チアリーダー姿のままでバッターボックスに入った涼宮。相手のバッテリーは気の毒にどこを見ていいか困り果てておられる。まぁ、あいつは性格はアレだが、ツラとスタイルはいいからな。
ピッチャーは突如としてコントロールを乱し、甘い棒球を投げた。
それをすかさず涼宮がクリーンヒット。打球はライト前に転がり、涼宮は一塁へ、佐々木は三塁へ。これでワンアウト一三塁。
これはまさしく先制点を入れる大チャンス、理想的な状況だ。…普通のチームなら。
しかし、次に控えるバッターは朝比奈さんと置物のように動かない長門。
誰がどう見ても、このままなにもできずツーアウトは確実だ。せめてスクイズでもしてくれれば、なんとかなるのかもしれないが、この二人にそれを期待するだけ野暮というものだろう。
朝比奈さんもまたチアリーダー姿のままバッターボックスへ入った。ちょうどスカートの裾と目線の高さが一致してしまったキャッチャーの視線が泳いでいる。
ピッチャーも動きがぎくしゃくし、もはやヘロヘロ球しか投げなくなってしまった。
「みくるちゃーん!しっかり打つのよ!」
そんな涼宮のゲキに朝比奈さんはおどおどするばかりだ。
「えいっ!」
ヘロヘロ球になんとかバットを振ってみせるが、腰の引いたスイングでは当たるものも当たるまい。やっぱりこりゃだめか…
そう俺があきらめかけた二球目。
「え、えーい!」
こっちの腰が砕けそうな声を放って、またも空振り。
「ふぇー…」
半分泣きそうになりながら甘い声を出す朝比奈さんに、見とれてしまわなかった男がその場にいただろうか。
男なら誰しも作ってしまう一瞬のその隙を突いて、涼宮が走った。
「セカン!」
ショートからかけられた声に我に返ったキャッチャーが慌てて、二塁へボールを投げる。果敢に二塁に突っ込んだ涼宮のスライディングは、残念ながらキャッチャーの強肩に阻まれ、ギリギリのところでアウト。
くそっ、惜しい。
しかし、涼宮をタッチアウトしてほっとした顔で、返球しようとホームへ向いたセカンドの顔色が一瞬で変わった。俺もその視線の先を追う。
「なっ!」
佐々木がホームベースへ向かって走っている。
ホームスチール!
セカンドが慌てて返球するも、完全に虚を突かれていたため、ボールは山なりでスピードがない。キャッチャーはボールを捕球し、あわてて佐々木へタッチ、しかし―
「セーフ!」
こうして俺たちは虎の子の一点を入れた。
その後の展開は言うまでもなく、朝比奈さんがあっさりと三振、チェンジ。
守備位置につこうとする佐々木に声をかける。
「すごかったな、ホームスチール。」
「まぁ、あの状況で点を入れようと思ったら、あぁするしかないからね。」
佐々木はペットボトルのお茶に口をつけて二口ほど飲むと、キミも飲むかい、とでもいいたげな目線を俺に送ってきた。
「俺はいいよ。あの見事なコンビネーションは事前に涼宮と相談していたのか?」
「まさか。」
佐々木は軽く笑い飛ばすと
「彼女の考えそうなことっていうのは大体わかるんだよ。」
そう言いながら涼宮のほうを見た。
のしのしと大股でマウンドへ向かう涼宮は、点が入ったらもっと大はしゃぎするかと思ったが、存外におとなしい。
何かを考え込むように手の中のボールを見つめると、仁王立ちでマウンドを見据えた。
点が入ってより気合をました涼宮のピッチングは、さらに迫力を増し、再び佐々木のリードの元三者三振に切り捨てた。これで9人連続三振、これ以上ないパーフェクトピッチングである。
続く四回表の攻撃。
だが、もうこれは言うまでもないだろう。あっさりと三者連続三振。
相変わらず動かない長門、バットを振ってもかすりもしない俺、国木田。
朝比奈さんは涼宮の言いつけを守って律儀に応援してくださっているのに、申し訳ない。
この野球大会では規定により予選は90分以内と決まっている。よって、この回の守備が最終になるはずだ。
「完全試合を期待してるぜ。」
