28-854「君が見える場所から、ずっと」前半

   『君が見える場所から、ずっと』

 君が見える場所で――携帯の液晶ディスプレイに、光るその文字。
 車内にアナウンスが鳴った。「次は、大通公園、大通公園です」。俺は携帯をたたむと、地下鉄のホームに降りた。天気予報は「今日は晴れます」と高らかに告げていた。季節はずれの大間抜けな木枯らしが駅の改札へと吹きぬけてくる。俺は思わずコートの前を押さえた。地下鉄の階段を澄み切った風が突き抜ける。俺はその風の中、一歩一歩踏みとどまるように階段を上る。すれ違う人たちは両手でコートを堅く締めながら、少し速い足取りで白い息を吐いていた。
 五月。今日は日本観測史上に残りそうな記録的に寒い、そして、空が澄み渡っていた日だった。

    *

 高校二年の春、この季節になると俄然クラスの空気が変わってくる。期待と興奮と、あとちょっとした不安に満ち溢れた空気。みんな、間近に迫った高校生活最大のイベントを前にして浮き足立っていた。そして、ちょうどその日の朝だ。その時、クラスを包む緊張感が最高点に達していたといっても過言ではなかった。普段はこんな朝早くから人が揃っていることなんてないのに、その日だけは違った。なぜなら、修学旅行が如何に楽しいものとなるか、その全てはこの日の班決めに懸かっているからだ。
 その日、教室に入った瞬間、空気が違うことに気が付いた。普段なら、こんな朝にクラスの大半が揃っていることはなかった。教室のあちこちで、小さなグループがいくつも出来て、それぞれがそれぞれのやり方で何事かを相談していた。仲良しグループ同士固まって、和気あいあいとしているグループ、誰かがはみ出してしまうのか、教室の隅で難しい顔で相談しているグループ。もう打ち解けている男女グループもあれば、緊張気味にお互いを窺っている男グループと女グループもあった。俺はそんな権謀術数渦巻く人々を尻目に、一人教室の奥の自分の席へと向かった。
「よぉ、キョン」
 間の抜けた顔で、席に近づいた俺に挨拶したのは谷口だった。谷口はリラックスした様子で、椅子に横向けに腰を掛けていた。俺も軽く片手を上げて挨拶を返してやると、立ったまま谷口に声を掛けた。
「なんか、クラス中がすごい雰囲気だな」
「そりゃそうだろ。この、班決めが修学旅行の是非を決めると言っても過言ではないからな」
「無理して難しい言葉は遣わなくていい」
「んだよ、お前のかわいい彼女に合わせてやったのに。けど、お前はいいよな。どの女子グループとペアになるかはもう決まっているようなもんだからな」
 こいつはことあるごとにこうして俺をからかってくる。谷口はクラスの喧騒など他人事のように余裕たっぷりな様子で饒舌だった。机に頬杖をついて俺をからかってくる谷口を軽く無視しながら、俺は席に着いた。朝から教室にこもった熱気に当てられてしまったような気がする。俺は椅子に深く腰をかけると、大きく息を吐いた。
「よお」
「……おはよ」
 そして、席に着くと軽く振り返って、この喧騒から取り残されている教室の隅に座る人物に、俺は挨拶をした。そいつは退屈そうに窓の外を眺めたまま、どうでもよさそうに挨拶を返した。
「最近、随分と暖かくなったな」
「そうね。けど、北海道、特に札幌なんて冬に行ってこそ価値があるものよ。五月に北海道に行くなんて、ほんとセンスのカケラもない高校だわ」
 俺は間を持たせるために、適当な世間話を振ってみたが、そいつは相変わらず外を眺めたまま気のない返事を返すだけだった。仕方がないだろう、高校二年の真冬に修学旅行へ行く高校なんてないんだから、そう言おうかと思ったがやめておいた。窓の外を眺める、その横顔が寂しそうで、それが俺の心に引っかかった。どこか腑に落ちない感じを抱えながら、俺は改めてクラスを見渡してみた。
 高校二年生になっても、クラスの顔ぶれにほとんど変化はなかった。どいつもこいつも高校一年のときによく見知った連中ばかりだ。今年もアホの谷口や国木田と一緒だし、それに――
「おはよう、キョン」
「おう、佐々木」
 俺の隣の席に座る人物も去年と同じだ。この日は佐々木にしては珍しく、遅めの登校だった。
 佐々木はいつものように俺に挨拶をすると、顔に微笑を浮かべながら鞄を机の上に置いてすべるように椅子に座った。そして、軽く柔らかいその髪をかき上げた。その瞬間、俺にどこか甘い香りが届いた。こうやって佐々木の姿を見て思った。この光景は去年と何も変わらない。俺が隣を振り向くと、必ずこいつの姿がある光景は。ただ、佐々木のクリーニングしたてらしい制服がやけに眩しかった。
「お前も、この喧騒とは無関係そうだな」
「まぁ、僕はあまりこういう場面で騒ぎ立てる柄ではないからね」
「確かにそうだな。お前が連中と一緒にキャッキャ言っている姿なんて想像できん」
「深い意味は詮索しないでおこう。けど、うちの高校の班決めもまた難しいものだ。クラスの中から女子三人男子三人の六人で班を作れ、なんてね。揉めてしまうのも致し方あるまい」
 俺は出来うる限り普通の表情を装っていたつもりだが、ちょっと鼻の頭が悪戯っぽく動いてしまったのだろう。佐々木はほんの少しだけ顔をわざとらしくしかめてみせた。そして佐々木はクラスをのんびりと眺めながら、自分はまるで関係ないようなことを言った。しばらく面白い見世物でも見るように、クラスのちょっぴり変わった光景の観察を終えると、俺のほうを振り返って
「修学旅行の興廃この一戦にあり、だね」
 と愉快そうに笑った。

