14-814「ストーカー騒動」

 春の柔らかな日差しも終わり、暖かさが暑さに変わり始めた初夏の週末、俺たちSOS
団は例によって不思議探索へと繰り出していた。以前は二人か三人のチームに分かれてい
たが、春頃に起きたハルヒの気まぐれによりくじ引き制度は廃止され、五人全員で固まっ
て行動している。

 ハルヒは一人ずんずん進んでは、路地裏を覗いたりゴミ箱をひっくり返したりそこらへ
んの隙間に棒を突っ込んだりしている。あいも変わらず元気な奴だ。朝比奈さんは時々ハ
ルヒにいじられながらも献身的についていき、愛くるしい笑顔を振りまいている。ああ、
見ているだけで疲れが吹き飛ぶようだ。長門は着かず離れずぼんやりとついてきているが、
時折書店を見つけては意味深な視線を送ってくる。本はこの前買ったでしょ、またにしな
さい。で、あとは、ああ、古泉ね。なんかそこらへんにいるよ。どうでもいいけど。

「さすがにその扱いは傷つくのですが……」
 うるさい。さっき一人で逆ナンされやがって。お前は全国のもてない男の敵だ。
「逆ナンの一つや二つ、あなたに比べれば可愛いものだと思いますが」
 俺のどこに比較される要素があるってんだ。確かにナイフで刺されるような修羅場は経
験済みだがな、あれはまた別の話だろ。
「ええ、それはまったく別の話です」
「キョン! 古泉くん! 何してんの、次行くわよ!」
 声のしたほうを仰ぎ見ると、ハルヒははるか遠くで腕を振り回して叫んでいる。
いつの間にそんな所まで行ったんだよ。やれやれ、古泉曰く落ち着いたとは言ってもそ
の行動力は衰えることを知らないな。

 そんなことを思いつつ、急かされるままに早足で足を進めていると、通りの向こうに知
った後姿を発見した。あまり見慣れない私服姿だが、あの髪型には見覚えがある。そもそ
もあいつの後姿を俺が見間違えるはずがない。中学からの友人の、
「佐々木、だよな……?」
 だが、それでも俺は一瞬それが佐々木かどうかわからなかった。格好云々の話じゃない。
その挙動が普段の佐々木からかけ離れたものだったからだ。
 佐々木はあたりをきょろきょろと見回しながら、ふらふらと歩を進めていた。それは誰
かを探しているというよりも、逆に誰かから逃げているようだ。心なしか顔も青ざめてい
る。それほど長い付き合いではないが、佐々木のあんな様子を俺は見たことが無かった。
「おい、佐々木」
「きゃあ!」
 思わず近づきながら声をかけると、佐々木は悲鳴をあげて二三歩飛びすさった。その顔
にはおびえの色が濃く浮かび、体は縮こまり震えている。目にはうっすら涙が溜まってす
らいる。普段からは想像もできない、俺の知らない佐々木がそこにいた。
「しっかりしろ。俺だ」
 落ち着かせるため、できるだけ優しい声を出すよう心掛ける。
「キョ、キョン……。キミ、か……」
「お、おい! 佐々木!」
 俺のことを認識したとたん、佐々木は力が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
慌ててそばに駆け寄り顔を覗き込むと、遠目で見たよりもはるかにその顔色は悪く、全身
も初夏には不釣合いなほどの汗をかいている。
「いやすまない。キミの顔を見たら安心して、腰が抜けてしまったようだ。くっくっ、み
っともないところを見せてしまったね」
 いつもの笑い方にもまるで力が無い。無理をして笑っているのがばればれだ。
「どうしました? 具合でも悪いのですか?」
 異常に気が付いたのか、古泉が駆け足で近づいてくる。その後ろにはハルヒ達もいる。
その姿を見て俺は安心感を覚えると同時に、これはただ事では済まないだろうと予感した。