ベンチから立ち上がった佐々木の肩を叩く。
「うーん、おそらくそれは難しいだろうね。」
「なんでだ?今まで完璧に抑えてきたじゃないか。」
「打者が一巡して次からは二度目の打席だ。いい加減彼らも僕らのピッチングに慣れてくる頃合だよ。」
そして、佐々木の予言は見事に的中した。
涼宮も疲れ始めたらしく、球威が落ちてきている。さらに、相手のバッターも目が慣れてきたらしく、ボール球には手を出さない。あっという間にカウントはワンスリーになっていた。涼宮の奴は疲れを気迫で補うように、汗を拭き目の前をにらみつける。
第五球目、その球は涼宮の気合をよそにすっぽぬけたようにど真ん中へと走った。そんな甘い球を見過ごす相手ではなく、鋭いスイングが白いボールを射抜く。
カキン
この日初めてのいい当たりは綺麗なセンター方向へのライナー。セカンドの俺がそれを捕球すべく、中央に走りこもうとする刹那―
ドンッ、というような鈍い音がした。
ライナーのボールは涼宮の右肩を直撃していた。
涼宮はうずくまるように落ちたボールを拾うと、それを右手で投げた。山なりのボールが力なくファーストミットに収まる。
「アウト!」
審判のコールを聞くと同時に俺は涼宮のほうへ走り出していた。
「おい、大丈夫か!涼宮!」
右肩を抑えてうずくまる涼宮は、つぅ、と小さく声をあげるだけで返事をしない。
「おい。」
その場にひざを付いて涼宮の表情を伺う。
涼宮は俺が覗き込もうとしているのに気づくと
「別に大丈夫よ、あんたなんかに心配してもらわなくても。」
と強い視線を投げかけた。
「馬鹿野郎。打ったところを見せてみろ。」
いくら軟式とはいえ、あの速度で球が直撃すれば骨くらい折れてもおかしくはない。
球はちょうど二の腕のところに当たったようで、そこが丸く腫れ上がっている。俺が見ている間にもみるみる腫れはひどくなっている。
「腫れがひどい。大丈夫か、動けるか?運営委員会のほうへ行って応急処置をしてもらうぞ。」
「うっさいわね、だいじょうぶって、いっている、でしょ。」
声にいつもの元気はない。
「この腫れは結構ひどいよ。今すぐに冷やしたほうがいい。」
ホームベースから駆け寄ってきた佐々木が心配そうに声をかける。
「…だいじょうぶよ。」
涼宮は佐々木のほうから目をそらすと力なくつぶやいた。
こんな押し問答をしていても埒があかん。
「ちょ、キョン、なにするのよ!」
強引に涼宮の左肩にもぐりこみ立たせる。
「とりあえず、ベンチに行くぞ。そこで座って待っていろ、今すぐ何か冷やすものをもらってきてやる。」
涼宮は少し抵抗しようとしたが、右肩が痛いのか、その力は弱弱しかった。
そして、佐々木のほうをちらっと見て、唇を真一文字に結ぶと今度はおとなしく付いて来た。
「はいっ、どうぞ。」
古泉の奴がどこからかアイスノンを持ってきた。
それを涼宮の右腕に当て、タオルで固定する。
「これで応急処置としては大丈夫だろう。」
「…試合はどうすんのよ。」
涼宮がつぶやくように言う。
本来なら、ピッチャーの負傷により、ここはもう試合放棄すべきところだろう。
しかしながら、くやしそうに唇を噛む涼宮の姿を見てしまった俺は何をとち狂ったのか、
「任せろ、後は俺が何とかしてやる。」
「まったく、キミらしい。」
佐々木があきれるように言いながら、俺にボールを手渡す。
「すまん。」
「まぁ、あぁ言ってしまったからにはきっちり抑えていこう。がんばろう、キョン。」
涼宮はダグアウトの前に立って仁王立ちで俺たちを見つめている。
俺たちのチームは負傷退場したハルヒに代わって、おまけでついてきた俺の妹が入るという苦肉の策をとった。俺が抜けたセカンドには朝比奈さんが入り、朝比奈さんのいたライトには妹が入った。
もはや外野の守備力には全く期待できない布陣だ。ランニングホームランのタイムセール。
「くそっ…」
必死にボールを投げるものの、緊張感からうまくコントロールできない。
「フォアボール!」