    *

 その日のHR。クラス全体、というより学年全体が大騒ぎしていた。校舎のフロアー一体が騒がしかった。そんな中で、数多くの交渉、妥協、陰謀が渦巻き、そしてその時間中に全ての結論は出されたのだった。
 まずは結果から報告しよう。俺の修学旅行の班は、まず男子メンバーは俺、谷口、国木田のいつもの三人組。気心の知れた連中だし、この人選には何の問題もなかった。これにちょうど三人だったので一切揉めることなくすんなりと決まった。谷口の奴はいかにしてかわいい女の子と同じ班になるかを必死に力説していたが、俺にとってはまぁどうでもよかった。こいつの言うことにまともに取り合う必要はない。国木田はそんな谷口を面白そうにからかっていた。
 そして、肝心のペアになる女子のメンバーは、佐々木、涼宮、そして涼宮の友達の阪中に決まった。もともと、俺は佐々木のいるグループとペアになるつもりだったし、そこのところは谷口も国木田もよくわかってくれていた。まぁ、実際佐々木とおおっぴらに一緒の班になることに恥ずかしさがなかったわけではないが、けれども佐々木が他の男と同じ班で修学旅行に行くというのも、まぁ、なんというかなんというかで。まぁ、そういうことだ。
 ただ、俺はここで一つだけミスを犯してしまった。HRが始まった直後、ふと涼宮が気になって、後ろ振り向いてしまったのだった。そこで、俺は涼宮と目が合ってしまった。その瞬間、朝見た涼宮の表情が目の前に浮かんだ。そして、俺はつい誘ってしまったのだ、「お前もよかったら、俺たちと一緒の班になるか」と。そう、佐々木よりも先に涼宮を。

    *

 自分でも大人気なかったかも、と思う。しかし、それは仕方がないことだ。物事には優先順位というものがある。それを彼が破ったのだから、仕方がない。
 そう自分に言い聞かせること、もはや数十回。私は一人で話し相手のいない帰り道を歩いていた。その間、ずっと心に引っかかっているのは、今日のHRでの出来事だ。自分でも子供っぽい態度を取ったことはよくわかっている。こんな風に拗ねたところで、いいことなんて何もないということもわかっている。
 けれども、やっぱり許せない。なんで、自分がこんな風に怒っているのか。それが、見当違いであることもわかっている。多分――いや、間違いなく私は怒らなかっただろう。わかっている。それはよくわかっている。もしも、彼が私より先に声を掛けたのが涼宮さんでなければ、私はきっとこんな気持ちにならなかったはずだ。わかっている。本当にわかっている。こんなのただの身勝手な嫉妬だって。
 でも、友達である涼宮さんと、彼女である私との違いをはっきりさせて欲しかった。もっと、はっきりと彼女として私のほうが大切だということを示して欲しかった。
 あぁ、わがままだな。それで、子供だな。こんなことをしてどうなるんだろう。修学旅行楽しみにしていたのに。せめてもの冷静さで、彼と同じ班になったのはいいけれど、このままケンカしたまま修学旅行に行くなら辛いな――
 私は自分がこんな人間であったことにショックを受けていた。一人ぼっちで帰る帰り道の足取りは影を引きずるように重かった。

