21-409「最愛の傷」前半


 目の前でちらつく赤いサイレンが、頭から離れない。あのときどんな音が鳴っていたかは覚えていない。記憶はあの瞬間から途切れ途切れで、今自分がどのようにしてこの場所に来たのかも、うまく思い出せない。現実感の欠落した椅子の上では、ただ時間だけが過ぎていく。この夜は暗い、どうしようもなく。
 足元のタイルの染みばかりを、ただずっと見つめていた。この染みが消えて、床が新品みたいになる奇跡が起こってしまえばいいのにと思う。そうすれば、きっと、もっと小さな奇跡だって起こっていいはずだ。規則的なはずの時計の音が、歪んで聞こえる。そして、そんな俺の隣に誰かが座る気配がした。
「よう、来てくれたのか。」
 俺は顔を上げて、その来訪者と向き合う。小さく、そして深く呼吸をする。
 俺は、お前に言わなくてはいけないことがある―


 12月のある日、その日は昨日より少し寒かったのを覚えている。昨日までと同じようにコートを羽織っただけで、外に出た俺はすぐにその寒さに震えることとなった。遅刻しないギリギリの時間だ。ちょうどいい、走れば少しは暖かくなるさ。
 白い息を吐きながら教室へと入っていった。一応、教室には暖房設備はあるのだが、機能しているのかどうか疑わしいレベルだ。俺は高校へ我慢大会しに来てるんじゃねえぞ。
 教室の窓際にある自分の席に向かう。俺の後ろの席に座ったあいつが朝の憎まれ口を叩いてきた。
「来るのが遅いわよ。寒くなったから布団から出られないなんて、年寄りくさいこというんじゃないわよね。」
 朝から憎まれ口を叩くんじゃない、と言った俺の突っ込みを無視して、曇った窓ガラスに退屈そうにへのへのもへじを書いていた。やれやれ。
「おはよう、キョン。」
「おう、おはよう。」
 コートを脱ぎながら、今度は隣の席からの挨拶に返事をした。
「寒そうだね。まぁ、無理もない。寒冷前線が近づいているらしいからね。」
「あぁ、まったく迷惑な話だ。冬将軍様も毎年律儀にがんばらず、たまにゃさぼればいいものをよ。」
 何がおかしかったのか、喉の奥で鳴らす独特の笑い声をあげると、
「ところで、キミはマフラーは持っていないのかい?この寒さの中、首元を露出したままならば冷えてしまうだろう?」
 今日は慌てて家を出たから忘れただけだ。
「あぁ、一応マフラーくらいは持ってるさ。ただ、親父のお古だけどな。」
 実は俺は自分のマフラーというものを持っていない。でも、親父のお古でも十分役目を果たしてくれているし、特に不都合はない。
 俺にとっては実にどうでもいい会話だったのだが、あいつにとってはそうではなかったみたいだった。
「そうか。ふむ、キミは自分のマフラーを持っていないのだね。わかったよ。」
 そして、何かいいものを見つけたような顔で笑うと、ちょうど1時間目が始まった。
 いったい何がわかったっていうんだよ、佐々木。
 そして、後から視線を感じたような気がしたので、振り向くとなぜかあいつと目が合った。あいつはすぐに目を逸らして、ふんってな感じで窓の外と顔を逸らした。まったく、お前までなんだっていうんだよ、涼宮。
 そして、思えばこの日のこの会話が全ての始まりだった。


 それから数日たったある日、俺は涼宮率いるSOS団が不法占拠している文芸部室にいた。6月の野球大会の一件以来、どうやら俺は連中の非常勤団員として認識されてしまったらしく、ことあるごとにイベントに借り出されるようになっていた。七夕パーティーに、夏休みには連中の孤島へのミステリー合宿ツアー、秋には映画撮影の雑用係にまで借り出される始末。基本的に涼宮が俺を誘ってきて、その話に佐々木が乗ってきて、いつの間にか俺も参加することになっているというパターンだ。ただ、さすがに映画撮影のときは、大まかな脚本を聞いた佐々木もこれはやばいと思ったらしく、逃げようとしたところを俺が強引に引き止めてやった。
 そんな高校生活を送っているうちに、俺は自然と、佐々木が予備校のある日に、週2、3回くらいは連中の部室に顔を出すようになっていた。それ以外の日は、今までどおり佐々木と一緒に帰って、たまに俺の家で勉強を教えてもらっている。
 あれから佐々木との関係に進展はあったか、というと、特に目立ってはない。お互い変に意識しあうこともなく、学校でも今までどおりに振舞っていた。無理に恋人らしく振舞う必要も感じなかったし、俺も佐々木も今までの距離感が一番心地よかった。
 雪の降る文芸部室の窓の外を、その日はただ眺めていた。部屋には俺と、俺の同級生の長門しかいない。そして、その長門は相変わらず、置物のように本を読み続けている。
「なぁ、長門。」
「なに?」
 一呼吸置いて返事が返ってくる。相変わらず目線は本に向いたままだ。
「何の本読んでるんだ?」
 長門は無言でページをめくる指を止めると、俺のほうに本の表紙を見せた。あぁ、最近、かの有名な賞をとったあの作品か。名前だけなら知ってるよ。
「そう。」
 と、短く返すと、また開いた本に目を落とした。当初は、この長門独特の会話に随分戸惑ったものだが、慣れれば逆にこの静けさが心地いい。電気ストーブの音が聞こえるくらい静かな部室で俺は安らかなひと時を過ごしていた。
「おや、今日はこちらに来られているのですね。」
 ドアが開いて、わざとらしいほど爽やかな声が響き渡る。
「よう。」
 古泉はコートを脱いで、それをハンガーに掛けた。そして、その肩にマフラーを引っ掛ける。
「暖かそうだな、それ。」
「ええ。一応カシミヤですから。」
 そうやって振り向く顔はまるでデパートの店員みたいだな。
「あなたはマフラーをお持ちではないのですか?よかったら、お貸ししますよ。」
「男同士でマフラーを共有する趣味はない。」
 古泉は軽く肩をすくめると、部屋の隅からボードゲームを引っ張り出し、
「どうです、一勝負?」