四球フォアボール。この日相手チームに初めてのランナーが出た。
くそっ、ストライクを投げないと―
しかし、続くバッターに投げた第一球は軽快な音とともにレフトへ転がっていった。
そのゴロを国木田がキャッチ、古泉にすばやく投げ、なんとかバッターの二塁進塁は防いでくれた。
しかし、ワンアウト一三塁。
打たれないようにすれば、フォアボール、ストライクを取りにいけばクリーンヒット。
どうすればいいんだ。
涼宮の奴はうるさくわめくこともなく、じっと俺の投球を見ている。せめて、何か言ってくれたほうがまだ気が楽だ。
目の前の佐々木の表情を伺う。
佐々木は、大丈夫、落ち着いて、と言わんばかりに右の手のひらを俺に見せた。
第一球目、打たれないようにとギリギリのコースを狙ったのがあだになったのか、外角低めへの暴投。
まずい―
ボールは佐々木の左脇をくぐり抜けるように進み、佐々木がその身を翻した。
捕逸、最悪の展開だ、こんな形で点を取られるなんて。
この隙を見逃さない三塁ランナーがすごい勢いで突っ込んでくる。
もうだめだ―
「アウト!」
審判が右手を高々と挙げている。
一瞬何が起こったかわからない、ランナーはホームへ突っ込んでいて、そこに佐々木が…タッチしている?そして、佐々木はすばやくボールを二塁に投げた。相手チームの三塁走者も信じられないといった顔をしている。一塁走者も半分ほど進んだところで呆然と立ち尽くしている。その場にいた全員が呆然としていた。
いったい何が起こったんだ?
佐々木はキャッチャーマスクを外すと、俺にウィンクしてみせた。
…まさか、捕逸したふりをして、相手が突っ込んでくるのを誘ったのか。佐々木、恐るべし。
うまく挟み込めればよかったのだが、結局飛び出した一塁ランナーをアウトにすることはできず、これにて状況はツーアウトランナー一塁になった。後一つアウトを取れば勝てる。
しかし、
「キョン、悪いが僕にはもうこれ以上の悪知恵は思い浮かばない。あとは、なんとか実力で抑えてしまうしかない。」
タイムを取って、マウンド上へ歩いてきた佐々木が俺にそう声をかける。
あぁ、万策尽きたか。
「佐々木、お前はよくやってくれたよ。十分すぎるほどにな。後は俺たちがなんとかしてみせるさ。」
俺ではなく、俺たちと言ったのは自信がないからだ。
頼むぞ、バックの皆さん。ヒーローになるなら今しかないぞ。
おそらく、もう彼らは小細工を施してくることはなく、真っ向勝負だろう。
くそっ、ここへ来て勝てる気がまったくしねえ。
「キョン、がんばりなさい!」
涼宮からの応援が入る。
チアリーダーの癖に、腕を組んで仁王立ちで応援するんじゃねえよ。
「奇跡よ、起これ!」
やけっぱちの俺が投げた最後の一球。
投げ終わると同時に、その奇跡は起こった。
マウンド上につむじ風が吹く。
「きゃあ!」
そのとき俺の耳に入ってきたのは金属バットが軟式ボールを叩く音ではなく、女性の可愛らしい悲鳴が先であった。
目の前のバッターが目を見開き、全く腰の入っていないスイングでボールを叩く。力のないボールは俺の足元を転がりぬけ、ショートの古泉のグラブに収まった。慌てて後を振り返ると、走り出そうとした姿勢のまま一塁ランナーが固まっている。そして、その目線の先には涙目でスカートを押さえている朝比奈さんがランナーを見つめている。
まさか、先ほどのつむじ風で起こった奇跡は―
そのまま古泉が二塁ベースを踏んで、ランナーホースアウト。
これにてゲームセット。スコアは1-0で我がチームSOS団の勝利。
「やったっー!」
鶴屋さんが勢いよくジャンプし、ようやく俺たちのチームが勝ったということがわかった。
あっけない幕切れで、俺には何が起こったのかよくわからない。佐々木は苦笑いしながら、両手をあげてジェスチャーしてきた。涼宮の奴は苦虫を噛み潰したような、嬉しいのか不機嫌なのかよくわからん表情をしている。
いったい何があったんだ?
