28-896「君は意外に紳士だね」

温泉といえば多くの人が最初に挙げる地名は群馬の草津や大分の別府、次点で岐阜の下呂などだろうが、偶然見ていたTV番組によると実は北海道にも結構な数の温泉があるそうだ。
今思えば、その番組を見た所為だったのだろう。だとすれば、何と素敵な偶然だったのだろうか。
おかげで僕は、一生思い出に残る素敵な体験を得られたのだからね。
それから数日後、彼の志望校から合格通知が届き、僕は彼の慰安と合格のお祝いを兼ねて旅行にいかないかと誘った。
彼が温泉に行きたいなどと高校生らしからぬことを言うので、僕は先日見たTVの内容をそのまま彼に話してあげるたところ、ここから離れられるならどこでもいいと逃避のように零す彼に、僕は苦笑するしかなかった。君は余程疲れていたんだね。
温泉の数が多く且つ知名度の低い場所というのは人が集中しないのでゆっくりできるだろうという僕の私見を彼に話すと、彼は二つ返事で受けてくれたし、その翌日にはご両親の了解も得られたようだ。
例によって妹さんが駄々をこねていたそうだが、僕と二人で行くことを伝えたらご両親が諫めてくれたらしい。
お義父様、お義母様……心から感謝します。くっくっく、今回ばかりは勝たせてもらうよ……妹さん。
ついでに、激励の言葉も貰ったと言っていたが、彼はいまいちよく分かっていないみたいだ。
少しは意識してくれてもいいんじゃないかな?まあ、彼らしいと言えばあまりに彼らしいが……
それからの数日間は旅行の準備に当てられた。
具体的な目的地を決めるために彼と喫茶店でプランを練ったし、必要なものを揃えるために彼とショッピングにも行った。旅行は行く前の準備段階こそが一番楽しいと言うのは至言だね。もっとも、後に認識を改めることになったが。
旅行に行くまでの日はあっという間に過ぎたように思う。楽しいことが時間を加速させると言うのは本当らしい。
当日はキョンが自転車で家まで迎えに来てくれることになっていた。
背伸びして母親に借りた腕時計を何回見たか忘れた頃になってようやく彼が来た。僕は精一杯可愛い格好をして、彼を家の前に出て待っていた。
我ながら少し気合を入れすぎたかなとも思ったが、キョンが開口一番に可愛いなといってくれたことで、僕の心配はどこかへ吹き飛んでしまった。
たったそれだけの言葉でこんなにも舞い上がってしまうとは、僕は自分で思っていたよりも単純な人間だったようだ。いや、君がそうさせるのかな……
「もしかして、待ったか?」
「いや、僕も今出てきたばかりさ。」
外気の所為で少し頬が紅くなっていたかもしれないが、彼はそれに気付いていなかったようでじゃあ行くかとだけ言ってきた。
しかし、背を向けたときに見た彼の耳は真赤だったのは、今になってみると、その時彼が気付かない振りをしてくれた所為かも知れない。
いや、これは深読みし過ぎかな……急いで来てくれたと考えたほうがまだあり得るだろう。まあ、どちらにしても僕は彼の優しさに触れていることを実感できた、その事実こそが僕の胸を躍らせた。
それから、二人して自転車で駅まで行って新幹線に乗り込んだ。
わざわざ新幹線に乗るのは、いくら遠出をするからといって高校生の身分で飛行機というのは贅沢が過ぎるという結論に達したためだ。
まぁ、実際のところ予算が足りないからと言うのが一番の問題だったんだがね。しかし、思い返してみると新幹線だからこそ個室を取ることができたし、狭苦しい飛行機の中では彼との議論に花を咲かせることもできなかっただろう。結果オーライというやつだ。
そうして、彼との有意義な議論が時間をあっという間に消化してしまい、気付けば目的地が目前に迫っていた。
危うく乗り過ごすところだったが、僕は彼と一緒にいられるなら何でもよかったので特に焦りはしなかった。
彼も焦ってはいないようだったが、はたして僕と同じ気持ちでいてくれているかどうかは分からない。
でも、そうだったらいいなと、らしくないことを考えていた自分を決して不快には思わなかった。
そうこうしているうちに僕らを乗せた新幹線が目的の駅に到着し、バス停まで下りてきてから、僕は彼にこれからの行動を提案した。
「さて、まずは宿に行こうじゃないか。」
実は今回旅行については、ほとんど計画を立てていない。見て回る場所の候補くらいは挙がっているが、それをどのように回るかまでは決めていない。
