66-655「キョン、思考は自由であるべきだ」

「ところでキョン」
 佐々木はいつものシニカルな笑顔を浮かべて言った。
「いつか僕の笑みをシニカルと評した事があったね。さてシニカルとはどういう意味だったかな?」
「お前は俺の思考を読んでるのか?」
「何のことかな」
 くつくつと喉奥で笑う。

 俺にとっては高校帰りの、あいつにとっては塾休みの。
 夕暮れの宵闇が夜の闇へと変わりきる、ほんの小さな間隙の時間。俺とこいつは喫茶店で語り合う。

「あー、皮肉屋っぽいとか否定的な、とか、そんな感じだろ」
「そうだね。ただそうなると僕は悲しむべきなのかな? キミにそんな目で見られている事に対してさ」
 佐々木は大げさに、それこそシニカルな笑顔と仕草で微笑んでくる。
「今まさに皮肉っぽく言ってるじゃないか」
「くくく、そうかもね」
 言ってクリームソーダをかき混ぜた。

「ところでシニカルの語源を知っているかい?」
 知っていると思ったか? と返してやると、ここぞとばかりに笑みの形が変わる。
「いやいや、キミの博学さは僕から見てもなかなかのものだよ。そう卑下することは無いと思うんだがね」
「今まさに知識のなさを晒してる俺への皮肉か?」
「気に障ったなら謝罪するよ」
 かき混ぜる手を止める。

「せんでいい。むしろ俺は適度に利口で適度にものを知らないから話しかけ易いんだろ?」
「おや、覚えていてくれたのかい?」
 今の今まで忘れてたよ。
「くく、そうかい」
 忘れてたって言ってるだろ。だからそんな顔で覗き込んでくんな。

「話を戻そう。これは古代ギリシアの哲学一派、キュニコス派=cynicからきているんだよ」
 なるほど、なんとなく佐々木が好きそうな話になってきた。
「禁欲を重んじ、かつそれを実践する派閥だったそうだ」
「なんか宗教っぽいな」

「そうだね。この場合『人はどうあるべきか』という事を考えているという点ではよく似ている。
 ちなみにキュニコス派はシニシズム、キニク派、それに」
 言いかけて佐々木は手を止める。
 どうした?

「いや、何でもないよ。そして有名な人物と言えば、樽のディオゲネスだね」
「ああ聞いた事あるぞ。樽で暮らしてたって変人だろ」
 変人。ふと佐々木を見つめてしまい、偽悪的に笑み返された。

「くく何かな? そんな目で見られたら穴が空いてしまうじゃないか」
「こんなんで空くなら服屋は大もうけだな」
「逆にポルノ業界は開店休業だろうね」
 年頃の娘が言う事じゃないだろ。とは思ったが、ニヤニヤ見つめてくるので返事を変えた。
 どうせそういう反応が欲しいのだろう。

「世の中健全になっていい事じゃねえか」
「そうかな? ともあれ今の話はディオゲネスとも符合するね。彼は裸も同然の格好で暮らしていたという逸話がある」
 ああそうだ。そんな話だったな。そんで酒樽に住んでたから「樽の」って呼ばれてるんだったか。
「樽に住んでる癖にやたら偉そうな奴だったんだよな」

 特に有名な逸話なら俺も知っている。
 かのアレクサンドロス大王が将軍として赴任し、町中の名士が揃って歓迎した時も、そいつは顔を出さなかった。
 そこでアレクサンドロスは自ら訪れ「何か欲しいものはないか」と問うた。しかし「ならどいてくれ。日陰になる」と追い払う始末で
 その人を食った有様に、将軍は「私がもしアレクサンドロスでなかったらディオゲネスになりたい」と言ったという。

「そう。現代ではそうした逸話の方で有名な人物と言えるだろう」
 人を食った笑顔で笑う。裸も同然の格好か。裸も同然の格好……いや。
「ならキョン。ディオゲネスは道端で平然と自慰行為をしていた、という逸話は知っているかい?」
 思わず連想してしまい、コーヒーフロートを思い切り噴出してしまった。
 おいこらそれこそなんつうかだな、ってすまん!

