10-413「冬の日のコンフェッション」

 あれは俺がまだ、SOS団などという奇矯かつ奇天烈で何をしたいんだかわからない団体
に所属していなかった、退屈ではあったが毎日をつつがなく過ごすことの出来た頃のこと
だ。
 今から考えれば貴重な日々だったとしみじみ思う。
 当時俺はそ中三であり、人生を謳歌すべきモラトリアムの途中で立ちはだかる、高校受
験という障害物競走に挑まなくてはならない立場であったある日のことだ。

「キョン、キミはいったいどういった女性が好みなのかな?」
 特別ではないごくありふれた昼休み、机を向かい合わせにして共に給食をつついていた
時、佐々木が藪から棒にそんなことを尋ねてきた。
 俺は呆気にとられて、食いかけの玉子焼きを佐々木の皿の上にはじき飛ばしてしまった。
「いらないのかい? なら僕が頂こう」
 佐々木はそう言うと、ひょいと俺の食いかけを箸でつまみ上げ、そのまま口に放り込ん
だ。
 これって、間接キスか? なんてドギマギするほど俺はうぶではないし、また佐々木相
手にそういった気持ちになることはない。佐々木もおそらくそうだろうが。
 俺は宙をさまよっていた箸を休め、代わりに佐々木を見据えてその意図を探るかのよう
に、
「佐々木、今いったいなんて言ったんだ? それに、俺からそんなことを聞き出してどう
しようってんだ?」
 佐々木は俺にそう返されることなど予想済みで、すでにそれに対する答えを用意してい
るいった様子でよどみなく答えた。
「実は、酔狂にもキミに思いを寄せている女生徒がいてね。彼女からキミの女性に対する
嗜好を聞き出してくれないかと依頼されたわけだよ。まあ、僕としても多少興味を憶える
話題でもあったのでね、引き受けてしまったよ」
 酔狂って、そりゃないだろう。しかし……俺に思いを寄せている女生徒がいるだと? 
なんつーか、ピンとこねえな。
 まあ理由は簡単で、生まれてこの方女にモテた試しがないからだ。自慢ではないが。
 もちろん、それが嬉しくない訳じゃない。それなりに関心はあるし、あわよくば相手を
見てみたいとも思ったりもする。付き合う付き合わないは別としてだ。
 すると、俺の邪念が表に出てたわけではないだろうが、佐々木は犯人の匂いを嗅ぎ取っ
たシェパードのような顔つきで俺を凝視し、
「キョン……おい、キョン! みっともない顔をしてないで、早く食べたまえ。それから
さっきの問いに答えてくれないか?」
 みっともない顔とは失敬なやつだ、などとはとは思いつつ、俺は白州に登場した奉行の
ように顔をやや引き締め、
「そりゃあ答えることはやぶさかではない。しかし佐々木、なんでそんなに機嫌が悪そう
なんだ?」
 俺がそう答えると、佐々木はさらに顔をムッとさせて、
「僕はそんな顔はしていない。キョン、キミの見間違いだ」
 どう見ても機嫌が悪そうにしか見えないが、これ以上何かを言うことはよしておこう。
というのも、肉食獣の接近を感じ取った草食動物のような俺の第六感が、警報のサイレン
をジャンジャン鳴らしていたからだ。これは学校というサバンナで生きていくのに必要な
処世術さ。
 気まずい雰囲気が俺と佐々木の間に漂った時、いち早く給食を食い終えた国木田が、ま
るで壊れかけた橋を補修する工兵部隊のように絶妙のタイミングで俺たちの席の横に近づ
き、そして話しかけてきた
「キョン、ひょっとして犬も食わないようなけんかの真っ最中だったかな?」
 周りからクスクスと漏れる笑い声。こいつら、聞き耳立ててたな?
 しかし、またその話かよ。まったく、俺と佐々木はただの友人だと何度言ったらわかる
んだ。
「それは置いておいて。佐々木さんさっきの話だけどね、キョンは年不相応な容姿をして
いる女の子が好きなんだ。例えば年上なのに幼い顔しているとか、逆に年下なのに妙に大
人っぽいとか」
「こら国木田、さらっと何を言いやがる。俺の性癖を勝手に決めつけるんじゃない!」
 それってただの変態じゃないか。
 しかし俺のツッコミにはどこ吹く風の国木田は、関係者の制止を振り切る芸能レポー
ターのようにさらに話を続けた。
「この間もね、キョンは妹さんの友達のことを、まるで自分の彼女のように散々ほめち
ぎっていたもんね」
 ミヨキチのことか? 確かに国木田に自慢しちまったような記憶はある。
 それを聞いた佐々木は平然としているようだったが、少し口元を引きつらせたように感
じるのは何故だろうな。
 だが、もし俺をロリコンの気があると誤解しているのなら大きな間違いだ。ミヨキチを
一目見てくれれば、佐々木にだって俺の礼賛が決して大げさじゃないことはわかるに違い
ない。
 そうだな、今度佐々木に引き合わせてやろう。驚くぜ、佐々木は。
 なんてことを俺が考えている間も、国木田は俺たちだけでなくクラス全員の視線を集め、
そしてそれにまるで気づいた素振りもなく、まるで制御棒のない原子炉のようにその舌は
回り続け、その天然ぶりを存分に発揮した。
 もしここでクラスの連中の視線から視聴率を取ったら、間違いなく80%を超えるだろ
うな。まったく、俺たちはこの連中の退屈しのぎの対象かなんて思ったりもする。
 国木田はさらに付け加えるように、
「あとは、本人を前にして言うのも何だけど、佐々木さんみたいに一風変わった感じの子
もけっこう好きなんじゃないかな」
 そこで、わぁっと小さな歓声が起こった。何を喜んでいるんだ、こいつら……。
 だが佐々木はさしたる動揺もせず、ただひたすら俺を見つめていた。やや焦点が合って
いないように感じるのは、俺の考えすぎだろう。それと、さっきからまるで箸が進んでい
ないんだが、些末な問題だな。
 しかし、もうなんて言うかこれはノーコメントだ。ちょっとそこの窓から、ひょいっと
飛び降りたい気分になってきたぜ。
 まったく国木田のやつ……俺に変な属性を付け加えるなっての! 俺はノーマルであっ
て、お姉さん好きでもロリコンでも、はたまた変わった女が好きだなんて属性でもないぜ。
「ほう、ではなにかい? 僕のような女は、決してキミの好みには合わないということか
な?」
 つい口を滑らせてしまったうかつな俺に向かって、まるで獲物のヌーを見定めたライオ
ンのように視線を鋭くし、佐々木はそう述べた。
 俺はわけもなく、背中に氷を滑り込ませられたかのように氷点下を感じた。
 佐々木、お前は恋愛など精神病の一種と言っていたじゃなかったのか? それでも好み
じゃないといわれるのは、乙女心をいたく傷つけられるのだろうか。そう言ったつもりは
ないんだが。
 難しいね、女ってやつは。
 それでも俺は佐々木をなだめるために何とか弁解しようとした。
「いや、そうではなくてだな、これは言葉の綾ってやつであって、お前を対象とした言葉
じゃないんだ。そもそも、すでに友人関係を結んでいるのだから、好みだとかは関係ない
じゃないか」
「友人ね……確かにそうだな。いや、すまないキョン、僕としたことがつい取り乱してし
まったようだね。お恥ずかしい限りだよ。許してくれるかな」
「よかったね、キョン。これで元の鞘だね」
「お前は少し黙ってろ!」