彼曰く、通な旅行の楽しみ方、だそうだ。僕は僕で彼と一緒にいることが重要だったから、特にその計画に反対はしなかった。
「いきなりか?」
「いいかい、キョン……いくら荷物が少ないからといって、いかにも旅行中ですといった格好で歩き回るのは得策ではないよ。」
「荷物が重いならお前のくらい俺が持ってやるぞ。」
「くっくっく、君の心遣いはとても嬉しいよ。でも、僕が言わんとすることはそういう意味じゃないんだ。」
「さっぱり分からんな。俺の出来の悪い脳みそにも分かるように言ってくれ。」
「そう、自分を卑下するものじゃないよ。前にも言った通り、君は優秀な聞き手だ。それに、僕が言いたいのは何も難しいことじゃない。ただの危機意識の問題さ。見知らぬ土地ではやはり犯罪には気を付けるものだよ。自分は旅行者ですと言外に宣伝するのは、ネギを背負った鴨と書いてある札を貼を首から提げているようなものだ。ポケットから覗く観光地図なんかは正にその類だね。」
「旅行に来てまでそんなことに気を遣わなくちゃならんとはな。」
「これは当たり前のことだと思うけどね。一般的に日本人は危機意識が薄い民族だそうだ。悲しいことに、海外などでは犯罪の格好の的になっているのが現状だね。」
「人を信じられる奴が損するなんて、世知辛い世の中になったもんだな。」
「心無い人というのはいつの世にも存在するものだよ。」
「ふーん、そんなもんかねぇ。」
「そんなものだよ…………おっと、バスが来たようだ。」
いつの間にかすぐ傍までやってきたバスに乗り込み、整理券を一枚ずつ取る。
「ほらよ。」
「ああ、ありがとう。」
僕が乗ろうとすると、先に乗り込んだキョンが腕を取ってくれる。最近再会してから意識するようになったんだが、君は意外に紳士なんだね。
そのことをキョンに言うと、彼は当たり前のことだと思うぞと返してくれた。
くっくっく、当たり前のことを当たり前にできると言うのは、実はとても難しいことなんだがね。
意外に混んでいた車内で僕が君と壁に挟まれたようになってるのも、君が僕のことを守ってくれているからだと気が付いた。まあ、僕も一応女の子だし他人と触れざるを得ない満員電車やバスの車内は決して好きにはなれない。
君は本当に紳士だね。それに、僕の話を真摯に聞いて自分の行動に反映させてくれる誠実さも持ち合わせている。自分のした話がその人に良くも悪くも影響を与えるのは、自分の存在が相手に刻まれたことの証明に他ならない。ましてや、その相手が君なら尚更だ。くっくっく、ヤンデレの根本にはこういった概念が大きく影響しているのかも知れないね。後でじっくりと検証することにしよう。
僕が思考の海に沈んでいたうちに、バスが目的の旅館の前に到着したようだ。
「いらっしゃいませ、当旅館にようこそおいで下さいました。お名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」
中に入ると、女将さんらしき人が僕たちを迎えてくれた。
「予約をしていた佐々木です。」
「佐々木様ですね。では、お部屋に案内させて頂きます。こちらへどうぞ。」
そう言って案内された部屋は、老舗であることを誇示する外観や年季を感じさせる佇まいとは裏腹に小奇麗な和室だった。
いや、だからこそかえってそうなのかもしれないね。
「いいところだな。」
彼も同じようなことを思ったようだ。早速、窓際に行って景色を眺めている。
「全くだね。ホテルじゃなくて旅館にしてよかったよ。懐は随分と冷えてしまったがね。」
「ははは、違いない。」
わざとらしく肩を竦めて見せると、彼は苦笑いといった感じで口元を歪めるが、もちろんその仕草に後悔の色は欠片もない。
「では、何かありましたら手近な者にお申し付けくださいませ。」
「ありがとうございます。」
「あと、少し宜しいでしょうか?」
女将さんが僕だけに耳打ちをするようにして、にわかに声を落とす。
「はい、何でしょう?」
「お伺いしたところお客様方は恋人同士のようですし、お布団は如何いたしましょうか?」
「え?」
それって、つまり………
「お一つで十分なようでしたら、手間どももそのようにいたします。如何なさいますか?」
「是非!あ、是非お願いします。」
思わず声に感情がこもりすぎてしまったことに一人赤面する……僕、自重。
