22-723「アンダー・グラス・ラブソング」-7

18「君が微笑めば、世界も君と微笑む」


 あの日から数えて、これが何度目の日曜日だろうか。思い返せば、あの日からいろいろあった。本当にいろいろあった。俺たちは透明なガラスみたいに悪意なく、無邪気で、砕けてはそのカケラで傷つけあった。そして、ばらばらのカケラになって、泥まみれで地面に落ちて、それからほんの少しだけ大人になった。
 夕暮れ。いつものあの駅。プラットホームにあの普通列車が入ってくる。俺の乗る場所は決まっている。そこであいつが待っていると言ったから。
 ゆっくりと滑り込むように列車がホームに入ってくる。ドアを開いて、そこから人々を吐き出す。俺は、その吐き出される人の波が途切れるのを待ってから、ドアの前へと歩き始める。
 車両の中に足を踏み入れる。そして、辺りを見回す。その車両の中、いつも同じ場所に座っている小さな背中を見つけた。
「よぉ。これから、お前のスケジュール帳には何か予定が書き込まれているかい?」
 俺に声を掛けられた少女は手に持った文庫本からゆっくりと目を上げる。
「残念ながら今日のスケジュールは埋まってしまっているんだ。キミとの約束でね」
 西日が当たって、彼女は眩しそうに目を細める。そして、それからゆっくりと頬を緩める。
 週末の地方私鉄。この場所は俺たちが何度も会った場所。普通電車の片隅の席。予備校帰りの鞄を膝の上に載せて、文庫本を広げる佐々木を見つけた場所。
 約束の日、俺はこの電車へ佐々木を迎えにやって来た。

「驚かせてやろうと思ったのに、全く動じないな、お前は」
「なんとなくキミがここに現れる気がしていたからね」
 柔らかく微笑む佐々木の顔を夕日が照らす。
「俺の行動なんてお見通しか。せっかく驚かせてやろうと思ったのに、つまらねえな」
「おとなしく驚いてあげるほど、僕は素直な人間ではないね」
 わざとらしく口を尖らしてみせる俺を、佐々木は悪戯をした弟を見るような目で見ている。
 佐々木の前でつり革につかまりながら会話をする。ここで最初にあいつに会ったときもこんな風にしていたっけな。
「キミのほうこそ、よく僕がこの電車に乗っているとわかったね」
「いつだってそうだっただろ」
 あの春休み最後の日以降、ずっと佐々木はこの電車のこの車両に乗っていた。一度も違えることなく。この電車に乗ると必ずあいつがいた。あの約束を愚直に守り続けていた。

「佐々木が俺のことを訊いていたって、どういうことだよ」
「どうもこうも、そのままの意味だよ」
 これはいつだったかの国木田と谷口と飯を食っていたときの会話の続きだ。国木田はいつでもポーカーフェイスでなにを考えているのかわからなくなる瞬間がある。突然に、国木田がその話をし始めた真意が俺にはわからなかった。
「第一なんでお前がそんなことを知ってるんだ?」
「僕らと同じ中学から来た子が同級生にいてね。って言っても、キョンと同じクラスになる前の友達だからキミは知らないだろうけど。まぁ、その子が佐々木さんと仲が良くて、それで、その子経由で僕にその話が来たんだ」
「また、ややこしい説明だな」
 谷口が横から口を入れた。
「それで?」
「一応、客観的な事実を説明しておいたよ」
 なるほど。国木田からその友達経由で佐々木にハルヒの話が伝わっていたのか。これで、佐々木がなぜハルヒのことを知っていたのかが納得できた。
 けど、佐々木の奴はなぜ俺に「俺から話しを聞いた」などと嘘をついたのだろう。
「その客観的な事実っていうのはどういうのだ?」
「キミの高校生活について僕が見たところをそのままに。でも、その子から佐々木さんにどういう風に伝えられたのかは僕にはわからないけどね」
 また何か色々と誤解を招くようなことが伝えられたのではないだろうか。どうも、周りには誤解している連中が多いからな。
「しかし一体なんでまた、そんなことをしたんだ、あいつは」
「さぁ」
 国木田は何食わぬ顔でまた弁当に箸を付け始めた。
「でも、彼女はなんだか楽しそうだったって聞いたよ。よっぽどキミに再会できたことが嬉しかったんじゃないかな」