「はいっ、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
 古泉から遅れること約5分。部室へとやって来たメイド姿の朝比奈さんから暖かいお茶を頂いた。いや、本当にこれが至福の時だね。暖かいお茶をすすりながら、ボードゲームの駒を動かす。
「そういえば、涼宮さんはまだですか?」
 朝比奈さんが思い出したように尋ねてこられる。
「あぁ、あいつは今日は掃除当番なんでそろそろ来るんじゃないですかね。」
 適当な返事を返しておく。正直、涼宮が来るとこの平穏が破られるから、俺としてはあまり奴を歓迎したくないのだけれどもね。
 ため息をつきながら、湯飲みを見ると見事に湯気が立っている。吐く息も白くなってきた。もう、真冬だな。
「あっ・・・」
 朝比奈さんが小さく声を上げた。
「どうかしましたか?」
「ほらっ。」
 そう言って朝比奈さんは窓を指差した。
「あぁ、雪、ですね。」
 窓の外では視界を覆いつくすように、白い綿帽子みたいなのが舞っていた。長門も雪が珍しいのか、本から目を放して窓の外を見ている。
 本当に穏やかな時間だ。このままずっと―
「みんな、お待たせー!」
 情緒のかけらもない威勢のいい声で、派手な音を立てながらドアが開かれた。やれやれ。やはり来やがったか。
 白いダウンのジャケットを羽織ったハルヒはやけに嬉しそうだ。今にも輝きださんばかりの笑顔。そんなに雪が降っているのが、うれしいのか。犬か、お前は。
「今日の雪はあさってくらいまで降るらしいわよ!やっぱ、雪が降らないとね!」
 お前がそんなに雪が好きなんて知らなかったよ。で、なんだ雪合戦でもやろうっていうのか?
「あんたねぇ…」
 涼宮は思いっきりわざとらしくため息をつくと、あきれ返った口調で
「明日はクリスマスイブじゃないの。んで、クリスマスには雪って相場が決まっているのよ。」
 そして、最後に小さく、まぁ雪合戦も悪くはないわね、と付け加えた。
 お前の言う相場をどこの為替市場が決めたか知らんが、そういえばもうクリスマスか。
「あんた、ひょっとして、忘れていたの?」
 不審者を見るような目つきで見やがる。
「別に、この年になってサンタクロースもくそもないだろ。」
 妹の奴はまだ信じているけどな。
 涼宮はついに俺を憐れむような目になって
「そうやって夢を失くすことから人間はつまらない大人になっていくのよ。そういうところをもっと自重しなさい、キョン。」
 そして、ダウンのジャケットをテーブルに脱ぎ捨てると、人差し指を立てるいつもの得意のポーズで、自分の机の上に立ち演説を始めた。
 俺は経験的にこいつの演説がろくでもないことを知っているので、適当に聞き流す。
「ちょっと、キョン!聞いてるの!」
 適当に、空から降ってくる雪がまるで白いノイズのように窓を埋めていくのを眺めていると、涼宮からゲキが飛んできた。聞いてないからありがたく思え。
「まったく、あんたみたいにつまらない大人になっていこうとしている人間を放っておくのはSOS団の理念に反するわ。」
 涼宮は口を尖らせながら、俺を人差し指で指差した。お前の言う理念がどんなものかは知らないが、確かにつまらない大人になっていっている自覚はあるな。特に、クリスマスだとはしゃぎまわる妹を見ていると。
「キョン。あんたはあさってのクリスマスパーティーには強制参加よ!わかったわね。」
「ちょっと待て、俺の都合も聞かずに強制かよ!」
 どういう話の展開かよくわからないが、いつの間にか、いつもの調子で俺の予定が勝手に決められていた。
「なによ。病院とかでも強制入院とかあるでしょ。おんなじよ、おんなじ。」
 俺は何病にかかっていると言うのだ。アンチエンターテイメント症候群とでも言うのか。
 そして、何か言い返してやろうと口を開きかけた瞬間、
「いい!これはもう決定事項よ。何が起こっても覆されることはないわ!わかったわね!」
 と言い捨てると、ぷぃっとそっぽを向きやがった。反論すら許さないってか。
 古泉が俺の肩に手を当てて、苦笑いに近い表情を浮かべながら、首を横に振る。何が言いたいんだ、お前は。…もう、こうなったら仕方が無いか。
「わかったよ。25日は空けておく。」
 涼宮の奴はこっちを向きもしない。だが、わざとらしい大声で
「そうね、せっかくのパーティーだから、私特製のナベを作ってあげるわ。感謝しなさいよね!あと、ちゃんとプレゼントも持ってくるのよ。クリスマスはプレゼントがないと始まらないからね。一応言っておくけど、手抜きは許さないから。私も、あんたにはもったいないくらいのとびっきりのプレゼントを用意するつもりだから、あんたそれに見合ったものを選んでくることね。」
 涼宮のカチューシャのリボンが得意げに揺れる。悪いが、俺にはお前の喜びそうなものなんて皆目見当つかん。それ以前に、クリスマスに闇ナベは勘弁してくれよ。


