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とある音楽院生の一日

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toyo

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とある音楽院生の1日


音楽院生の朝は早い。

音楽を学んでいます、専攻はピアノですなんて言うと、何やら優雅な生活を想像されるがとんでもない。音楽をやる奴に必要なのは、音楽に対する情熱、努力を厭わないこと、音感とかはまあ当たり前で、技術なんてのは練習してりゃあいくらでも後から身につく。個人差は出るだろうけど。生まれ持っての感性と才能はまあ、運次第だな。
で、それらの裏づけとなるのが1にも2にも体力!学生オケとはいえ定期コンサート前なんてぶっ通しで何時間も練習し続けるんだぜ、しかもコンとコンマスの意見がぶつかって精神的にもぴりぴりしたまんまとなりゃーこれがもう。体力がないと生きてベッドに戻れない有様なのだ。(*1,2,3)

そんなわけで全ての科の音楽院生は、1日のうち最低1時間は体力づくりをすることを推奨されている。俺の朝も例に漏れず早い。朝早く起きて柔軟とジョギングするのが日課なんだ。朝練習して夜運動する奴もいるみたいだけど、俺は朝派。昼間にいろいろ詰め込まれまくるから、夜は正直体力づくりとかやってる余裕がなくなるんだよな。
俺は寮生なので走るのは大学構内だ。国が張り切って広く作ってくれたおかげで、まあ、寮にいる音楽科の半分が走り回っても渋滞は起きないよ。走ってるのは音楽科の生徒だけじゃないけどな…今のところ住み分けは出来てる。ただ下の学年が入ってくる頃は絶対に交通整理係が必要になるぜってジョークがある。(*4)

関節を痛めたりしないよう念入りに身体をほぐしていると、同室の奴がようやく起きてきた。(*5)
「おはようーダーリンー」
「おはようハニー、お鬚が生えたまんまよー」
「ワイルドなボクもファンに受けるからいーいの」
同室は演劇専攻の奴だ。ナルっぽい発言をする割にはズボラで、起きてすぐ運動できるようジャージで寝ている。身支度よりも何よりも、ぎりぎりまで寝ていたいらしい。ファンが実在するとしたら即座に離れていきそうな有様だ。
同室の奴はペットボトルの水を少しあっためてから(※冷たいままで飲むと内臓に負担だからな!詩歌の夜をなめるな!下手したら冬なんか常温でもキンキンだぞ!)一気に飲み干した。
「さー、走りますかね!」
柔軟体操を終えてから同室の奴と5キロ走る。それが俺の毎朝の日課だ。入学してすぐは2キロが限界だったことを考えると、ましになったなあと思う。ちなみに冬は走る代わりに総出で雪下ろしするのが日課になるので、詩歌の音楽院生は一年中結構運動しているのだ。


走り終わったあとはシャワーでさっと汗を流し、寮の食堂で飯をたらふく食ったあと最初の授業の支度をする。(*6)
音楽院は科によって必須教科が指定される。後は自分で選択して必要な単位数を稼ぐシステムになってる。だから最低限度の講義しかとらずに自主練しまくる奴もいれば、俺みたいに他の科の講義までとってみたりする奴もいる(や、俺バレエ音楽とかにも興味あるからね、ダンス科の講義もいくつかとってるのよ)。ただし感性に乏しくて技術だけで押し通す音楽ってのは美しくない―ってことで、1年の間だけは教養科目も結構必須で指定される。だから練習狂の奴は「早く上にあがりたぁぁぁぁい!」なんて言ってるな。でも自分でいろいろ吸収できる奴はいーけど、出来ないやつは引出しが増えないから学校で無理やりそうさせてやらないとな…って担任が言っていた。(*7)

人気があって定員オーバーになった講義でも、実技じゃない限りは全員が受けられるようにされている。これは勉強したい奴にとっては嬉しいことだろう。ちなみに1期生でよかったって感じるのは特にこんなときだなー、定員オーバーでも全員座れるもんな…。ただフルで4学年入るようになったらどうなるんかな。やはり立ち見で受講だろうか。
それはともかく、俺は人より多めに講義をとっているので、週のうち3日は1限から講義があるのでした。でもまあ、他の科の講義に混ざるってのもおもしろいぜ?服の趣味からして全く違ったりするからな(音楽科はラフな格好が多いけど、例えば演劇系の生徒はシンプルか、やたらデコラティブかで二極化してたりするんだ)。