    *

「阪中も悪くはないかもな。よく見れば結構かわいいし、なにせお嬢様だ。漂っている気品が他の連中とは違うぜ」
「へー、そうかい。そりゃよかったな」
 休み時間。俺の席に勝手に腰をかけて鼻息を荒げる谷口に冷たい視線を向けて、俺はため息をついた。修学旅行前日、この日になっても俺は佐々木と仲直りできていなかった。そりゃ、自然とため息も多くなるさ。
「なんだよ、お前は彼女持ちなくせにノリが悪いな」
「ほっといてくれ」
 谷口は大げさに両手を広げてため息をつくと
「まだ、ケンカしているのか?」
「……あぁ。もっと、こう激しく怒ってくれたならまだ救いはあるんだけどな。こう、なんて言うんだ、話しかけても、なんかギクシャクするって感じか」
「そりゃ、なかなかにやばい兆候だな。そうやって、すれ違っているとだんだん亀裂が広がっていくぞ」
「わかっている、それくらい。だから、こうやってお前のアホ面を見ても、笑わずにため息をついてやっているんだ」
「それだけ悪態をつけるなら、まだ元気だな」
 そうやって谷口はわざとらしい明るい笑い声を上げた。こいつなりに励ましているつもりなのだろうか。だとしたら、余計なお世話だっつーの
「けど、なんでお前涼宮を誘ったんだよ。おかげで俺は中学高校とずっと涼宮と一緒のクラスどころか修学旅行まで同じ班になっちまったんだぜ」
「……」
 答えられなかった。谷口のくせに痛いところを突いてきた。俺の表情を見て何かを確信した谷口がさらに追撃の手を出した。
「HR始まった直後にいきなり涼宮を誘っていると、まるでなんかお前、涼宮と修学旅行へ行きたくて仕方なかったみたいだぞ」
「仕方がないだろ。目が合ったんだ、なんとなく」
 あの時、あの一瞬、あんな寂しそうな目をされたらどうしようもない。そのとき、十二月の冬の出来事を思い出した。俺は涼宮のあんな顔は二度と見たくないと思った。だから――だからだった。
 涼宮は俺の誘いに対して、すこし驚いたような顔で佐々木をちらっと見た後、「ちょっと考えさせてもらうわ」と言った。その瞬間に、俺は自分が間違いを犯したことを悟った。

    *

 あの時の正解は「ちょっと、考えさせてもらうわ」じゃなくて、「あんたといっしょなんて嫌よ」だったのだと今になって思う。けど、そんな言葉はどうしても口からは出てこなかった。精一杯、なんとか搾り出したのが「考えさせてもらうわ」。けど、仕方がなかった。あのままだと、きっとあたしは余り物として多分キョンの班に入れられていたと思うし。クラスの女子とはわりあい話すほうになったけれども、あたしはどのグループに入っているわけでもない。なら、あたしの行く先は必然的にどこか余り物になってしまった班になる。となれば、必然的にあたしと同じようにグループに入っていない佐々木さんと同じ班に入れられてしまうだろう。それくらいなら、自分で参加する意思を示したほうがいくらかマシだ。
 ……あたしは何をいいわけしているんだろう。あのバカキョンもなんであの時あたしに先に声を掛けたのか。そう思うと、ため息が出てくる。あのバカキョン、あの夜、あたしにはっきりと「俺は佐々木のことが好きだ」って言ったくせに。
 なんで、同じクラスの中なんて制約があるのかしら。全く馬鹿げているわ、うちの高校は。そうでなければ、有希や古泉くんと一緒になって、そうすれば少なくともこんなことにはならずに済んだのに。せめて、この間仲良くなった阪中さんが気を遣って参加してくれたのがせめてもの救いだった。
 そんなことを思いながらあたしは顔を枕にうずめた。あの時、佐々木さんの元へまっすぐ向かうんだな、と思いながらキョンを見ていたあたしの視線は一体どう映ったのだろう。もしも、あたしがそんなことを思わずに、ずっと窓の外を見ていたら、こんなことにはならなかったのに。
 もしやり直せるなら、昨日をやり直したい。
 ……いや、もう一度あの雪の降る寒い夜から。もう一度やり直せるなら、きっと、今度はもっとうまく、やれるかもしれないから。

