集え!!名古屋グランパスファン@wiki

グランパス回想記

最終更新:

nagoya_grampus

- view
だれでも歓迎! 編集

グランパス回想記

by 管理@集えグラwiki.

   
 ~'92年からベンゲル時代まで~ 
 

 

*この回顧録は、あえて個人の記憶のみに頼って書いています。
間違いや美化も多いですので、ご承知の上でお読みください。

    

 
 開幕前夜、名古屋にプロサッカーチームが誕生、Jリーグ入り。超大物外国人リネカーが来るということで、マスコミの話題をさらっていました。総額6億円とも言われる大型契約で、グランパスは優勝候補の一角にも挙げられ、ワクワクしていたような気がします。 
 

 そして高校サッカーの逸材、小倉(四中工)が入団したこと。抜群のボディバランス、柔軟でトリッキーなドリブル、テクニック、アイディア、一瞬のスピード、そして得点力。彼がボールを持つと、「何かやってくれる」と思わせる類稀な才能の持ち主でした。 
 

 「カズさんを越えるのは自分しかいないと思ってるんで」、そう入団会見で語る彼の表情には、自信と貫禄が漂っていました。小倉は高校サッカー界の怪物であり、産声を上げたプロサッカーチーム名古屋グランパスの期待の超新星であり、そして日本の未来を握る選手とさえ言われました。
 

   


  
  

'92年、ナビスコカップ

 
 
 創立当初の名古屋は、元ブラジル代表のMF「司令塔ジョルジーニョが中心」と言われたチームです。戦術は特になく、個人技頼みで、ボールを取ったらジョルジに一旦に預けて、熟練の彼にゲームメイクを託す形でした。ジョルジがキープし、指示を出し、パスを出す。それに合わせて周りが動く。 
 

 重戦車のごときDFガルサの跳ね返しも、それはそれで頼もしいものでした。 J全体のレベルもまだ低かった頃です。どんなDFがいいのかも良く分かりません。「最終ラインから前線へのフィード」なんて言葉もなくて、「大きく蹴りだす」とかじゃなかったでしょうか。
  

 初めて開かれた大きな大会、ナビスコカップ'92では、高卒ルーキー小倉が期待通りの活躍で計5得点を挙げ、チームも3位と好成績。ファンの期待は高まります。当時テレビでは、小倉のオーバーヘッドシュートが何度も流され、脳裏に焼き付けられました。 
 

 そんな中、小倉はオフト氏(日本代表監督)の助言を受け、半年のオランダ留学(1部フェイエノールト→2部エクセシオール)に向かいます。とはいえグランパスには、リネカーや沢入、森山といったFWの面々がいますから、十分戦えると踏んでいました。 
  

  

 写真はオフィシャルチームビデオより。(C)NagoyaGrampusEight Inc. (C)1993 SonyMusicEnt.Inc.


上段左から平木監督、ディド、小倉、飯島、藤川、ガルサ、米倉、沢入。
下段左から(子供を除き) 小川、ジョルジーニョ、浅野、中西。(敬称略)

  
 
 

 

'93年、J開幕と平木体制 

 
 
 Jリーグは開幕と同時に大ブームとなります。先進的で世界的なスポーツというイメージで、新鮮さもあり、カズやジーコやスター選手も揃っています。全国にJリーグ旋風が巻き起こり、「もうプロ野球は古い」とまで言われていました。一時はチケット入手も困難な、バブル的様相でした。 
 

 グランパス初年度の平木監督は、「闘志を持って戦い、勝てばそれが自信になり、それが次に繋がる。」といった言葉を覚えていますが、特に戦術もないようで、「それでいいのかな?」と思っていたら案の定チームは低迷。リネカーも高額契約の影で足のケガを抱えており、その治療が長引き、まともに働かなかったような気がします。 
 

 (※クラブ幹部がサッカー業界に不慣れなのを見透かされ、メディカルチェックをせずに高額契約、直後に足首の重いケガが判明。上手く騙された形。クラブ側はこの恥辱と失敗を教訓として活かし、以降、名古屋のスカウト陣は、質の高い外国人プレイヤーを獲得し続けている。) 
 

 小倉はオランダ2部で得点王争いに加わったこともあり留学を半年延長します。当時のセルジオ越後氏の評価は、「オランダ2部は1部より格段にレベルが落ちる。それなら一流に近い外国人のいるJリーグでやった方が学ぶことも多いだろう。しかしオランダという異国の地でやった経験は大きいはず。その経験を糧として伸びていってほしい」という感じでした。 
 

 結局この年のグランパスは、初戦で鹿島のジーコにハットトリックを決められ5-0で完封負けした印象と、その後の浦和戦で4得点を挙げて鬱憤を晴らすように勝ったこと、記憶にあるのはそれぐらいで、あまり見所もなく終わったような気がします。やはり戦術を教えられる監督の必要性を感じました。

 

 


 
 

'94年、悪夢のミルン時代

 
  
 2年目、リネカーを育てたというミルン監督がやってきます。サッカーの本場イギリスから来た初めての外国人監督です。期待しましたが、やる気が全く見えない。選手のレベルの低さにげんなりしたのでしょうか、でもあんまりでした。唯一、左SBの小川誠一を見て「彼はセンスがある」としきりに褒めていたのを覚えています。 
 