 そして放課後、今日は塾に行く日であったので、俺たちはまず俺の家に向かった。そこ
でママチャリを出してきて佐々木を後ろに乗せてそのまま塾に向かおうというのだ。
 帰り道、辺りの風景が緩やかに後方に流れて行くのを目の端に捉えながら、俺と佐々木
はてくてくと歩を進めた。
「キョン、ちょっと聞きたいんだが、さっきの話はどこまでが本当なんだい?」
 しばらく歩いていると、隣の佐々木が不意にそんなことを尋ねてきた。
「あれは国木田が勝手に言ったことであって、俺の好みとは関係ないぜ」
 本当は、少し当てはまるところもあるなんてことは言えない。
「そうかい、じゃあ本当のところはどうなんだい? どう言った女性が好みなのかな?」
 今日の佐々木はやけにこだわるな。それほど依頼をしてきた女生徒の約束を律儀に守る
つもりなのか。
「別に好みだとかはないさ。もし俺が誰かを好きになったとしたら、それが好みだったん
だろうよ」
 俺はそう答えておいた。
「上手く逃げられたような気もするが、わかったよキョン。その子にはそう伝えておこ
う」
 ふっと息をついて、俺の方に顔を向け、そして柔らかく微笑みかける佐々木。
 別に逃げた訳じゃないさ。それも俺の本音なのだからな。
「佐々木、ところでその子のことだが、どういう子なのか教えてもらえないか?」
 別に助平心とかじゃなくてだな、少し関心があるだけだ。しょうがないだろう、健全な
青少年なんだから。って、俺はいったい誰に弁解しているんだろうね。
 俺の問いかけを受けた佐々木はやや瞳を細めて俺を一瞥し、
「なんだいキョン。キミは彼女にそんなに興味があるのかい? しかし、残念なことに僕
には彼女との約束により、守秘義務というものがあってね、君の意向には沿えそうにない
よ。まったく、残念なことだね。くっくっ」
 佐々木は喉を鳴らして独特の笑い声を漏らしたが、しかしながら顔は笑っていないとい
う複雑かつ表現しがたい様子であった。どうやら、それ以上は質問をするなと言うことか。
 これは教室での一件とダブりそうな妙な空気だ。俺の何がまずかったのかわからんが。
 そこで俺はどう話題を変えようかと頭を悩ませていたが、幸いにも俺の家が見えてきた
ところでその会話は終了だ。
それからほどなく俺たちは家に到着したが、まだ塾に向かうにはかなり時間があるので、
佐々木には家で適当に時間をつぶしてもらうことにした。
 木製のドアを開け、玄関をくぐると靴を脱いだ。そして制服姿のままの佐々木を案内し
て、リビングに向かうことにした。
 俺たちがリビングまでやって来ると、その入り口からは妹のかしましい声がまるでザル
に注ぎ込んだ水のように際限なく漏れ出てきた。
 それを迷惑に思いながらも、俺たちがリビングに入ると、そこには下手をすれば小学校
低学年に見られかねない妹と、とてもその同級生とは思えないほどの容姿を備えたミヨキ
チがソファに座ってテレビを見ながら談笑していた。
 俺と佐々木に気がついた妹は嬉しそうに「キョンくんお帰りー」と太陽を真っ青の明る
さで俺たちを歓迎してくれた。ミヨキチは俺を見て彼女もまた嬉しそうにしていたが、
佐々木を見た途端に一瞬戸惑ったようで、まるで薄雲がたれ込めたような表情になった。
 なんだろうな、とは思ったが、きっと初対面だからだろうとあたりを付け、それに気づ
かぬ素振りで、
「やあ、ミヨキチ。キミも来ていたんだ」
 と俺が軽く挨拶すると、
「お兄さん、こんにちは。お邪魔しています」
 とミヨキチはやおら立ち上がり、礼儀作法のハウツー本そのままのきれいなお辞儀をし
た。
 俺は彼女の礼儀正しさにに感心しつつ、それに気持ちを和ませながら、
「ミヨキチ、2週間も会わないうちにずいぶん大人っぽくなったし、それに綺麗になった
ね。本当に妹にも見習わせたいよ」
 ミヨキチは俺の言葉を受け途端に顔を赤く染め、
「お兄さん、そんな大人っぽくだなんて、その……恥ずかしいです」
 俺の手放しの賞賛に恥じらい、くすぐったそうにしているミヨキチはとても初々しく、
そしてどこまでもかわいらしかった。俺は庭に咲く花のようにいつまでも愛でていたいと
思ったぐらいだ。