 再会、か。さよならを言った覚えはなかったのだけれども、気が付けばそれだけ距離が離れていたのか――

「キョン、物思いに耽ってどうしたんだい?」
 佐々木が、窓の外、遠くの景色をぼんやりと眺める俺に、不思議そうに尋ねてくる。
「いや、なんでもない。少し、少し色々なことを思い出していただけだ」
「そうかい」
 佐々木はそれ以上何も言ってこない。俺自身もそれ以上聞かれても何を答えていいかわからない。ただ、はっきりとわかっているのは、離れていた距離は確実に縮まっているということだけだ。俺がほんの少し手を伸ばせば触れられるくらい佐々木は近くにいる。
「キミから今日の待ち合わせ時間を指定されなかったので、てっきり忘れられたものだと思ったよ」
「そうか? 待ち合わせの方法なんて決まっているじゃないか」
 あの日の再会以降、佐々木はいつも同じ電車にいた。そして、俺たちはいつもここで会っていた。
 2秒ほどの沈黙の後、
「ごめん。わかっていて訊いた」
 佐々木は喉の奥で形容しがたい声を出して、安心したように笑う。
 夕日に照らされた車内を穏やかな空気が包む。俺も佐々木も、なんでお互いに触れ合うことをあそこまで恐れていたのだろうか。本当にまるで馬鹿みたいだ。

 電車が突然揺れる。どうやら駅に着いたらしい。俺は佐々木が席から立ち上がるのを見届けてから、車両から降りた。佐々木はそのまま俺の後ろに付き従って来た。
 日曜日の駅前はほどほどに混んでいる。ファミレスから出てくる家族連れ。買い物帰りのおばちゃん。ゲームセンターから出てくる中学生。変わらない光景。中学時代から変わらない光景。
 ちゃちな噴水が夕日を浴びている。それを見て、俺はいつだったか、佐々木と携帯電話の番号を交換したことを思い出した。
「お前、携帯の使い方はもう慣れたか?」
「失礼だな。あいにくだが、僕は機械の扱いは不得手ではない。ただ、それまでアドレス交換をした経験がなかっただけだよ」
 佐々木はむきになって反論した。そしてそこまで言って、しまったとでもいうように目を逸らした。
「まぁ、そのおかげで話したいときにいつでもお前と話が出来る」
 俺は両手を組んで、わざとらしく空に向けて伸ばす。
「そうは言っても、キミはあまり電話を掛けてきてくれなかったように思うが」
 佐々木が半歩前へ出て、俺の目を覗き込んでくる。
「何だ、俺が電話を掛けるのを待っていたのか?」
「まさか」
 佐々木はくるりと身を翻し、喉の奥で笑い声を上げると、俺の発言を一笑する。
「でも、いつでもキミと話せると思えるのは少し心強かったかな――」
 そう言って佐々木は鞄を持った両手を後で組むと、俺よりも少し前を歩き始めた。
 長くなった陽ももうすぐ落ちようとしている。黄昏に佐々木の背中が溶けていく。