    *

 千歳空港から札幌市内へと向かう電車の中でも、雰囲気は険悪なものだった。空港から札幌駅までの三十分強の間、阪中と国木田が気を遣って、場を盛り上げようとしてくれて、谷口が一人で空回りしていた。俺は佐々木とも涼宮ともうまく話を出来ないまま、ただ気の抜けた相槌を時々鳴り忘れたお寺の鐘のように打つだけだった。
「でね、うちのルソーはね、ご飯をおねだりするときにこうして前足でお願いってポーズをするのね」
「へぇ、かわいいな」
 両手を前で組んでお祈りのようなポーズをする阪中に感心したように、国木田は大げさに嘆息してみせる。
「つまりは、何か、こうちんちんのポーズで」
 そういうセリフを公共の面前で大声で言うな、谷口。
「涼宮さんもまた、うちに遊びに来てくれたらいいよ。きっとルソーも涼宮さんと遊びたがっているのね」
 阪中は見事に谷口をスルーし、涼宮に話を振った。
「そうね。考えとくわ」
 そんな阪中の努力も空しく、涼宮は窓の外を向いたまま気のない返事を返すだけ。
「佐々木さんは犬は好き?」
 今度は国木田が佐々木に話を振った。
「うん。犬は好きだよ」
「じゃあ、佐々木さんもおうちにワンコがいるの?」
 阪中がそれに追随した。
「いや、うちでは飼っていないんだ」
 けれども、佐々木があっさりと言ったその一言で、話はそこで終わってしまった。
 電車が間抜けな音をたてて走っていた。風景だけが流れていった。

    *

 札幌駅に降り立ち、俺たちは班ごとの点呼を受けるべく、駅前に集合していた。肌に刺さるように空気が冷たかった。コートを着た人々を見ていると、まるで今が冬であるような錯覚に陥った。ぼんやりとしながら、初めて来た札幌の町を眺めていると、後頭部に軽く衝撃を覚えた。
「何すんだ」
 不満げに声を上げて、俺はチョップの主のほうを振り返った。そこには呆れ顔の谷口がポケットに手を突っ込んで立っていた。
「お前、いい加減にしてくれよ。こんな雰囲気のまま一生に一度の修学旅行を終わらせる気か」
 谷口はあきれ半分不服半分の声を出した。いらだたしげに地面をつま先で掘る仕草をしていた。
「俺だって、なんとかしたい。けどな……」
 対する俺の歯切れは悪かった。正直な話どうしていいかわからない。今もわからない。謝ればいい? きっとそんな単純な問題ではない。第一、そんなことを言うと本当に俺がそう思っているみたいじゃないか。
「お前がはっきりしないのが悪い」
 谷口はその視線に半分は心配、そしもう半分に侮蔑を込めて俺を見ていた。
「俺は、自分でははっきりとさせたつもりだったんだけど、な」
「優柔不断なんだよ、お前は」
 谷口の言葉は鋭かった。俺はため息をつくしかなかった。吐いた息は白かった。そんな俺を横目で見て谷口は呟くように言った。
「にしても、寒いな、今日は。五月だっていうのに、冬並みの寒さらしいぜ」
 そしてポケットに手を突っ込んで、わざとらしく震えてみせた。俺たちは五月には似つかわしくない、真冬みたいなコートを着ていた。前日の天気予報が寒波の襲来を告げていたからだ。
「まぁ、でもこのほうが札幌らしくていいよな」
 そして、俺の肩を叩くと能天気に笑ってみせた。そういえば、誰かも同じようなことを言っていたよな、そんなことを俺は思い出した。

    *

 今日の札幌は異常に寒い。天気予報によると真冬並みらしい。おかげでもう五月だというのに、私はコートを着てマフラーを巻いていた。こんなに寒いと、つい、去年の冬を思い出してしまう。目の前の街の風景も、歩いている人たちも、みんなまるで真冬のようだ。
「ずっと、浮かない顔してるね」
「え」
 点呼を待っている間、黙って札幌の町並みを見ていると、不意に国木田に話しかけられた。国木田は穏やかに笑っていた。
 一瞬、彼のほうを向きそうになった視線を無理に戻して、私は必死に平静を装ってみせた。
「そうかい?」
「うん」
 とぼけてみせたけれども、国木田は笑いながら当然のように答えるだけだった。相変わらず、彼はなかなかその感情を読ませない。学校でよく見慣れたダッフルコートを着た彼は、寒そうにポケットに手を突っ込んで私を見ていた。
「まだキョンとケンカしてるの?」
 いきなり核心を突いてきた。やはり第三者にははっきりわかるのだろう。この修学旅行で一言も口を利いていないというのは、端から見てもかなり異常なはずだ。それを彼ははっきりと尋ねてきた。けど、それでも嫌味に聞こえないのは、彼独特の雰囲気が持つ人徳のようなものだろうか。
「ケンカ、じゃないよ」
「じゃあ、なんで?」
 不自然に言葉が途切れた。どうやら彼はわかっていて、訊いてきているらしい。適当にかわし続けても、きっと彼は追及の手を休めないだろう。
「悪いのは、多分、僕のほうだから」
 そう素っ気無く答えてみせた、わざと。これ以上追求されないように。唇を尖らせて吐いた声は白いもやに変わった。
 けど、本当にそうだと思っている。悪いのは私だ。くだらない意地を張り続けている私だ。もうなぜ、意地を張っているのかもわからなくなっている私だ。私が、何事もなかったかのようにキョンに話しかけることが出来たなら、涼宮さんと普通に話が出来たなら、きっと全ては解決する。