「ストーカーに狙われてる!?」
 場所を移した喫茶店で佐々木の口から語られた真相は、しかし俺の予想を大きく上回っ
ていた。同席しているハルヒ達もあまりのことに絶句している。
「ああ、ここ二週間ほどずっとなんだ。はじめは朝下駄箱に手紙が入れてあるだけだった
のだけど、そのうち家のほうにも手紙や電話がかかってくるようになって……。最近では
付け回されている気配があるんだ」
 ミルクティーを飲んで落ち着いたのか、佐々木の顔色はだいぶ良くなっている。それで
もまだ本調子ではないのは、その疲れた表情からうかがい知れる。

「だったら、何で一人歩きなんかしてるんだよ。余計危ないじゃないか」
「……家にいるとね、電話が鳴り止まないんだよ。線を抜こうかとも考えたんだけど、そ
したら今度は直接来るんじゃないかって思えて……」
 言いつつ佐々木はうつむいた。こうしてみると、以前より少しやつれたように見える。
何よりいつもとは比べ物にならないその様子から、佐々木がどれだけ疲弊しきっているの
かが解る。
「それに、それにね。外に出たら……もしかしたらキョンに会えるんじゃないかって、そ
う思って……。くっくっ、まったくどうかしているよね? この広い街中で僕とキミが出
会う確立なんて、」
「けどこうして会えたな」
 佐々木の言葉に割り込む。
それ以上自虐の言葉を言わせないために。
「もう大丈夫だ」
 できるだけ力を込めて、できるだけ優しさを込めて言った。
少しでもこいつの傷を包み込むために。

「あ――」
 そして佐々木は泣いた。あの佐々木が。人前で涙どころか、感情を出すことさえよしと
しない佐々木が大粒の涙をこぼしながら、俺にしがみついて泣いた。
 ぎりっ。自分の奥歯が軋むのが解る。硬く握り締めた拳は爪が食い込み、痛みの電気信
号に脳へ送ってくる。
だが、そんなものはどうだっていい。俺ならいくら傷ついたってかまわねえよ。だがな、
こいつを傷つけることだけは許さねえ。それだけは絶対に許せねえ。
 拳をほどいて、いまだ泣きじゃくる友人の頭を撫でた。小さく震えるそれは、か弱い女
の子の頭だった。

「許せないわね……」
 今まで黙っていたハルヒが口を開いた。その声には強い怒りが込められ、その眼光は鋭
く尖っていく。いつもの烈火のような怒りではなく、静かな、しかし凄まじい怒りだ。
「たった今、そのクソストーカーをSOS団の敵と認定したわ。これより私達の持ちうる
全戦力をもってこれを排除する、文句無いわね」
 団員一人一人の顔を見ながら、力強く宣言した。
 古泉が頷く。その目には常に無い剣呑な光が宿っている。
 朝比奈さんが頷く。その拳の震えはいつものおびえとは違うものだ。
 長門が頷く。このときばかりはきっと俺じゃなくてもこいつの気持ちが解るだろう。
 俺が頷く。ああ、是非も無えよ。佐々木を泣かすような奴はたとえ大統領だろうとぶち
のめしてやる。

それから俺達は作戦を練るためさらに場所を移すことにした。
 やってきたのは我らがSOS団本部こと文芸部室。ここなら佐々木の泣き顔を人前にさ
らすこともないし、不審者が侵入したらすぐにわかる。なにより作戦は本部で練るものな
のだとハルヒは力説していた。
「はいどうぞ」
 朝比奈さんが入れた紅茶の香りが部屋を満たす。柔らかな香りに包まれて、興奮してい
た心も平静を取り戻してきた。
 気概がそがれる気もするが、今は佐々木を落ち着けることが最優先だ。何より、ちょっ
とやそっとのことでは今の俺達の怒りは収まらない。
「キョン、その……さっきはすまない。情けないところを見せて……」
 まだ力はないが、さっきよりはずいぶんとマシな声で佐々木がおずおずと言ってきた。
 流石は朝比奈さんの紅茶だ。喫茶店のものとは威力が違う。
「さっき……なんのことだ? 小泉、お前心当たりあるか?」
「いえ、何のことでしょう。特に思い当たりませんね」
 古泉と一緒にすっとぼけてみる。
 ここら辺の察しのよさは頼りになる。
「……ありがとう」
 そんな俺達の様子を見て佐々木は静かに笑った。
 これもさっきとは違う、本当の笑顔だ。

