26-471「帰り道」


 橘京子がキョンと付き合いだして一ヶ月が経過した。

 帰り道、坂を下りながら佐々木は静かにため息をつく。
 空に刻まれた夕日はすでに落ち、地平線の彼方から僅かな光を漏れ出している。
 夕暮れと夜の境目の中を、佐々木はキョンと肩を並べて歩く。
 なんとも言えない時間帯だった。
 そもそも、いつも藤原やその他の男友達と帰っていたキョンが、何ゆえ自分と肩を並べて歩いているのか。
 簡潔に言ってしまうのなら、それは橘京子の我儘に他ならない。
 まず、橘といつも一緒に佐々木が、キョンと二人で帰るべきだ、と主張して彼女と一
緒に帰るのを拒否した。
 普段から自分のために時間を割いている橘に対して、二人の時間というものを作って
やるべきだ、と佐々木は思ったのだ。帰り道まで拘束することはない、と。
 これに真っ向から反対したのは、何を隠そう橘である。
 理由はいくつか考えられるが、『佐々木団としての日常』が壊れることを恐れたのだろう、と佐々木は思っている。
 気を回しすぎて逆に困惑させてしまったのかもしれない。
 が、当時の自分はそこに気づいておらず、しかし、お互いに一歩も引かず、放課後の
教室で、さてどうしたものかと思案していると、ふらりとキョンがやってきて、なんだ
まだいたのか、という顔をしてこう言った。
「佐々木も一緒に帰るか?」
 こうしてこの問題は解決した。
 それ以来、三人で帰ることが通例となっている。
 それはまだ、二人が付き合ったばかりの頃の話。

 だからこそ、困るのだ。
 例えば、委員会で遅くなるから先に帰って下さい、というメールが来た日には。
 二人っきり。
 キョンと、二人っきりなのだ。
 実に、困る。
 具体的に何が困るのかは、まだ分らない。。
 先頭を歩くキョンの背中を、ちらりと盗み見る。
 ただの親友。
 ただの、友達の恋人、だ。
 だというのに。
 はぁ、とため息。
 橘という緩衝材がいないだけでこんなにも意識してしまうものなのだろうか。
「なあ、佐々木。どうしたんだ、いったい?」
 突然の声にどきりとした。
 視線の先には彼の困惑気味な顔があって、こちらを見つめていた。
 どうやらため息が聞かれたらしい。あるいは、この重い雰囲気をなんとかしようとで
も思ったのだろうか。
 どちらにせよ、有難かった。にこやかに笑みを浮かべて、誤魔化す。
「いや、何でもないよ」
「そっか。なら、いいんだが」
 それきり、天使でも通り過ぎたかのような静寂が満ちる。
 橘京子がキョンと付き合いだして三ヶ月が経過した。
 昼休み。夏服に変わりつつある日常の中、佐々木は無意識にキョンを見続ける。
 すでに7月。初めのうちこそ茶化す者もいたが、二か月も経てば慣れるというもので
、キョンと橘が屋上か部室に連れ添う姿はすでに風景の一部と化している。
 だから、誰も注意しないし、誰も注目しない。最近では野次すら飛ばず、それがごく
当たり前のような光景として、広まっている。
 今でもそうだ。未だに絆創膏の消えない指で、可愛らしい包みに入った弁当箱をぶら
下げて、橘が教室のドアを開いても、クラスメイトたちはちょっとだけそちらを見たき
りで、反応すらしない。
 視線の先で、藤原と谷口と会話をしていたキョンが誰よりも早く橘に気づいた。
 会話を中止し、謝罪のジェスチャー。雑音に支配された教室ではその会話は聞こえな
いが、いつもの事として認識されているのだろう。キョンはやれやれとでも言いたげな
足取りで、教室の外に向かう。
 が、佐々木にはわかる。あれは、とても嬉しがっている。
 そのくらいわかる。
 だって、塾が一緒だったんだから。
 帰り道だって、一緒に帰ったんだから。
 教室だって、一緒なんだから。
 たまにだけど、一緒に昼食を食べたりするんだから。
 人混みと混雑の先、いくつか言葉を交わして、キョンと橘の姿が、教室から消えた。
 おそらくは屋上か部室に行ったのだろう。
 弁当箱を取り出しながら、佐々木は静かに溜息をつく。
 これは日常である。
 誰も注意しないし野次も飛ばさないし茶化しもしない。
 これは日常だ。
 それなのに、自分はまだ、それを受け入れられない。
 机に寝そべりながら、ただただ溜息をつきながら、段々と自分が壊れていくような、そんな錯覚に陥っている。
 自分は何がしたいのだろう。