    *

 あたしは駅前に集合した人たちの中から見知った顔を探そうとしていた。けれども、こんなときに限って見つからない。二年生は全員集合しているはずなのに。電車の中での憂鬱な空気を見にまとったまま、冷たい北海道の空の下にいた。
「寒いね」
 駅前にかたまったちょっとはた迷惑な集団を見ている私の隣に、コートを着た阪中さんがすっと入ってきた。そのそばかすの目立つ白い頬が柔らかく緩んだ。
「天気予報で、今日は例年にないほど五月のわりに寒い日だって言っていたのね。おかげで、こんな冬みたいな格好になっちゃった」
 そう言いながらマフラーの裾を私に見せた。彼女は白いマフラーをしていた。
「そうね。でも、やっぱり北海道といえばこれくらい寒くないと雰囲気が出ないわ」
 吐く息は白く、空気は透明で澄み切っていた。あたしがずっと思っていた北海道の風景もこんな感じだった。修学旅行が北海道だと聞いてから、あたしはずっとこんな光景を想像していた。
「だったら、涼宮さんも一緒に楽しもう」
 阪中はあたしに右手を差し出して、無邪気に笑った。彼女なりの思いやりだろう。彼女の優しさだろう。けれども、そのときはその行動があたしの心に刺さった。
 ――楽しもう、ですって?
「あなたも、あたしと同じ班じゃなくて、もっと仲のいい友達と一緒の班のほうが楽しかったんじゃない。無理してあたしに気を遣って、こんな班に入らなくても」
 つい、意地悪なことを言ってしまった。せっかくあたしを心配してくれていたのに。もうどうしようもない。取り返しが付かない。きっとこれで阪中さんからも愛想を尽かされてしまったわね。あたしは目を伏せた。
「どうして? 私はちゃんとお友達と同じ班に入っているのね」
 阪中さんはそんなあたしの心を見透かしたのか、屈託なくそう言った。思わず、あたしは視線を上げた。
「それに、佐々木さんとも余りお話しする機会がなかったから、この機会にお友達になれればうれしいのね」
 彼女の口からでた人物の名前に、あたしは一瞬表情を強張らせてしまった。
 ――そんな人と友達になんか、ならないでよ。あなたまで。
 心の中に醜い言葉が浮かんだ。頭の中にある人物の顔が浮かんだ。
 阪中さんはあたしの表情の変化をゆっくりと少し目じりの下がった目で見ていた。そのまっすぐな瞳に、あたしは気圧されるように少しずつ後悔が胸の中に広がっていった。
「涼宮さん。意地を張っても辛いだけだよ。思っていることは、ちゃんと相手に素直に言ってみたらいいのね」
「別に、誰もあんなバカキョンなんか相手に意地を張っていないわよ」
 阪中さんの言葉に腫れた傷口に触れられたように、あたしは反応した。そんなあたしを見て、阪中さんはふふっと柔らかい息を吐いた。
「私は、キョン君のこと、なんて言っていないのね」
 しまった、とぽかんと口を開けてしまったあたしの顔を見て、阪中さんは優しい笑顔を浮かべた。

    *

 うちの修学旅行は初日からいきなり自由行動だ。まぁ、確かに札幌なんて集団で観光するような場所ではなく、小さな班で動いたほうがいい街だ。うちの高校の修学旅行はここで自由行動を取った後、北海道内の観光名所をバスで回って、最後に函館にたどり着くスケジュールになっている。
 俺たちの班の行動スケジュールは国木田と阪中が中心になって決めてくれた。結局、俺はこの班の話し合いにはうまく参加することが出来ず、全てを彼らに丸投げしてしまっていた。それだけでも、申し訳なく思う。気まずい空気を影のように引きずったまま、俺は彼らにつき従って寒空の下を歩いた。
 前を歩く佐々木の背中がこんなに小さく見えたことはなかった。佐々木に追いつきたい。その肩を叩いて、振り返った顔を見てやりたい。けれども、涼宮の寂しそうな背中が目に入ってしまう。そこに虚勢を張らないと背筋を伸ばせない、不器用さを感じていた。そうやって、俺は結局動けない。
 優柔不断、結局俺の気持ちって何なんだ? 札幌の空に問いかけてみた。もちろん、答えは返ってこなかった。