「うん。どうやらだいぶ回復してきたみたいね。それじゃ、そろそろ作戦会議を始めよう
かしら。佐々木さんには少し質問したいんだけど、大丈夫?」
 ハルヒが気遣わしげに聞いてくる。今まで静かにしていたのも、こいつなりに気を遣っ
てのことなのだろう。
「ええ、大丈夫。始めて」
「それじゃ、まずいきなりなんだけど、佐々木さんはストーカーについて心当たりある?」
「……いいえ、ないわ」
 ストーカーという単語に一瞬身を強張らせたが、すぐに持ち直ししっかりと受け答える。
「本当に? 例えば、付き合っていた相手とか、告白されて振った相手とかは?」
 佐々木の様子を見て、大丈夫そうと踏んだのだろう。ハルヒが質問を重ねる。
「今まで誰かと付き合ったことはないし……。高校に入って告白されたことは何度かある
けど、全部その場で断ってきたし、最近はそういうのもなかったわ。今の高校には親しい
異性もいないし……」
 佐々木はちらちらと俺を伺いながら答えた。やはりまだ不安が残るのだろうか。
 安心しろ。ハルヒも古泉も長門も朝比奈さんも信頼できる。俺が保証するよ。
「……。まあ、そんな感じで」
「……。ええ、そんな感じね」
 佐々木とハルヒはため息をついて締めくくった。
 くそ、交際関係からはホシの特定はできないか。

「うーん。以前振った相手が付きまとうにしては、タイムラグがあるわね」
「そうとも限りませんよ。病気の潜伏期間のように、水面下に溜め込んだコンプレックス
が今になって現れたのかもしれません」
 確かに古泉の言うことにも一理あるが、それだと相手を特定することなんて不可能じゃ
ないか。それこそ高校に限らず、今までに出会った男全部が対象になってしまう。
「どころか、もしかしたら佐々木さんが出会っていると認識していない場合もあります。
道端ですれ違っただけで一目惚れし、妄想に取り付かれてストーキングに及ぶというケー
スもありますから」
「つまり、ホシの素性を挙げて直接叩くってのは無理ってことか。となると……」
 そういいながらも次の言葉が続かず、沈黙する。
 他の皆も同様で、いい作戦が思い浮かばないようだ。
 いや、逆か。いい作戦はあるんだ。単純で最も効果的な、誰もがまず思いつく作戦が。
けれどそれは、
「僕が囮になろう」
「!」
 佐々木はさも名案だろう、というようにこちらを見返しながら言った。
「僕が囮になる。これが今打てる手の中で最も簡単で効率的だと思うよ」
「いや、けどそれは……」
 そんなことさせるわけにはいかない。
 お前さっきまであんなに震えてたじゃないか。
「気遣いありがとう。けど僕の問題を解決するのに僕だけ何もしないというわけにもいか
ないだろう。確かに、確かにとても怖いけれど、でも」
 佐々木は俺の目を見た。その目の中には、恐怖や不安の色が浮かんでいるが、その奥に
不思議な光が見える。俺を引き込む、あの佐々木の目の光だ。
「守ってくれるんだろう?」

 俺は何と答えていいか解らず、思わずハルヒのほうを向きそうになった。
 けれど寸でのところで踏みとどまる。
 佐々木は俺に聞いているんだ。
 だったら、俺が答えなければならない。
 そして俺が答えるなら、その答えは決まっている。