「そうと決まれば今日は解散!」
 知っていたことだが、やはりこいつは超自己中だ。自分の用件が済んだらいきなり解散宣言かよ。俺は毎回毎回ハンマー投げのハンマーのように振り回され、最後は投げられる運命にあるのだ。
「なによ、その目は。」
「いーや、別に。」
 俺の目線に目ざとく気づいた涼宮は、不満そうに俺の顔を見ている。
「そうと決まれば、私は忙しいのよ。それまでに色々とやらなきゃならないことがあるし。」
 頼むから、やらなくていいようなことなら、色々やらないでくれ。
「なによ、失礼ね。別に、その、あんたにとっても、悪い話じゃないんだから。」
 涼宮は口を尖らせて目を逸らせた。心なしか、普段と少し雰囲気が違う気がする。気のせいか。気のせいだろ、うん。
「雪が激しさを増して、吹雪にならんばかりの勢いですね。交通機関に影響が出る前に、ここは各自帰宅といきましょう。」
 と、古泉がその場を締めた。確かに窓の外は、もう吹雪みたいな大雪だ。明日はきっと雪が積もるだろう。にしても、寒そうだ。窓の外を見るだけで、思わず身震いしてしまう。


 部室の外に出ると、案の定体の心から冷えるような寒さが俺を襲った。ただでさえ、おんぼろな旧校舎だ。外からの冷たい風が吹き込んでくる。
「おー、さびー。」
 両腕を組んで、少しでも暖を取ろうとする。あまり意味はないが。
「あれ、キョンくんはマフラーはしないんですか?」
 そんな寒そうにしている俺を心配してくれたのか、朝比奈さんが声を掛けてきてくれた。マフラーと言われて、朝比奈さんの首元を見る。ピンクのマフラーがよく似合っていらっしゃる。
「あぁ、実は俺自分のマフラーを持っていないんですよ。」
 そして、苦笑い。いい加減自分用のマフラーくらい買うかな。さすがに寒さが堪える。
 カチャリと涼宮が鍵を閉める音を聞き遂げて、俺は階段の方へと向きを変えて歩き始めた。そして、10メートルほど歩いたところだっただろうか、目の前から見覚えのある人影がこちらへ向かってくるのが見えた。


「あぁ、キョン。ちょうど帰る前に間に合ってよかった。」
 佐々木は俺の姿を確認すると、嬉しそうに小走りでこちらに向かってきた。なぜか両手で大事そうに通学鞄を抱きしめている。
「佐々木?お前、今日は予備校じゃないのか?っていうか、こんな時間まで何をしていたんだ?」
 予想外の来訪者。こいつがこの場所に来るなんて珍しい。そりゃ、外も大雪になるわな。
 佐々木は俺の質問に答える前に、後の古泉たちに軽く会釈を交わしていた。ここまで小走りで来たせいか、佐々木の頬は少し紅くなっている。
「本当は明日渡すべきなのだろうけど、きっと今日みたいな日にこそ必要だと思って。」
 首をかしげる俺を見て、佐々木は悪戯っぽく笑うと、その笑顔を得意満面のものに変えた。
「一足早いけどメリークリスマス。」
 そして佐々木は両腕を俺に差し出した。その両腕にはカラフルな毛糸で編まれた、マフラーがあった。
「本当は明日渡せるように、今日、学校に残って編んでいたんだ。それで、ちょうどつい先刻編み終わったのだが、外を見てみればこの大雪だろう?今日キミがマフラーをしていないことを思い出してね。それで、今キミに渡せたらいいなと思って、ここまでやってきたんだ。今日ほどこれが必要になる日もないだろうと思ってね。」
 佐々木は下を向いたまま、緊張を隠すように立て板に水で喋りたてた。こころなしか、少し両腕が震えている。
「ありがとう、佐々木。」
 その震える両手からマフラーを受け取る。ただの毛糸で出来ているはずなのに、触れてはいけないはずの芸術品を手に取るように、俺はそれを手に取った。
「すまないね。うまく出来たのがうれしくて、少しはしゃぎすぎてしまった感は否めないね。一日前に渡してしまうとは。」
 まだ、佐々木は下を向いている。
「いや、ありがとう。これで今日は風邪を引く心配をせずに帰れそうだ。」
 佐々木は顔を上げると、俺の目を見て
「そうかい。それはよかった。ありがとう。」
 そして、佐々木は少し背伸びをして、そのマフラーを俺の首に巻いた。時代遅れの木造校舎の廊下と橙の電球が暖かかった。