「うふふ、かしこまりました。では、ごゆっくり。」
女将さんはそういい残すと、妙に温かい笑みを浮かべて戻っていった。
くっくっく、何という僥倖だろう。流石の僕でもここまでは予想していなかったよ。まあ、内心を見透かされたようで少し恥ずかしいが、背に腹は代えられない。まったく、本当にいいところに来たものだ。
「おい、佐々木。荷物も置いたことだし、市内散策に出かけないか。」
「そ、そうだね。」
「?何を慌ててんだ?」
「い、いや別に慌ててる訳じゃないよ。ただ、どこに行こうか考えていただけさ。」
「?そうか?それならいいんだが……」
「よし……じゃあ、まずは雪祭りに行こうじゃないか。」
そうして僕たちは今しがたバスで来た道をUターンし、雪祭りの行われている公園へと足を運んだ。
全国的に有名なだけあって、そこで見た作品の数々はまさに芸術と形容するしかなかったね。彼もその素晴らしさに当てられて、最初の作品を目にしたときなど二人して数分ほど立ち尽していたくらいだ。先に気を取り戻した僕が彼の腕を取り行こうと告げることで、僕たちはやっと動き出した。
「こんなに素晴らしいものがたくさんあるんだ。あまり一つに時間をかけていると貴重な出会いを逃してしまうかもしれないよ。」
「そうだな……よし、行くか。」
それから暫らく見て回り、あらかた見終えた頃になってから彼が僕にこんなことを尋ねてきた。
「しかし、これって一体誰が作ってんだ?職人でもいるのか?」
「くっくっく、キョン。君はこの近くに自衛隊の基地があるのを知っているかい?」
「いや、初耳だ。」
「実はそこの自衛隊員がこのお祭りを手伝っているんだよ。まあ、彼らが全部を作っているかどうかまでは知らないがね。」
「こんな仕事で税金から給料貰ってんのか……自衛隊ってのは案外暇な組織なのか?」
「くっくっく、それはいささか乱暴な言い方だね。確かに彼らは仕事振りは僕たちの目に触れにくい、だが確実に必要とされている存在だよ。それに、彼らがこういった行事に従事していられるというのは、日本が平和だという証拠だ。喜ばしいことじゃないか。」
「それもそうかもな。」
「くっくっく、そうだよ。さて、そろそろ暗くなってきたし宿に戻ろうじゃないか。」
意外に時間を食ってしまったので、他の場所を回る余裕がなさそうだ。もっとも、後悔はしていないがね。
「そうだな。」
彼は道路に出てからも雪祭りが行われている公園の方向を眺めながら歩いていた。僕はそんな横顔を眺めつつ彼の隣を付いていった。
彼がふと正面に視線を戻すと、目を少し見開いておぉと、声を漏らした。
「綺麗だな。」
「ん?ああ、本当だね。」
僕は彼の横顔から目を離し、彼の視線の辿るとそこにはこの街のシンボルともいえる建物が建っていた。
その建物は東京タワーにそっくりだったが、ライトアップされた姿は負けず劣らず美しい。むしろ、周囲にビルが林立していないので、地上から見上げる分にはこちらに分があるだろう。
暫らくの間彼と足を止めて眺めていると、僕は視界の端に白いものを捕らえた。
「キョン、見たまえ。雪だ。」
「本当だ……綺麗だな。」
「くっくっく、キョン。君はさっきから綺麗とすごい以外の形容詞を使っていないようだね。」
雪祭りのときは感嘆の溜息かすごいなの二択で、今度は綺麗だなしか言っていない。どうも、彼は素直な感情を言葉にするのが苦手みたいだ。
「悪かったな、何かを褒めるってのは慣れてないんだ。」
彼がむっとしたような顔をして、僕の方に向き直ると、僕は彼の髪に大粒の雪がついているのを見つけた。
紳士な彼もいいが、こういう子どもっぽい表情も嫌いじゃないね。
「キョン、髪に雪がついているよ。」
「ん?そうか?悪いが取ってくれ。」
「ああ、分かったよ。」
僕は彼のこめかみの辺りに付いた雪を払おうとすると、彼は僕が払いやすいように身を屈めてくれた。
「取れたよ。」
「そうか、ありがとな。」
ふと、髪の毛から目を離し正面を見ると、キョンの顔が真正面にあった。予期せぬ彼のアップに僕は顔に血が上ってくるのをはっきりと感じた。
「どうした?顔が真赤だぞ?」
彼が更に顔を近づけて、僕の瞳を覗き込んでくる。
「色が白いのはいいことばかりじゃないようだね。特にこういった状況では心の内を晒しているのと同じだ……」
「どういうことだ?」
……こういうときにはキスくらいしてくれてもいいだろう?