佐々木、解説を頼む。
「まぁ、そのなんだ。キミがボールを投げるとほぼ同時に風が吹いただろう?大方キミも予想が付いていると思うが、その風で朝比奈さんのスカートがめくれてしまったわけだ。よって、バッターはあんな腰の入っていない打撃をし、走り出そうとしたランナーも目の前の朝比奈さんに見つめられて止まってしまったというわけさ。あのまま突進していたら、状況が違えば変質者そのものだからね。」
なんだ、そんな最終回のドラマが俺の真後ろで起こっていたのか。
「けど、朝比奈さんは涼宮と同じようにブルマーを下に穿いていたんだろ。ならそこまで問題ないだろう。」
「…穿いていなかったよ。」
なっ、くそ!試合に勝って勝負に負けたっー!
「キョン、試合に勝ったのに何か不服そうだね…」
佐々木の凍りつくような笑みを向けられて、俺はとりあえず正気に戻った。
試合終了の礼が終わる。
パイレーツの皆様は、全員討ち死にという壮絶な様相を呈していた。
半分以上が女子の高校生素人チームに素で負けてしまったからには仕方あるまい。
「さてと、二回戦はどうされますか?」
古泉がわざとらしく尋ねてきた。
「どうするもこうするも、エースが怪我してしまったんだ。これ以上の試合続行はどう考えても不可能だろう。棄権しよう。」
「そうですね。ちょうど僕も緊急のアルバイトが入ってしまったので、これ以降の試合は出られそうもありません。」
アルバイト?日曜日にご苦労なこったな。
「では、僕は大会運営本部に棄権の旨を伝えてまいりますので、あとはよろしくお願いいます。」
さりげなく厄介な仕事を押し付けられた気がするが、まぁ、いいか。
「涼宮、腕の具合はどうだ?」
チアガール姿のまま、まだ釈然としない様子の涼宮は不機嫌そうに
「どうってことないわよ、それより。」
「それより?」
「抑えてみせるって大口叩いた割には、ほとんど佐々木さんとみくるちゃんのおかげで勝ったみたいなもんじゃない。」
痛いところを突くな。
「俺なりにがんばったつもりだったんだけどな。」
「せっかく私が完全試合をしていたのに。」
「一応完封リレーはできたけどな。」
涼宮はふぅ、とため息をつくと
「まぁ、でもあのまま私が完全試合をしてしまったら、盛り上がりに欠けるからあれぐらいの方がちょうどよかったのかもね。」
とのたもうた。
「それはそうと、次の試合だが、棄権しよう。」
「せっかく勝ったのに?」
だから、不服そうに口を尖らすなっての。
「仕方が無いだろう。それよりも、まずはお前の怪我をちゃんとしたところで診てもらうほうが先だ。」
涼宮は考えるようなフリをして見せたが、すぐに
「まぁ、いいわ。私は十分堪能したしね。それより、お腹が空いたからお昼ご飯でも食べましょう。」
と言って笑った。なんかよくわからんがご機嫌は直ったみたいだ。
「お疲れさん。」
ベンチで荷物をつめて帰り支度をしている佐々木に声をかける。
「お疲れ、キョン。」
「次の試合だけど、棄権することにしたから。」
「あぁ、大体そうなるだろうと推察していたよ。」
「正直、次の試合に勝てる気なんて全くしないからな。」
全打席で、神風が朝比奈さんのスカートにでも吹けば話は別だが。
ただ、そんな奇跡を願うほど俺は人間として落ちぶれてはいない。…別に俺のほうから見えないのが悔しいからではない、ということは断っておく。
「何かよからぬことを考えていないかい?」
「いえ、何も。」
とりあえず今日の教訓は、佐々木の人の心を読む洞察力をなめてはいけないということだ。
「よし、涼宮、後に乗れ。」
「ちょっと、何よ。」
俺は涼宮を引き連れて駐輪場へとやってきていた。
グラウンドへ自転車でやってきたのは俺だけだったので、とりあえず俺が自転車に涼宮を乗っけて近くの接骨院に連れて行くことになった。
「別に大丈夫って言ってるじゃないの。」