「くく、コーヒーのおすそ分けとは痛み入るよ親友」
 言って顔にかかった液体をペロリと舐めとり、残りを紙ナプキンで丁寧に拭い取ると
 さすがに怒ったのか軽く朱が差した頬で一礼し、席を立つ。
「すまん佐々木」
「いやいや。しかし思ったより苦いものだね」
 言って頬をすぼめソーダを吸う。

「それに顔がベタベタするよ。悪いがちょっと顔を洗わせて貰ってくるね」
 お前はなんでそう人聞きの悪い言い方を……いや俺の方がおかしくなってきてるぞコレ。
 なんでだ。むしろ佐々木は俺に性差を感じさせない友人であってだな。

「なに一人で百面相してるんだいキョン」
「早いな!?」
「髪が短いからかな?」
 これっぽっちも関係ないだろ。

「さて自慰の話だったか」
 今度は全力でコーヒーを口内にとどめる。
「おやおやそんな真っ赤な顔でこちらを見つめないでくれよ親友。勘違いしてしまうじゃないか」
「何の勘違いだか知らんが全力で困れ」
「くく、では困らせてもらおう」
 ええい人を食ったような奴め。

「そう、人を食ったような態度こそディオゲネスの真骨頂だったと言えるかもしれないね。
 彼は欲望から解放された、何事にも動じない心こそが大事だとした。だから力と富を持つアレクサンドロスにも動じなかったのさ。
 同様に彼は公衆道徳、知識と教養も蔑み、学者たちを嘲笑したという」

「前者はともかく、後者は真っ向からお前に反してるな」
「僕は決して後者を正しいとは言わないが、一定の理解はあるよ。空想や規約に拘り現実に目を背けるようでは本末転倒だ。
 そして前者もまた正しいとは言わない。心が木の葉のように揺れてこそ、人は人だと言えるかもしれない」
 言って本日最高にシニカル、皮肉屋じみた笑顔を浮かべる。
 どこか苦虫を噛み潰したようにも見える。

 そういやこいつはよくシニカルに笑っている。
 けど俺には別に不愉快ではないのだ。不愉快だったらとうの昔に友達なんかやめているさ。
 コイツのシニカルさ、或いはシニカルを装ってる何かを、俺は決して嫌いじゃない。だから一緒に居たし一緒に居るのだ。

「そう、他人の言葉で自分を規定することはない。既存の何者かである必要などないのだから。
 アレクサンドロスがディオゲネスになろうとしなかったように、誰だって自分自身に愛着を持っている。
 例え憧れを抱いたって、当てはめなくようとする必要はないのさ」
「相変わらずだな」
 正しいが、どこか茫洋と、見当もつかない事を言う。
 それはこいつ自身が答えを捜し求めている最中だからなのかもしれない。


「まあ、僕は、あー、そうだ。自分が大切だと思う人に望まれた自分でありたいとは思うがね。
 その上で僕自身の望みと一致してくれれば言う事はないのだけれど」
 言って、アイスが溶けきったクリームソーダを一口に啜りこむ。
「ところでキミのコーヒーをもう一口くれないか?」
「ん。ああ」
 俺が指で押し出してやると、ストローを挿し軽く啜りこんだ。

「いやね。口の中が甘ったるくなった気がしていけない。さて自」
「今度はそれ以上言わさんぞ佐々木」
「それは残念」
 片頬を歪めてシニカルに笑う。

「そうそうシニカルの語源であるキュニコス派だが、犬儒派とも訳される。これはディオゲネスが自然のままに生きた為
 犬のようだ、と揶揄された事に起因するとされている。なので彼は『犬の』ディオゲネスとも呼ばれていた」
 言葉を切ると、くつくつと喉奥で笑った。

「犬か。そういえば涼宮さんは「神」だったね」
「なんだ藪から棒に」
「いやね。よく言うじゃないか」
 本当におかしげに笑う。

「神=Godの反対は、Dog=犬だってさ。なら彼女の反対である僕は「犬の佐々木」なのかな?」
 ついには腹を抱えて笑い出したが、俺はなんとなく気に入らなかった。

「海外は知らんが、犬っころ呼ばわりは俺は好かんぞ」
 それに日本の犬と言えば忠犬とかそんなんだろ。お前とは正反対だ。
 お前はどこまでも自由な奴だよ。それこそシニカルに笑って他人を振り回してる方が似合ってるぞ。
 俺なんかお前の弁舌に何回振り回されたか、自覚してるだけでも見当がつかん。

