた。 そして、この日を最後に、茜色の巨人は歌うことをやめた。    ----------------------------------------------------------- 県内でも有数の進学校に入った彼女は、表面上はなにも変わらないように見えた。 新しい友達に囲まれて、勉強にも持ち前の才能を発揮する彼女は、いつも笑っていた。 でも変化はあったのだ。歌をなくした巨人は、まるで何かを待つように虚空を見上げるようになった。 桜が散り、梅雨が明けた。彼からの連絡は来ていない。彼女は笑い、巨人は虚空を仰ぐ。 進学校は短い夏休みに入る。彼からの連絡は来なかった。彼女は笑い、巨人は虚空を仰ぐ。 残暑が終わり、木の葉が色付く頃。まだ連絡は来ていない。彼女は笑い、巨人は虚空を仰ぎ続ける。 そして、冷たい雨が枯葉を濡らしていたあの日。 これは、私が実際に目にしたことだ。 その日、いつものように市内の進学塾に向かう彼女の後を付けて、やや距離をおいて私は歩いていた。 数年前からずっと続いている彼女の観察。今日は私が担当だった。 彼女の正確な歩幅を追いながら、「彼に連絡入れちゃいなよ」とこのまま声をかけてしまおうかと考え、 でも観察者である自分の立場を思い出し誘惑を断ち切ったその時、彼女が止まった。 気付かれた? と目を向けたその先、彼女の視線を横切る形で─── 彼と、もうひとりの空間の主───涼宮ハルヒが、ひとつの傘に収まって歩いて行った。 ふたりが彼女に気付くことはなかった。彼らが去って、彼女はしばらく呆然と立ち尽くした後─── 何事もなかったかのように歩き始めた。歩幅を乱して。 とてつもない悪寒が、私の背中を走り抜けた。 任務も忘れて反対方向に走り出した私の脳裏に、夕焼けの自転車、星空のバス停、陽だまりの教室… もう戻ることのできない遠い日々の情景が断片的にフラッシュバックし、現れては消えていった。 冷たい雨が肌を刺す。あれ、傘はどうしたんだっけ? …よく分からない。 私は走った、私の大好きな彼女の空間に。私は走った、優しい巨人がいるあの空間へ。 そして、壁を抜ける感覚がして世界が変わり───私は天に向かって絶叫する、巨人の姿を見た。 あの歓喜の歌がこぼれた口から、こんなにも悲しげな声が出せるのかという声を上げ、巨人は泣いていた。 頭を抱え、巨体を揺らし、大気と、おのれの魂を震わせながら全身で泣き叫び続けていた。 視界が滲む。喉が痛い。ああそうか、私も泣いてるんだ。どうりで頬が熱いわけだ。 大好きだった巨人との別れの時が来たと、子供のように泣きながら私は悟っていた。 やがて巨人は私の前で、体をのけぞらせ、ひときわ切なく叫んだ後、茜色の火花となって砕け散った。 オックスフォードホワイトの空から、茜色の雪が降っている。 クリーム色を希釈したような空に映える、いつか見た夕焼け色の雪が。 その幻想的な光景の下で、私は泣いていた。 巨人のいない、引き裂かれた彼女の心の底で、私はいつまでもいつまでも泣き続けていた。   ----------------------------------------------------------- これも、後から仲間に聞いた話だ。 巨人が消えたあの日、塾から帰った彼女は、自室で号泣していたのだという。 お互いにちぐはぐな行動をとってきた彼女と巨人は、最後の最後で、ともに泣いたのだ。 それがあまりに悲しくて、私はまた泣いてしまった。 その後、私と仲間たちは考えを変え、彼女に対して積極的に干渉することになった。 あれほどの絶望の中でも、彼女の巨人はいっさい世界を破壊することなく、逆に自らを消滅させた。 彼女を神様にしたい、彼女のような人に神様になって欲しい。みんなの思いは一緒だった。 はじめて彼女と話ができた時は、とても嬉しかった。でも、あの巨人のことは彼女には話していない。 自分の心がそこまで覗かれていることが分かったら、誰だって嫌だろう。私だって嫌だ。 まして、誇りすら感じるほどに自分を律している彼女なら、なおさらのこと。 私は自分ができる方法で、彼女にアプローチしていこうと思う。 いつか彼女とあの巨人が、ともに喜べる日が来るように。 だから、今日はじめてこの場所を訪れた彼に向かって、私はこう言うのだ。 「あたしはここにいると落ち着くの。とても平穏で、優しい空気がするでしょう、あなたはどう?」 Fin

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