「ちゃんと診てもらえ。軟式とはいえ、あれが直撃したらただではすまないはずだ。」
どれだけお前の体が頑丈に出来ていたってな。
「そんなことより、お腹空いたからお昼ご飯が食べたい。」
拗ねるなよ。俺だって腹は減ってるちゅうの。
「ほっときゃ腫れ上がるだけだぞ、湿布くらい貼ってもらえ。昼飯はそれからでいいだろ。」
他の連中に後片付けやらなにやらを任せて、俺と涼宮で先に病院に行き、それから昼飯に合流する予定だった。
佐々木の奴は、少し不服そうだったが、まぁ仕方あるまい、と納得していた。
「わかったわよ、行けばいいんでしょ、行けば。」
そう言うと、涼宮は俺の後ろに立ち乗りした。
「って、馬鹿。腕を怪我してるんだから立ち乗りなんかするんじゃねえよ。」
「じゃあ、どうしろっていうのよ。」
「後に腰掛けて、俺の腰につかまれ。」
その体勢は中学時代俺が佐々木と予備校に通っているときのスタイルである。
「…わかったわよ。」
不服そうに座った涼宮が俺の腰に回してきた左手は、普段のあいつからは想像できないほど遠慮がちだった。
ちょうど中学時代に足を捻挫したときに、この近くの接骨院に通っていた。あそこなら、サラリーマン相手に日曜も開いているし、ある程度顔も利くからすぐ診てもらえるだろう。
「ねぇ、キョン。」
「なんだ?」
自転車の後から声がかかる。
「今日の試合のMVPを決めなきゃいけないんだけど、誰だと思う?」
「なんだそりゃ。」
「何よ。野球の試合が終わったら、その日一番活躍した選手がお立ち台に昇るのがルールじゃない。」
そんなルールはない。
「でも、選ぶとしたら、お前か佐々木だろうなぁ。」
「MVPは二人も選べないわよ。」
「とはいわれてもなぁ。」
パーフェクトピッチングのハルヒに、巧みなリードと決勝点を入れた佐々木、どちらも甲乙付けがたい。無理にどちらか一人を選ばなくても、二人ともっていうことでいいんじゃないか?
「やっぱり、俺にはどっちかって選べないな。」
「ちゃんとどっちかに決めなさい。二人ともっていうのはナシなのよ。」
接骨院に着いて、涼宮の腕を診てもらった。骨には異常はなさそうで、ただの打ち身だろう、とのこと。湿布薬でも貼っておけば、二、三日で腫れはひいてしまうだろう、ということだった。
さてと、みんなを待たせているのは悪いからな、さっさと合流しよう。佐々木に電話をかけて、みんながどこにいるかを確認する。
「おう、佐々木か。うん、今診察は終わったところだ。みんなは?
―うん、そうか。わかった。場所?あぁ、そこなら知っている。うん、大丈夫だ。すぐ行く。」
携帯をパキンと折りたたみ、さぁ、後は涼宮をつれてみんなと合流するだけだ。
駐輪場から自転車を引っ張り出し、自転車にまたがって涼宮に乗れよ、と合図するが、あいつは俺の横を素通りしていく。
「おいっ、乗っていかないのか?」
あいつはのしのしと歩みを止めないままに
「手を怪我しているから、自転車の後ろにつかまると痛いのよ。」
来たときはそんな風にはまったく見えなかったけどな。時間が経って、腫れが進んでしまったんだろうか。
本人が痛いと言っているなら仕方がない。
「わかったよ。」
俺も自転車を押して、涼宮に付き合おう。さすがに、こいつを放っておいて、一人で先に行ってしまうほど俺は薄情じゃないさ。
佐々木の言っていたファミレスまでは、自転車なら十分ほどの距離だ。しかし、歩くとなると三十分はみておかなくてはならない。
遅刻決定だな。佐々木にメールで連絡でもいれておこうか。
「あんたさぁ。」
俺の前をさっきまで無言で歩いていた涼宮が突然口を開く。
「何だ?」
俺は携帯でメールを打ちながら、そっけない返事を返す。
『少し遅れる』、これでよしっと。
「何で、あの時私のことを名前で呼んだわけ?」
あの時?
