7-883「湯煙@佐々木vol.2」

「では、いただきます。」
「………いただきます。」
俺の眼前では部屋備え付けの浴衣を着た佐々木が両手を合わせ、さっそく
料理に箸を伸ばしている。
まぁ、何だ。とりあえず一線を越えるような真似はしてない訳だが、
恒例なハプニングもあった訳で俺としては色々と持て余……げふんげふん、
複雑な心境であった。
というか、俺の方が動揺してるというのもどうしたもんかね。
事故だとは解っていても、少しばかり意識してしまうのは仕方ないというものだろ、男なら。
「どうしたんだい、キョン。先ほどから箸が進んでいないようだが。」
「いや……というか、これは何だ佐々木」
聞くまでもないことかもしれないが、一応聞いておかねばなるまい。
眼前の、どう考えても高級食材を使いまくった料理に付属していたのは
どう見ても熱燗だった。
一人につき一本であるのが唯一の救いだろうか。
俺としては辞退したいのだが。
「これかい?
くっくっく、キョン、これはその筋の人なら喉から手が出るほど欲しがる
……そうだね、幻の酒、とでも言えばいいのかな。」
未成年の飲酒は犯罪の筈だが。ここは日本だろうに。
「何を言うのか。
料理として一緒に出された以上、これは飲むべきものなのだよ。
食事を最良のものとして味わうためにはね。
君だって飲酒の経験がない訳ではないだろう?
それに、全部飲めと言っている訳ではない。
酔っては元も子もないからね。」
確かにその通りかもしれないな。
さて、佐々木の箸も案外すいすいと進んでいるようだし、
俺も頂こうじゃないか。
料理はおいしいし、キョンも満足してくれているようなのだけれど、
私としては少々おもしろくない事態になりつつあるようだ。
やはり私も所詮は凡人というべきか、いかに綿密な計画と根回しを
しようと、どこかで綻びが存在するらしい。
そして、その綻びを放っておくと碌なことにならないのは人類の歴史から
容易く学べることだ。
これは、少々強引にでもいくしかないのだろうか。
「あーん」イベントを成功させるためにも。
酔ったふり、あるいはいっそのこと指がつったことにして逆「あーん」かどちらで行くべきか
――――などと考えていると、蟹に四苦八苦しているキョンに気付いた。
身を取るための専用の道具を使いながらも、どうにも取れないらしい。
少々ムキになっているのは食い意地が張っているとかそういうことではない。
彼のことだ、頭の中はどうして身が取れないのかという疑問でいっぱいに
なっているだけ。
中学校の頃でもそうだったが、諦観が似合い、実際同年代の少年たちに比べれば
価値観的な面では必要以上に冷めていた彼にしてみては珍しい、
男の子っぽいかわいさを垣間見せているのだ。
………本当に、卑怯だと思う。
そんな邪気のない純粋な顔をされて、母性を刺激されない女性なんているのだろうか。
「キョン、それを貸してくれないか。僕がやってみよう」
私の声に反応して彼が顔を上げた。
格闘していた蟹の足と私の顔を視線が行き来する。
本人は気付いてないのだろうが、気を使っているというのが簡単に解る。
「くっくっく、安心したまえ、身を殻からはがしてあげようという、純粋な好意だよ。
君の分の蟹までくすねようとは思っていない。」
「失礼な奴だな。俺はそんなに食い意地を張るような人間でもないし、欲しいならやるぜ」
まったく、こうして双方の本心を隠したまま軽口を言い合える間柄というのも
いいのか悪いのか。
貴重であることは相対性理論並に一般論として通りそうだが、
