札幌荘内寮のWiki

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1905年(明治38) 11月 荘内学生館仮設
1907年(明治40) 11月2日 札幌荘内館開館
1919年(大正8) 7〜8月 第一期修繕工事
1921年(大正10) 7〜8月 第二期修繕工事
1923年(大正12) 5月14日 法人認可
1928年(昭和3) 札荘会発足
1932年(昭和7) 7〜8月 改修工事
11月2日 創立二十五周年記念祝賀会
1951年(昭和26) 夏〜 第一期改修工事
1952〜53年(昭27〜28) 第二期改修工事
1958年(昭和33) 7月6日 創立五十周年記念会
1964年(昭和39) 11月2日 星野勇三氏死去
1969年(昭和44) 11月2日 新寮竣工式 『荘内寮と星野』刊行
1983年(昭和58) 6月15日 創立七十五周年記念会
2005年(平成17) 7月9日 創立百周年記念式典

荘内学生館

「札幌荘内館設立趣意書」には「札幌に於る荘内同郷会の事業として同郷学生の学資の節約を期すると同時に其の美風を養成し兼ねて同郷関係の円満を期するの目的を以って札幌区に荘内学生寄宿所なるものを仮設し」とある。実際には「斎藤親広氏(札幌支庁長)の発意で、大塚吉太郎、石川継述の両氏が相談に預り、設立したのが実状だった様」である。

札幌荘内館

趣意書にはその意義を「同郷人の為に将来の幸福を謀り度儀に候然して該荘内館なる者は単に学生の寄宿のみに止まらず本道在住の同郷人の会合所又は本道視察又は当区に立宿らるる同郷の人々の実費丈の宿所にも充て」と定めている。当初当館は札幌区内農学校敷地を借り受け建設する予定であったらしいが、趣意書印刷直後に、「札幌農学校が新に畑地を宅地として開放せる個所に於て、約五百坪(北十条西一丁目創成川沿)を借り受けたと言う事で、発起人の一人川上広衛を名義人として、既に借地契約を結んで有った」とのことである。しかしさらに「前北海道鉄道部長国沢能長氏(中略)が札幌農学校事務所前(中略)を宅地に解放する事に決定、(中略)西北隅に三方農学校の土地に囲まれた、約五百坪の飛び地が出来た。若し其飛び地に荘内館を新築するなら、東側百坪を共同運動場なる名目で無料にしてやると好意ある話し、(中略)右の土地を借りる事に、相談を極めて来たから其様に承知してくれ」ということになり、結局は該借地権をいくらかで他に譲り渡したようである。

第一期修繕工事

・土台受石の煉瓦上げ
・全部の土台替下見板の一部新規取替
・内部の壁塗り替え
・畳表替え

第二期修繕工事

・二階南端の集会室(二室あわせて二十五畳敷)を六畳三室に改造
・建物北東に別棟平屋建集会室(廊下にて本屋と連絡)を新築
・建物全部の屋根を亜鉛引鉄板葺にする

法人認可

大正十一年十一月評議員会を開催、以下の決議をみる。

  1. 法人の名称を、札幌荘内寮とする。
  2. 法人の寄付行為は、理事長の作成したものを承認する。
  3. 理事星野勇三は、寄付者一同を代表し、寄付行為設定者となり、財団法人設立を文部大臣に申請する。
  4. 北見国の小作農場は、未だ所有権確定せず、(未だ北海道庁より全地成墾の証明書下附せらるる時期には達しておらざるため、所有権登記は不可能。同証明書は大正十五年十月八日付にて下附せられた。)財団法人の資産たる資格なきをもって、従前通り理事星野勇三の所有名儀となしおき、新に財団法人札幌荘内寮後援会なるものを組織し、同会が農場経営に当ること。

この法人申請は大正十二年五月十四日付で文部大臣鎌田栄吉より認可された。そして六月十三日第一回評議員会を開くことにより、ここに財団法人札幌荘内寮の運営機関が成立したのである。

札荘会発足

会員(寮出身者と在寮生)相互の連絡親睦を図るという目的のもと結成された。もっとも大切な仕事として会誌の発行をあげている。これにより会員の消息を知りまた、相互の連絡もとりやすくなった。ところが昭和十八年に「紙類不足のため、会誌の発行のみならず、財団法人の年次報告の印刷発行も停止せよ、とのその筋よりの勧告を受け、ここに、地方に散在する会員諸君との連絡は不可能の事態」になってしまう。同二十六年に第十六号が復刊されたものの、これを限りとして再び休刊となる。休刊五年の後寮維持員制度決定とともに、維持費の一部を会誌印刷および郵送費にあてることとして、つまり会員は札荘会費として特別に醵出することとして、三たび刊行のはこびとなる。