「もちろんだ」


 その後の会議によって、流石に夜間の囮作戦は危険すぎるということになり、作戦決行
日は翌日の日曜に回され、佐々木は万が一に備え、今晩は長門の家に泊まることになった。
 ハルヒは二人だけでは心配だから自分も泊まると言い張り、強引に長門の部屋に上がり
こんでいる。心配しなくても、長門のそばにいれば地球上のどこよりも安全だよ。
「本当にすまない。何から何まで世話になって」
「気にするな。困ったときはお互い様だろ。それに中学時代に受けた俺の恩はまだまだこ
んなもんじゃ返し足りねえよ」
 それだけ言うと申し訳なさそうにしていた佐々木の顔も幾分か晴れたようだ。
「それじゃあな。今日は疲れたろうから早く寝ろよ。ハルヒがうるさいかもしれんが」
「大丈夫さ。今の家に比べたらこっちのほうが何倍も安心できる。久々に落ち着いて眠れ
そうだよ。それに――」
 佐々木は俺のほうを向くと、いつもとは違う女の子のような笑顔で言った。
「今日はいい夢が見れそうだ」

 翌日、作戦決行日。俺はいつも以上に早起きし、朝食のパンを多めに腹に詰め込んだ。
一晩経ったが、気合は充分。ストーカーに対する怒りは欠片も収まっちゃいない。それ
は長門の部屋に集合した全員ともに言えることだった。

「それじゃあ、昨日の作戦通り行くわよ。これからキョンと佐々木さんは二人して町に繰
り出す。ただストーカーがこっちを見失ってる可能性もあるから、一旦佐々木さんの家ま
で行くこと、いい?」
 佐々木と俺が一緒に行動することは昨日俺が提案したものだ。その時はただ佐々木を一
人にするのが不安だっただけなのだが、ストーカーを吊り上げるにはいい餌になるだろう。
「私達は昨日の喫茶店とかで顔を見られてる可能性があるから、念のためかなり距離をと
って追跡するわ。だから何かあってもすぐには駆けつけれないかもしれない。少しでも不
審なことを感じたらすぐに連絡するのよ」
「了解だ。それにもしものときは一応俺も男だ。ちっとは気合を見せてやるよ」
「よし、いい心がけね。それとキョン、ちょっと」

 ハルヒが俺の襟をつかんで隅っこに引っ張って行く。こら、伸びるだろうが。
 何事かといぶかしんでいると、何やらもごもごと口を動かしたあと、上目遣いにこちら
を睨みつけてきた。
「ほんとはこんな塩を送るような真似したくないんだけど。あんたバカだから、解ってな
さそうだし、言っとくわ。今回のこの任務、」
「デートじゃないってんだろ。そんなことわかって――」
「デートしなさい」
「は?」
 ハルヒの予想外の言葉に、俺は間抜けな声を上げてしまった。
「昨日に比べたら、そりゃ元気には見えるけど、佐々木さんはまだ無理してるわ。昨日あ
んたが帰ったあとのしょげっぷりなんかひどかったんだから。周りに注意を怠るのは忘れ
ちゃダメだけど、それはこっちでできるだけバックアップするから、あんたはできるだけ
佐々木さんを楽しませることに集中しなさい」
 ハルヒは不機嫌そうにそれだけ言うとすぐに背中を向けてしまった。
「……ああ、わかった。任せとけ」
 そうだよな。ストーカーをぶちのめすのは当然のことだが、それ以上に佐々木に元気に
なってもらわなくちゃいけないよな。
「言っとくけど、今回だけよ。こんな特例は」
「おう。わかってるって」
「……あんたは絶対解ってないわ」