 しかし、ふと隣で無言で座っていた佐々木が、俺に無言のプレッシャーとも言うべきエ
ネルギーを発しているのが感じられた。
 俺はぎょっとして佐々木を見やると、まるでなんでもない表情だ。というより、無理に
表情を消していると言った様子か。
 それをミヨキチも感じ取ったのかはわからないが、俺の方に体ごと向き直るとおそるお
そる、
「あの……そちらのお姉さんは、お兄さんのお友達の方ですか?」
「ああ、こいつは佐々木っていって俺の……」
 と言いかけたところで佐々木が、俺の返答を遮るようにゆっくりと口を開き、
「友人さ。ただし、普通の友人ではないつもりだけどね」
 と言った後、佐々木はミヨキチと視線を合わせた。だがそれに対するかのように、ミヨ
キチも臆することなく佐々木を見つめている。
 それにしても、普通の友達ではないってどういう事だ? まあ、普通よりはやや親しい
ことは確かだが……。おそらく、佐々木が言っているのは、そういった意味なんだろうな。
 しかし二人の様子は、まるで米ソの冷戦をこの場で見るようだった。今にも中距離弾道
ミサイルが飛んできそうであり、キューバ危機ってのは、こういうのを言ったんだろうな。
 ……しかし、これはいったいどういう事なのだろう。それに、俺には彼女がいつもの冷
静な佐々木には思えなかった。
 ひょっとして、二人を会わせたのはまずかったか? だがまさか、それほど相性が悪い
とは思わなかったんだ。俺の失策だな。
 すると隣にいた佐々木が、不意に俺へ殊更笑みを浮かべて顔を向け、
「キョン、この綺麗なお嬢さんが国木田の言っていたキミの妹君の友人かい?」
「ああ、そうだ。彼女は……」
 と言いかけたところで、今度はミヨキチが佐々木に向き自己紹介を始めた。
「あの、わたし、吉村美代子です。お兄さんにはミヨキチって呼ばれてます」
 こういう状況にもかかわらず、ミヨキチは律儀にもお辞儀をしていた。俺の妹の友達に
しては本当に良い子なんだよな、ミヨキチは。
 佐々木は俺の耳元で囁くように、
「本当に、おどろいたよ。彼女の姿形は……そうだね、中学生と言っても差し支えないほ
どじゃないか。それよりも驚嘆の声を上げざるを得ないのが、彼女が僕よりもすでに上
回っている部分……いや、なんでもない。今のは忘れてくれたまえ」
 と、佐々木はまずいことを言ってしまったという表情を浮かべた。
 上回っている部分とはなんだろう……? 
 ……今、ふと思い当たったたのだが、しかしこれは言うべきではないだろう。佐々木の
名誉のためにも、ここは俺の胸にしまっておくことにする。それは言わない約束だよ、お
とっつぁんってことだ。
 しかし俺がそんなことを考えていたとき、それまで俺たちのやりとりとをおもしろそう
に鑑賞していた妹が、ミヨキチの自己紹介に付け加えるように佐々木に対し口を開いた。
「あのね、ミヨちゃんはねえ、キョンくんのことが大好きなんだよ!」
 妹はまるで邪気のない、天真爛漫な笑みを浮かべてそう発言した。
 その瞬間、佐々木はギョッとしてそのはずみでお茶が気管に入ってしまったらしくゴホ
ゴホと咳き込んだ。
 一方、ミヨキチは妹の発言を耳にして一瞬青ざめ、今度はまるで信号機のように顔をは
じめとして裾から伸びる手足や首筋まで全身を赤く染めた。
 そして、そのリビングでは、佐々木とミヨキチの2人がまるで小さな悪魔に呪文を封じ
られた魔法使いのように、しばらくの間フリーズしていた。
 そこで俺は真意を確かめるため、何の気なしにミヨキチに尋ねてみた。
「ミヨキチ、今妹が言ったことは本当かい?」
 すると、ミヨキチは体をビクッとさせ、俯いていたその赤い顔のままゆっくりと見上げ、
そして俺に視線を合わせた。
「は、はい。ほ……本当です!」
 最後はまるで叫びにも似た返答だった。
「そうか……そう思っていてくれたのか。うん、俺は嬉しいよ」
 と言って、俺はミヨキチに対して優しく微笑みかけた。
 すると、ミヨキチはいかにも信じられないといった表情でまじまじと俺を見つめ、
「あの、お兄さん……それって……」
 続いて佐々木が、驚きと怒りとその他解析不可の感情をないまぜにした複雑奇妙な表情
で、
「キョン、キミはまさか……」