昼は寮の食堂は閉まっているので、構内のカフェテリアか学生食堂か、はたまた売店で何か買ってそこらへんで食うかする。学院のそばの学生街に行く奴も多いなあ。あそこは安い、早い、味はともかく盛りがいい、って男子学生向けの店から、女子生徒が好きそうなこじゃれたカフェまであるんだ。ただ構外にある分、移動時間考えてないと午後イチの講義に遅刻するけど。通学生ですっごく家が近い奴なんかは帰って飯食ったりできるみたいだけどな。俺は今日は5限まで開いてるので食堂で、一番混んでる昼休みから少し時間をずらしてゆっくりお食事だ。

飯を食ってると知り合いを見かけたから声をかけた。そいつも今から飯らしく…留学生の奴なんだ。大神官資格とって神殿楽師になりたいんだそうだ。真剣な顔で「神殿楽師になりたいんだ」と発言した直後大ジョッキを一気飲みするような奴なので、俺はこいつがとても気に入って親しくしている。ピアノとオルガンで多少は専攻がかぶる部分も無い訳じゃないしね、そのうちふたりで神様もスイングするようなギグをするつもりだ。(*8)
「君が今食べているのは何かな。黒いね」
「んー?ハギス。ハギスとつぶしたカブと酢漬けのマッシュルーム」
「ハギスとはなんだろう」
「羊の内臓と肉。…とかが原材料。味付け濃い目」
「…酒が飲みたくなるから止めておこう」
結局奴はタラのトマトシチューにしたようだった。ハギスデビューは週末に!とついでに飲む約束もした。(*9)



空き時間は積極的に自主練にあてることにしている。練習室は先着順で埋まっていくし、うっかりコーヒーを飲みに部屋を空けたりすると、その間に誰かがちゃっかり入ってたりもするんで、できるときに練習しておかないと実技の授業で死ぬ。担当教官からため息交じりに欠点を指摘されたり、軽蔑のまなざしをくらったりするのだ。特に今日の5限はな!まさに実技だからな!俺は練習をします…!
課題として出されている曲をこれでもか!これでもか!と弾き込んでいると、隣の練習室の奴が同じ曲をジャズっぽく弾いてきやがった…。防音されているとはいえドアの隙間から音は漏れてくるわけで、お互いが何の曲やってるかなんて少し聞けばわかるんだよな。あっ、何そのちょっとかっこいい処理の仕方…むかつく…
対抗心がめらっときた俺は重厚かつ荘厳な宗教音楽的弾き方でやり返し、相手がまた情熱的に転調してきたりするもんだからこちらもさらに熱くなり…いや、最後にアドリブでかましたファンファーレが同時だったときは何だか非常にやりとげた感がありましたが…
気がつけば、練習できたのかできてないのか不明なまま5限になったのでした。ヤッタネ!


俺の担当教官は長身のばーさ…いえ、年配のご婦人で、欠点は余さず全て指摘してくださる大変厳しいお方だ。でも教育熱心ないい先生だと思うよ。自腹で高級料理店に連れて行ってくれたり、場数を踏むしかない経験を何かとさせてくれる。そんな教官だ。
で、その教官は黙って俺が課題曲を弾き終えるのを待っていたが、終わった途端にここで指が走りすぎてるだの、なんでテンポがちょくちょく変わるの?そんな指示を楽譜のどこで見たの?すごいねーだの、色々注意して再度俺に弾かせた。渋い顔。ため息。
「…雑!だわねー。でもまあマシな方かね」
…な、なんとか及第点もらえたああああああ!次回曲はこれ、暗譜は次の授業までに済ませてくること…なんて伝達事項を聞きながら、俺は弛んだ表情でうなずいた。前回の授業では、「これ以上あんたに弾かせるのはこの曲がかわいそうだ」なんてセリフと共に終了したからな…。
「ああ、それと最後に。…ワルツ風アレンジはよかった」
にやりとする教官。き、聞いてたの!?どこでなの!?
「だから次の課題曲はワルツにしといたよ。よかったねーえ、大好きな三拍子」
お、鬼だ!


