5-754「キョン」

「よう、お前もこのクラスなのか?」
その日、私の席の傍へ来た彼は少し緊張をしたような、それでいて私の緊張を和らげるような笑顔で話しかけてきた。
私と同じ予備校の教室、そこに彼がいた。
いや、正確に言うと中学校の3年で同じクラスだった。
でも、まともに会話したことはなかった。
そんな状況だったため、彼が私の顔を覚えていることに少し驚いた。
うまく言葉が出ない。
「あっ―」
思わずそう間抜けな声を出して、目を丸くしてしまった私の反応を彼は少し勘違いしたようだ。
「あぁ、えーと、覚えてねーかもしれないけど、俺は同じクラスの―」
違う。
そうじゃない。
私は覚えている、あなたの顔も名前も―
忘れたことはない。
「キョン」、確かにあの時そこにいたあなたはそう呼ばれていた―


あれは中学2年の2月だった。
その日は、まさに木枯らしが吹くような冷たい天気だったことを覚えている。
私は校舎裏に呼び出されていた。
「なぁ、お前さー誰とも付き合ってないんだろ?だったらさ、俺と付き合わね?」
上級生からの告白。
あまりよく知らない人物からの呼び出しだった。
正直、こういう人種の考えていることが私にはわからない。
なぜ、ろくに会話もしたことがない、相手のことをなにも知らないのに恋愛感情なんて持てるのだろうか。
せいぜい私の顔と名前が一致する程度にしか知らないはずなのに、全くもってして理解できない。
「すみません。その気持ちにはお応えすることはできません。」
そう言って頭を下げた。
あぁ、このセリフを何回言ってきたことだろうか。
しかし、このときばかりは少し様子が違っていた。

「ちっ!」
告白してきた上級生は、さっきまでの穏やかな態度を一変させ、舌打ちをした。
「ったく、ちーとばかしかわいいからって調子のりやがってよぉ!そんなに男を振るのが楽しいか?下手に出りゃあ、人を見下しやがって!きもいし、性格悪すぎんだよ、この変人女!」
と、罵詈雑言を私に向かって吐いてきた。
逆に、あなたのような人間を見下す以外どうしたらいいのか教えて欲しい。
「失礼します。」
そう言って私は踵を返してその場から歩き出した。
こんな奴に何を言われても、いちいち気に病むような相手ではない。
それはわかっている。
けれども、なぜ私はこんな男から罵詈雑言を浴びなければならないのか。
私はあなたに好意を示したつもりなんか毛頭ないし、好かれるようなことをした覚えもない。
気持ちは少しやるせなく、惨めだった。
「そんなんだから、お前はクラスの男子から嫌われて、女子からはハブられるんだよ!」
この言葉は背中からナイフのように私の心に刺さった。
本当にくだらない。
何が恋愛だ。
ことごとく男子からの告白を断る私は、いつしか男子からは敬遠され、女子からは疎ましがられた。
くだらない、みんな頭のおかしくなる精神病にでもかかっているとしか思えない。
自分では私をその対象として見るな、と意思表示しているつもりなのに。
私は早足になって、その場を一刻も早く立ち去ろうとした。
情けなくて、惨めで、涙が出そうだった。
校舎の角を曲がって、出て行こうとしたとき、一人の男子生徒とすれ違った。
私と入れ違いに校舎裏へ入っていく。
彼の力強い足取りは今でも覚えている。
「おい、待てよ!」
焼却炉の前にいたもう一人の男子がゴミ箱を置いて、先ほどの男子生徒を追いかけて、私の横を通り過ぎた。
どうやら彼らは掃除当番で、ここへごみ捨てに来ていたらしい。
もう一人の男子は私の顔を一瞥して、ばつの悪そうな顔をした。
おそらく、先ほどの一件は彼らに筒抜けだったのだろう。
第三者に聞かれていたことで、私は余計に惨めな気持ちになった。
もう、ここから走り去ろう―
そう思った刹那
「おい、ちょっとあんた!待てよ!」
彼の力強い声が聞こえた。

予想外の出来事に思わず足が止まってしまった。
校舎裏から声が聞こえてくる。

「あぁ、誰だよ、お前はぁ?」
「誰だっていいだろう!それよりも、あんた、あの娘に対して謝れ!」
「あぁ、何言ってんだよ、お前は?」
「でかい声で人のことをボロカスに言いやがって!」
「おい、やめろって、上級生だって―」
「あぁ、なんだよ、お前正義の味方気取りぃ?」
「あんたのやり方が卑怯なんだよ!あの娘はなんも悪いことしてないだろうが!」

一瞬何が起こっているのかよくわからなかった。
誰かが―怒って―くれている?
私のために?