量子力学の世界では物理法則が通らないように、それが最善だとは限らない。
無論、もどかしい関係は今日でもって終わりにしてしまうつもりであり、
やはり人間同士のコミュニケーションならば本心のぶつかり合いということだ。
「いや、僕としてもそろそろ限界だと感じていたので遠慮しておくよ。
腹八分目に医者いらずというだろう?
胃に負担をかけ過ぎるのは御免だからね。
こと胃というのは体内でも得に気をつけるべき器官であって、
それもph2以下の強力な酸である胃酸で消化活動が行われるのだから当然だ。
胃壁には確かに酸に対する防衛能力があるが、そもそもそれを突破するほどの
負荷をかけてしまったら無意味なのだ。
そういう意味では、ストレスで胃に穴が空くという表現もまんざら馬鹿にできるものではない。
病は気からという言葉もあるし、精神的負荷が肉体的負荷となって
自己防衛のために顕現するというのは医療の在り方において大いに大切な情報と
なったのだろうからね。
それでも医学会というのはどうにも不信感が拭えないというのはやはり袖の下という
古き悪しき伝統を濃く持つ日本ならではなのか、そこまではわからないけど
…さあ、できたよキョン。」
蟹の足が乗った皿を受け取り、蟹の身を削ぎ取っていく。
思いのほか早く終わったのは僥倖だ。
「おお、ありがとよ佐々木。
しかしアレだな、こうして食いにくい蟹を見てると食物連鎖の過酷さを思い知らされるというか
………なぁ、その、何をしてるんだ?」
喉の奥から延々と笑い声が洩れてしまうのはきっと仕方の無いことだ。
「見れば解るじゃないか、キョン。
それとも、君は奉仕されることを好しとしないのかな。
まさか、君が他人の好意を阻むような非人間的な精神構造を有していたとは驚きだ。」
「………わかったよ。食えばいいんだろう。」
「はい、あーん」
顔を赤くしてわずかに仏頂面になりながらもキョンが蟹に食いつく。
「キョン、ないとは思うが、筋や甲羅が入っていたら危ないからもう少しゆっくり食べて欲しい。」
恥ずかしさを誤魔化すためか、あるいはおいしいのかは知らないが、
そんなに早く食べられてしまっては折角の愉しい時間が終わってしまうから。
「はい、あーん」
「…………」
「くっくっく、おいしいかい、キョン」
「……うまいよ。」
「はい、あーん」
「……」
お父さん、お母さん、申し訳ありません。この馬鹿息子は今にも色々と陥落しそうです。
―――などという無意味な言葉のみが思い浮かぶ夜中の九時。
気でも狂ったかとしか思えない佐々木の「あーん」攻撃による
新手の拷問かと勘違いするような食事を終え、その後のまったりした時間を
無駄話でどうにか埋めつつ人間の動きを察した昆虫であるかのように俺は早々に寝室に
退散することにし、疲れたしさっさと布団敷いて寝ようと襖を閉めたところで
天国と地獄というのは主観的相違によるものであってどちらがどちらであるかなんで
些細な問題にすぎないのだろうという哲学的思考に到達したのち上記の言葉に至った。
いや、それでもこればかりは全力で現実逃避したいとお星様に願ってしまいそうな
俺を誰が責めるというのだろうか。
寝室にはもう布団が敷いてあった。ああ、万全だったとも。
これを敷いたやつは相当家事がうまいに違いない。
安値の観光ホテルのベッドメイク係びっくりの仕事だ。
しかし、ああ、ここがむしろ洋風ならどれほどよかったものか。
旅館ならではの究極奥義がそこに体現されているのだからな。
さて、では言うぞ。日本の奥ゆかしさがわかる男子諸君なら喜びにのた打ち回る奥義の名を。