 2年前、少し迷いながらたどり着いた公園に、今まっすぐに向かっている。そこは駅から歩いて10分ほどのブランコと滑り台くらいしかない小さな公園だ。駅前の昔ながらの商店街を抜けて、わき道に入ればもうすぐそこだ。あたりはもう、夏の少し膨張した空気の匂いがする。
「変わってないね」
 佐々木は公園の入り口から中を一通り見渡している。
「あぁ、何も変わっていない」
 佐々木の後に立つ俺もそう応える。そこは何もかもあのときのままだった。
「僕は小さい頃よくこの公園に来ていたんだ」
 佐々木は一足先に公園に入ると、小走りにベンチに向かった。そして、あの花火をしたベンチに一足先に座ると、そう言った。
「でも、ここはお前んちから少し遠くないか」
 佐々木が駅前からバスで帰っているように、この公園から佐々木の家までは歩けば20分はかかる。しかも、こんな小さい公園だ。小さい頃にわざわざ遊びに来るとは考えにくい。
「だからいいのさ。誰も僕のことを知らない場所でひとりになりたいとき、よく自転車を漕いでここに来ていたんだ。静かで、この時間になるとほとんど人がいなくなる。ここは僕の特別な場所、秘密基地だよ」
 佐々木はベンチの上で足を投げ出して、空を見上げている。佐々木の息すら聞こえそうなくらいに、この公園は静かだ。そして、空にはもう一番星が見える。
「その割には、前に来たときは結構迷っていなかったか」
「本当はあの時、キミに断られたらどうしようとばかり心配していてね。肝心のどこで花火をやるかを考えていなかったんだ。ちょうどここを思い出してよかったよ」
「お前らしい場所だな」
 そして、俺は佐々木の隣に座った。住宅地の真ん中で、隔離された静寂。夜の風が涼しくて心地いい。星の綺麗な夜だ。

「星が綺麗だね。ベガもアルタイルもよく見える」
 隣で星を見上げる佐々木がそう語りかけてくる。
「そうだな。夏の大三角だったっけか」
 俺は小学生の頃にならった理科を思い出した。たしか、夏の夜空には夏の大三角と呼ばれる一等星があったはずだ。
「なるほど。夜空にはベガとアルタイルだけではないというわけだ」
 何に感心したのか、佐々木はため息をつく。
「そりゃそうだろ。夏の大三角は有名だぞ」
「七夕に登場する星はベガとアルタイルだけなのにね。夏の大三角となるとそこに白鳥座のデネブが入ってくるのか。果たして、一体どちらがベガでどっちがデネブなのだろうね」
「そういう星座の話は俺よりもお前のほうが専門分野じゃないのか? 俺にはどの星がアルタイルかすらわからん」
 あまり星空に明るくない俺にはこの三角形のどれがどれなんて皆目見当が付かない。
「それに夜空に星が多いほうがにぎやかでいいじゃないか」
「キミがまだそう言っているうちは安心、と思ってもいいのかな」
 佐々木の声が星空に吸い込まれるように消えていく。
「そういえば、星で思い出したけど、キミは随分と面白い発言をしていたね」
 佐々木がその小さな顔中に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「うるさいな。それだけ綺麗だったんだよ。お前のじいさんの作った花火が」
 恥ずかしい発言だとなんだと言われようが、そう思ったのだから仕方がない。佐々木のおじいさんの作った花火は本当に星のように綺麗だった。あの光は、本当に俺の目には星のように見えたのだから。

「たくっ。馬鹿な話ばかりしているうちに日が完全に暮れちまったじゃないか」
「ちょうどいいじゃないか。今夜は静かないい夜だよ」
「じゃあ、そろそろ始めようか」
 俺は手に持った鞄から小さな箱を取り出した。
 ――本当に色々なことがあったな。
 箱を開けようと手を添えて、そんなことを思い出す。あの春休み最後の日に佐々木の背中を見つけてから、本当に色々なことがあった。紙で出来た箱の感触を確かめるように、ゆっくりとふたを開く。その中には、あの日と同じように5本の線香花火がある。
 線香花火の数もこの公園もあの時のままだ。でも、何も変わっていないわけではない。俺も佐々木もあの頃のままじゃない。何もかも受け入れられるほど、俺たちはもう無邪気じゃない。けど、悲しいことがあっても立ち止まるほど弱くもない。