    *

 誰とも話すこともなく、私は国木田と阪中さんの決めてくれたコースに黙って付き従う。冷たい空気に触れる耳が痛い。まるで冬に逆戻りしてしまったみたいだ。
 あれから結局、仲直りできるきっかけが見つからない。それはそうだ。もともと、誰が悪いというわけでもない。キョンに「あの時、お前じゃなくて涼宮に先の声を掛けてすまなかった」と言われて、果たして私は許せるだろうか。いや、きっと無理だろう。むしろ、そんな言葉聞きたくない。そんな言葉を掛けられてしまうなんて――惨め過ぎる。
 恋愛は精神病の一種か、うまく言ったものだ。こんなの、本当に、病気としか思えないよ。こんなの、全然私らしくない。
 私はうつむきながら歩いた。きっと、一番許せないのは、自分――
 そう思うとどうしようもない苛立ちと自己嫌悪が私を襲った。今すぐどこかに消え去ってしまいたい。
 そのとき私の肩を不意に誰かが叩いた。

    *

 こんな風になるなら、きっと一人のほうが全然マシだった。あたしがいなければきっと、みんなもっと楽しい修学旅行を送れたのに。そう考えると、どうしようもなく情けなくなってくる。キョンがあたしを誘ったのも、きっとただの同情だろう。そして、キョンもきっとあたしのことをうっとおしい奴と思っているに違いない。だって、あたしのせいで佐々木さんとケンカしているんだから。
 キョンのバカ。あたしのことなんてほっといてくれたらいいのに。キョンのバカ。あたしに構わずに、佐々木さんの傍にいればいいのに。
 このままどこかへ一人で抜け出そうかしら。きっと、そうすればみんなあたしなんかがいなくなってせいせいするに違いない。あたしだって、こんな風に、疎まれてまで、付きまとうのはプライドが許さない。
 覚悟を決めた。このままふらっと抜け出そう。きっと誰もあたしを止めないはずだ。そして、あたしが一人進行方向を変えようとしたときだった。誰かが、あたしのコートの袖を引っ張った。
「涼宮さん、せっかくだから、あそこのソフトクリーム一緒に食べよ」
 阪中さんが、あたしのコートを引っ張りながら、露店のソフトクリームを指差していた。

    *

「おい、あそこの子かわいくねーか。ちょっと声掛けよーぜ」
 谷口がどこかを指差しながら、乱暴に俺のふくらはぎを蹴った。俺は谷口の無遠慮な行動に憤りを覚えた。
「何すんだよ。第一そんな気分じゃない。一人で勝手に撃沈してくれ」
「けっ」
 谷口は振り返った俺の表情を見て、唇を思い切り歪めた。その瞳は明らかに俺を責めていた。
「じゃあ、てめえはどんな気分なんだ? え? 今どんな気分なんだ?」
「どんな気分って言われても」
 口ごもりながらほとんど聞こえないような声で呟いた俺は、いいわけを探すようにあたりを見回した。そこで気が付いた。周りを歩いていたはずの他の連中がいない。一体あいつらみんなどこへ行ったんだ?
「ほれ、今は俺とお前だけだぜ。言いたいことがあるなら思いっきり言え。大声で叫びでもしない限り聞かれやしないからよ」
 谷口がちょっと得意そうなしてやったり顔をした。お前、谷口の癖になんでそんなに得意そうなんだよ、やれやれ。あいつら何か企んでやがったな。それにしても、だ。こいつのアホ面を見ていると、さっきまでの憂鬱なんて吹っ飛びそうだ。あぁ、なんでこんな口を開けば成功もしないナンパの話ばかりの男に。こんなアホが服着て歩いているような男に。まったくだ。なんかもう何もかもどうでもよくなりそうだ。こんな奴に心配されるまで落ちぶれて、情けないのと悲しいのと、そしてちょっと嬉しいのと、で。