改修工事

・下見板のクレオソート塗り
・屋根軒下を独逸壁に改める
・窓枠窓縁のペンキ塗替
・屋根のペンキ塗替
・各室障子を全部ドアに改む
・各室壁の塗り替
・天井は紙張りに改む
・各室に煙筒孔を設く(その時フクロストーブを各室にとりつく)
・風呂場の改善
・玄関入口のコンクリート叩き

なおこの改修は、創立二十五周年記念祝賀会を催すにあたっての工事であった。

創立二十五周年記念祝賀会

午後四時より寮大広間にて祝賀式(記念式)が行なわれた。来賓は佐藤昌介前北大学長(当時)、南鷹次郎学長(当時)代理新島善直氏、札幌市教育課長筒井氏、仙台、秋田、会津、米沢、巌鷲各寮代表等であった。佐藤氏の祝辞の内容は「荘内寮を先駆として、その後設立をみた秋田、仙台、会津、米沢等の学寮より、先生自身が主唱者の一人となり、最近建設をみたつ巌鷲寮(南部地方出身者の寮)に至るまでの学生寮の名をあげ、各多数の東北地方の学寮が、大学の周囲に存在するを喜ばれ、(略)」というものであった。
 続いて六時より祝賀会(宴会)が催された。参加者は寮役員と同郷人有志、寮生あわせて約七十。たいそうな盛会となり、最後は万歳三唱で散会した。

第一期/第二期改修工事

・一部の土台替(勝手及び浴室)
・外壁、下見板補修並びにクレオソート塗
・外壁、窓及び入口戸の額縁、軒先軒裏木部、其の他化粧部の補修、並びにオイルペンキ二回塗
・玄関内外周壁及び硝子戸補修
・外壁、妻壁、軒下小壁セメント色モルタル塗替補修
・内部、各室及び廊下の周壁、漆喰補修塗替、並びに水性ペンキ二回塗
・各室天井新規テックス張り補修
・各室窓硝子戸框補修、オイルペンキ二回塗、並びに破損硝子入替
・各室扉補修、箱錠其の他取替補修
・各室、襖一部新建込み、其の他補修並びに襖紙張替
・台所、床及び天井並びに地下ムロ補修
・台所一部模様替、「流シ」及び水道栓移設並びに物置場設置
・浴室、洗面所の模様替並びに水道栓取替補修
・便所、既設コンクリート叩の上に床板張り並びに陶器製小便器取付
・屋根、軒先柾及び亜鉛板張替補修
・大広間玄関、拡張増築
・物置土台替並びに外壁補修
・外部排水土管伏設、マンホール増設並びに小便槽取替
・電灯線取替及びメーター取付
・畳、表替及び新調

この改修を施工するにあたっては予算面で相当の苦労があったようである。「郷里市町村よりの補助金集めは、なかなか難産にて心配しおる中、朝鮮の南北戦争が始まり、国内に所謂特需景気が起り、物資、労銀両者の騰貴甚だしく」の現状からして、騰貴が進行すれば竣工費用は百万円以上になる可能性もあった。そこで「土地の売却は、たとえ、その一部なりといえども、星野には身を切る思いであった」のをこらえつつ、寮敷地東方、大学事務局長官舎に接する部分(寮テニスコート敷地)を売却することになったのである。二百四十坪を坪当たり三千七百円、計八十九万四千六百六十円であった。

創立五十周年記念会

明治四十年十一月二日、札幌荘内館として開館した当寮は、昭和三十二年をもって五十周年を迎えることになった。前年より五十周年記念会を催すべきであるという気運が高まり、しかしちょうど昭和三十三年七、八月に、札幌において北海道博覧会が開催されることになっていたためあえて半年延期をし、同年七月六日に開催することが決定した。これには各地に散在している会員に博覧会見物のかたわら、久闊相会する機会をつくってはどうかという配慮もあった。
 記念会当日は快晴。杉野目晴貞北大学長(当時)をはじめとして大学部課長、各学寮代表者、寮後援者、寮功労者の遺族等を来賓に迎え、午前十時より旧テニスコート敷地において記念式が行なわれた。星野勇三氏は理事長としての式辞の中で、五十年にわたる寮の歴史を記した書物を近く公にすべきことを約している。
 同夜には寮の大広間において寮生主催の夜会が催され、すき焼きがふるまわれた。