 ところでこのミルン監督、戦術練習どころか、練習前のウォーミングアップさえまともにやらないため、マスコミからも酷すぎると嗤われ、呆れられていました。そんな中、あの「赤い団子作戦」(ひたすらゴール前を固めてカウンター)は編み出されました。それで最初は鹿島に勝てたんです。あれはあれで面白かった。 
 

 オランダから戻ってきた小倉はすぐに日本代表へ。キリン杯フランス戦での、あの一瞬のインターセプトからのドリブル、そしてしなやかな反転シュート。ゴール後、手を挙げてジャンプするあの姿に、輝かしい未来を思い馳せたものです。グランパスに戻ると、試合会場では「小倉あんぱん」が販売されたり、大人気でした。本人その後しばらく伸び悩みましたが。
   
 

 

  

 
 そして、この年の初夏にピクシーはやってきたのです。怒りん坊のFWビニッチと一緒に。少し太り気味で、精彩を欠いていて、どこかのロートル選手にも見えました。彼を知る一部のサッカーファンは、「本当にあのストイコビッチが名古屋にいるのか」と驚いていたようです。しかし当時私は名前も聞いたことがありませんでした。 
 

 ミルンはリネカーを贔屓し、練習も適当に済まし、選手を突然コンバート(FW小倉をボランチ、FW沢入をCBに)したり、試合でもおかしな采配を繰り返し、選手やファンの怒りを買っていました。「なんで小倉をFWで出さないの!」と呆れながら怒る女性サポーターの姿が思い出されます。 
 

 あの有名な雨のジェフ戦、ピクシーの水溜まりの上を駆け抜ける空中ドリブルの背景には、監督の不当な優遇采配(劣悪なピッチにリネカーは出せない、だから別の選手を出す)もあったのです。 
 

*  *  *
 

 ミルン氏は暮れに退任、リネカーと共にイギリスへ帰国します。この年もまた、クラブにとって重い教訓が残りました。赤いチームカラーの名古屋と浦和は、Jリーグの「お荷物クラブ」とまで言われました。チームはバラバラで本当に弱かったのです。当時最弱といわれた浦和にだけは強かったのが、わずかな救いでした。 

 

 (※浦和はこの後、何年も先に一時J2に落ちるも、大勢のサポーターの熱い支えを受け、一年でJ1に復帰、その後Jリーグ優勝~ACL制覇と、日本最強のビッグクラブにまで上りつめる。対してグランパスはそのようなことがないまま現在に至る。)

   
  
 


 
 

'95~'96年、ベンゲル黄金時代 

 
 
 3年目、1995年。フランスの俳優のような、その容姿や言葉の端々に才知漂う、アーセン=ベンゲルがやってきます。確か開幕8連敗。でもファンは付いていきました。この時代はまだ下位がJ2に落ちることがなかったので、長い目で見られたこともあります。しかし何より、ベンゲルの理知的な言葉や行動、その一つ一つが、ファンの腑に落ちるのです。 
 

 ベンチでのアクションや表情、不甲斐ないプレーへの叱咤、本気が伝わります。連敗し、みじめな負け方をしても悔しがらない選手に対し、控え室でベンゲルが声を荒げて、「君達はそれでもプロか!」と怒ったこと、それは当時、多くのファンの心にも突き刺さり、何かを呼び覚ましたのです。 
 

 負けてはいましたが、変化の予兆は感じていました。中断期間の合宿では、練習風景を取材するマスコミ陣が「これは必ず強くなる」と褒めていたのを覚えています。その多くは基礎的な反復訓練でした。それは科学的かつ変化に富んだメニューで、集中力を持続させる工夫も施されています。選手の状態に応じて別メニューも作られ、体調管理も徹底していました。ミルンとは対照的です。 
 

 小話:当時小倉が五輪代表合宿からクラブへ帰って来た時に、ベンゲルがその第一印象を聞かれて答えたのが、「基本のよく出来たいい選手だ」だったと思います。後に著書「勝者のエスプリ」の中ではもっと踏み込んだ視点で語られていますが、当時小倉といえばトリッキーなプレーへの評価が多かったので、この感想は新鮮でもあり、またそれを聞いて安心したものです。 
  

*  *  *
 

 数ヶ月の練習を経て、見違えるように選手全体の動きが変わったこと、パスが繋がり、ピクシーが活き活きとしだして、みんなの表情に自信が溢れていきます。サテライトにいた岡山が見出されたのもこの頃です。技術は粗くとも抜群の運動量と俊足が買われました。 SBだった大岩はCBにコンバートされ、その潜在能力を開花させます。 
 

 そして優秀な新外国人たち。彼らはベンゲルが遠い異国に赴いて、わざわざスカウトしてきてくれた選手達です。機知に長け運動量も豊富なボランチのデュリックス、別の生き物のような左足を持つテクニシャン、パシ。そして教科書のごとき老練な守備をする長身ディフェンダー、トーレス。 
 