 やることもなくて、放課後の部室に足を運んだ。
 部室にはすでに長門さんがいつもの席で、いつもの格好のまま本を読んでいた。
 その反対側、まるで鏡の映し身のように、九曜さんが同じポーズで同じ本をめくっている。
 会釈を交わして、会長席に座る。周防九曜と長門有希にどのような確執があるのか佐
々木は知らない。
 だが、決して仲がいいとはいえない。お互いに無口だし、ときどき、まるで睨み合っているかのような空気すら起こる。
 が、仲が悪いとも言えないのが、彼女たちの不思議な所である。時々、長門さんの後
ろを、まるで雛鳥か何かのように歩く九曜さんの姿を見ることがある。
 はじめのうちこそ何をしているのか不思議だったが、ある日、九曜さんが長門の真似
をしているのだと唐突に気づいた。
 それは、親の真似をする子供のようだ、と佐々木は思う。
 そして、長門有希はそれを理解している節があり、自分の真似をする九曜のために、
ワザと分かりやすく動いてみたり、アイサインで教えていたりする。本人は隠している
つもりなのだろうけれど。
 それは、とても微笑ましいものと佐々木は思うのだ。
 だから、周防九曜が立ち上がり、団長席の横に座り込んだとき、とても驚いた。
「な、何かな?」
「―――彼―――の事―――」
 視線を感じる。振り返らなくても分かる。自分の頭越しに、長門有希が、九曜を睨みつけている。
 ビリビリとした殺気すら感じる。
「………否定する。まだ、時間的な余裕は――」
「今」
 とても、はっきりとした声だった。
「今しか―――ない」
「……推奨しない。暴走の可能性は、」
「―――問題―――は―――」
 そうして、九曜は顔を上げる。
「そこでは、ない」
 黒髪の奥、彼女の小さな瞳にはっきりとした意思があった。
 人形のように光を通さない瞳。自分というものが見えない言動。
 まるで、人形のような人だな、と佐々木は思っていた。
 そんなものと、糸の見えないマリオネットだと、そんな失礼な考えをしていたことを
、佐々木は心の底から詫びた。
 血肉の通った人間の瞳が、そこにあるのだ。
 長門有希は驚いたように九曜を見た。ここまで明確な意思表示に驚いているのは自分
だけではなかった。
 そして長門は小さく首肯する。
 周防九曜の視線が佐々木に戻る。
「あなた―――は―――」
 そうして、少しだけ息を吸って、彼女は言った。
 彼の事が好きなのでしょう、と。

「……えっ?」

 その言葉はまるで魔法のように、深く深く、心臓へと突き刺さる。
 どうして?
 言葉が血管に溶け出す。顔が熱い。血液が熱い。いきなり夏風邪でも引いたのか。そ
んな馬鹿な。いい加減現実を見ろ。何か月も無視してきたものが、鋼鉄の意思で防がれ
ていた開けてはいけなかったパンドラの箱が、たった一言で開いてしまった。
 まるで魔法のようだった。
 脈動する血液が告げる。無意識で封じ込めていたものが自意識に変わり、それはよう
やく理解できる感情として、佐々木の体を支配する。
 どうしてそんな、当たり前で、単純で、分かりやすい結論を出せなかったのか。
 私は、キョンのことが、好き、なんだ。
 それは、好きという感情。
 昔、切って捨てたものが、今、自己認識と共に動きだす。
 どうして忘れていたのか。
 こんな思いを昔にもしたはずなのに、どうして忘れていたのか。
 まるで決壊したダムのよう。次々と記憶がよみがえり、その度に胸がチクチクと痛み
だす。積み重なった記憶が剥がれ、まるで走馬灯のように、意識がゆっくりと過去へと戻っていく。
 6月。
 放課後、三人で帰るときに、ふと感じる二人の空間。まるで熟年した夫婦のような、初々しい、新婚のような。
 5月。
 まだ野次が飛んだ教室で、真っ赤になる橘と澄まし顔で教室を出ていくキョン。
 そして、最古の記憶。
 4月1日。入学式。
 まだ着なれない制服と、舞い散る桜。
 学校の裏手の、焼却炉のそば。
 キョンを探して見つけたものは、重なり合う二人の――

 それは初めて他人に敵意を抱いた日。
 論理的思考回路が全て吹き飛んだ日だ。全身に流れるのは嫉妬という感情、佐々木と
いう存在がただ感情のままに動こうとした日。
 そうか、つまり、僕/私は、橘さんを――
 肩を叩かれた。振りかえる視線の先、見知らぬ女生徒と長門有希がいて、


 そこで、目が覚めた。
 頭痛がしていた。
 いつの間にか夕方で、夕日が背中を見つめていた。
「あ、起こしちゃいました?」
 顔を上げると橘がいた。読んでいた少女漫画をパタンと閉じて、本棚にしまう。
「おはようございます、佐々木さん。珍しいですね、部室で昼寝なんて」
「……ここは?」
 そんな呟き声に橘は、もう、とワザとらしく眉を吊り上げた。
「お寝坊さんですよ。ここは部室です。今は、キョンさんを待っている最中ですよ」
「……ああ、そうだったね。思い出したよ」
 確かに、その通りだった、ような、気がする。
「ねえ、長門さんと九曜さんは?」
「図書当番やるからおサボりだそうです。まあ、今日は朝比奈先輩も委員会ですし。
 古泉さんや藤原さんはバイトだそうですので」
 時計を見る。眠ってから一時間ほどしか経っていないらしい。
 けれど。
 ああ、だけど。
 夢の中だろうが、現実だろうが。
 あのとき感じたあの感情は、本物なのだ。