 静かにろうそくに火を点け、それを地面に立てる。街灯の安っぽい光の中に、橙の柔らかい光が玉のように空間に広がる。
 俺は佐々木に箱を差し出した。佐々木は何かを確認するように俺の目を見た後、その中の一本をつまみ上げる。ろうそくの光が佐々木の表情に柔らかい陰影を彩る。
 佐々木がゆっくりとした手つきで線香花火の先端に火を点けた。先端の紙がゆっくりと燃える。そして、小さな火花が瞬き始める。
「わぁ」
 佐々木はその光景を見て、小さくそう呟いた。静かに瞬くだけだった光が、徐々にその輝きを増していく。小さな音を立てながら赤い玉が成長していく。
「あっ」
 けど、すぐに赤い光の玉は落ちてしまった。地面に触れて急速にその光を失っていく。
「やっぱり、お前のじいさんみたいにはうまくいかないな」
 わかっていたことだ。素人の俺にはあの日を再現できるほどの技術はない。精一杯努力してみたつもりだったが、やはりあそこまで綺麗な光を生み出すのは無理だった。偉そうなことを言っておいて、約束は果たせなかったかな。
「悪いな」
「ううん」
 佐々木は俺の言葉を短く否定した。
「十分。十分だよ――」
 花火の光が消えても、まだ俺たちはそこに何かがあるかのように、その影を見つめ続けた。

「なぁ、佐々木」
 4本目の花火の火を見つめ続ける佐々木に話しかける。
「なんだい」
 佐々木は一つ一つ噛み締めるように、それぞれの花火の光を見つめた。火が消えた後も、しばらくそれを見つめた後、何も言わずに次の花火を手に取り、同じようにその光を見つめていた。
「俺にはお前に知ってもらいたいことがあるんだ」
「知ってもらいたいこと?」
 佐々木はその目を花火から離さないまま、静かに俺に問い返した。
「忘れないで欲しいこと、って言った方が正しいかもしれない」
「もったいぶって、一体何なんだい?」
 花火を見つめる佐々木は口元に柔らかく笑みを浮かべた。
「お前には、お前の傍には、こうやって期末試験直前だっていうのに、必死こいてお前のために線香花火を作る馬鹿がいる。なぁ、だから、お前は一人じゃない。それだけは知っておいて欲しい、忘れないで欲しい」
 4本目の花火の火が落ちた。佐々木は何も言い返さないまま、無言で最後の1本をその手に取る。
「ねえ、キョン」
「なんだ」
「7月でも夜はまだ冷えるね」
「――あぁ、そうだな」
 そう言うと佐々木は、膝を落とした体勢のまま、俺の隣に擦り寄ってきた。
 そして、そのまま体を預けるように俺にもたれてきた。俺の肩に触れる佐々木の髪の匂いがする。無意識のうちに心拍数が上がる。
「ねえ、キミの隣は暖かいね」
 君に触れたい、一瞬そう思う。でも、まだこの手は動かない。まだ、その距離は少しだけ遠い。
「佐々木――」
「最後の1本だよ」
 そう言って、佐々木は最後の花火に火を点ける。火花が静かに力強く燃え上がる。
「キミが僕のために何かをしてくれる。これ以上幸せなことはないよ」
「馬鹿野郎。それはおおげさだ」
 佐々木はゆっくりと目を細めて首を振る。
「僕がそう感じているのだから、それでいい」
 最後の花火は今までの中で、一番長く燃え続けた。
 今だけ、花火は輝く。この今だけ。

「ねえ、キョン。僕もキミに知って欲しいことがあるんだ」
 燃え尽きた花火の先を佐々木は見つめたままだった。まるで、まだそこに炎が存在しているかのように。
「なんだよ、お前が俺に知っておいて欲しいことって」
「うん、それはね――」
 佐々木は一度俺の顔を見たが、すぐに目を逸らした。そして、また燃え尽きた花火の先を何も言わずに見つめている。
 不思議な緊張感に満ちた沈黙。俺も何も言い返せないまま、佐々木と同じ視線の先を見つめる。額に汗が浮かんでくるのは、単純に暑いからだけではないはずだ。
 夏虫の鳴き声だけが辺りに響いている。
 ブルルル――
 そこで俺はポケットに鈍い振動を感じた。携帯電話だ。どうやらメールが着信したらしい。
「なんかメールが来たみたいだ」
 俺はこの沈黙をごまかすように、わざとらしく携帯を開いてみせる。条件反射的にボタンを押して、新着メールを表示させる。
「……なんだこりゃ?」
 ディスプレイには写真が映っていた。画面いっぱいに、黒い紐みたいなものとその先の赤い光が映っている。そして、添えられたメッセージは一言だけ。