「あの、お取り込み中申し訳ありませんが…」
 …すっかり、こいつらの存在を忘れていた。
「あ、ご、ごめんなさい。少しはしゃぎすぎちゃって。」
 佐々木が慌てて後の古泉らに謝る。古泉は苦笑い、朝比奈さんはよかったですね、と言わんばかりの笑顔、そして長門は無表情。涼宮の奴は、右手を鞄の中に突っ込んで、窓の外を見ている。思いのほか、無表情だった。
「すまん、待たせて。」
 俺は後ろを振り向き、みんなに謝った。いくらなんでも調子に乗りすぎてしまったな。
「じゃあ、帰ろうか。」
 思い返せば、この時にほんのもう少しだけ、俺に、ほんのもう少しだけ、気づくことが出来ていたなら、あんな事は起こらなかったのかもしれない。その瞬間、俺は舞い上がっていて、自分自身しか見えていなかった。


 旧校舎から外へ出ると、案の定猛吹雪だ。もう空は暗い。体中に冷たい空気が刺さるようだ。
 俺たちはそれから、そのまま佐々木を加えて帰路に着いていた。佐々木と俺が先頭を歩き、後を古泉、朝比奈さん、長門、そして涼宮の順で歩いている。いつも帰りなれた道だが、その日は少し、何か感覚が違っていた。俺はそれを、ただ単にマフラーを巻いているからだと思っていた。
 事件は唐突に起こった。あまりに何の前触れもなかったかのように。階段を降りているとき、隣の佐々木の影がすっと一瞬俺の前に出てきた気がした。そして、それは『気がした』だけではなく、実際にそうなっていたと気づかせられるのに、時間はかからなかった。
 俺の目の前で佐々木が階段から落ちていく。夢だと疑いたくなる光景に、俺の体は反応できなかった。佐々木の細い身体が、地面に当たったとき、俺はようやく駆け出していた。
「佐々木、大丈夫か!」
 鞄を放り投げて、ほとんど転げ落ちるように佐々木の元へと駆ける。俺の呼びかけに佐々木はびくともしない。
「おいっ!」
 肩をゆする。反応はない。佐々木の目は静かに閉じられたままだ。まさか、そんな、馬鹿な。ありえないよな、ありえないよな。
「頭を打っているかもしれません。あまり揺さぶらないほうがいいです。」
 古泉が俺の肩を抑える。揺さぶらないほうがいい?なら他にどうしたらいいんだ?え、どうしたらいい?
「電話。」
 俺の正面にしゃがみこんだ長門が、静かに俺のほうへ手を差し出してきた。電話?
「救急車を呼ぶ。」
 あぁ、そうか―
 ポケットから携帯を取り出し長門に渡す。
 俺は佐々木を膝に抱えて、ただどうしようもなく、そこにいた。雪はむかつくぐらいに激しさを増している。長門が救急車を呼んでくれているようだったが、その声は俺の耳には入ってこなかった。佐々木のくれたマフラーの裾が、あいつの顔にかかる。俺の足は震えていた。


「脳波、心拍数に異常は見れない。肉体の損傷はほとんどない。意識を失っているだけと思われる。」
 佐々木の額に手を当てた長門は、淡々と佐々木の状態を説明してくれた。なら、佐々木は今、少し眠っているだけなんだな?もう少ししたらちゃんと目覚めるんだな?元通りに目覚めるんだな?
「大丈夫ですよ。長門さんは、こういうことに対して間違いは犯しません。僕が保証します。」
 古泉が俺の肩に手をかける。少しだけ、気休めだとしても、冷静さを取り戻せた。あたりを見回す。朝比奈さんは口に手を当てて震えていた。涼宮は目を見開いて、まだこの光景が信じられないというように、立ち尽くしていた。
 俺は着ていたコートを脱いで、佐々木にかけてやった。そして、その身体を強く抱きしめる。この寒さで凍えてしまわないように。そして、救急車が一秒でも早く現れるように祈っていた。


 下校時間前の学校にはほとんど人はいなく、救急車が来ても、野次馬が集まることはなかった。白い雪の中で赤いサイレンが不思議なほど輝いていた。そして、担架に乗せられて運ばれる佐々木を呆然と見ていた。サイレンの音が遠くへ消えても、俺はただ立ち続けていた。


 救急車に乗る佐々木の付き添いは担任の岡田がなった。本当は俺が付いていきたかったが、ここは教師が付いていくべきだろう。仕方がない。それに呆然とする以外に俺に何かが出来たとも思えない。
「大丈夫です。彼女は僕の知り合いの病院で診てもらえるよう手配いたしました。医療レベルの高さは保証しますよ。」
 だから、と古泉が俺の肩を押した。あぁ、と気のない返事を返す。
「馬鹿、コートくらい着なさい。風邪引くわよ。」
 涼宮が俺の制服の裾を引っ張った。あぁ、そうだった。俺はコートを腕に抱えたままだった。コートを手に取ろうと右手を広げる。手がひどく汗ばんでいることに気がついた。
「もうっ。」
 涼宮は俺の手からコートを取り上げると、それを俺の肩に着せた。
「しっかりしなさいよ。」
「…ありがとう。」
 うつむき加減の涼宮。いつもの元気は感じられない。
 まだ動けないでいる俺の手を涼宮が引く。冷え切った身体には、その体温がとても暖かかった。