 ハルヒのため息を背に受け、俺と佐々木は出撃した。途中佐々木の家に寄って佐々木が
余所行きの服に着替えると準備は万端だ。ハルヒたちに報告を入れて町へと足を進める。
 ウィンドウショッピングをしたり喫茶店に入ったりしながら、ハルヒから助言を受けた
俺はひたすら話題を振りまくり、とにかく喋り通した。恋愛経験のない俺にできることな
んざ口を動かすことぐらいのものだからな。
 SOS団の今までの活動と俺が被ってきた被害のこと。国木田の変わらない飄々ぶりの
こと。新しくできた谷口というアホな友人のこと。アホな谷口が起こしたアホなこと。ア
ホだと思っていた谷口が予想を超えて本当にアホだったということ。
 はじめはどこか硬かった佐々木の笑顔も会話が重なるにつれ、自然なものへと変わって
いった。佐々木の笑顔の糧になれたのなら、谷口も本望だろう。
「くっくっくっ、なるほどね。どうやらキョンは涼宮さんたち以外にもよい友人に恵まれ
ているみたいだね」
「いや、よい友人ではないな、あいつは。強いて言えば悪友の類だろ」
「それにしたって羨ましいよ。僕は高校に入ってまともな友人一人作れなかったんだから」
 佐々木の声のトーンが変わった。
 思わず立ち止まり顔を覗き込むと、微笑を返された。
 俺の見たい笑顔はそんな寂しいものじゃない。

「……橘とか、いるじゃねえか」
「確かに橘さんはいい人だよ。けど、僕の友人かと聞かれたら疑問が残る。結局のところ
彼女たちは僕の能力とやらに用があって近づいてきたのだから」
「それは……」
 否定の言葉が続かなかった。
 断言できなかったわけじゃない。
 言っても届かない気がしたからだ。
 目の前にいるはずの佐々木がどこか遠くにいるように感じた。

「それとも疑問に思わなかったのかい? どうして僕が今回のことを彼女たちに相談しな
かったのか」
 もちろん、思わなかったわけではない。
 佐々木の話を聞きながら、すぐにその考えには思い至っていた。
 橘は古泉の機関とタメを張るだけの組織の一員だ。ストーカーの一人や二人、何の問題
もなく処理して見せるだろう。
 けれど佐々木は橘に相談しなかった。助けを求めなかった。
「前にも話したと思うけど、僕はね、常に理性的でありたいと思っているんだ。昨日の喫
茶店で見せたように人前で泣いたりおびえたりすることは、僕にとっては醜態以外の何物
でもないんだよ。確かに橘さんはいい人だよ。けど、醜態をさらせるほどに心を開くこと
はできない。彼女達には悪いけどね、くっくっくっ」
 佐々木は喉を震わせて笑った。
 俺が聞きたいのはそんな哀しい声じゃない。

「俺にも……か?」
「え?」
「俺に相談しなかったのも、同じ理由なのか?」
 声が震えているのが解る。
 俺にとって佐々木は大切な友人だと思っていた。
 けれど、もしかしたら佐々木にとって俺はただの元クラスメイトなのかもしれない。そ
んな思いが恐怖となって俺の心に忍び込んでくる。

「違う!」
 佐々木は珍しく声を荒げて否定した。
「違う、そうじゃない。キミには、キミになら僕は全てを委ねてもかまわないと思ってい
る。キミは僕が心を許しているたった一人の親友だ。でも……」
 佐々木は苦しそうに、傷口から血を絞り出すように続けた。
「でも、キミのそばには涼宮さんがいる。僕は彼女には、彼女にだけは弱みを見せたくな
い。それだけはどうしても我慢できないんだ」
「……わかんねえよ」
 言いながら、頭の中ではうっすらと理解できていた。
 こいつは人に頼るのが苦手なんだ。
 俺と違って何でも一人でこなしてきたから、誰かに頼ったことがない。
 だから頼り方が解らないんだ。
 何でも知ってるくせに、こんな簡単なことも知らないんだ。
「!! キョ、キョン!?」
 気が付いたら俺は佐々木を抱きしめていた。
 器用なくせに不器用なこの友人が、急に愛おしく思えた。
「バカだなぁ、お前は」
 苦笑して耳元で呟く。
 佐々木の顔はこちらからは見えないけれど、不思議とどんな表情なのか解る気がした。
「まさかキミにバカと言われる日が来るとはね。くっくっ、けど反論はできないな。ああ、
確かに僕はバカだった」
「今遠まわしに俺のこと馬鹿にしなかったか?」
「くっくっくっ、さあどうだろうね」
 離れてみるとそこにはいつもの笑みを浮かべた佐々木がいた。
 俺が見たかったのはその笑顔だ。俺が聞きたかったのはその笑い声だ。
 俺は久しぶりに見るその笑顔にしばしの間見とれてしまった。
 だから、背後から近づくそいつに気付くことができなかった。