 『バーカ』

 今にもアヒルみたいに口を尖らしてあっちを向いている姿が想像できそうなその一言は、間違いない。こんなメールを送ってきやがる送り主の名前は見なくてもわかる。そして、このメールの画像の正体も。

 昨日、つまり土曜日の出来事だ。例の市内探索を終えたあとで俺は帰り道を急ごうとするハルヒを追いかけて、この線香花火を渡した。
 古泉の言葉をそのまま聞き入れた、というわけでもないが、俺自身今回の件でハルヒの世話になったし、何か礼をするべきだと思った。
「何よ?」
 追いかけてきて呼び止めた俺にハルヒは不機嫌そうな眼差しで振り返った。
「これ、やるよ」
 ハルヒに小さな封筒を差し出した。ハルヒは訝しげに口を尖らすと、その封筒を受け取った。
「これ、あんたの作った花火?」
 封筒の口を小さく開けて中身を覗いたハルヒは、小さな声でそう訊いてきた。
「あぁ」
「なんで、あたしにくれるのよ」
「なんで、って……」
「これ、あんたが佐々木さんのために作ったものじゃない」
「今回の一件でお前には世話になったからな。その礼だよ。素人の作った花火だから、あまり出来はよくないかもしれないけど」
 ハルヒはそれからしばらく無言で、目の前の封筒を見つめていた。
「……佐々木さんにはもう渡したの?」
「いや、明日渡すつもりだ」
 ハルヒにしては珍しくその態度がはっきりしない。礼のつもりで渡したのだが、あまり喜んでもらえるような代物ではなかったみたいだ。
「佐々木さんより先にあたしに渡しちゃっていいわけ?」
「今日ぐらいしかお前に渡す日がないだろう」
 それは嘘だ。渡すだけなら、月曜日にでも学校で渡してやればいい。けど、俺の頭の中ではあのときの古泉の言葉が響いていた。いくらなんでも残り物を渡すようなことはしてやりたくない。
 相変わらずどこか不機嫌そうなハルヒの態度。結局、ハルヒが特急電車に乗り込むのを見届けるまで、あいつは無言だった。いらないなら別に受け取らなくてもいいのに。そう思ったのだが、俺がその背中が車両に吸い込まれるのを見届けるまで、ハルヒの両手は強く封筒を掴んだままだった。