    *

「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
 振り返ると、そこには国木田がいた。彼の吐く息は白かった。振り返った私に彼は唐突な言葉を浴びせた。国木田はこれから手品デモするような笑顔を浮かべて立っていた。私が言葉の意味がわからないと、首を傾げてみせると
「今日は寒いからね。暖かいものでもちょっと飲もう」
 と、両手に持った缶ジュースを大きく持ち上げてみせた。
「じゃあ、紅茶……」
「はい」
 何がなんだかよくわからないまま、とりあえず私は返事を返しておいた。いつのまにそんなものを買っていたのだろうか。国木田は私の返事を聞くと左手に持ったコーヒーの缶をポケットに突っ込んだ。そして右手の紅茶のプルトップを開けて、私にあたたかいロイヤルミルクティーの缶を手渡した。
「ありがとう」
 礼を言って私はそれを受け取った。手袋をしている私の手では、缶ジュースのプルトップを開けるには手袋をはずさなくてはならない。彼はそういう細かい気遣いが出来るなと思った。きっと、キョンだったらぶっきらぼうにそのまま渡して、私がそう文句を言うまでそんなこと気がつきやしないだろうね――
「キョンだったら、もっとぶっきらぼうで気が利かないだろうな、とか思ってた?」
「え?」
 国木田が笑いながら私にそう尋ねた。まるで、心の中を見透かされているみたいだ。国木田は自分の言葉が正しかったことを私の表情から読み取って満足したのか、得意そうに微笑んだ。
「そんなにキョンのことが好きならケンカなんかしなくていいのに」
 国木田は笑いながらそう言うと、缶コーヒーを一口飲んだ。その瞬間に思った、私は彼が苦手だ。彼のように簡単に人の心を見透かしてしまうような人は。私は言葉をうまく返すことが出来なくて、上目遣いに彼を見ていた。
「そんなこと――」
 ない? 私が言いたいのは本当にそんな言葉?
 ずっと思っていた。いつもそうやって曖昧にごまかすことしか出来ない、自分の弱さ。肝心なところばかりをごまかして生きてきた自分自身に。わかった。きっと私は、ずっとそれが嫌だったんだ。
 私は手の中の缶を握り締めた。その暖かさは手袋越しでも伝わってきた。

    *

「北海道に来たら絶対にここの牧場のソフトを食べようと思っていたのね」
 阪中さんは左手を小さく振り回しながらそう私に力説しながら、ソフトクリーム代の三百円を払っていた。よほど嬉しいのだろうか、店員さんに大きな声で礼を言うと、ソフトクリームのコーンを片手に私のほうへ小走りにやって来た。
「ふーん」
 わざとらしくどうでもよさそうな相槌を打ちながら、あたしは先に買った自分のソフトクリームを舐めてみる。冷たくて、甘い。口の中に気持ちのいい爽やかさが広がる。ただでさせ寒い中、余計に体は冷えちゃうけど、こういうのもいいかもしれない。
「うわっ、冷たい。けど、おいしい」
 阪中さんが隣で嬉しそうに笑った。なんか、そのとても幸せそうな笑顔を見ているだけで、悩んでいることが馬鹿馬鹿しくなりそうなぐらいだった。世の中にはソフトクリームがおいしいだけで、こんな風に笑える人もいるんだ。
「観光ガイドとかインターネットでおいしそうなソフトクリーム屋さんを調べた甲斐があったって感じなのね。いくら真冬みたいに寒かろうと、これだけは譲れないのね。修学旅行が北海道って決まったときから、固く心に誓っていたのね」
「そうね」
 阪中さんはあたしに自分がいかにソフトクリームを楽しみにしていたかを強調した。あたしもそこは素直に同意する。確かにおいしい。普段町で適当に売られているものよりもはるかに牛乳の味が濃厚で、それでいてあっさりとしている。口当たりがいい。本当にいい牛乳から作りましたという感じだ。
 そういえば、あたしも普段こういうイベントがあるときは、きっちり下調べをするのに今回だけはほとんど何も調べてこなかったわね。そんなことを、ふと思った。そして、その理由にたどり着く前に考えるのをやめた。
「ねぇ、涼宮さん。せっかくだからあそこのベンチに座って食べよ」
 阪中さんは私の肩を叩くと、ベンチを指差した。真冬みたいな寒さの北海道では、のんびりとベンチに座っている人影は少なく、阪中さんの指差したベンチの周りには誰もいなかった。

    *

「で、正直なんで佐々木がそこまで怒るかわからないだと?」
「あぁ」
 谷口と俺は仲良く並んで近くの銀行の壁にもたれかかっていた。寒さのせいか、目の前を通り過ぎる人たちは少し足早だった。そんな人の流れを見ながら、思った。谷口相手に恋愛相談なんかしている時点で情けないことこの上ない。物理的にも精神的にも寒いことこの上ない。吐く息全てがため息に思えてきた。
「まぁ、お前の鈍さは折り紙つきだからなー」
「なんだよ、どういう意味だよ」
「お前さぁ、去年の冬だったっけか? 付き合うことになったって言ったときのことを思い出してみろ」
「あんとき、か?」
 そう谷口に言われて記憶を掘り起こした。ちょうど例の告白をしてしまった後だ。年が明けたくらいだったろうか。俺は一応友達であるこいつに佐々木と付き合うことになったことを黙っているのは悪い気がして、そのことを報告したのだった。
「お、思い出したか?」
「あぁ」
 あのときの間抜け極まりないやり取りは忘れないだろう。昼飯のときだった。俺は谷口だけに聞こえるように、声を潜めて、その事実を告げた。こっちは、それなりに緊張して佐々木と付き合うことになったのを報告した。それを聞いた谷口はびっくりしていたと言えばびっくりしていた。別の意味で。
「いくらなんでもお前、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して『え? それがどうかしたのか?』はないだろ」
「誰だって、そう思うっつーの。今更改まって何を言っているんだ、こいつは、ってあきれ返ったぜ。付き合っていると思われていないと思っていたお前の鈍さに全米が泣いたな」
「なんだよ、そりゃ」
「だからよー。お前はそんなだけ鈍いんだって。だから、うじうじ悩んでんじゃねーよ。どうせ的外れなとこで、ぐずぐずしているだけだろ。だったら、思い切って行動にうつしゃいいんだ。鈍いくせに悩もうとするな」
 俺は大きく息を吐いて、空を見上げた。空はどこまでも晴れ渡っていた。今になって、見上げてみてはじめて気がついた。今日の空はこんなにきれいだったのか。
「お前に説教食らうようじゃ、俺もおしまいだな」
「け、恋愛経験で言えば、俺はお前の何倍も上を行く漢だからな。あ、ちなみにこの場合のオトコっていうのは字が違うからな」
「知らねーよ。馬鹿野郎」
 ここで俺は初めて笑った。修学旅行に来てから初めて。