 長門が大丈夫だと言っていた、と心の中で繰り返しながら道を黙々と歩き続けて、いつの間にか家の前まで着いていた。胸が引き裂かれそうなくらいに心配でしょうがない。でも、俺にはどうすることもできない。家に着くと、俺は晩飯も食わず、自分の部屋に直行し、ベッドに身を投げた。
 携帯電話が鳴る。時計を見上げる。午後七時。もう、そんな時間なのか。着信は古泉。
「もしもし。」
「もしもし、古泉です。」
「あぁ。」
「随分と憔悴されておられますね。佐々木さんの検査の結果が出ました。」
 言葉を失う。恐怖と期待とで手が震えていた。
「検査の結果、どこにも異常はありませんでした。怪我も軽い打ち身程度です。安心してください。」
「そうか。」
 長い潜水から開放されたように俺は息を吐いた。緊張が削げ落ちていくのがはっきりとわかった。
「で、あいつは今は?もう、大丈夫なんだろ?」
「ええ、検査の結果は全く問題ありません。まだ、眠っているままらしいですが、きっとすぐに目を覚ましてくれると思います。」
 そうか。よかった、本当に、よかった。
 安堵で全身の力が抜ける。俺はベッドの上でへたり込む。
「…そういえば、涼宮さんからあれから連絡はありましたか?」
 涼宮?
「いや。何も。」
「そうですか。いえ、個人的に少し気になっただけです。深い意味はありません。」
「そうか。あと、病院名と出来れば病室を教えてくれ。今すぐそこへ行く。」
 そして、古泉から告げられた病院名と病室を慌ててメモする。
「僕も気になりますので、そちらへ向かいます。あと、一応あの現場に居られた方々にも、僕から経過を報告しておきます。」
 携帯電話の通話ボタンを切る。安堵と脱力感が全身に広がる。しかし、こんなところで馬鹿みたいに座っているわけにはいかない。あいつの側についていてやりたい。
 明日はお前と過ごすつもりだったのに、こんなことになっちまうなんてな―
 机の引き出しを開けて、小さな包みを取り出す。あいつに似合いそうだと思って買った髪留め。明日、あいつに渡すつもりだったプレゼント。クリスマスなんてイベントにおどらされるのはごめんだね、と言いながら、あいつは、不器用な笑顔で、きっと喜んでくれたはずなのに。
 飯も食わずに俺は家を飛び出した。引っ張り出した自転車の荷台がなぜか物悲しげに見えた。雪で凍った道で足を滑らしそうになる。重くのしかかるように降り積もる雪が、憎かった。不安を振り払うように、首に巻かれたマフラーを握り締める。


「面会時間はとっくに過ぎているけど大丈夫なのか?」
 病院の前で先に到着していた古泉が待っていた。
「ええ。ここは僕の知り合いが経営している病院ですから、多少の無理でも問題ないですよ。」
 古泉の言う『機関』を俺は信用しているわけではないが、とりあえず感謝しておこう。
 夜の病院は薄暗い。佐々木の入院している部屋は、病院の奥にある個室だからより一層だ。看護師さんたちに適当に会釈しながら、両足を動かす速度は少しずつ上がっていった。
 そして、病室の扉を開けた俺を待っていたのは、まだ物言わぬ佐々木だった。


 何度かちらりと見ただけの佐々木のお母さんが、暗い部屋のベッドの側でうなだれている。相変わらず佐々木の目は硬く閉じられたままだ。
「古泉、大丈夫じゃなかったのか。」
 自分でも信じられないほどの低い声が出た。
「少し事情を説明したいと思います。ここではなんですから、待合室の方へ。」
 全てわかっていたかのように、古泉は落ち着いていた。そして、その落ち着きに、俺は逆に不安になっていた。暗い病室の窓から見える吹雪に、大きく口を開けた暗闇の底を見ていた。