「ああ、ミヨキチ。キミは俺のことを兄のように慕ってくれているんだろう? ありがと
う、本当に嬉しいよ」
 本当にミヨキチは良い子だよ。俺を本当の兄のように好きだって言ってくれているんだ
からな。
 だがその瞬間、なぜか部屋の中が凍り付いたような気がした。
 なんだ? と思ったのもつかの間、一瞬にしてパンパンに張り詰めた風船から空気が抜
けるように、何かが霧散した。
 ふと見てみると、二人とも気の抜けたというより、魂が抜けたしまったような虚ろな瞳
で俺を見ている。
 おいおい、なんだよいったい? 怖いぞ。
 しかし、わずかな間をおいて我に返った佐々木は、長嘆息した後に自嘲的な笑みを浮か
べ、
「キョン、見事だよ。本当に、キミってやつはどこまで……」
 いや、なんのことかわからないんだが……。
 ひょっとして俺はバカにされているんだろうか。
 そこでふと気になって、斜向かいを窺ってみると、ミヨキチもなにやらホッとしたよう
ながっかりしたような、なんとも複雑そうな表情を浮かべていた。
 俺、何か変なことを言ったか? などと俺の脳みそから、ほんの3分前の記憶を絞り出
すように呻吟していると、佐々木が何か思い出したように俺に顔を向け、
「キョン、そろそろ塾に向かう時間じゃないかな? あんまりのんびりしていると開始の
ベルを聞くことなく今日の授業が始まってしまうぞ。さあ、いつものように僕を後ろに載
せてくれないか?」
 すっかり失念していた。だが、今からだとギリギリじゃないか?
 それに気がつき、俺は一刻も早く出発するため、やや焦り気味に玄関に向かおうとした。
 だが、ミヨキチは俺を呼び止め、
「お兄さん、あの……さっき私がお兄さんのことを好きだと言ったのは、本当のことです
から」
 そう言い終えると、ミヨキチはまるで瞬間湯沸かし器のように頭から水蒸気をもうもう
と出しかねないほどに赤くなってソファに座って俯いてしまった。
 しかしその時、なぜか妹が『ミヨちゃんがんばって』としきりに囁いていたのが印象的
だった。
 何をがんばれと言うんだ? つうか、がんばるのはお前だろう。お前は少しミヨキチを
見習って、もう少し兄に対して敬意を払ってくれ。そうだな、とりあえずはいつまでも兄
に対して『キョンくん』と呼ぶのは止めようぜ。
 そんなことを考えながら俺は、押し黙ってミヨキチを見つめていた佐々木に声を掛けリ
ビングを出た。去り際にミヨキチと妹に対して手を振りながら……。