僕は、時々彼がわざとやっているのではないかと思う。いや、時々というには頻度が高すぎるね。しょっちゅう、だ。
「キョン、こういうときは空気を読むものだよ……ああ、もうっ。」
このまま埒が明かないので、僕はキョンの頭を掴みこちらに引き寄せて多少強引に唇を重ねた。彼は驚いたように目を見開いていたが、すぐに僕の腰を引き寄せ一層深く口付けてきた。そのキスは決して激しいものではなかったし、時間にしても1分と経っていなかっただろうが僕にはそれで十分だった。
どちらともなく唇が離れ、我に返った僕が辺りを見回すと、幸いにも人影はなかったようだが自分のしてしまったことの大胆さに気付き一層赤面する。
「そ、そろそろ宿に戻らないかい?」
僕はこれ以上こうしていると際限なく崩壊してしまいそうな理性を保つために、思い切ってそう彼に告げた。
「そうだな。」
あくまで自然な風の彼が少し憎たらしかった。僕はこんなにも君に狂っているというのに……不公平だよ。
僕らは手をつないでバス停へと向かい、その途中に彼が思い出したように言った。
「しかし、今晩はどうすっかな。」
「え?」
「いや、ゆっくりするのが目的だったってのは覚えてんだが、それだけだと何か物足りないんだよ。」
「りょ、旅行の夜と言えばて、定番のことがあるじゃないか。」
……声が上ずってしまった。でも、今夜は健全な男女が二人っきりなんだよ?これが何を意味するかは流石の君でも分かるだろう?
「お前も好きだな。」
彼が僕に意地の悪い笑みを浮かべてくる。
「ばっ、馬鹿なことを言わないでくれたまえ。ぼ、僕は本当はどっちでもいいんだよ。ただ、君が物足りないって言うから……」
ああ、僕のバカ。本当はこんなことが言いたいんじゃないのに……でも、緊張しちゃって言葉が出えてこないよ。
「まぁ、たまにはお前に勝負を持ちかけてみるのも悪くはないな。もっとも、勝算があるかというと別問題だが……」
ああ、キョン。僕はその言葉だけで既にK.O.寸前さ。むしろ早く止めを刺してくれたまえ。僕は喜んで君に屈しようじゃないか。
すると、キョンは僕の方を向いてこう言った。
「夜通し語り明かすってのも、旅行の醍醐味の一つだしな。」
は?キミハナニヲイッテイルンダイ?