ぴったりとくっついた二組の布団。

これをこの旅館の人間が用意したのだとしたら怨む。
確かに相思相愛の男女二人旅ならばこういうのは当然かもしれないが、
お出迎えだけはしてくれた着物の女将さんよ、俺達がそんな風に見えたというのかい?
「どうしたんだい、キョン。こんなところで突っ立って。」
ぎくりと、何か悪いことでもしたかのように背筋が凍る。
やましいことなんて無いのだが、とすればいきなり後ろから声をかけられたので驚いたに
違いない。
うん、俺は今驚いている。冷静な判断ができていない。
何故なら、布団なんて動かしてしまえばいいだけなのだから。
「もう寝るのだろう?僕も中々の長旅に疲れたのでもう寝ることにするよ。
明日は市街地の観光だからね。折角の予定を無碍にするのは遠慮したい。」
そうして凍りつく俺を尻目に佐々木は布団に入っていく。
いや、佐々木よ。お前は何故そんなに落ち着いているのだしかし
俺が慌てている佐々木が見たことあるといったらGとか雷とか秋の毛虫大量発生とか
案外多いのかもしれないが多くない。
えーと、待て俺。こういう時はとにかく落ち着け。
「キョン、立っていないでこちらに来たらどうだい?」
正直もう、誘ってるとしか思えない。
ええい、仕方ない、
こうなれば明日がつらいだろうが俺は夜通し理性を保ちつつ起きてればいいのだ。
あまりに無防備な佐々木に言いたいことはあるが、今そんなことを言ってはむしろ
意識しすぎと思われかねず、
俺はまだ紳士であるからしてエロなどの称号はいらないのだから。
よし、覚悟が決まれば後は実行あるのみだ。
何、今まで様々な超常的トラブルを切り抜けてきた俺なのだ。それぐらい余裕だ。きっと。
そうして布団に入り込むと、佐々木の腕が俺の首に絡みついてきた。
視界は佐々木の顔で占領され、つまり男女逆の押し倒し状態で俺は突然のことに何もいえない。
ワンテンポ遅れて、ばさりと掛け布団が畳に着地した音が耳に入る。
「キョン、覚えているかな?
僕が、恋愛など精神病の一種、一時の気の迷いでしかないと言っていたことを。」
声をあげるか、最悪跳ね除けようとしていた俺の動きがその一言で停止する。
脳から送られた電気信号を一時停止させるほど佐々木の声は真面目であり、
どこまでも本気のものだった。
だから、俺も真面目に返事を返すしかない。
「覚えているさ。つっても、思い出したの方が正しいが。それがどうしたんだ」
「一言で言うなら、それを撤回させてほしい。」
「何故だ?」
「無論、それが間違いだったからさ。
ああ、だからと言って最初から間違いだと思っていた訳ではない。
中学三年生の頃の僕はその考えを正しいと思っていたし、そう信じていた。
あるいは、信じようとしていた。
しかし僕がいくらそうだと信じ込もうとしても、信じきれなかった。
自分自身を納得させることが叶わなかった。
それでも僕は頑なだった。
自分はまだ十分に理性的であると言えないから信じられないに違いない、
己が未熟であるから一時的なことに身を任せそうになるに決まっている、
それは一種信仰に近い祈りだったのかもしれないし、事実そうだったのだろう。
僕は己をあえて厳しい状況に追いやることで恋愛そのものから逃避しようとし、
実際高校一年はそうして過ごしていたのだから。」
お互いの視線がかっちりと合わさったままで佐々木は言葉を続けた。
「では、それでも、一年という若者にとって十分な時間が経過しても尚、
冗談抜きで恋焦がれてしまう、
その衝動に身を任せたくなってしまうのは何故か。
大抵の欲求が希薄である筈の僕が、これほどまでに執着するのはどうしてなのか。
馬鹿らしいほど簡単な理屈じゃないか。」
どこか皮肉な口調になり、
一度口を閉じた佐々木は俺の首に回した腕に力を込めた。
「……私が、間違っていただけのこと。
私が、私を誤魔化し続けていただけのこと。
六十億のうちたった一人のちっぽけな矜持とペルソナを守ろうと足掻いてた。
ただ拒絶されることが嫌だったから格好つけてた。」
再び開かれた口から紡がれるのは、あまりに痛切な言葉だ。
どうしようもないぐらい切実で、救いようがないぐらい本心で、
いつ溢れた感情が決壊するかもわからない。
何でいきなりこんなシリアスになるんだよと脳裏でささやく声がないでもないが、
今は無縁だ。無視だ。