 受験が間近に迫った真冬の夕方、俺は佐々木を後ろに乗せ、いつもの1割増しの速度で
北口駅前に向かう緩やかな傾斜を下りゆく。
 眼前の夕陽を視界に入れながら、俺はしみじみと考えていた。
 もはや恒例のイベントとなった佐々木を後ろに乗せて塾に向かうこともあとわずかかと
思うと、少し寂しくもあり、逆に本来なら余暇の時間として与えられているはずのこの夕
凪の時間を塾などという収容所から解放されることに嬉しく思うこともある。まあ、なん
ていうか感傷的になってるんだろうな。似合わんことだが。
 それからしばらくは無心にペダルを踏み続け、ママチャリがそろそろ平坦な道に差し掛
かったとき、それまで沈黙を保っていた佐々木がおもむろに俺の背中へと話しかけた。
「キョン、吉村美代子さん……彼女は本当にすばらしい女の子だね」
 ああ、それには大いに同意したい。よく俺の妹の親友になってくれたものだ。
 佐々木はふっと笑い、
「それに彼女は、妹さんによるハプニングがきっかけとはいえ、あそこまでキミに対して
はっきりと言えるなんてね……」
 はっきりって、俺を兄として慕っていると言ったことか?
 しかし佐々木は、喫茶店で注文を間違えられた客のように、さも呆れたような溜息を漏
らし、
「やれやれ、結局はそれか。ふぅ……キミときたらまったく……。しかし、だからこその
キミだな。僕はある意味安心したよ」
 何やらまたも佐々木にバカにされたように思うのだが、気のせいだろうか? それでも
佐々木の口調が少し優しげだ。例えるなら、至らない我が子をむしろ慈しんでいるようで
もあった。
 だが佐々木は再び沈黙し、何かを考えている気配が後ろからひしひしと感じられた。
 そして俺の漕ぐママチャリが支線の沿道に差し掛かった頃だろうか、佐々木が魔法書の
封印を解くかのように沈黙を破り、そして、
「キョン、もし僕がキミのことを……」
 と言いかけたところで、無遠慮にやってきた電車がレールを叩きつける音と、それに被
さるように警笛の音が佐々木の言葉を全てかき消した。
 俺は佐々木の言葉を確認するため停車し、後ろを振り返ったが佐々木は何でもなかった
かのように首を振り、
「さあ、早く行かないと遅れるぞ。例え塾とはいえ、僕はこれでも無遅刻無欠席で通して
いるんだからね」
 佐々木は殊更明るい声で俺を促した。
 それを受けて、俺は気持ちを切り替えるように再びペダルを踏み込んだ。

 ――あの時、佐々木は俺に何を言おうとしていたんだろうか。


 それから一年を経て佐々木と再会した日の夜、俺はそんなことを考えながら部屋で本日
のSOS団強制イベント、市内探索で手に入れた戦利品の品定めをしていた。

 ああそれと、佐々木が言っていた俺に思いを寄せる女生徒とやらは、ついぞ現れること
がなかったことをここに追記しておく。結局は謎のままで終わった。
 もちろん、佐々木が語ってくれることもなかった。


終わり

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最終更新:2007年07月20日 08:12
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