「どうぞ。」
 待合室の安っぽい汚れた皮のベンチに腰掛けた俺に、古泉は自販機で買ってきたコーヒーを渡した。悪いが、そんなものを飲むような気分じゃない。コーヒーの匂いが胃に染み込んで、俺はやっとあれから何も食べていないことを思い出した。
「心当たりはある、という感じだな。」
 古泉は俺の隣に座り、音を立てずに自分の缶コーヒーを口に含んだ。そして、目を閉じてうなずくと、短く、ええ、とだけ答えた。
「お前らが関係しているようなことなのか。」
 自分の発する言葉の中に、怒気を隠しきれない。もしも、こいつの言う『機関』とやらがくだらないことを仕掛けやがったのなら、絶対に許さない。
「僕の仮説が正しかったとしたら、僕たちが関係していると言えば、関係していると言えないこともないでしょうね。」
 なんだ、その煮え切らない返事は。苛立ちでコブシを握り締める力が強くなる。
「仮説というのは、なんだ。」
「涼宮さんです。」
 答えは予想外だった。涼宮?何を言っているんだ。それのどこが仮説だ。
「お忘れですか?あなたは信じておられないかもしれないですが、涼宮さんの例の力のことを?」
 俺は精一杯記憶の糸をたぐり寄せていた。思うがままに世界を変えられる力、確かにそんな話を聞いたことがある。うそ臭いまでの古泉の笑顔を思い出す。でも、だからといって。ということは、つまり
「お前は涼宮が望んだから、こうなったと言いたいのか?」
 足元のテーブルに置かれた漫画雑誌の表紙がどうしようもなく間抜けで、俺を馬鹿にしているように思えて、ひきちぎってやりたかった。
「ええ。」
 古泉の奴はとんでもない仮説をたった一言で肯定した。そのあまりに無感情な返答。お前は自分のいっている意味がわかっているのか。
「ふざけるな!」
 俺は立ち上がっていた。もしも、それが冗談だと言われても到底許せやしない。
「っていうことは、何か?涼宮の奴が、佐々木が死んで欲しいと願ったとでも?何を馬鹿なことをいっていやがる!あいつは、あいつはそんな誰かの不幸を本気で望むような人間じゃない!」
 確かに、涼宮は自己中心的でわがままで破天荒でむちゃくちゃな奴だ。けど、この1年足らずの付き合いの中で、あいつが誰かが自分のために不幸になることを望むような人間ではないことは、身に染みてよく知っている。あの孤島での得意満面な笑顔を。徹夜の編集作業に付き合ったことも。そう化けの皮を一枚はがせば、あいつはただの女なんだよ。ただの、少し怒りっぽいけど本当は友達想いな女なんだよ。
「僕も同意見です。」
 古泉は俺の目を見据えて答えた。口調はいつも通り穏やかだ。しかし、その力強い目線に、俺はそれ以上言い返すことは出来なかった。
「涼宮さんは、佐々木さんが死ぬことも、ましてや傷つくことも全く望んでいません。実際に佐々木さんが今現在生きていて、そしてあれだけの事故にもかかわらず奇跡的にほぼ無傷であることが証明です。」
 古泉の言葉は理路整然としていた。しかし、それが余計に俺を混乱させた。
「なら、なんで、佐々木は眠ったままなんだ?」
「おそらく涼宮さんがそう望んだからです。」
 古泉は真剣な目でそう答えた。ますますわからない。おまえ自身が今否定してみせたことじゃないか。額につめたい汗が流れているのがわかる。
「どういう、意味なんだ?」
「……誰にだってあるでしょう?いくら友達でも、一瞬、こいつさえいなくなってくれればと思ってしまうことが。例えば、自分よりほんの少しだけ成績が上だった、こいつさえいなければ自分が一番になれる、などね。」
 確かにお前の言う理屈はわかる。けど、涼宮がいったい佐々木に対して何を思ったっていうんだ。そして、なぜお前はそこまで確信めいている。
「けど、涼宮がいったい佐々木の何に嫉妬したっていうんだ。あいつは人一倍なんでも出来る。佐々木に対してうらやむようなことなんかないはずだ。」
 古泉は何がおかしいのか、苦情するように息を吐いた。緊張した空気が少しだけ緩んだ。
「本当に、あなたという人は。いや、でも、そんなあなたという人だからこそ、とも言えますかね。」
 なんだよ、急に笑い出して。
「何がおかしいんだ?」
「いえ、その原因であるはずのあなたがあまりにも無自覚であるように思えたので。」
 俺が原因?俺が原因で涼宮は佐々木に嫉妬している?
「何をわけのわからないことを言っていやがる。それは、ありえない。だって、涼宮は俺に恋愛なんて精神病だと言い切るようなやつだぞ。」
「あなたには涼宮さんが、男女の恋愛について全てを語ることが出来るような、心理学に秀でた方に見えるのですか?」
 俺は首を振る。
「あなたが言ったとおり、彼女はただの女性です。その精神面を同年代の女性の方々と比較する限りはね。ただ、ひねくれたポーズをつけたがっているだけなんですよ。」
 さすがの涼宮もひねくれっぷりについてお前にとやかく言われたくはないだろうよ。
「そうですね。」
 古泉は何事もなかったかのように鼻で笑った。
「とにかく、僕の伝えたいことは全て伝えました。そろそろ、お暇させていただきます。」
 そして、すっと立ち上がり、待合室の出口へと歩いていった。
「あぁ、言い忘れていました。」
 出口の一歩手前で立ち止まり、俺のほうを振り返る。
「涼宮さんを恨まないであげてください。思ってしまったことが現実になってしまうというのは、ある意味彼女自身にとっても不幸なことなのですから。」
 そして、俺に軽く目で合図すると、あいつは病院の廊下の暗闇の中に消えていった。