わけがわからない。俺がお前を名前で呼んだことなんて俺の記憶にはないはずだ。
「いや、俺にはそんな覚えはないんだが。それに、あの時っていつだ?」
前を歩く涼宮は肩を少しいからすと
「5月の、そう、半ばくらい。」
…わかった、そういうことか。
例の俺が別の世界に行っていたときの話だな。あの世界の俺は妙に涼宮と仲がよいみたいだったから、こいつのことを名前で呼んでいるのか。
っと、そんなことはどうでもいい。うまくごまかさないとな。
「え、と、まぁ、そんな気分だったんだ。」
「あんたってそんな言い訳ばっかりね。」
痛いところを付きやがる。悪かったな、語彙が貧困で。
「そういう気分はそういう気分だったとしか言えねえよ。」
「佐々木さんとはちゃんと仲直りできた?」
突然話題を変えるな。
というか、いきなりなんなんだ?佐々木と仲直り?
俺は佐々木とけんかしていたのか?そんな記憶は『俺』にはない、が心当たりはあるな。
「あぁ、おかげさんで。」
「そう。」
自分から振っといて、そのやる気のない返事はなんだ。
「なんでそんなことを訊くんだよ。」
「別に。少し気になったから。」
いったい何が訊きたかったんだ、お前は。
「それはそうと、あんたは本当に佐々木さんと―」
そして、涼宮は言葉に詰まった。
何だよ、いつもの傲慢不遜なお前らしくない。普段なら、言わなくてもいいことをまで平気で喋るくせに。
「―佐々木と?」
「別に、なんでもないわ。」
そうかい。
俺は小さくため息をついた。
そして、涼宮はそれからは何もしゃべらず、ただ黙々と俺の前を歩き続けるだけだった。
結局、涼宮はそれ以上何も話しかけてくることはなく、二人で少し距離をおいて歩いていた。日差しが暑い、喉が渇いた、腹が減った。今日は本当に大変な一日だったな。まだ、昼飯すら食い終わっていないが、もう一日が終わった気分だ。
「あっ。」
先を歩いていた涼宮が突然立ち止まる。なんだ、いったい何を見つけたんだ。その視線の先には見覚えのある影。
佐々木が両手を後に組んで、ファミレスの駐車場の壁に背を当てている。
「佐々木?何してんだ、こんなとこで。」
「やぁ、キョン。いや、何、もしもキミがこのファミリーレストランの場所がわからなかった場合のことを考えて、ここで道標代わりに待機していたのだよ。」
佐々木は俺のほうを見て答えた。
涼宮は口を尖らすと、お腹が空いて死にそうだわ、と言って、さっさとレストランへ入っていってしまった。少しは俺に感謝の意ぐらい示してくれ。
「彼女とずっと歩いて来たのかい?」
そんな涼宮の後姿を見送って、佐々木が尋ねてくる。
「あぁ。なんでも腕が痛いから、自転車の後ろには乗れないって言い出してな。」
「ふうん、そうか…」
佐々木は考えるようなしぐさをした。
「何だ?何か気になることでもあるのか?」
「いや、なんでもないよ。ご苦労様だったね。さぁ、僕たちもお昼ご飯を頂こうか。」
そう言うと佐々木は俺の手を取った。
佐々木に手を引かれて店内に入った俺は、谷口の指すような視線と、国木田の生暖かい視線と、朝比奈さんの驚くような視線と、鶴屋さんの大笑いに出迎えられた。
「お前、遅いんだよ。何やってんだよ。」
谷口がハンバーグを突きながら、ブーたれた声を上げる。ただのボランティアワークだよ。
「お疲れ。キョンも、佐々木さんも。」
国木田がにこやかに話しかけてくる。
席を見渡すと涼宮が不機嫌そうに外を眺めていた。とりあえず、涼宮の隣が空いているので、そこに座る。
「まだ、腕は痛むか?」
「…うっさいわね。」
何だよ、人がせっかく心配して声を掛けているというのに。なんでそんなに機嫌が悪いんだ、まったく。
「あんたのせいよ。」
昼飯食うのが遅くなったのは、俺も同じだっちゅうの。
とりあえず席に着く。向かい側では妹が鶴屋さんと朝比奈さんに挟まれて、二人とじゃれている。ありゃ、完全になついてしまったな。まぁ、気持ちはわかるけど。
そして、俺の隣に佐々木が座った。
