〈シンポジウムI〉生命操作の現在を検証する


はじめに

 現在、日本において、1997年に成立した臓器移植法では、「本人意思の尊重」原則が大きなブロックになって脳死・臓器移植が一向に普及していない。特に、小児臓器移植を禁じている法の限界に直面して、改善策が迫られている。これが臓器移植法の「見直し・改正」を主張する側の言い分だが、このような見方でよいのかについては、さらに検証を重ねていく必要がある。ここには、死なしてよい生命と生かさなくてはならない生命の格差問題があるし、「死の自己決定権」でよいのかという問いかけ等々がある。  さらに、特に21世紀に入ってから、かしましく論じられるようになったことに、「延命医療の中止」問題と尊厳死の倫理化・合法化問題がある。この背景には、医療費抑制という国家的・社会的要請や「少子高齢化社会=危機的な社会」というキャンペーンやがある。これらの社会的要請や自己決定権的思考のなかで広く表現されてきた、普段に暮らす人々の「尊厳死」願望も、ひるがえって、これらの動きを下支えしているように思える。  臓器移植にしても尊厳死にしても、これらを推進する社会的要請と論理は、一見、太くなりつつあるようだが、それに抗して、いまなお、問題提起的、歯止め的発言は繰り返されているし、社会臨床学会も、その一端を担ってきた。  一方、移植医療を超えて再生医療へという流れは、移植医療を推進する側からも、そして、移殖医療には慎重な立場を取る側からも、歓迎されている。昨今のマスコミは、再生医療に関わる研究と発見を、実用化の可能性や現状とともに、明るいニュースとして報じ続けている。再生医療には移植医療と同様な問題はないのか、再生医療特有の課題や問題は何なのか、この際、じっくり考えあいたいと願っている。  司会者たちは、以上のような認識と問題意識を持っているが、これから紹介する三人のシンポジスト、古賀典夫さん、高石伸人さん、堂前雅史さんからは、「生命操作の現在を検証する」ために、それぞれの切り口で、鋭くもリアルな問いを提出していただけるものと期待している。

(シンポジウムI司会 篠原睦治、三輪寿二)

発題1 臓器移植法「改正」・尊厳死法の現在と問題

古賀典夫
 一昨年、国会に議員立法で「脳死」を一般的な人の死とする「臓器移植法」改悪案が上程された。その後も継続審議の手続きが取られ、現在に至っている。その国会の「脳死」を巡る議論の中では、「意識の喪失が人の死である」という趣旨の発言が行われるようになっている。健康保険の診療報酬には、「脳死」とされる人からの臓器移植が組み込まれ、遺伝子診断も組み込まれた。  昨年5月26日には、関係閣僚も出席する「社会保障の在り方に関する懇談会」が医療費抑制の観点から「尊厳死・安楽死」の推進を明確に打ち出した。そして、国会議員の中では、「尊厳死法案」が検討されている。医療現場での人工呼吸器の取り外し問題などを契機にしながら、「尊厳死」推進のキャンペーンも行われている。  これらと同時並行で進められてきた政府・与党の政策が「介護保険法」の改悪、「障害者自立支援法」制定、医療制度改悪だった。金を持たない者はますます福祉や医療が受けられない状況が強められると共に、「働けない者」「人の手を借りずに生活できない者」をますます切り捨てていこうとする方向が強められてきた。他方、こうした政策への反撃も展開されている。  こうした優生政策や能力主義による選別は、国を縛る憲法から民衆を縛り戦争へ動員する憲法へと変える動きとも一体であると思う。  こうした動きを具体的におさえながら、どうやってこれらに立ち向かっていくのかを考え提起してみたいと思う。

こが・のりお 脳死・臓器移植に反対する市民会議世話人、「怒っているぞ、障害者切捨て全国ネットワーク」メンバー。論文に「最近の「尊厳死・安楽死」推進の動きとその批判」社会臨床雑誌12巻3号(2005年)、「なぜ、障害者自立支援法に反対するか」同誌13巻3号(2006年)など。