むしろ―――――本当に、自分を殺したくなる。
どうして気付いてやれなかったとか、そういうことではない。
ああ、そうとも。
中学の連中だって皆が皆節穴じゃないってことぐらい解ってたし、
俺だって古泉の茶番劇に気づくぐらいの観察眼があるのだし、
あのころこいつの一番近くにいたのはこの俺だったんだから気づかない訳がなかった。
佐々木が、こいつが俺に好意を抱いてることなんてとっくに気付いていたさ。
だけど同時に俺は佐々木が望んでいることにも気付いていた。
佐々木はあくまで友人というポジションを変えたくなかったし、
俺にしてもそうだった。
だけど一つ決定的な違いがあるとすれば、それは俺側の動機だろう。
俺は、ただ自分可愛さに現状維持に走っていた。
こいつには俺なんて不釣合いだ、俺みたいな一般人は分を弁えているもんさ
―――どれも、今のささやかな幸せを壊さないための残酷な言い訳だろうに。
俺が悪者にならないための、下らない自己満足だろうに。
よくよく考えてみろよ、俺。今日の佐々木の振る舞いを思い出せよ。
あの理性的な佐々木があんな青臭い恋愛小説じみたことするか?
するとしたらその理由は何だ?
解っているとも。焦っていたんだ。追い詰められていたんだ。
らしくないことをするってのは、人間予想以上に勇気がいるもんで、
では佐々木をそこまで追い詰めたのは誰だって俺に決まってる。
さぁて、いい加減にしろよ俺。
茶番は終わりだ。怠惰も、言い訳も、限界を見る怖さもここで終わりだ。
韜晦も誤魔化しもおふざけもジエンドにしようじゃないか。
俺の本心なんだ、なぁ、答えを出せよ。
簡単な二択じゃないか。
受け入れるか、拒むか。
俺はこいつのことが好きなのか、否か。
「今、この状況でこんなことを言うのは卑怯だって、解ってる。
解ってるけど、でも、私はっ……」
ああ、解ってるさ。よく解ってる。
これから先は俺が言うべき台詞で、
今まで辛い想いをさせてきたこいつに本当の笑顔をプレゼントする時間だ。
だから俺は佐々木を抱きしめた。それに、ほら、アレだろ?
女を泣かせるなんて男のするべきことじゃあない。

「なぁ、佐々木よ、少しばかり独り言を聞いてくれ。
…ある所に、一人の男の子と一人の女の子がいたんだ。
男の子は適度にモノを知っていて適度にモノを知らず、
そしてだからこそ見なくていいものが見えてしまっていた。
女の子はとてもモノを知っていて逆説モノを知らず、
そしてだからこそ見たくないものが見えてしまっていた。
二人は実は相思相愛で、誰もが二人を祝福していたのに結ばれなかった。
身分差や財力の差なんて関係なく、二人は互い、心に壁を作っていた
……俺も、お前も、ちょっと捻くれ過ぎて、ちょっと我慢強すぎた。
ただそれだけのことだ。
でも、だったら最後はお約束のハッピーエンドに決まってるさ。」
そうだろう?
こればっかりは誰にだって文句を言わせないし、文句があったらそれを修整しに行ってやる。
そして、ああ、これが締めの一言で、これこそ本当の白雪姫ってもんだろう?
俺は今日、言葉では不粋なこともあると言った。
確かにそんな時もあるだろう。けど、今この瞬間は違うぜ。
決めの一言、ファウスト博士なら同意してくれるだろうが、すまんな博士。
この物語には悪魔なんて出てこない。
ただ一組の男女が織り成すささやかで充実した人類の一断片。
だったら、その始まりはこの一言以外に何があるってんだ。
「……お前のことを、愛してる」

 



6-860「湯煙@佐々木」
7-883「湯煙@佐々木vol.2」
8-621「湯煙@佐々木(翌日)」

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年06月06日 10:54
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。