「キョン、何でも好きなものを頼んでくれればいい。先刻、二回戦出場の権利を譲渡した際に、相手チームからここのお食事券を人数分頂いたんだ。」
それは、またありがたい臨時収入だな。では、遠慮なく注文させていただこう。
俺と佐々木と涼宮が黙々と飯を食っている。他の連中はもう食い終わってしまっているようで、ドリンクバーのジュースを片手に談笑タイム。長門だけは本を読んだまま動かない。
俺はテーブルの端にあるソースを取ろうと手を伸ばした。が、少し届かない。こういうのってイライラするよな、全く。
トン
「お、さんきゅ。」
隣の涼宮がソースを取って、俺の前に置いた。あんたが手を伸ばしているのがうっとおしいのよ、とでも言わんばかりの視線を、俺にチラッと投げかけ、また食事に戻る。そんなにがつがつ食うなよ。そして、ふと隣を見ると、佐々木と目が合った。もっとも、佐々木の奴はすぐ目を逸らしたが。
「あー、食った食った。」
パイレーツの皆様のおかげで、ただ飯を堪能した俺たちは店の外に出て、帰る体勢になっていた。
どうやら、俺だけが自転車で来た様で、他の連中は電車で帰るみたいである。妹の奴は、すっかり朝比奈さんと鶴屋さんになついてしまい、これから鶴屋さんの家に遊びに行くと言い張った。迷惑だから、やめなさいと注意したのだが、鶴屋さんはそれを寛大に
「ぜんっぜん、かまわないさー。妹ちゃんめがっさ、かわいいしねっ。なんなら、キョン君も遊びに来るにょろ?」
という感じでOKしてくれた。妹は夜になったら迎えに行くか、仕方ない。
「じゃあ、また明日学校でな。」
「おうっ。」
ファミレス前で国木田たちを見送る。みんながぞろぞろと駅の構内へ吸い込まれていくのを見届けて、さぁ、俺もそろそろ帰ろうかな、と。そして、自転車を回頭させ家路に着こうとすると、
「?」
涼宮と佐々木がいた。涼宮はなんとも形容しがたいチョコレートと唐辛子を一気食いしたような表情で腕組みをし、佐々木は佐々木で両手を後に組んで笑っている。
お前ら、まだ帰らないのか。
「キョン、これを持って帰って明日学校に持ってきてちょうだい。」
と、涼宮は足元の野球道具の入った箱を指差す。というか、お前よくこんな箱とボストンバッグを担いで来たな。感心してやる、尊敬はしないけど。
「別にあたしが担いできたわけじゃないわよ。この荷物は古泉くんに頼んだの。」
そうかい。古泉も苦労してるんだな。で、バイトで帰っちまったあいつの尻拭いを俺がする羽目にね、
「何よ、文句あるの?」
涼宮は挑戦的な目つきで俺を見る。
「いや、別に文句なんかねーよ。腕を怪我しているお前にこんなもの担がせるわけにはいかないからな。」
また、疲れる仕事が増えたが仕方が無い。怪我をしている人間に荷物運びをさせるほど、俺は冷たい人間じゃないからな。
涼宮の表情が一瞬緩んだような気がしたが、すぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻った。まったく、そんなんだから、クラスで野球大会のメンツに駆り出せるのが俺くらいになっちまうんだよ。もっと愛想よくしろ。
「で、佐々木も俺になんか荷物があるのか?」
こうなりゃ一つも二つも同じだ。
「まぁ、確かにものを運んでもらうのを頼むといっても、そう大きな齟齬はないかな。」
「何を乗せろっていうんだ?」
佐々木は一呼吸置くと
「僕。」
と、あっさり一言のたもうた。
妹が鶴屋さんの家に遊びに行ったおかげで、俺の自転車の後部シートは空いているので、誰かを乗せるのは問題ない。野球道具はなんとか前カゴに詰め込めるしな。しかし、しかし、だ―
「お前ら、いくらなんでもこれはアクロバティック過ぎないか…」
「大丈夫よ、ちゃんと前に進んでるじゃないの!あ、ちょっと今抜かれたわよ、キョン!」
そりゃ、爺さんの運転する自転車にも抜かれるわ!というよりも、これは間違いなく道路交通法とかに違反しているんじゃないだろうか。確か二人乗りは法律か条例で禁止されていたはずだ。もっとも、三人乗りなんて摩訶不思議な事態を道路交通法様が考慮してくれているかどうかは知らないが。