「彼女から離れろ」
 後ろからかけられた声に、心臓が縮み上がった。
 慌てて後ろを振り返る。至近距離といってもいいほどの近さで一人の男が立っていた。
 普通の男だった。脂ぎったデブでもなく、やせ細った眼鏡でもなく、街中にいれば誰に
も気付かれないような普通のどこにでもいる男だ。
 ただその瞳だけは、まるで掃除前のプールの水のように濁り虚ろな視線を向けている。
 佐々木は俺の後ろに回り、シャツの裾を握り締めている。
 その反応から確信した。こいつだ。
 こいつがストーカーだ。
 こいつが佐々木を泣かしたんだ。
 こいつが佐々木を追い詰めたんだ。
 こいつが佐々木を傷つけやがったんだ。

 腹の底からぐらぐらと怒りが湧き上がってくる。その怒りを隠すことなく、そのまま男
の空虚な目を真正面から睨みつける。
「彼女から離れろ。嫌がっているじゃないか」
 しかし俺の視線などお構い無しに男は、話しかけてくる。
 気持ちの悪い声だ。目も虚ろなら声も虚ろだ。まるで感情が読み取れない。
「嫌がらせてるのはどっちだよ」
「僕は彼女の恋人だ。彼女に手を出すな」
 まるで会話が通じない。初期の長門だってもう少し意思疎通できたぞ。
「良かった。やっぱり悪い虫がついていたんだね。最近電話してくれないから心配してた
んだ。でも大丈夫、すぐに追い払ってあげるから」
「!!」
 男は俺じゃなく佐々木に話しかけた。虚ろな目のまま口元だけ吊り上げ笑うさまは生理
的な恐怖心を引き起こす。
 俺は両手を広げて佐々木を庇う。この男の濁った言葉が、この男の淀んだ視線が佐々木
に届かないように。
 男は一瞬顔を歪めたが、すぐに元に戻しそのまま懐に手を入れた。その動きがあまりに
自然だったので、一瞬名刺でも出すのかと思ってしまった。
 果たして男の手には小ぶりのナイフが握られていた。
 はん。朝倉のに比べたらずいぶん可愛い凶器だな。

「キョ、キョン!」
 背後で佐々木が声を上げる。なんだ佐々木、お前はナイフに慣れていないのか。俺は慣
れてるぞ、一回刺されたこともあるしな。
「こんなときにふざけている場合か! 早く逃げよう!」
「いいや、こいつはここでぶちのめす」
 すでにポケットの中の携帯は短縮ダイヤルを発信している。すぐにでも援軍が駆けつけ
てくる。こいつをぶっ倒すのにこれ以上の機会はない。
 それにな佐々木。俺の堪忍袋の尾はとっくの昔にぶっちぎれてんだよ。
「何が、おかしい?」
 ここに来て男が初めて表情らしい表情を見せた。怪訝そうに俺の顔を覗き込んでいる。
 俺は笑っていた。自然と口元が歪んでくる。
「いやなに、昨日のうちに佐々木に会えて良かったと思ってな。今まで信じてなかったけ
ど、案外あるのかも知れねえな、運命ってやつは!」
 言い終える前に男の腹に蹴りを打ち込む。
 不意をつかれた男は二三歩後ずさり、しりもちをつく。
 こちらを睨み返す目には危険な光がともっている。だがそんなもの、ハルヒの目の光に
比べれば灯台の前の蝋燭みたいなもんだ。
 周囲が騒がしくなってきた。ようやく事態に気付いたようだ。
 これで安心だ。万一俺に何かあっても、佐々木は守られる。