発題2 少子高齢化社会と介護保険・尊厳死

高石伸人
 大学の教員をしながら、筑豊の自宅で「障害」をもつ人を含む友人たちと一緒に、自認可の「虫の家」というフリースペースを運営していて、今年21年目を迎えました。17年前にはダウン症の息子を授かりました。教員になってから、半分はノルマを果たす必要からいくつかの論文を書きました。テーマは、ハンセン病、臓器移植、社協論、仏教と福祉について等です。今は、いじめ・自殺や子ども虐待のことを調べていて、水俣病事件についても少し考えてみたいと思っています。  さて、今回の総会で問題提起を仰せつかり、「少子高齢化社会と介護保険・尊厳死」という課題で手打ちしたのですが、今はまだ上の空で思考回路の整理ができていません。ただ、子ども問題を調べる中でも考えさせられたのですが、少子高齢化社会というのは、子どもたちがたくさんの大人たちに囲まれて、眼差しを注がれている社会なのだということです。その点で、子どもたちは息苦しいだろうなと直感します。しかも、「少子高齢化社会=少子vs多数の高齢者」という負担の構図を意図的にばら撒いて相互牽制を煽り、所得の再分配という原則から国民の目を逸らさせようとしている、そんなふうにも思われます。何せ、数の少ない子どもたちに、迷惑で負担のかかる「介護」の必要なたくさんの高齢者を養ってもらわないといけないわけですから、稀少な人的資源として「健やか」に育っていただかねばなりません。もちろん、高齢者たちにも「応益」の負担と、「要介護認定」予備軍には予防のための筋トレを課して、陰に陽に自立に向けた努力を強いながら、しかし、やがて訪れる「見苦しい老い」に、徐々に向き合ってもらいます。そのうえで、家族や社会や国家に迷惑をかけるくらいなら、いっそ「美しく死にたい」という自己決定の花道を用意しようとしている。まあ、漠然とそんな勘繰りに頭をめぐらせているところです。

たかいし・のぶと 九州龍谷短期大学勤務。論文に「証言:『らい予防法』を生きて」九州龍谷短期大学紀要第45号(1999年)、「閉塞する死—『商品化社会』の精神に関する一考察」九州龍谷短期大学紀要第46号(2000年)など。なお、第6回総会(和光大学)の分科会「老いと介護をめぐって」(社会臨床雑誌6巻3号)でも、同様なテーマで論じている。

発題3 脳死・臓器移植から再生医療への現在と問題

堂前雅史
 幹細胞や前駆細胞を用いた再生医療は、適合性や臓器不足などの問題を抱えている臓器移植に代わりうるものとして注目を浴びつつある。中でも万能細胞といわれる胚性幹細胞は、クローン技術と結びつけることによって免疫拒絶反応を生じない再生医療への道を開くと期待されていたが、捏造問題のようなスキャンダルを生み出し、これらの分野における研究者間・企業間の熾烈な競争の表れとして見ることができよう。こうした技術についてはしばしばクローン技術やES細胞を用いる研究が注目されるが、他にも様々な展開が見られ実用化されつつある。今回は、再生医療の研究の現状について私が知り考えたことを申し上げ、先端生命科学・医療研究をめぐる社会問題についての議論の材料としていただければ幸いである。  私のもともとの専門は動物のホルモンと行動の関係を探ることだったが、遺伝子と行動の関係を考えたのがきっかけで、GMO、BSE、クローン技術など科学と社会の関係について考えるようになった。現在は都市部における自然保護の問題を考えている。

どうまえ・まさし 和光大学現代人間学部身体環境共生学科勤務。今回のテーマに関連する論文として、「市場は『種の壁』を開く─『狂牛病』、クローン豚、そして生物進化」『アソシエ』No.9(2002年)、「生命科学技術と私たちの社会─クローン技術を例に」『和光大学人間関係学部紀要』No.6(2002年)、「遺伝子組み換え作物の生態系への影響をめぐる論争」『アソシエ』No.7(2001年)、「クローン人間と『“ヒトラー”の遺伝子』」『現代思想』Vol.26-11(1998年、廣野喜幸と共著)、「『同性愛の遺伝子』をめぐって」『情況』1996年11月号など。


最終更新:2007年04月07日 16:34