「旅行の夜って言うのは相手の普段と違う一面が見られるって言うからな。丁度新幹線で途中止めになってた話題について納得いってないことがある。」
「………………。」
「どうかしたか?まるで可哀想なものを見るかのような目をして……」
「い、いや……やっぱり君はどこまで行っても君なんだね……」
僕はわざとらしく嘆息して、彼のほうに向き直る。
「そんなことは当たり前じゃねえか。おかしなことを言う奴だな。」
彼は不思議なものでも見るように、眉をひそめて僕の顔を覗き込んでくる。
この場に鏡がないのが残念だ。丁度僕の顔にも彼と同じ表情が張り付いているだろうに……まあいいさ、これは彼の発作みたいなものだ。気にしていたらキリがない。夜は長いんだしゆっくりといこうじゃないか。それに次の手は既に打ってあるんだしね。
いくらキョンでも、一つの布団に枕が二つ置いてあれば、それが何を意味するかは気付くはずだ。
いくらなんでも、布団が足りてないと文句を言いに行くほど鈍くはない……と思う。
まぁ、もしそうなったら僕が一緒に寝ようと言えばいいじゃないか。そうさ、今度こそ上手くやってみせる。
僕は勇み足で旅館まで戻り、キョンはそんなに急がなくてもいいだろうと言いながら後を追ってきた。
……本当、少しは察してくれたまえ。
部屋に戻った僕たちは、間もなくして配膳された食事を片付け、一息ついたところで冷えた身体を温めるために温泉にいくことにした。
本当はキョンと一緒に混浴のある旅館に行きたかったが、今時の混浴というのは水着を着用したりするそうだねと彼に言ったら、それではあまりにも風情がないと言うので却下となった。
いや、僕は君にだけなら見せてもいいんだよ?こういうときこそ、話題を振ったときに気付いてくれてもいいんじゃないかな……
仲居さんに食器を下げてもらいながら、温泉に行くために着替えを用意していると、ご丁寧にも部屋に備え付けてある箪笥に浴衣があることを教えてくれた。
しかも、お風呂に入っている間に布団を敷いておいてくれるとのことだ。高い料金は行き届いたサービスも含まれてのことらしい。
前言撤回だ。例え混浴がなくてもここにしてよかった。
そうして、僕たちはそれぞれ着替えを抱えて浴場に行き、暖簾をくぐって脱衣場に入る。
僕は脱いだ服を綺麗にたたみ浴場の扉を開けると、どうやら貸切のようだったが、それよりも露天風呂だったので外気が非常に冷たかった。
かけ湯をしてそそくさと温泉に浸かり一息つくと、舞い散る雪を眺めながら天国というのはこんな所のことを言うのだろうとらしくないことを思った。
それからは暫らく、身体がピリピリするような炭酸泉独特の感覚を堪能しつつ今夜のことに思いを馳せていると、不意にコーン、コーンという音がした。
くっくっく、これは恐らく彼の仕業だね。昔、夫婦や恋人と銭湯に行ったときには先に上がること教えるために桶を鳴らしていたらしい。冬場には、寒空の下で長いこと待っていると湯冷めしてしまうからね。でも、僕たちくらいの年代ではこれが何を意味するのか知っている人の方が少ないんじゃないかな?もしかすると、彼は紳士というよりも精神的に老けていると言ったほうがいいのかもしれない。まぁ、彼が僕を呼んでくれることに悪い気はしないが……
僕は手近な桶を取って二回鳴らして、そのまま浴場を後にした。
乾かした髪をいつもより念入り且つ手早く梳かして女湯の暖簾をくぐり抜けると、彼は年配の人たちの間に至福といった表情を浮かべてマッサージ器に身体を預けていた…………どうやら、僕の推測は実に的を得ていたようだ。
「キョン、上がったよ。」
「おう、早かったな。」
キョンがこちらに気付いて顔を上げると、久しく見ていなかった彼の上目遣いに僕はくらくらした。
「桶は君が鳴らしてくれたんだろう?」
「それはそうだが……女ってのはもっと時間のかかるもんだと思ってたんでな。」
「待ち合わせの為に鳴らしたのに、待たせるわけにはいかないじゃないか。それでは本末転倒だよ。」
「まあ、そうだな……さて、お前も来たし戻るとするか。」
そう言って立ち上がった彼は、いつものように僕を見下ろして歩き出す。ああ、キョン……改めて見ると、浴衣姿の君も素敵だよ。