「ねえ、橘さん」
 唇の端が歪む。今、自分は醜い顔をしているのかもしれない。
「はい、なんですか?」
「ひとつ、お願いがあるの。いいかしら?」
 キョンが来るまであと、30分と言ったところか。
 それまでに、伝えておかなければ。
「お、お願いですか! いいですよ、何でも聞いちゃいますよ」
「キョンのことなんだけど」
「はい。キョンさんがどうかしましたか?」
「ねえ、橘さん」
 くすっと悪戯っぽく笑った。

「キョンを、私にくれない?」
 にっこりと、橘が笑った。
「分かりました」
「……いいの?」
「私たち組織は、佐々木さんのために動いています。
 佐々木さんのお願いなら、なんでも聞いちゃいますよ」
 分かりやすい仮面だ、と佐々木は思う。
「えへへー、これでも佐々木支援隊のプロなんですよ。
 いい世界のためになら、なんだってしちゃいます」
 涙も零さなかったし、声だって震えていない。笑顔だって自然だ。
 なのに、仮面だと分かる。分かってしまう。
 それは、長い間一緒にいたから。
「ねえ、橘さん。本当に、いいのかしら?」
「いいです。佐々木さんになら譲ります。
 だって、」
 佐々木さんは神様ですから、と言われると思った。
 違った。

「友達ですから。私が、最も信頼する人ですから。だから、いいです」

 その言葉に、どれだけの魔法が掛かっていたのだろう。
 ふう、と息をはいた。
 立ちあがり、橘の正面に立つ。
 静かに笑う橘を、そっと抱き締める。
「ねえ、橘さん。神様とか、組織とか、抜きにして、聞きたいの」
 肩の後ろで、頷く感触。
 佐々木は、静かに問いかける。
「彼のこと、好き?」
「……はいっ!」
「じゃあ、もう一度、聞くよ」
 ぎゅっと力を込める。
「キョンを、私にくれない?」
 沈黙は、数秒だけだったと思う。
 あるいは、数分だったのかもしれない。
 ただ、その僅かな空白がとても静謐なものであったのは確かだ。
「……いや、です」
 嗚咽が聞こえる。
 組織としての橘京子を突き破り、友人としての橘京子が、佐々木の腕の中で泣いている。
「キョンさん、は、意地悪で、けど、優しいです」
 つっかえながら、涙で佐々木の肩を濡らしながら、橘京子が泣いている。
「だから、だから――!」
 はっきりと、聞こえた。
「取っちゃ、嫌です」
「……うん、ごめんなさい。意地悪して」

 放課後。刻む夕暮れ。
 夕日に染まる影法師。
 橘京子が泣いている。
 ようやく、キョンがやってきた。戸締りを確認し、鍵を佐々木に渡す。
「では、佐々木さん。お先に失礼します」
「あれ、佐々木は帰らないのか?」
「今日から佐々木さんとは別ルートなのです」
「なんでまた?」
「鈍感ですね。素直に喜んでくださいよ。二人っきりの時間が増えたんですから」
「そういう事だよ。もう少し、女の子の気持ちというものを考えて発言した方がいい」
 ストレートな二人の物言いに、キョンは言葉を返せない。
「まったく。そんなではいつか橘さんに愛想をつかされるよ」
「あ、それはないですから安心して下さい」
「……目の前でノロケられるのも嫌なものだね」
「……仲いいな、お前ら」
「それはもう。だって、友達だからね」
「はいです。阿吽の呼吸です」
 ねー、とお互いに微笑む二人を見て、少しばかりこめかみを押さえる。
「まあ、仲がいいのは理解したけどな。……で、どういうことなんだ?」
 また何か起きたのか、と言外に聞いているのだろう。
「特に深い意味はないんです。本当に佐々木さんが気を回してくれただけです」
 絶対に教えるもんか、と橘は思う。
 こちらのやりとりを見て、静かに微笑む佐々木さんは、それはそれは女の子の顔をしていらっしゃる。
 それがとつもなく綺麗で、少しだけむっとした。
 キョンの腕に抱きついて、べー、と舌を出してやる。
 絶対に渡してなるもんか、と橘は思う。
 微笑みが苦笑に変わる。部室に夕暮れが満ちる。

 帰り道。刻む夕暮れ。
 坂道に揺れる影法師が二つ、いつものように話をしていた。
 いつものように軽口を叩いて。

 ちょっとだけ、手なんか繋ぎながら。

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最終更新:2007年12月20日 08:43
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