67-527 「キョン、そんなの決まっているじゃないか」

 それは小学校六年の頃の話だ。
 父が浮気し、結果、両親が離婚した。
 事実だけを列記するなら、ただそれだけの話であり、そしてわたしは教訓と責任を得た。
 人は、一時の感情によってたやすく判断を誤る生き物なのだ。けれど、わたしはああはなるまい、と。
 母の心痛を、これ以上増やすような事はさせまい。母一人子一人であっても、わたしは立派なわたしになってみせよう、と。

 丁度、その頃憧れていた少女がとある含蓄のある言葉を発したのを聞いた。わたしがそれに感化されたのはさて運命だったのか。
 中学一年のわたしは、両親の離婚に合わせて苗字が変わった。
 そして『わたし』も変わった。
 それが『佐々木』の始まりだ。

 わたしは中立にして難解な存在になろう。
 女子に対しては普通で良い。けれど男子にとっては難解、不可思議、遠巻きにしたくなるような存在が良いだろう。何故ならば……………。
 ……………
 ……


「お前、その理屈っぽいところをなんとかすればさぞモテるだろうにな」
 中学三年も半ばに至った九月。もったいない、とでも言いたげな彼に笑みを禁じえなかった。
 くく、キョン、でもキミは、僕が何故こんなに理屈っぽい性格なのか、とっくに感付いているのではないかな?
 もしや迂遠な言葉なのではと勘ぐりたくなってしまうじゃないか。

「モテるモテないなんてのがこの人生で重要視される理由が解らないね。
 僕は常に理性的かつ論理的にありたいと思っている。現実をあるがまま受け入れる為には、動揺や驚愕といった情緒的感情は判断を狂わすノイズに過ぎない。
 感情なんてのは判断を誤らせるノイズ、特に恋愛感情なんてのは精神的な病の一種だよ………」

 何? 人は恋愛するからこそ結婚し、家庭を、子供を作るのではないかって?
 つがいになり、子供を慈しみ育てるだけなら野生動物にだってそれらしい行動を取る種はいるさ。
 むしろ「子供を作り、種族を繋ぐ」というのは彼らにとってより重要な事だ。鮭の一生くらいはキミも知っているだろう?
 野生動物にとって、種の存続は個体の生き死により優先される事すらある。種の存続こそ彼らの至上命題と言っても過言ではないんだ。
 そうとも、生物とは子供を作り、種を繋げる為に存在しているといっても過言ではないのだよ。
 なのに何故キミは人間だけを特別視したがるのか?
 くく、僕には解らないね。

 愛や恋なんて言葉で飾っているだけなのさ。
 それは生物の本懐、遺伝子のプログラムに沿っているだけの操り人形、その本能を、格好つけた言葉で飾りたてているだけに過ぎない。
 僕の父が他所の女に惑わされたように、要は男は「子供を作らせる」という本能に惑わされ
 女もまた「子供を作りたい」という本能をごまかしているだけなのさ……。

 ……ああ、そうとも。自覚しているとも。
 今、僕が進路に迷っているのも、いや、迷っているフリをしているのも本能に判断を狂わされかけているだけなのだ。
 でも僕は決して判断を間違えないぞ。僕は判断を間違えてはいけない。
 あの人みたいになってはいけない………。

「キョン、こっちを見ないでくれないか」
「何でだ」
「キョン、キミは時々忘れるようだが、僕は遺伝子的に紛れもなく女なんだよ。さすがの僕でも、こんな姿……解りやすく言うと
 下着の下すら露になりかけているような、破廉恥な格好を人目にさらして平気な顔ができるほど無神経じゃないんだ」

 その他でもない同日、自分が思った以上に狂わされていた事を知った。
 あの忘れえぬ唐突な雨の中、僕は「わたし」が思ったよりも顕在化しつつあったことを知った。
 もし彼が、キョンが「わたし」に少しでも感情を……、いや違う。そう、本能。本能を露にしたならば、きっと危なかっただろう。
 だってあの日「わたし」は思ってしまった、岡本さんのように、彼に女と見られたいのだと思ってしまった。
 もし彼に求められていたら、きっと「わたし」に立ち戻っていただろうから。

 やれやれだ。本当にやれやれだよ。
 わざわざ口にして、彼にあんな目をさせてしまった自分にもだ。
 自分で壁を作っているくせに、彼の方から近付いて欲しいと願ってしまうような、そんな虫のいいわたしにもやれやれだ。

 僕は改めて男子への仮面を被る。特に彼には念入りに。
 理屈っぽく、難解に振舞おう。面倒くさい奴だと、深入りしたくない存在だと思わせよう。もう決して僕の理性を惑わせないように。
 もう決して「好かれよう」となんてするまい。決して好意なんか振舞うまい。
 こんなノイズなんかもう沢山なのだから……。
 ………………………………
 ………………


「まあそれでも『女と見ようとする』というか、『女と見るな』『詮索するな』という壁をスルーしようとする輩がいたのはご存知の通りだ」
「……まあ俺も今まさに何とか理解しようと努めているんだがな佐々木よ」
 あぐらをかいて本を読もうとする俺のモモの上というか、腕の中にすっぽりと包まれつつこいつは笑う。
 さっきの話と真っ向から矛盾してるぞ? なぜ俺に解説をする。
 お前は難解な奴で在りたいのではなかったのか?

