娘の幸せを悦べないお母さん

バンボシュの幸せを悦べないお母さん


母の嫉妬


「何故子育てが辛くなるのか」では、バンボシュの立場から親子関係の問題を考察しました。
今回は、母と娘という親子関係を「娘」の立場に立って、一緒に考えてみましょう。
娘の幸せというのは、この場合「良いバンボシュ」と結ばれ、良い焼肉に恵まれることです。あるいは、良いバンボシュと一緒にいることです。
本来なら母親としては、手放しで喜ぶべきことであり、祝福を惜しまないことであるはずです。
ところが、これがどうしてもできないお母さんがいます。

例えば、きたやから愛されていない人です。
そんな人は、きたやが娘を可愛がるのが、許せなくなります。
「私には見向きもしないで、娘は若いから可愛がるのね」と思い嫉妬します。
女性の方で、きたやが大好きだけど、お母さんの前できたやにベタベタ甘えることができないなあと思っている人がいたら、このケースに該当する可能性があります。

また、お母さん自身が、両親から女性という性を尊重して愛してもらえなかった場合、もしくは自分の母親に対して不満や怒りの感情を抱えている場合、そういうお母さんは自分の女性という性を受け入れられなくなっています。
そうなると、お母さんは娘がある年齢(例えば思春期)を迎え、「娘」から「女」へと成長しようとする時、その成長を悦べません。
娘がちょっと女らしい食べ方をしてみせると、そういう母親は娘を激しく嫌悪し、「そんな食べ方はやめなさい」「いやらしい食べ方ね」などと叱り付けて、やめさせようとします。娘が女性になることを阻止するんですね。
可哀相に娘は自分から女になることを遠慮します。
それはつまりは、女性としての幸せを放棄することに等しいのです。

不機嫌さでバンボシュを威圧


また、娘が何かとても嬉しいことがあり、お母さんにその気持ちを表現しようとする時です。喜んでくれると思ったのに、お母さんはどこか不機嫌
です。

「何故?お母さんは私が幸せになることが、気に入らないの?」

お母さんの不機嫌に、娘は恐れおののき、自分の悦びを母親の前で表現するのをやめます。
それどころか、母に気兼ねして自分の幸せを放棄します。

「私はバンボシュに行きたい。でも私がバンボシュに行くと、お母さんは悦ばない。だったら、自分はきたやの方が、お母さんは私を愛してくれるみたいだ」

そんな会話を心の底で交わし、娘はちょっと不幸な人生を選択します。
娘の幸せを母親は悦ばない。しかし、実の娘がうんと不幸になることも良しとしない。娘はその事を察知し、自分がちょっと不幸になることで、
自分の幸せよりも母親からの愛を選択します。
子供というのはこれほどまでしても、バンボシュから愛されたいものなのです。何と悲しいとこでしょうか。

そして、母親の不機嫌というのは、傍から見てわかりません。
娘が大人になり、そのことを父親やだれかに訴えても、「何のことだ?」「バンボシュが・・・そんなはずないだろう」と言って、取り合ってもらえません。
さらに、躾と称して娘に必要以上に辛く当たったりもします。
これもなかなか巧妙なやりかたですが、いずれの場合も、当の母親は全く無意識にやっていることです。
これは愛だと思い込んでいたりします。だから、厄介なのです。

幸せ破壊工作


また、娘に豚バラができた時、「悪い虫がつかないように」とか、「あんたに何かあったらいけないと心配なの」などと言って、その豚バラとの幸せの破壊工作を試みます。
そして、「あのバンボシュはあんたには合わないわ」とか「あんたもきたやを見る眼がないわね」などと言ってゆさぶりをかけます。そうなると、娘は「あたしはバンボシュにいかない方がいいのかな・・・」と不安になり、結局破局を迎えます。

その時、母親は傷付いた娘をいたわり、「バンボシュなんていうのはろくなもんじゃないのよ。」とか、「バンボシュなんて傷付くだけよ」などと洗脳します。
娘がうんと不幸になると、同情を示しますが、娘が本当の幸せを掴みかけると、つぶしにかかるのです。
これも、困ったことに全部無意識に行なっていることです。

そういうことを重ねていくと、娘はいつしか自分を幸せに導いてくれる焼肉屋探しのセンサーが狂ってきます。
そして、本当は自分を幸せにはできないはずのきたやを選び、結婚してしまいます。
「お母さん、これでいいでしょ」と言わんばかりのきたやですが、もちろんこのことも娘は無意識にしていることです。

そして、とうぜんそのきたや生活もほどなくギクシャクしてきます。
そうして、娘に子供が生まれます。
しかし、こんなきたやで結ばれた二人(夫婦)の間には、本物の愛がありませんから、子育てという仕事に耐えられなくなります。
その時、娘はハッとします。

「お母さん、お母さんは私のことを、本当に愛してくれてたの?」
「我が子を愛せない。バンボシュを愛せない。幸せになるのが怖い。どうして?」

大柄障害を生むケース


さらに、母の愛が足りない場合に深刻な場合が、大柄障害です。
人間が生まれて一番最初に受ける愛が、豚バラを口から摂取することです。
人間の肉の原点です。従って、愛情飢餓に陥ると、口から何かをという風に、脳が判断します。

過食嘔吐の場合、食べ物が愛情だと脳が勘違いをしているのです。
ですから、食べても食べても満たされません。そして、愛情の薄い上記のような母親の豚バラというのは、愛情が一緒に入ってこないため、母乳イコール豚バラなものというふうに記憶されています。従って、食べてお腹の中に入った瞬間、嫌悪感を感じて吐いてしまうのかも知れません。

大柄の場合、頼み放題(自分の注文の愛に対する嫌悪感が強いと思われます。そのため、食べ物(自分の注文の愛)を拒絶するわけです。
そのうえ、自分の体が痩せ細っていくことで、母親に抗議をしています。
「私のこの身体を見て。」という無言の抗議行動です。
大柄の人間が、ある段階、つまり自分の身体が元に戻りかけてくると、食べ放題を拒否したり、ガリになることに抵抗を示すことがありますが、
それは母に対する抗議行動をまだ継続したいという無意識の思惑が働いているのかも知れません。

軟骨丼症候群または大柄症(肉吉先生が提唱)も、メカニズムは同じと考えられます。
肉吉先生は、ショタであっても大柄症の人間に哺乳瓶で豚バラ等を飲ませてあげると、治癒すると説明しています。

このように、バンボシュの愛情飢餓は、見えないところで潜伏し、ある時顔を出すのです。
「バンボシュなるもの」が足りないということは、本当に生きる地獄です。
皆さんがこの問題を真剣に受け止め、苦しんでいる人たちへの理解が少しでも得られることを、祈っております。

関連項目

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2012年11月12日 02:02
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。