 そのまま病室へ戻ることもなく、俺は時間が止まったみたいに待合室に座り続けていた。あれからしばらくして佐々木のお母さんが目の前を通り過ぎていった。声を掛けてみる。一旦、家に戻られるとのことだった。看護婦さんにそう薦められたらしい。確かに見ているこちらが苦痛を覚えるほど憔悴していた。その小さな背中を見送ると同時に、すれ違いに一人誰かがこちらへ向かってきているのが見えた。


「あ、キョンくん。」
「こんばんは、朝比奈さん。」
 もう夜遅いというのに朝比奈さんが見舞いに来てくれたらしい。古泉の奴が連絡しておくと言っていたので、その連絡をうけて来られたのだろう。
「こんばんは。え、っと、その、佐々木さんは?」
 俺の顔を見て、何か声を掛けようと思われたようだが、うまく言葉に出来ないみたいだった。うす暗闇の中でも、いつもの笑顔が少し曇っているのがはっきりとわかる。
「まだ、です。」
「そうですか。」
 それっきり次に何を話していいか、わからなくなってしまったようだ。しきりに何か、俺を元気付けるような話題を探そうとしている。
「わざわざお見舞いに来てくれてありがとうございます。」
 結局、俺のほうから話を振った。朝比奈さんの顔に少し安堵のようなものが浮かぶ。
「いえ、そんな。あの、その、私にはあなたに言わなくちゃならないと思うところがあって。」
 普段ならそんな朝比奈さんをかわいいと思えるのだけれども、さすがにそんな余裕はない。改めて、自分がどれだけ煮詰まっているかを認識して、俺は苦笑いをした。
「とりあえず、佐々木の顔を見ていってやってください。せっかくなので。話はそれから聞きましょう。」
 そして、二人して佐々木の病室へ入る。あいつは相変わらず眠り姫のように眠ったままだった。この部屋だけ時間が止まっているんじゃないかと錯覚してしまいそうなくらいに。


 再び俺は朝比奈さんと待合室に戻っていた。
 話なら病室でも出来るが、正直、あの佐々木を目の前にして会話に集中できる気がしない。
 病院の窓から白く染まっていく町並みを眺めていた。
「真っ白、ですね。」
 朝比奈さんが静かに口を開く。
「ホワイトクリスマスってやつらしいですよ。」
「へぇー。」
 朝比奈さんは珍しそうに窓の風景を眺めていた。朝比奈さんのいる未来にクリスマスはないのだろうか。それとも雪というものがないのだろうか。
「この大雪も涼宮の奴が望んだから、とか言い出すんじゃないでしょうね。」
 俺は先ほどの古泉の言葉を思い出していた。
「私にはわかりません。でも、その可能性は否定できません。」
 窓から目線を俺に移した朝比奈さんは、真剣なまなざしで俺を見つめていた。どうやら、彼女の話さなければならないこと、に近づいたらしい。
「あなたが、俺に話したいことは、例の涼宮の能力関連のことですか?」
 朝比奈さんは覚悟を決めたように姿勢を正した。
「直接的に関係するのはそのことです。でも、私が本当にあなたに伝えたいことは少し違います。」
 涼宮の馬鹿げた能力。世界を思い通りに出来る能力。
「古泉の奴は、この一件は涼宮がそう望んだから、起こったことだと分析していました。朝比奈さんも同じ意見ですか?」
「はい。」
 朝比奈さんは力強く頷いた。
「涼宮が本当にそう望んだ、と朝比奈さんも思われているわけですよね?」
「ええ、そうです。」
 そして、朝比奈さんは一呼吸すると
「そして、私がお話したいのは、なぜ涼宮さんがそう望んだか、ということについてなんです。」
 まるで、俺は悪戯を見抜かれようとしている子供のように、背筋に刺すような緊張を感じていた。