 しかし、なんで今頃あいつは花火の写真を送ってくるんだ。しかも余計な一言付きで。
「どうしたんだい?」
 俺の対応を見た佐々木も不思議そうに、俺の携帯を覗きこんでくる。
「これは……涼宮さんだね」
 俺は佐々木に見られてはいけないものを見られたように思った。携帯メールなんて開かなきゃよかった、そう思った。しかし、佐々木の反応は予想外だった。
「くっくっ、実に涼宮さんらしいね」
 そう言うと、今までの沈黙から堰を切ったように愉快で仕方がないという風に笑い始めた。本当に楽しくて仕方がないという風に。
「タイミングがいいというのか、悪いというのか」
「何がそんなに面白いんだ、佐々木?」
 突然に佐々木が笑い出した意味がわからない。
「だって、僕には彼女の精一杯の気持ちがよくわかるから」
 佐々木にとってなぜ、ハルヒの奴が土曜日の別れ際に渡してやった線香花火の写真を送ってきたことが、なぜそんなに面白いのか。
「ハルヒの気持ちがよくわかるってどういうことだよ?」
「そのままの意味だよ」
 佐々木は両手を地面について、空を眺めながら笑っている。
「じゃあ、今日はここまででよしということにしておこう。今日の彼女の厚意に応えてあげなければフェアじゃないからね」
「厚意って一体どういう意味だ?」
「国語辞典で引いた意味そのままさ」
 あのハルヒが佐々木にどういう気を使ったのか。俺にはよくわからないが、佐々木とハルヒの間では何か共通認識があるみたいだ。
「涼宮さんには、残念ながらまだあなたの恐れている事態は起こっていない、と伝えておいてくれ」
 俺の豆鉄砲を食らったような顔を見て、佐々木は意味ありげに口元を柔らかく伸ばすと
「大丈夫。今なら僕も、もっとまっすぐに向き合える自信がある。負けないよ」
 一体何に負けないつもりなのだろうか。
 佐々木の表情にはいつかの快活さが溢れている。中学時代、俺の自転車の後ろで理屈っぽい話をして俺を困らせては笑っていた頃の。
「あそこまで言っておいて申し訳ないが、キミにちゃんと伝えるのはもう少し先になりそうだ」
 佐々木は愉快そうに笑う。その目はよく輝いていた。まるで、中学時代に机を隣にして会話していたときのように。今の佐々木の表情は中学校の卒業アルバムの写真と同じ表情だ。思い出した、お前はそんな綺麗な目をして笑っていたんだ。
 ――全く、なんだっていうんだよ
 そう心の中で小さくうそぶいてみせた。本当は、昔のような輝きを取り戻した佐々木の笑顔が嬉しかった。あの頃のような笑顔を再び取り戻せたことが嬉しかった。
 佐々木は空を見上げている。透明なビロードのような夏の風が佐々木の髪を揺らす。俺もその目線の先を追いかける。
 そこにはあの夏の大三角が輝いていた。



19「エピローグ」


 1年間のうちで、5回ほど俺を欝な気分にしてくれる定期テストも終わり、週明けの授業はテスト返却の短縮授業だ。おかげでこの坂道もすこしだけ軽やかに感じられる。心が軽いと体も軽いね。