 その頂点に、FWとして甦ったピクシーの華麗なテクニックがありました。柔らかいボールタッチ、吸い込まれるようなトラップ、正確無比なパスとシュート、一瞬の間で抜き去るドリブル、相手を置き去りにするピクシーターン。相手を翻弄し、見る者を魅了するプレーが次々と前線で展開されます。 

  
 

 

  
  

 多くの選手が、本人も知らない特長を引き出されました。ストライカー森山はスーパーサブとして残り15分で嗅覚を爆発、大活躍します。 MF中西も時にFWとして使われ、その思い切りの良さを発揮。采配は次々に当たり、「ベンゲルマジック」と呼ばれました。
  
 余談:右SBの飯島はプロとしては凡庸な選手でした
。守備はこなせても、足は遅い方で、パスやドリブルやクロスも(当初は)下手でした。しかしベンゲルは彼を重用します。その理由の一つは、「ゴールを守り抜く執念が人一倍あったから」。実際彼は最後まで諦めず、体を張ったクリアで幾度もピンチを救いました。時々オウンゴールもしましたが、それもその表れだったのです。

 

 そんなチームの“影の大黒柱”を務めたのがデュリックスです。中盤をタフに動き、敵の要所を潰しては、すかさず攻めに繋げる、まさに攻守の牽引役でした。ボランチの彼を心臓に、チーム全体が手足となって、ボールは次々に循環し、ゴールに向かって躍動します。シャンパンサッカーと言われた、弾けるような華やかさがそこにありました。 
  
 
その背後で最終ラインを統率するのがトーレス。タイミングの良い上げ下げで、前との距離をコンパクトに保ちながら、面白いようにオフサイドを量産します。1対1での冷静な対応、強さ高さ、確かな足元の技術、全てがお手本のようでした。
 

 ピクシー ─ デュリックス ─ トーレス。この縦に並んだ外国人のラインにも、後にクラブに継承されるベンゲルの哲学があります。外国人FWを複数並べれば確かに点は取れる。現にそういうチームはある。しかしそれでは日本人のFWが育たない。それでは未来に続かない。他のポジションも同様だ。優れた外国人をFW、MF、DFにバランス良く配置することで、どの位置の日本人選手も多くを学び、成長できる。 

 

*  *  *
 

 ベンゲルの変革は、わずか1年足らずで栄冠を届けてくれました。 '95年度の天皇杯では、リーグ戦後半の勢いそのままに、サブを含めた選手全員が役割を全うし、一気に優勝まで駆け上がります。まさにチーム一丸となって獲った栄冠でした。
  

 センターラインの外国人を核に、五輪のエース小倉は準決勝・決勝で2点ずつ。若い平野、岡山らも確かな成長を見せ、脂の乗った中堅選手たちも落ち着いた仕事ぶりを見せます。決勝では3-0の完封。それを目の前で見せられたファンの熱狂は今も忘れられません。心地よい興奮と至福の時でした。 
 

 その時、グランパスJ制覇への準備は整ったように見えました。 
 

*  *  *
 

 それはもう、14年も前のことですから、今の20歳前後の若いファンの方々はご存知ないかもしれません。でも知っておいた方が良いでしょう。当時を知っているサポさんでもいいし、サッカーの好きな会社の先輩でもいいし、学校の先生でもいいし、生の声で聞いてみてください。 
 

 世界的な知将がこのクラブにやってきて、見事にチームを変革し、様々な教訓溢れる言葉を残し、再びヨーロッパへ帰っていきました。その後のグランパスは、ベンゲルの遺産を生かしながら、しかし少しずつ落ちていったのです。

 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 

 

(これ以降記憶が薄く、動向にも疎いため、続きは未定。)



 ベンゲルが自身の将来を案じ、イギリスのアーセナルへ飛び立った後、残された名古屋は、そこに築かれた遺産をベースに、進化していく必要がありました。歴史も浅い中でのフロント、現場の試行錯誤が始まります。(~中略~)

 
 金満体質のクラブは、優秀な選手をスカウトしてくれる一方で、監督を優先して有力選手を切ったかと思えば、その監督を切り、すげ替え、またそれを、と繰り返す。優勝に向けた飛躍を、といいながら、気がつけば低空飛行に入り、墜落寸前にまで落ちる。チーム編成もツギハギだらけで、何を目指しているのかもよく分からない。(~中略~)

 
 こんな中で何が育つでしょうか。これでは、選手と多くのファン自体がもう、諦めの混じった感情で、期待と失望を繰り返しながらも、日々の情報に流され、ゆらゆらと自覚もないまま、同じぬるま湯体質に陥っていくのです。(~中略~)

 
 2008年にようやくそこにメスが入れられ、改革への端緒が開かれました。
 しかし一旦染まったものを変えるのは並大抵のことではありません。これは長い目で見て、辛い時期も我慢し、時に先を見据えた大きな決断をして、選手に、ファンに、名古屋圏人に、じっくりとグランパスの理念や魅力を浸透させていくことが大事だと思います。それは5年後10年後に必ず花開くでしょう。

 

 (続きから最後までの概要は上記に白字で。本文として書く予定は今のところありません)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー