41-645「Brake Time - 『ねこ』」

 なんだかいろいろ煮詰まっていたので散歩に出た。
 今日は、自分の心とは対照的にいい天気だ。
 とは言っても、別に行くあてもないので、とりあえず歩く。
 保険の教科書曰く、
『気持ちが沈んでいるときは体を動かして血液の循環を良くすると幾らかまし』なんだそうだ。
 随分アバウトだな、って思ったけど言っていることはもっともなことだ。
 運動したって何も変わらない時もあるし、すっきりすることもある。

「にゃあ」
 不意に、すぐ脇の細い路地から鳴き声が聞こえた。 まあ今の鳴き声からして猫だろうけど。
 見るとまだ仔猫のようだ。
「君は……なんとまあ、オスの三毛猫だね。 珍しいな、こんな所にいるなんて」
 どうして分かったのかって、それは言わなくてもいいだろう。
 オスの三毛猫といったら、それはまあ特に説明はしないが、言ってみれば希少種だ。
「ごめんね。 脅かしてしまったかな」
 少しふるふる震えていたので心配したが、よく見ると小さく伸びをしているようだ。
 特に怖がる様子もない。 くっくっ……肝の据わった仔猫だ。
 なんと愛らしいのか。 今度キョンに話してやろうか。

 とても癒されるので、しばらく眺めていると「フーッ」と猫特有の威嚇の声が上がった。
 この子じゃないな、と思い顔を上げると、路地の向こう側から大人の三毛猫が歩いてくるのが見えた。
 仔猫の反応から見てもどうやら母親のようだ。
「すまないね。 すぐにどくよ」と立ち去ろうとしたその時、
 そして、その母猫の威嚇の声が自分へ向けられていないことに気づいたその時、
「ふぎゃんっ」
 先まで甘えた声を出していた仔猫の悲痛な声が上がった。
 少し後ろへ弾き飛ばされた様子の仔猫を見る。 そして弾き飛ばした母猫を見る。
 どう見ても母猫は敵意のこもった眼で我が子を睨みつけている。
 しかし仔猫はひょいと立ちあがると、甘えた声を出しながらもう一度母親のもとへ向かった。
「こら、何をしてるん─」 「ふぎゃ」 ──そしてまた、母の見事な猫パンチを食らった。
 さすがに母親にも少しの負い目などがあるのか、爪は出ていないようだ。
 次にまた母親のもとへ向かう前に急いで抱き上げる。 ああ、ぬいぐるみみたいだ。
 なおも仔猫は甘えた声を出し続ける。
 ただ、抱き上げた腕から逃げようとする様子はなく、ただ声を出し続ける。
「君は……もしかして、天然ボケか」と、つい口に出してしまった。
 一瞬、仔猫は不思議そうな眼で見つめてきたが、また鳴きはじめる。
 母猫を見てみると、連れて行け、と言わんばかりに黙してこちらを見つめている。
 猫社会でも、他と違うと我が子でさえ忌み嫌うものなのか。
 悲しくなり、親猫へ手を伸ばしてみる。
 すると意外にも、母猫は素直にそれを受け入れた。 指先をぺろぺろ舐めている。

 それからしばらくして母猫は声も出さず、甘えた声を出す仔猫を背に、ゆっくりと立ち去って行った。
 仔猫は、母親の姿が見えなくなると鳴くのをやめた。
「とりあえず、公園まで行こうか」
 仔猫は相も変わらず、平然とした表情だった。

「君は、可哀想なのかい?」 「にゃあ」
 そうか、違うみたいだね──にゃあ、などというやり取りがしばらく続いた。
 しかし……猫に話しかける僕って一体……。
「これからどうするんだい?」
 そう尋ねると、膝からぴょんと地面に飛び降りて「にゃあ」と鳴いた。
「一人でやっていけるのかい?」 「にゃあ」
「くっくっ……。 本当に君の顔というか雰囲気というか、彼に似ているよ。
 人が…いや、君の場合は『猫がいい』とでも言うのかな」
 仔猫は黙ったままだ。
「まあ、さすがのキョンも親から殴られたら怒るかな……。 いやこっちの話だよ」
 言いながら仔猫を抱き上げる。
「君だったら、一人でやっていけそうだね」
 そしてぎゅっと抱きしめた。
「気をつけるんだよ、オスの三毛猫くん」
「にゃーん」と言い残し、こちらを振り返ることなくゆるりゆるりと歩き去った。
 どうやらどこまでもマイペースのようだ。
 その背中を見送った僕は、なんだか無性に彼に会いたくなった。
「猫……か」
 地面を照らす夕日は、春も近づき、暖かさを増していた。

 後日、学校の帰り道でキョンにこんな話をされた。
「そういえば、うちのお袋が地元の情報誌にお前の写真が載ってたって言ってたぞ」
「なんの写真だい? 写真を撮られた覚えはないけど……」
「今朝お袋から強引に持たされたんだが、確かこのページだ。 ほら」
 キョンの見せてくれたそのページを見てみると、仔猫を抱きしめる自分が載せられていた。
「うわっ、これは恥ずかしいなんてものじゃないよ」
「しかしまあ、きれいに写ってるな。 大賞だぜ大賞」
 よく見ると、本当だ、最優秀作品と書いてある。
「まあ被写体も良かったんだろうが……。 そういえばこんなところで何してたんだ?」
「聞くかい?」
「いや、目が笑ってないからやめとくよ」
「くっくっ……素直でよろしい。 …それじゃあここで」
「佐々木」
「なんだい?」
「なんかあったら相談しろよ」
 あ、危ない……。 うっかり変な声が出そうになった。
「ふぅ、もうすぐ3月か。 卒業だね」
「1年、あっという間だったな。 でも俺は楽しかったぜ。
 それにまだ1か月あるんだ。 お互い楽しく過ごそうぜ」
「その前に君は受験があるだろう? 呑気に構えてられないよ」
「その話を持ってくるか? でもな、俺だってやるときゃやるんだぜ?」
 そう得意げに笑った彼を見ながら、あたりが薄暗くなっていることに気づく。
 あの仔猫は今頃何をしているだろうか。
「そうかい……。 じゃあ僕が塾できっちり鍛えてあげないとね」
 それを聞いたキョンはやられたーって顔をした。
 オスの三毛猫くん。 どうやら君の方が彼より人が、いや、猫がいいみたいだよ。


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最終更新:2009年10月09日 19:50
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