9-512「自習室の彼女」

――偶然だった。
その時たまたま通りかかっただけの、たまたま覗き込んだだけの自習室だった。
机に伏して眠っている彼女が、ただ独りそこに居た。

同じ教室の中の女子連中の中で、彼女は際立って輝いていた。
同室男子の受講生で彼女の事を誰もが狙っていた。何も容姿がずば抜けているってだけじゃない。
講師からの質問にもエレガントと言える受け答えをし、模試の成績はいつも上位。
知識をてらう様な持って回った喋り方も彼女の学才の深さを感じさせて魅力的だ。
そして――目映いばかりの彼女の笑顔。きっとアイツにしか見せない、極上のスマイル。
あの笑顔を向けられたら、僕はどうなってしまうのだろう。
死んでもいいとさえ思ってしまうかもしれない。
しかし、そんな事は僕が模試の成績で彼女の上位に付ける事くらい、有り得ないのだ。
アイツが一緒に居る限りは。

――今、アイツは居ない。アイツ以外の誰かも居ない。
居るのは彼女と僕だけだ。
彼女はどうやら本格的に寝入っているようだった。可愛らしい寝息が僕の耳にも伝わる。
今なら、彼女の傍に寄っても――いや、そんな事。卑怯だ。考えるまでも無い。
でも――今しか。きっとこの機会しか――
気が付けば彼女の寝顔が目の前にあった。何か寝言を呟いていたが、よく聞き取れなかった。
ああ――なんて可愛いんだろう。
きっと今なら誰も気付かない。彼女自身も――

「よ」
突然肩を叩かれて、心臓が胸を突き破って飛び出すのではないかと言うくらいに驚いた。
息ができない。呼吸ってのは一体どうやればいいんだったっけ――
振り返った先に、困ったように頭を掻いているアイツが居た。
彼女に『キョン』と呼ばれてるアイツが。
なんて事だ、よりにもよって――
「――悪いな、寝かしといてやってくれよ。いつも遅くまで根詰めてるみたいだからさ」
「――え? あ、ああ……」
アイツを睨み付けようと顔面の筋肉が動くか動かないかのところでそんな風に言われた。
――怒らないのかよ?
毒気を抜かれるとは正にこの事だ。途端に自分の卑劣な行為を自覚し、嫌悪感に駆られる。
「……悪かった。じゃあな」
「おう」
敵う筈も無い――どうしたらあんなに優しい目をして彼女を見つめられるんだろう?


「ん……キョン?」
目覚めたばかりの眼を擦りながら佐々木が起き上がる。
やれやれ、寝ぼすけ姫様の御起床か。
「悪かったな、講師の野郎が中々離してくれなくてさ。すっかり遅くなっちまった」
「キミの性格の問題だろう、因果応報だよ。磨けば光る原石が掌中にありながらも、
 その原石自体は磨かれる気も光る気も無いのだからね。講師殿方のやるせない気持ちも
 僕にも判らないでもない」
ほっとけよ、身分不相応な事はしない主義なのさ、俺は。
「――そう言やさ。眠り姫の童話ってあるじゃねえか」
「スリーピングビューティとか白雪姫の事かい?」
うむ、まあその辺だ。
「あの姫さんって、きっと口が臭かったから長い事誰からもキスされなかったんだぜ。
 きっとそうに違いねえよ」
――この直後に無言の佐々木に張り飛ばされる事を、俺は身をもって知る事となる。

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最終更新:2008年01月27日 08:10
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