「け?何だよ?お前あの変人女の事好きなの?馬鹿じゃねえの。あいつはちょっとかわいいからって、男のことなんざ馬鹿にしてるだけの女だよ。」

私はこぶしを握り締めた。
あいつの口から出た言葉が悔しかったんじゃない。
彼にそう思われてしまうのが耐えられなかった。
悔しさで涙がこぼれそうになったとき、

「あんたに彼女の心がわかるのか!わかろうとしたのか!?」

私は彼の言葉を一生忘れないだろう。
力強くて、どこかやさしい響きのあったあの声も。
気づけば、もう一度校舎裏の角へ足は向かっていた。
校舎の影から彼らの姿を覗き込む。
いまさら恥ずかしくて顔をあわせられない。
でも、彼の姿だけはこの目で見たかった。

「けっ、やってらんねえ。」
そう吐き捨ててあの上級生は彼らに背中を向けて歩き出していた。
彼ともう一人の人はその上級生の背中を見ていた。
彼らには私の姿は見えていない。
少し安心した。

「おい、お前、相手3年だぞ。」
「わりぃ、ついカッとなっちまった。」
もう一人の人が彼の肩をそう言って揺らすと、彼は両手を大げさに挙げて、申し訳なさそうにそう言った。

「それにお前偉くムキになっていたけど、佐々木と知り合いなのか?」
「すまん、知らん。それに実はすれ違っただけだったから、顔も覚えていない。」
「なっ、お前、ほとんど見ず知らずの同級生のために?馬鹿じゃねえのか?」
「許せないんだよ。ああいうのは。」
そう言うと彼は腰に手をあてた。
夕日が逆光になって、横顔もよくわからない。

「まぁ、でも大丈夫だ。自分の情けないふられ話を人にべらべらしゃべると思えないし。」
そういって彼はもう一人の肩を叩いた。
「まったく、お前は変なところで、正義感が強いというかなんと言うか。」
そういってもう一人の人は大げさに息を吐いてみせた。
「そろそろ行こうぜ、キョン。」
二人がこちらに振り向こうとしたとき、思わず隠れてしまった。
慌ててそこから走り出す。
顔が火照って心臓の鼓動が早くなる。
どうしたんだろう、私は。

気がつけば、校門の前まで走ってきていた。
ひざに両手を置いて息を整える。
西日が眩しい。
彼らに私の姿は見られていないだろうか。
もし、見られていたら―
そこまで、考えたとき私は頭を振った。
校門の柱に背をあずけて、息を整える。
そして、一言つぶやいた。
「キョン、っていうんだ、あの人。」

もう考えても仕方がないことだ。

そう思い直して、校門から家路を歩き始めた。
結局、顔も何も彼のことは何もわからずじまいだった、ただ一つ「キョン」という奇矯なあだ名を除いては―
そして、そのときはもう顔を合わすこともないだろうし、話す機会もないだろうと思っていた。

それから2ヵ月後の4月。
私は偶然にも同じクラスに「彼」がいたことを知ることになる。
でも、会話はできないでいた。
あの上級生の言った言葉、自分が彼にどう思われているかが怖かった。
彼は私のことを覚えているのだろうか。
でも、彼が近くにいてくれるだけで落ち着いたし、安心できた。