    *

 班から抜け出そうとしていたのに、あたしは何をやっているんだろ。そんなことを思いながら隣の阪中さんを横目で見た。彼女は嬉しそうにソフトクリームを舐めていた。楽しそう、そんなことをふと思ってしまった。
「こうやって涼宮さんとお友達になって、いっしょにソフトクリームが食べられて嬉しいのね」
「え」
 満面の笑みで阪中さんはあたしに言った。あたしは思わず返す言葉に詰まった。阪中さんは子供みたいにベンチに座った両足を前後に揺らしていた。
「私ね、実はずっと涼宮さんにあこがれていたのね」
「あこがれ?」
 思わず聞き返した。あたしにあこがれる? 彼女が?
 唐突だった。何かの冗談だと思った。
「最初の自己紹介のときにね。この人すごいって思ったのね。自分の言いたいことを言える人だって。私ね、結構ついつい周りと合わせちゃって自分の言いたいことが言えなくなっちゃうことが多いから、すごくうらやましかったのね」
 うらやましい、そんなことを人から言われたのは初めてだった。いや、今まで人からうらやましいと言われたことはある。それは陰口のように妬みや嘲笑を込めて。その言葉を掛けられるたびに、あたしはあらん限りの軽蔑の意思を込めて相手を見下してやっていた。でも、阪中さんのそれは違った。純粋に、彼女の目はうらやましいと、そう言っていた。
「で、ルソーの事件のときも、涼宮さんに思い切って相談したら、自分の事のように心配してくれて、それで解決してくれて」
 心配したのは事実だけれども、解決にあたしが貢献したかというと、実はそれほどでもない。面と向かって褒められる恥ずかしさからか、そんなことを思った。
「でも、今の涼宮さんは涼宮さんらしくないと思うのね」
 阪中さんはここで、その少し目じりが優しく垂れた目であたしの目を見据えた。何かを見透かされたような気がしたあたしは、そのまま目を逸らせないでいた。彼女の瞳にはいつになく真剣な色が宿っていた。
「なんか、無理して自分をごまかそうとしているというか。そんなのは涼宮さんらしくないのね。そこはいつもの調子でガツンと言ってやったらいいのね」
「でも」
 あぁ、だめだ。「でも」、なんて言っちゃったらまるで肯定しているみたいじゃないの。
「どんなことでも、まっすぐに立ち向かっていくのが涼宮さんらしいと思うのね。きっと大丈夫なのね。ルソーを助けてくれたみたいに、きっとうまくいくよ」
 どうしてこの子はこんなにまっすぐに人の目を見られるのだろう?
 そして、彼女に言われて、あたしは思い出した。
 あたしらしくない、か。そうね、全くもってしてそのとおりだわ。こんな風にグジグジするなんて、まったくもってしてあたしらしくないわ。なんで、あたしがあんなアホキョン相手に遠慮しなくちゃならないの。よくよく冷静になって、考えたら腹が立ってきたわね。あぁ、本当に今まで悩んでいたことが馬鹿みたいに思えてくる。何も遠慮することはないのよ。ガツンと言ってやればいいのよ。思いっきり。そう、あのときの告白はなんだったんだって。
 急に何かが吹っ切れた気がした。そして、あたしの中にまた別の力が湧いてくるのを感じた。
 わたしは大きく口を開けてソフトクリームにかぶりついた。糖分補給が必要だ。これからすこし、頭を巡らせなくちゃならないから。

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最終更新:2008年02月09日 22:01
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