上気した肌の覗く胸元がとても扇情的で僕の理性が部屋まで持つか自信がない。さあ、早く二人の部屋に戻ろうじゃないか。
彼と並んで部屋に戻る途中も、ふっと彼から香る石鹸の香りに想像を掻き立てられ僕は自分の顔が真赤になるのが分かった。
何とか気付かれないようにしているうちに、いつの間にか部屋の前までやって来ていた。
さあ、いよいよだ。この扉を開けたらキョンに気持ちを伝えなくてはならない。
僕は軽く深呼吸をしてから思い切って襖を開けた。
「おお、すごいな。」
彼はまず、窓から覗く真白に染まった夜景に目を奪われていた。
が、僕はそうではなかった。
…………一体どいうことだ?話が違うじゃないか……
襖を開けて最初に僕の視界に飛び込んできたものは、妙な具合に離された二組の布団だった。簡単なものだが、ご丁寧に敷居まで立てられている。
一体、これは誰の陰謀だ……
「どうしたんだ、佐々木。そんなとこに突っ立って……ほら、こっち来いよ。」
「……あ……ああ、そうだね……今行くよ。」
彼は窓辺で僕を手招きしているが、僕の意識は別のことに捕らわれていたので、上の空といった感じで答えるのが精一杯だった。
女将さんが指示するのを忘れたのだろうか?ああ、何てことだ………
出鼻をくじかれてしまった僕はすっかり意気消沈してしまい、とてもじゃないが敷居をどけようとか、ましてや一緒に寝ようなどとは言う気が起きなかった。

―――その頃の、隣室―――

「何とか間に合いましたね。お二人の邪魔をするのは僕としても心苦しいのですが、卒業まででいいので自制していただきたいのです。或いは、キョン君が役者で涼宮さんがもっと鈍いのであれば、こんなことをしなくても済んだのでしょうが……」
「………私がさせない。」
「ええ、えっちなのはい、いけないと思います。」
「佐々木さんの貞操は私のものなのです!キョンさんなんかには渡しません!」
「ふんっ、これも規定事項だ。」
「―――ちょっと―――不憫……」


「…………はぁ。」
折角の覚悟が無駄になってしまった疲れで僕がため息をついていると、彼が突然部屋の方に向き直る。
「しかし、無粋だな。何で敷居なんかが立ててあるんだ……邪魔だから取っちまおうぜ。」
「へ?」
「しかも、布団が部屋の端と端じゃねえか。もっとスペースがあるんだから有効に使うべきだろ、ジョウコウ。」
最後の一言は意味がよく分からなかったが、彼はそそくさと敷居を部屋の隅にどけて布団をくっつけた。
ああ、キョン君もやっぱり僕のことを想ってくれていたんだね……
「旅行の夜の語り合いってのは布団をくっつけてするもんだ。ここの旅館は他のことには全く文句はないが、これだけは頂けねえな。」
「………………。」
「どうした?佐々木、具合でも悪いのか?」
「い、いや、何でもないよ……」
……やっぱりそうなるんだね。いや、僕もおかしいとは思ったよ?君のほうから誘ってくれるなんてね。
くっくっく、そんなに僕と議論がしたいのならこのやり場のない想いは、君を精神的に叩きのめして発散させることにしよう。
その夜、旅館には「頼む、もう寝かせてくれ。」と言う男の声と、「いや、まだだ。」と言う女の声が夜通し響いていたそうだ。
翌日、旅館を後にするときに見送ってくれた女将さんや仲居さんたちが妙に僕たちのことを生暖かい目で見ていたが、あれは一体なんだったんだろうね?
ともかく、そんなことをしてたから帰りの新幹線では二人とも熟睡してしまい、またもや乗り過ごしてしまいそうになった。まあ、僕の方が先に目を覚まして事なきを得たんだがね。
今回の旅行は本当に色々あったが、駅に着くまで彼の寝顔をじっくり眺めることが出来たし、まあそれでよしとしよう。
幸福は貪るものではなく育むものだと誰かも言っていたし、これから二人で育てていけばいいじゃないか。君もそう思うだろう?
僕の問いかけに彼は身じろぎをして寝返りを打つだけだったが、今の僕にはそれだけで十分だった。

これからもずっと一緒にいようね、キョン。

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最終更新:2008年02月09日 22:20
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