新寮竣工式

建設以来六十余年たった荘内寮も老朽化がはげしく、ついに新寮建設に踏みきることになった。新築にあたって当時旧寮に住んでいた二十余名のうち半数および寮母家族は一時、北二十七条西九丁目の仮寮に移転した。六畳間九室の借家であった。この仮寮に入らない寮生はおのおの下宿住まいをすることになる。
 旧寮惜別会は昭和四十三年六月二十三日正午より寮芝生にて開催された。その様子は以下のようであった。「好天とて老人組はテントの中の畳に、中壮年組や寮生は庭に敷いた大広間の畳に座る面白い会。六十年の歴史ある建物に別れを告げなければならない時の流れ、時の動きを、かみしめながら、大川会長の演説を聞いた。ビール、ジンギスカン、鍋を飲みかつ食い、そばに立つ愛惜限りない寮を見る。パン食い競争、木昇り競争などが賑かに行なわれ寮母の中学生の坊やは花火を上げて、景気をつけてくれた。参加郷友会員の中には寮を初めて見る人もあった。吉川宣男夫夫妻出席。」
 十八日後の七月十四日、寮は空き家になった。
 新寮への移転は昭和四十四年九月十四日。「この日は朝からの快晴で仮寮外に散らばっている寮生の荷物も大型トラックが次々と回って行って集めて新寮へ持って行く。仮寮は意外と荷物が多く合計で大型トラック四台分であった」の記述にあるように大規模な引越であった。また当時は折しも大学紛争まっただ中であり、「間近の北大本部、付属図書館は学生に封鎖されていて、旧寮解体前に付属図書館に預けてあった、掛軸、越鳥他の額等を持ち帰ること叶わず」の状態になっていた。
 新寮竣工式は十一月二日午後二時より大広間にて行なわれた。故星野勇三氏のご家族、寮改築の功労者、堀内寿郎北大学長(当時)、各学寮代表者らを来賓に迎え、財団役員、札荘会員等参加者は総勢九十余名。大川理事長(当時)の式辞、渡会常務理事(同)の改築経過報告、工事請負業者に感謝状と記念品贈呈、寮長から理事長へ感謝状、理事長から常務理事へ感謝状と記念品贈呈、各界からの祝辞、祝電披露と続き、最後に鈴木清治札幌山形県人会長(同)音頭により万歳三唱にて竣工式を終える。直ちに玄関前において記念写真撮影が行なわれた。
 引き続きクラーク会館に場所を移し祝宴が催された。渡会氏はスピーチの中で「昭和三十九年の暮れ自分は、文部省から転任し、北大学生部厚生課長になったばかりの高橋恵一氏と自分が荘内寮を鉄筋コンクリートで改築するのと、あなたが北大恵迪寮を鉄筋コンクリートで改築するのとどちらが早く終わるか競争しようと約束している。(中略)五年経った現在私が勝った」と語っている。
 祝宴は午後四時半に終了し同五時より寮にて寮祭(寮創立記念)が開かれた。酒あり、歌あり、寮生の余興ありと大いなる盛り上がりをみせ、とくに寮生の二次会は朝六時頃まで続いたようである。

荘内寮と星野

荘内寮の歴史を記した『荘内寮と星野』の出版は、寮創始者のひとり星野勇三氏の意向であった。残念ながら出版を見ずして星野氏は亡くなられたが、五十嵐誠編集人を先頭に昭和四十四年十一月二日、星野氏の命日でもあり寮創立記念日でもあるこの日、新寮竣工式を祝うかたちで発刊のはこびとなった。

創立七十五周年記念会

諸般の事情により延期された記念行事であったが、北海道神宮例大祭にあわせこの日に行なわれた。式典は中央区フジヤサンタレスホテルエルムの間において午後四時より開始。開式の辞、黙祷、星野達三氏式辞、渡会彰彦理事長(当時)挨拶、竹越俊文氏七十五年回顧、星野氏より渡会氏へ感謝状贈呈、来賓祝辞、祝電披露、閉式の辞の順ですすめられた。同五時記念撮影、同五時半より祝賀会。最後は万歳三唱で幕を閉じた。


ここまではすべて、『荘内寮と星野』および『越鳥』をもとにつくっています。100周年はだれか書いてください
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