 そう言ってやると、また佐々木の笑みの形が変わった。
 そう、こいつはいつだって笑ってる。
 笑ってろ。

「くく、自由か。しかし皮肉屋ディオゲネスとはある意味で誰よりも自由だったのだよ。
 皮肉とは、同一の思考や常識化で硬直した集団に対し、一石を投じるという事だ。それはとても自由な思考なんだね。
 むろん誰かを傷つけるかもしれないし、排斥される覚悟がいる。それでも構わないという自由な精神。
 くっくっく、ある意味で涼宮さんに最も近い思考とも言えるじゃないか」
 なんとなくだが頭が痛い事を言われた気もした。

「かといって皮肉だけでもいけない。特に、不恰好でも懸命に走り出そうとする者を冷笑するような事などあってはいけない。
 ディオゲネスだけでは文明の進歩は覚束ないだろ? かといって不在であれば思考は硬直してしまう。
 多様性が大事なのは言うまでもないね。新しい空気を常に取り入れなければいけない。
 それは人間の呼吸そのものだ、実に良く出来た仕組みじゃないか」

「お前の思考の方が俺にはわからんよ」
「そうかな? しかしキミの一言が基点になったのは解って欲しいな」
 基点が俺でも爆発させたのはお前だ。俺は単に、お前に自分を犬っころ呼ばわりして欲しくないってだけだよ。
 遠大過ぎてそろそろ訳がわからなくなってきたから勘弁しろ。
「それは失礼。要はね」

「キョン、思考は自由にあるべきだ、という事だよ」
 実に当たり前の結論だった。


「そんなものだよ。結論はシンプルじゃないと解りにくいだろ?」
「判じ物ばかりで喋ってるお前に言われたくないがな」
 判じ物、それは本音を散らばす言葉のパズル。
「ま、その方が佐々木らしくはあるけどな」

「くっくっ、そうだね。僕は僕だよ。例えディオゲネスに憧れようが彼にはなれないし、なりようもないんだ。
 僕は演技や舞台なんか向いていないって事はとっくに自覚させられたしね」
「また話がループしてるぞ、これじゃ永遠に続きそうだ」
「おや、僕は悪くないと思っているんだがね」
 帰りが遅くなって怒られても知らんぞ。

「キミが送ってくれるんだろ?」
「まあな」
「それともキミの家で語り明かすかい?」
「それは丁重に辞退する」
「それは残念」
 そんな事になったら寝物語どころか朝まで話が続きそうだ。
 いや絶対続く。断言してもいいね。

 きっとこいつは互いに寝るまでずっと俺に語りかけてくるに違いない。朝まで語り続けるに違いない。
 見たことがある訳じゃないが、きっとカーテンを閉め切った真っ暗闇の中でだって、こいつの瞳はやたら楽しげにきらきらしている事だろう。

「せっかくだから、犬らしくキミのベッドにもぐりこんでやろうと思っていたのだけどな」
 色々連想し紅潮する俺を眺めながら、佐々木はシニカルに微笑むのだった。
)終わり

「犬らしく布団にもぐりこんだり思うさま撫でられたり膝に甘えたり尻尾で感情を表現したり死ぬまで一緒に居たりとかね」
「風で聞こえんぞ佐々木!」
 自転車で並走しながら佐々木が何かを言っている。言っている気がする。
「大体だな、俺達は今こうして並走してんだろ、つまり俺達は対等だ! お前が犬なら俺も犬だぞ!」
「くっくっく、ならそれはそれで素敵じゃないか」
 ええいそんなに引っ張る話か?

「そんなに犬がいいのか!?」
「だって犬同士なら、理屈抜きでキミに……」
 最後は聞こえなかった。多分、流石に夜道で叫ぶには恥ずかしい台詞だったのだろう。さて何を言うつもりだったのだか。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2012年05月20日 00:02
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。