「佐々木、よく聞け」
 男の殺意を全身で受け止めながら、俺は佐々木に話しかけた。
「橘はお前の友達だ」
「え……?」
 佐々木の閉鎖空間の中。俺に向かってその素晴らしさを説明する橘は、自分の神を誇る
宗教家なんかじゃなかった。自慢の友人を紹介するただの女の子だった。
「それから忘れてやるなよ。国木田だってお前の友達だろ。いつも飄々として、第三者気
取ってる奴だけど、あいつだって頼りになるんだ」
 男がゆっくりと立ち上がる。目をナイフのようにぎらつかせ、こちらに歩み寄ってくる。
 男を見据えながらも俺は背後の佐々木に語りかける。
「それとな、佐々木。お前が何でハルヒに弱みを見せたくないのか知らないが、これだけ
は言っておく。あいつは、お前の言う醜態なんかこれっぽちも気にしやしないぞ!」
 もう目の前に男が迫ってきている。
 それでも俺は佐々木に語りかける。
「どっかの団長さんが言ってたぜ。今はもう果報は寝て待ての時代じゃないんだと。穴掘
ってでも見つけなきゃいけないんだってよ」
 俺がSOS団に入って学んだこと。ハルヒたちに教えられたこと。
 それを今、俺から佐々木に伝える。

「待ってるだけじゃダメなんだよ! 助けて欲しいならそう言えよ! つらかったら泣き
つけよ! 勝手に遠慮して距離作るな、友達だろうが!!!!」

言い切った瞬間、右の頬に衝撃が走る。
 男の拳が目の前を横切る。
 左フックか。ナイフばかりに気を取られていた。
 顎には入らなかったようだが、バランスを崩す。
 男の気持ち悪い笑顔が目に入る。
 鈍い光を放って、ナイフが踊る。
「キョン!!」
 佐々木の悲鳴が聞こえる。
 俺のわき腹にナイフが突き刺さ―――らない。
 さらさらと、俺に当たる端から砂のように崩れ、風に飛ばされていく。
「情報連結解除」
 男の後ろには駆けつけた長門の姿があった。

「っらあ!」
驚愕に目を見開く男の顔面に右の拳を叩き込む。
「ぐあっ!」
 男はのけぞりたたらを踏む。いい位置だ、そのまま動くなよ。
「うおりゃああああああああ!!!!」
 怒号と共に全力疾走してきたハルヒが渾身のドロップキックを放つ。
 高さ、角度ともに完璧に男の横顔を捕らえ、道の向こう側にまで吹き飛ばす。
 二転三転し男はゴミ箱に突っ込み、少しの間ぴくぴくと痙攣していたが、やがてそのま
ま動かなくなった。
「…………」
 唖然として固まる周囲をよそに、ハルヒは
「例え天下の公僕が見逃しても、私たちSOS団の目の黒いうちは、佐々木さんには指一
本触れさせないわ! さあ、この念書にサインして、金輪際佐々木さんの半径4000キロメ
ートル以内に近づかないことを誓いなさい!」
 などと勝ち口上を挙げ、動かない男の腕を引っ張り、無理やり拇印を取ろうとしている。
 まったく、その傍若無人な暴れっぷりは味方にしている分には心強いな。