そして―
さらに偶然にも同じ予備校だった。
そして、この予備校で彼が話しかけてきた。


「あぁ、そうだよ。僕もこのクラスだよ、キョン。」
しまった。
彼の質問に対して、思わず彼のあだ名で答えてしまった。
少し眉をしかめて「ん?」というような不思議そうな顔を彼はした。
会話をしたことのない私に、唐突にあだ名で呼ばれたのだから仕方がないか。
「おっと、すまない。ついついみんながキミをそのあだ名で呼ぶものでね。本名よりもあだ名の方が先に口から出てしまった。もし、気分を害したのなら謝るよ。」
「いや、気にしてないから大丈夫だ。呼ばれ慣れてるしな。」
そう言って彼は笑った。
彼の笑顔はまるで悪戯をしたかわいい妹を見るようだ。
「そう言ってもらえるとありがたいよ。」
私も思わず笑い返す。
「隣いいか?この塾にはお前のほかに知り合いがいないんだ。」
彼は私の隣のいすを指差していた。
「ああ、全然かまわない。むしろ、僕もここに知った顔を見つけられなくて、困っていたんだ。」
「おぉ、さんきゅー。」
そう言って彼は私の隣の席に腰を下ろした。


で、当然のことながら、会話に困ってしまった。
せっかくだから、何か話さないと。
とにかく話題を振らないと―
「キョン、なんてすごくユニークなあだ名だね。どうしてそんなことになったんだい?」
彼のあだ名について聞いてみた。
今の流れなら不自然ではないし、何より自分も興味があったから。
なんでも、彼のおばさんが彼の名前の読みをもじってつけたあだ名で、妹さんが広めたらしい。
へー、妹がいたのか。
彼の面倒見のよさの理由が少しわかった気がする。
「へぇ。キミの下の名はなんと言うんだ?」
とりあえず、知らないふりを装うため聞いてみる。
話をしたことのない男子のフルネームを覚えているというのはどこか変だし。
彼も私の下の名を知らないからおあいこだ。
彼は口頭で名前の読みを教えてくれた。
「それがキョンになるのか、いったいどんな漢字で……あ、言わないでくれたまえ。ちょっと推理してみたい。」
わざとらしく考えるふりをしてみる。
ちょっとした悪戯。
最初から知っていたんだけどね、そう思うと自然に笑い声が漏れてしまった。
「多分、こんな字を書くんだろう。」
そう言って彼の名前をノートに書いて見せた。
思ったとおり、彼の顔に感嘆の色に染まっている。
ほんと、キミはだまされやすいというか、正直というか。
「由来を聞いていいかい?この、どことなく高貴で、壮大なイメージを思わせる名前の由来。」
ついつい褒めすぎてしまったかな?
彼の少しはにかむような笑顔がかわいい。
ぽりぽりと頭をかきながら、少し恥ずかしそうに由来を語ってくれた。
「いいね。」
そう言うと、彼はうれしそうな顔をした。
本当に素直な人。
「でも、キョンっていう方が僕は好きかな。響きがいい。僕もそう呼んでいいかい?」
私は彼のことを「キョン」と呼びたかった。
だって、私が初めて聞いたあなたの名前だったから。
あの日の校舎裏で。
この中学校で出会った人々の名前をすべて忘れてしまうとしても、この名前だけは最後まできっと覚えている―
でも、いきなりほとんど話したこともない彼をあだ名で呼ぶという気恥ずかしさから、ついつい余計な話を足してしまった。
彼があまりそのニックネームを気に入っていないんじゃないか、ってね。
あとで、冷静に考えると、彼のことをよく見ていますと墓穴を掘っていたようにしか思えない。
でも、彼はそんなことには全く気づいていなかったようだった。
とりあえずよかった―、と彼の鈍さにその時は安堵した。

こうして私は彼をあだ名で呼ぶことが出来るようになった。
それから、予備校への交通手段について話をすると、彼は私に自転車の後ろに乗ることを提案してくれた。
少し恥ずかしかったけど、うれしかった。

それから、席替えで彼の隣の席になった。
給食を一緒に食べながら、彼と話をするようになった。

まもなく、そういう話が好きな同級生たちから付き合っている、といううわさを立てられ始めた。
しかし、彼はなんら意に介さず、変わらずに私に接してくれた。
それに、彼と付き合っているといううわさが流れてくれたおかげで、余計な色恋沙汰のトラブルに巻き込まれなくなるというありがたい副産物もあった。
彼と出会えたことで学校生活が楽しくなった。
毎日が楽しくなった。

それから、いつだったか、彼にモテルモテナイについて話をしたことがあった。
私は、それをくだらないと一笑に付した。
散々今まで悩まされた話でうんざりしていたのもあるし、それにもう私にはそれ以上求めるものはなかったから。

『キョン』

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最終更新:2007年10月10日 11:07
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