篠原睦治(和光大学)


なんとも大仰なタイトルである。しかも、「記念講演」とまで銘打っている。気恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。総会実行委員長、加藤さんの要請なので、と弁解させていただく。

1964年夏、アメリカでは臨床心理学で学位を取ろうとする者に一年間義務付けられている「心理学インターンシップ」に参加するために、ニュージャーシー州に旅立った。精神薄弱児の収容施設、州立精神病院で、心理テストの訓練を受けた。精神分析の盛んなところだったが、行動療法も台頭していて、それぞれの専門家たちは、ぼくらの前で相手を批判しながら、ぼくらを煽っていた。明くる年、すでに影響を受けていた児童精神科医で非行研究者、R. ジェンキンスのところへ馳せ参じ、少年院にこもりながら、非行研究をした。帰りには、イスラエル・キブツに立ち寄って、集団主義保育・教育のなかの親子関係と性格形成の様子を調べた。ぼくの最初の本は『キブツの子どもたち』である。

1966年秋、東京に戻ると、日本臨床心理学会が生まれていて、丁度、総会中だった。ぼくは、カウンセリングや非行研究ですでに指導を受けていて、アメリカ留学の道を開いて下さった水島恵一先生に、その会場で帰国の挨拶をした。先生の嬉しそうな顔をいまでも思い出す。
先生を囲んで、ぼくらは東京臨床心理研究会を始めた。ぼくらは、先生から自らカウンセリングを受けつつ、カウンセリングと心理テストの研究会・講習会を始めた。プロとしての資質を高め、やがては、臨床心理士の資格をつくっていかなくてはならないと考えていた。ここで、ぼくは、ロールシャッハ研究者、片口安史先生の信頼を得ながら、ロールシャッハ・テストを教えるクラスを担当した。

しかし、臨床心理研究者・心理臨床家としての上昇への道は長続きしなかった。心理テスト・カウンセリングをしながら、「分ける」ことの告発を受け出すし、「内面を覗く」ことの後ろめたさを体験していく。といって、もはや、この世界から縁を切ることはできなくなっていた。こうして、「される」側に学び「される」側とともに、臨床心理学・心理臨床の批判的検証の、長い共同の旅が始まった。

いま、ぼくは、70年代当初からだが「どの子も地域の学校へ」と願い主張して子供問題研究会の活動に参加している。90年代当初発足の「脳死・臓器移植に反対する市民会議」の世話人をしている。そして、やはり70年代当初からだが、臨床心理士の資格・専門性を批判しながら、臨床心理学会の学会改革運動に参加し、その延長上で、現在、社会臨床学会活動に参加している。
そして、今も、臨床心理学にからみあらがっている。職場では、「臨床心理学」「心理学思想史」「心理学の社会史」などを担当してきた。

当日は、「昔」と「今」をもう少し丁寧に述べながら、「昔」から「今」へと移り変わる話を、恥ずかしながら個人史的に話させていただこうと思っている。聴いていただければ幸いである。
最終更新:2006年03月25日 14:44