「……確かに彼女は僕の弱みなんか一片も気にしないだろうね」
 後ろで佐々木が呟くのが聞こえた。


「それではよろしくお願いします」
 男はその後駆けつけた警察官(の格好をした田丸兄弟)に引き取られ連行されていった。
 小さくなっていくパトカーを眺めながら俺は古泉に尋ねた。
「あいつ、あれからどうするんだ? 警察に引き渡すのか?」
「いいえ。ストーカー犯罪に対する警察の腰の重さは定評がありますからね。内々で処理
させていただきます」
「具体的には、どうすんだよ」
「そうですね、橘さんの組織にのしでも付けて送ろうかと思っていますが」
「そりゃいい。少なくとももう二度と佐々木には近づけないだろうぜ」
 しかし、だったらもう一発くらい殴っとくんだったな。
「やれやれ、物騒なことを口にするね。キミは一年見ない間にずいぶんやさぐれてしまっ
たようだ」
 佐々木が苦笑しながら近づいてきた。
 さっきまで朝比奈さんに介抱されていたのが効いたのだろう、その顔は以前のように生
気を取り戻している。あの人の癒しパワーはある種最強だからな。

「まあ、この一年猛獣のもとで鍛えられたからな」
「誰のことよ、誰の」
 佐々木の後ろからハルヒがじとっと睨んでくる。
 ああ、これに比べたらあの男の視線なんてほんと大したことないな。
「気軽に言ってくれるけどね。つい先ほどまで僕は生きた心地がしなかったよ。僕のこと
でキミがあれほどまで怒ってくれるのはとても嬉しいよ。けどもう少し危険を省みてくれ、
後生だ」
 そういって佐々木はまっすぐに俺の目を見据えてきた。
 ああ、すまなかったな。心配かけちまった。次からは自重するよ。
「解ってくれたならそれでいい」
 満足げに頷くと、佐々木は少し距離を置き俺たち全員に向き直り、頭を下げた。
「今回は本当にお世話になりました。心の底からお礼申し上げます。本当に、ありがとう
ございました」
 佐々木が顔を上げる。そこにはここ二日どころか俺が知る限りでも見たことがないほど
の飛び切り上等な笑顔があった。
 皆がその笑顔に、安堵の息をつく。
 これで事件は無事解決、と思われた……のだが。
「ただしこれはこれ、それはそれ。今回の恩は必ず返させていただきますので、例の件に
関しては今後も遠慮なく挑まさせてもらいますから」
 佐々木はにっこりと笑顔を浮かべ、宣言する。
 さっきまでの笑顔とは異なり、妙な圧力が押し寄せてくる。
「どうぞ。この程度のことでやいやい言うほどSOS団の懐は小さくありませんから。そ
れよりそちらこそ、あんなこと今後も許されるとは思わないでね」
 その笑顔を真っ向から迎え撃つハルヒ。
 気が付けば長門も朝比奈さんも、妙な威圧感を放っている。
「うふふふふ」
「くっくっくっ」
 笑顔と笑顔が交差する中で、途方に暮れる俺と古泉。

事件は無事に終わったが、もしかしてもっととんでもないことが始まっているんじゃな
いだろうか。

























「アナザーエンド」

鈍い光を放って、ナイフが踊る。
そして次の瞬間、
「「「私のキョンになにすんじゃあああ!!!」」」
 怒号がハミングして、
男の背中にハルヒのドロップキックが突き刺さる。
 男の顔面に佐々木の後ろ回し蹴りが決まる。
 男のみぞおちに長門の肘鉄がめり込む。
 男の顎を朝比奈さんの掌底が貫く。
「がはあっ!」
 四方からの攻撃に、ダメージを受け流すことも出来ず、男はその場に崩れ落ちた。
 しかし四人からの攻撃は止まない。
 女子供でも絶大な攻撃力を誇ると言われる踵での踏みつけ攻撃を執拗に繰り返す。
 あまりの迫力に身動きが取れずにいると、古泉が俺の肩に手を置いた。
「あなたが将来どのような道を進まれるかは存じませんが、これだけは言っておきます。くれ
ぐれも喧嘩だけはなさらないように」
 普段なら軽く聞き流す古泉の言葉も、今回ばかりは真摯に受け止めることにした。

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最終更新:2007年07月21日 08:18
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