「うぃす」
 7月の空気の中で軽く汗をかきながら、俺は教室に入る。定期テスト中のあの独特の空気から解放された教室は、夏休みを待ちきれない高揚感に包まれているように感じられた。
「よぉ、キョン」
 ただ、こいつが機嫌よくしているのは納得いかない。
「よう、谷口。お前、そんな風に機嫌よくしていてもいいのか? 死刑執行間近のくせして」
「赤点ごときに俺の高校2年、夏のロマンスは止められねーよ」
 何のことだ。相変わらず幸せな奴だ。
 まぁ、こうやって幸せなのはいいことだけどな。
「よお、ハルヒ」
 俺は椅子に座って、後の座席にいるハルヒに声を掛ける。ハルヒはどこか不機嫌そうに床に突っ伏していた。
「周りのみんながテストから解放されてテンションが上がっているっていうのに、お前だけえらく沈んでいるな」
「……うるさいわね。あたしの勝手でしょ」
 ハルヒは不機嫌でかったるそうな声を上げる。
「そうかい」
「何が面白いのよ。ニヤニヤして馬鹿みたい」
 そうやって拗ねているハルヒの姿を見るのは事実、なかなかに面白かった。まるで子供みたいな奴だな。
「あぁ、そうそうハルヒ。佐々木から伝言だ」
「……なによ」
 机に伏せたまま、口を尖らせた発音でハルヒは答えた。
「残念ながらあなたの恐れる事態は起こっていない、だってさ。例の花火メールの返信だそうだ」
 やおらハルヒは上半身をがばっと上げた。
「うおっ」
 核燃料がその奥で燃えているような目で俺を見る。
「あたしの恐れる事態って何よ」
「んなもん、俺が知るか。お前が恐れていることだろう」
 ハルヒはこれ以上ないくらいに口を尖らせてみせていたが、やがて
「まぁ、いいわ。なんにせよ、悪い話ではないみたいね」
 と得意げにのたもうた。さっきまでの不機嫌さは一体どこへいったんだ?
「あ、あと、なんかよくわからないが、負けないよ、とも言っていた」
 ここでまた、ハルヒは顔をしかめた。こんだけ表情が七変化するなら、顔の筋肉も大変なことだろうよ。
「それは、どういう意味かしら?」
「だから、俺は知らん」
 それからしばらくハルヒはしかめっ面でいた。が、やがて大きく息を息を吐くと
「まぁ、いいわ。何の勝負かしらないけど、あたしは売られた勝負はきっちり買う主義だし、勝負である以上絶対負けないわよ」
「どんな勝負かもわからんのにか?」
「当たり前よ。たとえ、とうがらしの大食い競争だって、ぜったい勝って見せるわ!」
 佐々木とハルヒが並んでとうがらしを食っている姿を想像して、そのあまりにシュールな光景にすぐ思考を切り替えた。
「それは、そうとあんた夏休みの予定は立ててるの?」
「予定を立てるもくそも、どうせまたお前に何かと振り回されるんだろ。確定している予定は田舎の墓参りくらいなもんだ」
「まったく、あたしがいないと休みの予定も一人前に立てられないとわねー。ほんと情けないわね」
 文句を言っている割には、えらく得意そうだな。
「まぁ、いいわ。SOS団の雑用係として夏休みはこき使ってあげる」
 夏休みだろうといつだろうと、お前にこき使われている気がするが。
「あ、あと、今度の夏休みはさっさと宿題なんか終わらせることね。去年みたいに31日に徹夜で仕上げるなんてもってのほかだわ。効率は悪いし、あたしもしんどいし」
 お前は機嫌よく妹と遊んでいただけじゃないか。まぁ、感謝はしているけど。
「というわけで、今年の夏休みはまずはさっさと宿題を終わらせることを目標にしましょう。あんた、ほっといたらさぼりそうだから、あたしが直々に監視しにあんたの家に行ってやるわ!」
 なんで、そういう展開になるんだ?
「あぁ、でも宿題の話で思い出した」
「ん、何よ?」
 話の腰を折られたハルヒは口を尖らせている。
「俺、今年の夏は予備校の夏期講習に行く羽目になったんだ」
「なんで、また?」
「佐々木の奴に誘われて。夏期講習くらいはちゃんと受けておかないと後々苦労するってな。んで、あいつの予備校紹介してもらった。あ、あとよろしかったら涼宮さんもどう、とか言っていたな」
「なっ!」
 ハルヒは面白可笑しく顔を歪めている。何か気に障ったのか?
「あ、でも、お前成績いいから予備校なんてわざわざ行く必要ないよな」
「……何言ってるのかしら、キョン? 売られた喧嘩は必ず買うって言ったでしょ、あたしは」
 あの喧嘩じゃなくて予備校のお誘いなのですが。
「そうと決まったら、早速放課後になり次第にその予備校へ行くわよ!案内しなさい、キョン!」
「な、なんでそうなる?」
「だって、あたしは予備校の場所も知らないじゃないの!」
 それはそうだが。でも、俺が突っ込みたいのはそこじゃなくて。
「んで、あとで佐々木さんに、今度のSOS団の合宿一緒にどうかしら、ってお誘いを掛けといて!」
「だから、なんでそうなる!?」
「売られるだけじゃ癪だから、こっちからも売ってやるのよ!」
 どこの世の中にそんな好戦的な遊びのお誘いがあるんだ?
「何よ、佐々木さんを連れて来たくないってわけ?」
「いや、佐々木が来てくれても、俺は一向に構わない」
 確かに構わないのだが……。なんだろう、このやる前から俺を襲う疲労感は?
「あたしに喧嘩売るとはいい度胸じゃない」
 不敵な笑みを浮かべて、後ろの座席でなぜか息巻いているハルヒを尻目に、俺は前へ向きなおした。表面上は不機嫌そうに見せているが、なんだか楽しそうだ。

 ――やれやれ。
 馬鹿陽気な夏の空を見上げてため息をつく。
 今年の夏休みはまたえらくにぎやかになりそうだ。

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最終更新:2008年01月29日 09:19
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