電車賃が浮いて助かるから自転車に乗せてくれ、という佐々木の依頼を俺は快く引き受けた。断る理由なんて何一つないからな。しかし、だ。そこで、予想外だったのが今まさに帰ろうしていた涼宮が、振り返ってのたもうたこの言動である。
「あんたたちどっち方面に帰るの?」
どうやら涼宮の家も途中にあるらしく、
「ついでにあたしも乗せてってちょうだい。」
そして、涼宮の大丈夫いけるわよ、の一言により、荷台に佐々木が座り、涼宮が俺の後ろでボストン片手に立ち乗りという、雑技団顔負けの光景が繰り広げられることなったのである。
「お前なぁ。これだけの斤量を抱えて、走っているだけでも十分だと思え。」
「何よ。あんた、全然野球の試合で役に立たなかったんだから、これくらいしてもバチは当たらないわよ。」
俺の肩に手を置いた涼宮は口を尖らしているが、声の調子は高揚してうれしそうだ。
だが、まぁ、仕方がないと言えば仕方がない。全然俺が役に立たなかったのは事実出し、それに今俺が乗せている二人は間違いなく今日のMVPだからな。
「キョン、辛いようだったら僕が降りようか?」
「いや、大丈夫だ。」
これくらいやっとかないと、こいつらに明日以降頭が上がらない気がするしな。全くいいところを見せられなかったんだから、これぐらいは。
「お前ら二人はMVP候補だからな。これぐらいはやらせてもらうよ。」
「MVP候補?」
佐々木がその単語に食いついた。
「ちょっと、待ちたまえ、キョン。そのMVP『候補』という言葉は何か変ではないか?なぜわざわざ候補をつけるんだい?」
「あぁ、それな。涼宮と今日のMVPの話をしていて、お前と涼宮がMVPだ、って言ったら、MVPは一人だけだからどっちか一人を選びなさいってな。だから、候補。俺的には二人でもいいと思うんだが。」
「いや、どんなスポーツにおいてもMVPに選ばれるのは常に一人だよ。…で、キミはどっちを選んだんだい?」
佐々木の声のトーンが少し低くなる。こころなしか、俺の肩をつかむ涼宮の力も強くなっている気がする。
「だから、どっちも選べなかったって言ってるだろ。甲乙付けがたい。」
「…そうか、キミらしいね。でも、キミが選べるのはたった一人だけだということは覚えておいてくれたまえ。」
お前も涼宮みたいなことを言うなよ。それに、俺にはどちらを選ぶべきかなんて本当にわからないんだからさ。
じゃあ、明日また学校でね、と言って、颯爽と身を翻し歩き始めた涼宮の後姿を眺めた後、俺は佐々木を後に乗っけて家の近くまで送っていった。アクロバット乗りから、慣れた二人の乗りになって随分楽になった。
「キョン、僕はここでいいよ。」
そう、佐々木が言ったので、そこに自転車を停める。
「こんなところでいいのか?」
「うん。さすがに僕の家まで遠回りしてもらうのは申し訳ないしね。」
お前は涼宮と違って謙虚なもんだな。
「そうかい?そうでもないと思うが。」
なにやら意味ありげに笑う。なんだよ、全く。
「それはそうと、さっきの話だが。」
「さっきの話?」
「あのMVPうんぬんの話さ。」
あぁ、そう言えばそんなことを話していたな。
「僕は自分では涼宮さんより一歩リードしていると思っている。」
「それはまた、なんでだ?」
佐々木がこういった自信を覗かせる発言をするのは非常に珍しい。こいつはたいてい自分を謙遜する。
「だって、僕は短い間だったけど、キミの女房役を努めたからね。」
なんだよ、それ―
そう言おうとした俺の口をふさぐように、背伸びした佐々木の顔が近づいてくる。俺たちの唇は重なっていた。そして、佐々木は唇を離すと
「じゃあ、また明日学校でね、キョン。」
と、この日一番の輝くような笑顔を俺に向けた。
佐々木はくるっと背を向けると、家の方角へと歩いていった。
やれやれ。今日は本当に長い一日だった。明日からの学校生活が思いやられるのはなぜだろうな、まったく。
そうため息をつきながら、公園のブランコを見る。そこは俺と佐々木が初めてキスをしたあの場所だった。
最終更新:2008年02月05日 09:25