放課後は図書館に寄って次の課題曲の楽譜を借りた。それなりに大きな図書館なのに、あまり本を借りてるやつは見かけない。読むやつは読むんだけどなー、俺なんか正直そんな暇があったら練習したいし。そんなやつばっかりなんだろう、学習室なんてがらがららしい…でも静かに過ごしたいときには穴場かもな。

おもしろいことに図書館にはたくさんソファーが置いてあって、ベッドまで行き着くことができなかった生徒たちが眠り込んでいたりする。音楽には体力が必要ってのは本当なんだよ。
ソファーで熟睡組の中に同室の奴を見つけたので、救助して連れて帰ることにした。うん、演劇にも体力は必要だよな。音楽院生は全員そうだよな…。


夕飯はカラス麦入り鶏肉団子のスープに、スズキの塩焼きだった。丸ごと一個出されたパプリカをばりばりかじる。
「明日は…創作ダンスクラスに君も出るんだっけ?ピアニストのくせにー」
「うるせえ、体力つくし、ダンサーの気持ちもかじるくらいには分かってたほうがいいだろ」
食堂でダチと騒ぎながら飯が食えるってのは、寮の醍醐味だよな。他のテーブルではりんご酒片手にカード遊びが始まったし、テレビのある談話室に移ってなんか見ようって連中もいる。走り込みに行ってたやつは食事時間が終わるぎりぎりに帰ってくるし、自分の部屋で好きなことやったり楽譜片手にオーディオの前で真剣になってる奴もいるだろう。(*10)
いろんなやつがいて揉め事もあるけど、俺は寮が結構好きだよ。退屈しないもんな。…試験前はてめえら全員爆発しちまえって思わないでもないけどな、はっはっは!


8割がた暗譜を終えたところで、今夜はシャワーを浴びて眠ることにした。同室の奴はもう眠っている。眠ってしまったら多少の明かりや物音は気にしない性質の奴なので、たまに消灯後も遅くまで起きてる俺にはありがたい。え?遅くまで何してるかって?勉強デスヨ!レポートを書いたりもスルンデスヨ!
はあ…実技だけならどんなにか楽…いや、そうでもないか。確実に教官に殺されるわ、俺。精神的に。


とりとめもないことを考えつつ、俺の一日は終わるのだった。


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※1 学生オケ:学生オーケストラ(楽団)のこと。実際のオーケストラのように首席や次席なども決まり、オーディションも行われる。学生の自主活動の一環だがゲストを迎えたり、教師が団員として参加することも多い(その場合、多くは指揮者である)
※2 コン:指揮者のこと。指揮をするといってもオーケストラに嫌われたらそれどころじゃなくなる。しかし迎合していては思うように指揮ができないので、いつもバトル
※3 コンマス:コンサートマスターのこと。オーケストラでの第一バイオリン首席奏者。指揮者の女房役でオーケストラとの間を取り持つ…が、この人が指揮者を嫌ったらほぼ間違いなくオーケストラは指揮者の敵に回る
※4 音楽院構内のメイン通路は1周約2キロ
※5 音楽院の寮は構内にある。ただし女子寮と男子寮の入り口は異なり、食堂を除き寮内で行き来はできないようになっているので保護者の皆様はご安心下さい。個室はあるものの数は少なく、2~3人部屋が普通
※6 料金を払えば外部の人も寮の食堂で食事ができるが、メニューから好きなものを選ぶなんてサービスはない。穀類のお代わり自由は寮生のみ
※7 1年生の間は教官が生徒の相談窓口となる担任制度がある
※8 ギグ:小さな演奏会という意味のスラング
※9 詩歌ではよく魚が食べられる。肉の消費は羊が一番多い
※10  夕食時の寮ではごく軽いアルコールも出される。リンゴ酒はその筆頭







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