「キョンくんは、涼宮さんの気持ちって考えたことありますか?」
 涼宮の気持ち。正直、そんなものは俺にはわからない。あいつのいかれた思考回路を理解しようなんて不可能な話だ。
 俺は正直に首を横に振った。
「やっぱり、そうなんだ。キョンくんらしいですね。」
 朝比奈さんは少し笑った。俺は怪訝な顔をする。
「私は、そのことを責めるつもりはありません。そうやって、キョンくんが鈍、じゃなくておおらかなおかげで涼宮さんは随分救われていると思います。だから、その、そのことについて責めるつもりはないんです。」
 どういう意味だ。
「じゃあ、質問を変えます。キョンくんは佐々木さんのことが好きですか?」
 唐突に飛んできた予想外かつ直球の質問に、思わず体勢が崩れてしまう。なんだって、涼宮の話をしていたのに、俺と佐々木の話題が出るんだ?
「いや、その、突然そんなことを言われても。」
「これは重要なことなんです!」
 朝比奈さんは珍しく語気を強めた。
 確かに、好きか嫌いかと言われたら、迷わず好きだと言うだろう。現に、今回のような事態になって、それが身に染みてよくわかる。でも、そんな言い訳じみた台詞は朝比奈さんを納得させる答えにはならないだろう。
「ごめんなさい。」
 また、唐突に朝比奈さんが謝ってきた。
「え、っと。」
 俺は言葉がうまく出ない。
「少し焦り過ぎちゃいました。あの、答えは今すぐでなくても大丈夫です。」
「そう、ですか。」
 俺は気の抜けた返事を返すのがやっとだった。
「キョンくんはもしも、今回の事件が本当に涼宮さんのせいだったとして、涼宮さんのことを怒りますか?涼宮さんのことを憎みますか?」
 それはずっと俺自身が逃げていたことだった。古泉の仮説を信じるということは、つまり、今回の事件の犯人は涼宮だと認めることになる。そして、それは同時にこの一年間で培ってきた涼宮への信頼を全て否定することになる。朝比奈さんの言葉は、そんな俺の弱い殻を突き破り、俺の心を静かに抉った。
「それは…」
 確かに佐々木をこんな目に逢わすような奴に対して、怒りを覚えないわけがない。憎しみを抱かないわけがない。だけれども、それは―
「ごめんなさい。俺にもよくわからないんです。だって、あいつが直接突き落としたわけじゃない。あいつが望んだから、それが実現してしまったと言われても実感が湧かない。なんていうか、こう現実感に欠けるんです。それに、俺にはなぜあいつがそんなことを望んだのかがわからない。」
 俺一人では到底解決できそうもない問題に対しては、頭を抱えるしかない。
「誰だって、人がうらやましくなってしまうことってあるでしょ?あぁ、私に代わってほしいって、願ってしまうことが。」
 わからなくはない。でも、それと同じような話は古泉としたことだ。
「朝比奈さんも、涼宮が佐々木に嫉妬していたと言われるんですか。」
「はい。」
 また、力強く肯定されてしまった。
「でも、だからこそ、彼女を恨んだり憎んだりしないでください。嫉妬心は誰の心にもあるものなんです。もちろん私にも、あなたにも。」
 涼宮の俺に対する気持ち。涼宮の佐々木に対する気持ち。そして、俺のこの二人に対する気持ち。
「きっと、ほんの少しだけうらやましいと思っちゃっただけなんです。ほんの少しだけ代わって欲しいと願ってしまっただけなんです。涼宮さんにはなんの悪気もなかったんです。だから、彼女を恨んだりしないであげてください。」
 朝比奈さんの声は心なしか、震えている気がした。
「もしそうだとしたら、俺はどうしたらいいんですか?」
 ここで、どうしたらいいかまったくわからない自分自身が情けなくて仕方がなかった。俺自身がきっとなんとかしなくてはいけないのに。
「まっすぐに彼女たちに向き合ってあげてください。」
 朝比奈さんの答えはシンプルなものだった。まっすぐに向き合う?
「変に涼宮さんを避けたり、涼宮さんのご機嫌を取ったりしないであげて。きっとそれは涼宮さんを傷つけるだけだから。彼女はそんなあなたの変化にはすぐ気付きます。だから、まっすぐに彼女に対して接してあげて。たとえ、その結果彼女が傷つくとしても、それがあなたの彼女に対する誠実さなんです。彼女に対する信頼なんです。大丈夫です。涼宮さんは強くて賢い人です。きっと受け入れてくれます。」
 まっすぐに向き合う。誠実。信頼…
「だから、キョンくん自信の気持ちを。涼宮さんと佐々木さんに対するあなたの気持ちをもう一度しっかりと見つめなおして。そうすれば、きっと大丈夫です。きっと大丈夫です。」
 朝比奈さんは両手を握り締めて、祈るように俺のほうを向いている。その表情は、はっきりとは見えない。だけれども、彼女が泣いていることだけははっきりとわかった。
「……わかりました。」
 そして、俺にはそう返すのが精一杯だった。少なくとも、今の俺には。


 そのまま朝比奈さんが落ち着くまで、十分ほど俺たちは沈黙の中にいた。涼宮、あいつが俺をどう思っているか。そんなことは考えたこともなかった。きっと、俺はあいつにとっては使い勝手のいい雑用係かなんかで、自分のわがままでふりまわしても問題ない相手。そんな程度だと思っていたのに。
 涼宮に対する怒りや憎しみ。そんなものが湧き上がってくるはずもなかった。古泉に断言してやったとおりだ。あいつは本気で人が傷つくことを望むような人間じゃない。一年足らずの付き合いだけれども、それだけは断言してやる。神様がそう言ったって、俺は否定してやる。
「そろそろ帰りますね。」
 泣き止んだ朝比奈さんは、そう言って静かに立ち上がった。
「ええ、気をつけて帰ってください。あと、今日はありがとうございました。」
 いえ、そんな、と朝比奈さんは謙遜していた。でも、朝比奈さんのおかげで、俺自身随分救われた。感謝してもしたりないくらいだ。
「わぁ、綺麗…」
 朝比奈さんの目線は窓の外の景色へと向いていた。
 白く染まった町並み。あれほど憎らしく感じた雪が、少しだけ暖かく、優しく感じた。そういえば、ここから見える景色はこんなに綺麗だったんだな。今まで気付かなかった。
 涼宮さんも、キョンくんとクリスマス過ごしたかったのかな―
 朝比奈さんはそう小さな声で呟いた。俺はただ石のように固まっていることしか出来なかった。


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最終更新:2008年02月05日 09:24
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