「そんなの決まっているじゃないか」
 爆笑せんばかりの横顔だけをこちらにみせ、佐々木は笑う。
「キミは唯一、僕をそんな難解な外殻ごとくるりと包んでくれたのだ。
 外殻を破ろうとする輩には敏感な僕も、これではさすがに侵食されざるを得ない。
 言ってみれば僕はキミに捕食され消化されてしまったのだよ。まあ随分抵抗し、自分でも呆れるほどに幾度も誘惑を吹っ切ろうとしたものさ。
 けれど受験に勝ち抜き母の心労を減らすという第一目的を達成してしまった頃、いよいよ僕の侵食は本格的なものになってしまった。
 くく、僕にとって「恋愛感情」は己の理性と両立できるものである、という事はあの春の日に実証させて頂いたしね?
 おかげさまで貴重な経験をさせて頂いたよ。まあキミに捕食されるという事はキミに滋養を与えるという事。
 つまりキミにもまた影響を与えるという事なのは言うまでも無いがね。それも実証させて頂いた。
 ここまでくれば、いっその事、僕から最後まで溶け合ってしまおうと思った次第だ」

「すまん佐々木、簡潔に頼む」
「悪いね。僕はこれでも割と感情的なタチなんだ。だからこうして言葉を増やすことで言葉の意味を隠すのに長じてしまったのさ」
「いやそりゃわかるが、だからな」
「そうさ。解って欲しいんだ」
 言いつつ、にひひと嬉しそうに俺の上で膝を組む。
「解って欲しい。それは誰にでもある感情だよ、違ったかな? キミも想像力を働かせてくれたまえよ」
 はいはい、それが人間の普遍にして神にも匹敵しうる能力だったか?
 観測できるのはごく一部、だから想像しろってな。
「そうだね、上出来だ。実に上出来だよ」

「そうやって僕自身の考えを尊重してくれるキミだから。だから僕だってキミの味方でいたい。傍に居たいと願ってしまうのさ。悪いかな?」
「好きなようにやればいいだろ、人間、生きてる限り好き勝手にやるだけだ」
「そうだね。でなけりゃ、ああそう、そうだね。でなきゃつまらない」
 言って、くくっと喉を鳴らした。
「一度っきりの人生だ。楽しくやろうじゃないか」
「まあ、な」
 本能も理性も、どっちもうまく相手してやろうじゃねえか。
 やっぱり俺らは動物で、けれど人間なんだからな。

「キョン」
「なんだよ」
 楽しくてしょうがないと言わんばかりに喉を鳴らすこいつは、ああ、もうなんといえば良いのかね。
「僕はやりぬいた。投げ出さなかった。たとえどんな誘惑にあったって、僕は自分の課題を遣り通したんだ、ならご褒美くらい貰ったって構わないだろ」
 はいはいお姫様。

「よろしい」
 だがな、ゆるりと背中を預けてくるな。あんまり、その、密着するとだな、俺の一部器官が正規の役割を果たそうと躍起になって困るのだが。
 俺はもうガキくさい中学生でも、鈍感気取りの高校生でも大学生でもないんだぞ。
 せっかくだから後少しだけおあずけだ、などと抜かしたのはお前だろ。

「それは仕方が無い。何故なら僕らもまた動物だからね」
「解ってるならそろそろだな」
「キョン」
 佐々木の横顔が奥歯まで覗けるくらいにニヤリと笑み崩れる。
 ああまったくこいつはいつでも楽しそうだなオイ。

「しょうがないじゃないか、僕だってキミの温もりに抗しきれないんだ」
 言って、ひらりと俺の給料三か月分が嵌った左手を見せびらかす。あのな佐々木よ。
「うふん。そうだよ、もっと僕の名前を呼んでくれ。何故なら明日には再び変わってしまう名前なのだからね。……ね、あ・な・た?」
「やれやれ」
 それは明日の式の後だろ?
 なあ、お前。
)終わり

「……おいこら。人の一部器官にでん部の摩擦による刺激を与えるんじゃない佐々木」
「衣服の上からくらい構わないだろ? ふ、くく実に刺激的な感触だ。明日にはこの器官に思うさま対面できるのだと思うと特にね」
 ちくしょう俺にも限度がある。今すぐ押し倒すぞこの女郎。
「くく、けれど良くも悪くもそれをしないのがキミだ。だからこそ僕はどこまでも甘えたくなるし、どこまでも構ってもらいたくなってしまうのだよ?」
「人の限界を試すな。っつうかそれを責任転嫁と言、……う、ねえ」 
「くっくっく。可愛いよキョン」
「人の頬を撫でるな」
 佐々木は細い指で俺のあごを、顎を撫で回しつつ、あ、ああもう止めろ。
 そろそろ我慢の限界だ。

「仕方ないよ。先程も言ったように僕は己の責任を全うしたが、青春を勉学に費やしたという事は、随分色々と溜め込みもしたという事だ」
「その先は言うな。オチが読める」
「ふ、くく。覚悟したまえよ」
 言うなというに。
「キミと楽しみたいことのレパートリーはたっぷりと溜まっているのだよ」
「そうかい」
 だから視線をあわせてくるな。
 舌なめずりをするな。俺の頬を撫でるならまだいい、嘗め回すな。

「くく、実にいい味だよ。僕の感触によってキミの頬がこの汗を分泌させたのだと思うと更に良いね」
「お前こそ真っ赤じゃねえか」
「僕の理性はともかく、肉体的な興奮はどうしようもないからね」
 肉体的な興奮とか言うな。色々とむせかえらすな。
「発情と言い換えた方がいいかもしれない」
「言い換えるなというに」 

「キョン。僕は理性を、考えることを止めない。僕が考えるのを止める時は僕がケダモノになる時だけだ」
 なんだそのいつか聞いた台詞の物騒な焼き直しは。
「つまり今だよ」
「へ?」
)終わり

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最終更新:2012年07月18日 13:43
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